あれから三年の月日が経って、私は三十三歳になった。三年経つと、周りの人の状況もだいぶ変わっている。七菜香は、ファミレスで報告を受けた後にすぐに湊さんと結婚をした。
最近、二人目を出産したばかり。この前、蘭と一緒に出産祝いに自宅に遊びに行ったら、髪を振り乱して子供二人の育児に奮闘している彼女に出迎えられた。
七菜香は、最初こそ不安を口にしていたけれど今では二児の母。女の子と男の子の年子で、毎日てんてこ舞いだけど幸せだってお母さんの顔で笑っていた。蘭と二人、そんな七菜香に幸せのおすそ分けをされた気分になった。
蘭は、三年前に付き合っていた人とは別れて今はめちゃくちゃ年下の子と付き合っている。何でも、私のことがあって年下なら結婚の心配もないと学習したらしい……。
私としては、とてもとても複雑な心境だったけれど……。本人が楽しそうなので、静観している。
私はというと、三年前と変わらずに弘明寺駅に住んでいる。いつも二年契約なので、二年経つと大概新しい所に引っ越していたが、この町が気に入っているし住んでいるマンションも不満はないので、そのまま更新手続きをした。
だから今日も、いつもと同じように弘明寺駅から電車に乗って関内の会社に出社して仕事をしている。隣の席は、変わらずに営業の鈴木さん。
彼は、特に変わることなく営業成績も常にトップに居続けている。はっきり聞いたことはないのだが、多分常に女性とはお付合いをしている。
だから鈴木さんもいい年だし、そろそろ結婚しないのかと飲みの席で一度だけ聞いてみた。
「鈴木さんは結婚しないんですか?」
ビールのグラスを手に、私の言葉を聞いた鈴木さんは一瞬止まってしまう。私の顔を凝視して何かを考えていた。
「んー。勢いが足りないのかもね」
「何ですか? 勢いって。鈴木さん、モテるって自分で言ってたじゃないですか?」
「いや、そりゃさ、彼女はいるけれども……。なんかさ、ずっと一緒にいるだろうなって思えないっていうか……」
「なんですか? それ。彼女怒りません?」
「まー、だから結婚してないんじゃね?」
いつもの軽口を叩いて、その話題は終了となった。蘭は、うまく嵌らないと言っていたけど本当にその通りだ。
私は、幸知のことがあって、自分を変えようと奮起した。変えるというよりは、心に余裕を持たせようと思ったのだ。
今まで、熱中するものを持ってなかった私だから、三十歳になった節目に考えるのが結婚しかなかった。それが世間的には標準的なことだから。
でも別に、三十歳の節目に何かをしようと思うのなら結婚じゃなくたって別のことでもいい。私は、結婚に焦っていたし今だって焦っていない訳じゃない。でも、誰でもいい訳じゃないって気が付いたらフッと肩が軽くなった。
だって、焦って探したって嵌る相手とは限らないことがわかってしまったのだ。だったら、もう自然と嵌る出会いを気長に待つしかないと開き直れてしまった。
これが良いのか悪いのかなんてわからないけれど、開き直れたことが成長だよなって私は思う。
そう思って最初にしたことは、幸知に会って思い出した料理とお菓子作り。作って誰かに食べてもらうことが好きだったのだと思い出せたから。
せっかくだから、ちゃんと料理教室と製菓教室に通おうと決めてすぐに入会した。それまで週末は、特に予定もなくグータラするだけだったけれど、月に数回料理教室に通うようになった。
たったそれだけの変化だったけれど、新しい友達もできたし他のことにも目が行くようになった。綺麗に盛り付けができるようになったら食器も凝りたくなった。
蘭や七菜香を招待して、手料理を食べてもらって「美味しい」って言ってもらうことが楽しくて嬉しくて熱中できることが見つかって生活に彩りができた。
私なりに、この三年間でちょっとは成長できたと思う。他に男性との出会いはなかったのかと言われると、無いこともなかったけれど……。
幸知を超える出会いがなかったし、きっと私はまだ心のどこかで忘れられない。
定時を過ぎたオフィスで資料作成に奮闘していると、鈴木さんが外回りから帰ってきたのか疲れたようにドカッと椅子に座った。
「お疲れ様です」
鈴木さんは、ネクタイを緩めて私の方を向いた。
「あれ? 今日、早く帰るって言ってなかった?」
「そうなんですけど、約束していた友達から遅くなるって連絡きたので、それなら私ももう少しやって行こうかなって」
「そうなの? でも結構遅いじゃん。もう行きなよ」
鈴木さんが、時計を見てびっくりした顔をして言った。確かに、時計の針はもう20時をさそうとしている。
実は、今日は仕事終わりに蘭と会うことになっている。蘭の話だと、終わりそうになったら連絡するということだったからその連絡を待っていたのだ。
だけど、スマホを見てもまだ連絡がない。でも恐らく、もうすぐ連絡が入るだろう。
「じゃー、そうさせてもらおうかな……」
「おう。気を付けて帰れよ」
私は、作成途中の資料を保存するとパソコンの電源を切った。鞄を取って立ち上がる。
「お先に失礼します」
「おーお疲れ様」
私は、オフィスを出て会社の出口に向かう。そもそも蘭は、何の用なのかと疑問が沸く。今日は、まだ木曜日で週の後半だけれどまだ明日も会社がある。そんな曜日に急遽呼び出されることなんて今までなかったのに……。
(もしかして結婚の報告とか?)
でも、蘭の考えが変わったようなことは言っていなかったし。彼女は、今の生活を謳歌しているからわざわざしたくないことに足を踏み入れそうではなかったけれど……。
蘭と待ち合わせをしているのは、いつもの喫茶店だった。待ち合わせ場所も、別に私よりじゃなくてもいいのにと疑問に思っていたのも確か。
一体、どうしちゃったのかなと私は喫茶店への道を歩く。
十二月に入り、関内の駅は街路樹にイルミネーションが付けられ楽し気な雰囲気を醸している。
夜になるとぐんと気温も下がり、上着がないと流石に辛い。もうすぐ、今年も終わりかと思うとちょっとだけ寂しい。
喫茶店に着いて店内を見回しても、当たり前だけど蘭の姿は見当たらない。「好きな席にどうぞ」と店員さんに声をかけられたので、私は一番端の人目が気にならないベンチシートに腰をかけた。
平日の遅い時間なので、ほとんどお客さんはいない。けれど、本を読んでいる人やノートパソコンを机に広げて一心不乱にキーボードを打っている人など一人客はちらほらいた。
私は、メニューを広げて何を頼むか考える。蘭は、ここで夕飯を食べるつもりなのだろうか……。合わせた方がいいと思うのだけど……。
とりあえず、コーヒーを頼むことに決めた。店員を呼んで注文をすると、私は自分のスマホを鞄からだして蘭にメッセージを送る。
『いつもの喫茶店の、一番奥の席にいるね』
すぐに既読が付いたので、返事はないけれど気長に待てばいいかと私は頬杖をついた。どれくらい待っただろうか? 一杯のコーヒーを飲んで、すっかり暇になってしまった私は、手帳とボールペンを出してお菓子の絵を描きだした。
お菓子教室で友達になった人と、たまにフリーマーケットで自分が作ったお菓子を売ったりしているのだ。
それが中々楽しくて、最近は時間ができると次はどんな物を売ろうかなと考えてしまう。ラッピングなど、安く可愛くするのを考えるのがとても楽しい。手帳を開いて、お菓子の案を次々に書いていた。
夢中になっていた私は全く気付かなかった。コツコツと誰かを探すような足音が近づいていることに……。
「良かった、見つけた」
男の人の声が聞こえて、私は自分の手帳から顔を上げてふとお店の通路に目をやった。そこには、スーツを来た若い男性がこちらを向いて立っていた。
「幸知君……」
私は、とても小さな声で呟いた。目の前にいることが信じられなくて、目を見開いて止まってしまった。
そんな私を見ている幸知は、ニコッと無邪気な笑顔を零し私の隣に無理やり座った。
「え?」
私は、突然のことで全く意味がわからずに動揺してしまう。
「咲さん、久しぶりですね。遅くなって本当にすみません」
ほとんど距離がなく、私の顔の目の前に幸知の顔がある。三年前よりも、幼さがぬけて男の人になっている。
スーツを着こなして、大学生とは違った社会人としての雰囲気をまとった彼は色気さけも漂っていた。
「何で? 蘭は? どうして幸知君が来るの?」
私は、幸知の顔を直視できなくて正面を向いて問いただした?
「すみません。七菜香さんに相談して蘭さんに協力してもらったんです」
「え? もう、全然意味がわからない。そもそも何で、七菜香と連絡とってるの?」
私は、軽くテンパってしまう。七菜香と連絡を取り合ってたってこと? いつから? 私に隠れてずっと? 嫌な考えが、頭の中を駆け巡る。
「咲さん、ちゃんと説明するので落ち着いて下さい」
幸知は、私とピタッとくっつくように座っているのにこっちを向いて私の手をギュッと繋ぐ。私は、一体なんでこんなことになっているのか全く状況が理解できない。
「わかった。わかったから、ちょっと離れて。向こう座って」
私は、幸知に握られた手を抜いて彼からちょっとでも離れようとベンチシートの一番端に座り直そうとおしりを上げようとしたのに……。幸知に、ガッと腰を持たれて止められる。
「嫌です。咲さんは勝手にいなくなるから駄目です」
幸知の笑顔に圧を感じ、とらえようのない怖さを感じる。私は、諦めて大人しく話を聞くことにした。
「もう、わかったよ……。どうしたの一体……」
「咲さん、まだ咲さんの隣って空いてます? 空いてなくても無理やり座りますけど!」
幸知の言う隣とは、きっと席のことじゃないだろう。
「一応聞くけど、席のことじゃないよね?」
「そうですね。一緒にいられる権利のことです」
「…………空いてるけど……」
私は、この展開についていけずに唯々驚いて戸惑うしかできない。
「良かった」
幸知が、心底ホッとしたようにヘラッと可愛く笑った。そして、もう一度手を握ると改めてギュッとした。
私の心臓は、さっきからドキドキしっぱなしなのに更にドクンっと大きな衝撃が走る。できることなら走って逃げたいくらい。幸知に逃げ場を封印されているので、自分の胸の衝撃に耐えるしかない。
「咲さん、三年前に俺に聞きましたよね? それって恋なのって。答えが遅くなっちゃったけど、自信もって言います。あの時は、間違いなく恋でした。それは今も変わらないです」
幸知は、さっきとは違って真剣な表情になった。
「でも……。あの後、なんの連絡もなかったし……即答できなかったってことはそうじゃなかったってことじゃないの?」
「違います。俺が子供で、未熟だったのは認めます。だけどあれから三年間、ことあるごとに咲さんの言葉を思い出してました。美味しい物を食べたり、綺麗な物を見たり、感動する話を聞いたら、咲さんに教えてあげたいって常に考えてました。これが恋じゃなかったら、一体何なんだよって気づくのにだいぶ時間がかかってしまって」
幸知が、甘えたようにコテンっと私の方に自分の頭を乗せた。
「気持ちに気付いても、今の自分じゃ駄目だってわかって。咲さんが言ってた十歳差のズレを何とかしないとって。俺、大学の最後の一年間は自分でもよく頑張ったと思います。あの一年間がなかったら、今の自分はいないですし……。一生懸命走ったので、大きなズレじゃなくなってます。今だったら二人で補えあえます」
私は恐る恐る幸知の顔を見る。三年前の彼よりも、自信に満ちていて私のことを真剣に考えてくれている顔だった。
こんな風に甘え上手なのは変わっていない。それは、相変わらずズルい。
「えっと……ってことは、どういうこと……」
三年前の私の問いには答えてもらった訳なのだけれど……。私はそれに対して何ていえばいいのかわからなかったのだ。
「今度こそ彼女になって下さい」
幸知は、頭を上げて私の顔を正面からみるとはっきりとそう告げた。
私の顔はきっともうずっと赤い。だけど私の中では、さっきよりも数段真っ赤になっている気がする。
だって頭の先からつま先まで、胸のドキドキに押しつぶされて熱を帯びている。こんな真剣な告白から逃げられるほど、私は場慣れした女ではない。
それにもう、逃げたくないって心が叫んでる。だってまだ、私の中にも幸知がいる。ずっと忘れられなくて持て余していたのだ。恋なんてもうわからないと濁すほどに。
「よろしくお願いします」
私は、それだけ言うのが精一杯。私の言葉を聞いた幸知は、パーっと顔を輝かせてそれは嬉しそうに笑顔になった。
「良かった」
そうポロっと零した言葉と共に、緊張の糸を切ったみたいだった。そんな彼を見て私は、ずっと言いたかった言葉を思い出す。言わずに別れたことをずっと後悔していた。
今、言わなかったらまた言えないかもしれない。
「ねえ、幸知君」
「はい。咲さん」
「私ね、幸知君のこと好きだよ」
言えずに後悔していたから、やっと言えたと笑みが零れる。
「咲さん! 何で、咲さんが先に言うんですか! もう、だから咲さんはいつも俺を翻弄する。酷いです!」
幸知が、訳の分からない理屈で怒り出す。
「そんな訳ないでしょ。いつもドキドキさせてくるのは幸知君じゃん!」
「もう……。またそんなことを……」
そう言って、私の肩に頭を乗せたかと思うとチュッと首筋にキスされた。
「ちょっちょっと」
「咲さん、ずっと好きです。覚悟して下さいね。俺、もう我慢しないんで」
幸知の目が、獲物を捕らえたようなギラついたものに変化した気がする。私の胸はもう限界点を超えていた。
「もう無理! 離れなさい」
「嫌です」
閉店間近の喫茶店。もうほとんどお客のいない店内の一番奥では、このお店の人気商品ビッグパフェより甘いカップルが誕生した。
きっと私は、今までよりもずっとこの喫茶店が好きになる。彼氏になった幸知と、くだらない問答を繰り返しながら幸せを噛み締める。
きっとこれから、幸知と二人で知らなかった幸せを知っていく。そんな予感がしてワクワクした。
完
最近、二人目を出産したばかり。この前、蘭と一緒に出産祝いに自宅に遊びに行ったら、髪を振り乱して子供二人の育児に奮闘している彼女に出迎えられた。
七菜香は、最初こそ不安を口にしていたけれど今では二児の母。女の子と男の子の年子で、毎日てんてこ舞いだけど幸せだってお母さんの顔で笑っていた。蘭と二人、そんな七菜香に幸せのおすそ分けをされた気分になった。
蘭は、三年前に付き合っていた人とは別れて今はめちゃくちゃ年下の子と付き合っている。何でも、私のことがあって年下なら結婚の心配もないと学習したらしい……。
私としては、とてもとても複雑な心境だったけれど……。本人が楽しそうなので、静観している。
私はというと、三年前と変わらずに弘明寺駅に住んでいる。いつも二年契約なので、二年経つと大概新しい所に引っ越していたが、この町が気に入っているし住んでいるマンションも不満はないので、そのまま更新手続きをした。
だから今日も、いつもと同じように弘明寺駅から電車に乗って関内の会社に出社して仕事をしている。隣の席は、変わらずに営業の鈴木さん。
彼は、特に変わることなく営業成績も常にトップに居続けている。はっきり聞いたことはないのだが、多分常に女性とはお付合いをしている。
だから鈴木さんもいい年だし、そろそろ結婚しないのかと飲みの席で一度だけ聞いてみた。
「鈴木さんは結婚しないんですか?」
ビールのグラスを手に、私の言葉を聞いた鈴木さんは一瞬止まってしまう。私の顔を凝視して何かを考えていた。
「んー。勢いが足りないのかもね」
「何ですか? 勢いって。鈴木さん、モテるって自分で言ってたじゃないですか?」
「いや、そりゃさ、彼女はいるけれども……。なんかさ、ずっと一緒にいるだろうなって思えないっていうか……」
「なんですか? それ。彼女怒りません?」
「まー、だから結婚してないんじゃね?」
いつもの軽口を叩いて、その話題は終了となった。蘭は、うまく嵌らないと言っていたけど本当にその通りだ。
私は、幸知のことがあって、自分を変えようと奮起した。変えるというよりは、心に余裕を持たせようと思ったのだ。
今まで、熱中するものを持ってなかった私だから、三十歳になった節目に考えるのが結婚しかなかった。それが世間的には標準的なことだから。
でも別に、三十歳の節目に何かをしようと思うのなら結婚じゃなくたって別のことでもいい。私は、結婚に焦っていたし今だって焦っていない訳じゃない。でも、誰でもいい訳じゃないって気が付いたらフッと肩が軽くなった。
だって、焦って探したって嵌る相手とは限らないことがわかってしまったのだ。だったら、もう自然と嵌る出会いを気長に待つしかないと開き直れてしまった。
これが良いのか悪いのかなんてわからないけれど、開き直れたことが成長だよなって私は思う。
そう思って最初にしたことは、幸知に会って思い出した料理とお菓子作り。作って誰かに食べてもらうことが好きだったのだと思い出せたから。
せっかくだから、ちゃんと料理教室と製菓教室に通おうと決めてすぐに入会した。それまで週末は、特に予定もなくグータラするだけだったけれど、月に数回料理教室に通うようになった。
たったそれだけの変化だったけれど、新しい友達もできたし他のことにも目が行くようになった。綺麗に盛り付けができるようになったら食器も凝りたくなった。
蘭や七菜香を招待して、手料理を食べてもらって「美味しい」って言ってもらうことが楽しくて嬉しくて熱中できることが見つかって生活に彩りができた。
私なりに、この三年間でちょっとは成長できたと思う。他に男性との出会いはなかったのかと言われると、無いこともなかったけれど……。
幸知を超える出会いがなかったし、きっと私はまだ心のどこかで忘れられない。
定時を過ぎたオフィスで資料作成に奮闘していると、鈴木さんが外回りから帰ってきたのか疲れたようにドカッと椅子に座った。
「お疲れ様です」
鈴木さんは、ネクタイを緩めて私の方を向いた。
「あれ? 今日、早く帰るって言ってなかった?」
「そうなんですけど、約束していた友達から遅くなるって連絡きたので、それなら私ももう少しやって行こうかなって」
「そうなの? でも結構遅いじゃん。もう行きなよ」
鈴木さんが、時計を見てびっくりした顔をして言った。確かに、時計の針はもう20時をさそうとしている。
実は、今日は仕事終わりに蘭と会うことになっている。蘭の話だと、終わりそうになったら連絡するということだったからその連絡を待っていたのだ。
だけど、スマホを見てもまだ連絡がない。でも恐らく、もうすぐ連絡が入るだろう。
「じゃー、そうさせてもらおうかな……」
「おう。気を付けて帰れよ」
私は、作成途中の資料を保存するとパソコンの電源を切った。鞄を取って立ち上がる。
「お先に失礼します」
「おーお疲れ様」
私は、オフィスを出て会社の出口に向かう。そもそも蘭は、何の用なのかと疑問が沸く。今日は、まだ木曜日で週の後半だけれどまだ明日も会社がある。そんな曜日に急遽呼び出されることなんて今までなかったのに……。
(もしかして結婚の報告とか?)
でも、蘭の考えが変わったようなことは言っていなかったし。彼女は、今の生活を謳歌しているからわざわざしたくないことに足を踏み入れそうではなかったけれど……。
蘭と待ち合わせをしているのは、いつもの喫茶店だった。待ち合わせ場所も、別に私よりじゃなくてもいいのにと疑問に思っていたのも確か。
一体、どうしちゃったのかなと私は喫茶店への道を歩く。
十二月に入り、関内の駅は街路樹にイルミネーションが付けられ楽し気な雰囲気を醸している。
夜になるとぐんと気温も下がり、上着がないと流石に辛い。もうすぐ、今年も終わりかと思うとちょっとだけ寂しい。
喫茶店に着いて店内を見回しても、当たり前だけど蘭の姿は見当たらない。「好きな席にどうぞ」と店員さんに声をかけられたので、私は一番端の人目が気にならないベンチシートに腰をかけた。
平日の遅い時間なので、ほとんどお客さんはいない。けれど、本を読んでいる人やノートパソコンを机に広げて一心不乱にキーボードを打っている人など一人客はちらほらいた。
私は、メニューを広げて何を頼むか考える。蘭は、ここで夕飯を食べるつもりなのだろうか……。合わせた方がいいと思うのだけど……。
とりあえず、コーヒーを頼むことに決めた。店員を呼んで注文をすると、私は自分のスマホを鞄からだして蘭にメッセージを送る。
『いつもの喫茶店の、一番奥の席にいるね』
すぐに既読が付いたので、返事はないけれど気長に待てばいいかと私は頬杖をついた。どれくらい待っただろうか? 一杯のコーヒーを飲んで、すっかり暇になってしまった私は、手帳とボールペンを出してお菓子の絵を描きだした。
お菓子教室で友達になった人と、たまにフリーマーケットで自分が作ったお菓子を売ったりしているのだ。
それが中々楽しくて、最近は時間ができると次はどんな物を売ろうかなと考えてしまう。ラッピングなど、安く可愛くするのを考えるのがとても楽しい。手帳を開いて、お菓子の案を次々に書いていた。
夢中になっていた私は全く気付かなかった。コツコツと誰かを探すような足音が近づいていることに……。
「良かった、見つけた」
男の人の声が聞こえて、私は自分の手帳から顔を上げてふとお店の通路に目をやった。そこには、スーツを来た若い男性がこちらを向いて立っていた。
「幸知君……」
私は、とても小さな声で呟いた。目の前にいることが信じられなくて、目を見開いて止まってしまった。
そんな私を見ている幸知は、ニコッと無邪気な笑顔を零し私の隣に無理やり座った。
「え?」
私は、突然のことで全く意味がわからずに動揺してしまう。
「咲さん、久しぶりですね。遅くなって本当にすみません」
ほとんど距離がなく、私の顔の目の前に幸知の顔がある。三年前よりも、幼さがぬけて男の人になっている。
スーツを着こなして、大学生とは違った社会人としての雰囲気をまとった彼は色気さけも漂っていた。
「何で? 蘭は? どうして幸知君が来るの?」
私は、幸知の顔を直視できなくて正面を向いて問いただした?
「すみません。七菜香さんに相談して蘭さんに協力してもらったんです」
「え? もう、全然意味がわからない。そもそも何で、七菜香と連絡とってるの?」
私は、軽くテンパってしまう。七菜香と連絡を取り合ってたってこと? いつから? 私に隠れてずっと? 嫌な考えが、頭の中を駆け巡る。
「咲さん、ちゃんと説明するので落ち着いて下さい」
幸知は、私とピタッとくっつくように座っているのにこっちを向いて私の手をギュッと繋ぐ。私は、一体なんでこんなことになっているのか全く状況が理解できない。
「わかった。わかったから、ちょっと離れて。向こう座って」
私は、幸知に握られた手を抜いて彼からちょっとでも離れようとベンチシートの一番端に座り直そうとおしりを上げようとしたのに……。幸知に、ガッと腰を持たれて止められる。
「嫌です。咲さんは勝手にいなくなるから駄目です」
幸知の笑顔に圧を感じ、とらえようのない怖さを感じる。私は、諦めて大人しく話を聞くことにした。
「もう、わかったよ……。どうしたの一体……」
「咲さん、まだ咲さんの隣って空いてます? 空いてなくても無理やり座りますけど!」
幸知の言う隣とは、きっと席のことじゃないだろう。
「一応聞くけど、席のことじゃないよね?」
「そうですね。一緒にいられる権利のことです」
「…………空いてるけど……」
私は、この展開についていけずに唯々驚いて戸惑うしかできない。
「良かった」
幸知が、心底ホッとしたようにヘラッと可愛く笑った。そして、もう一度手を握ると改めてギュッとした。
私の心臓は、さっきからドキドキしっぱなしなのに更にドクンっと大きな衝撃が走る。できることなら走って逃げたいくらい。幸知に逃げ場を封印されているので、自分の胸の衝撃に耐えるしかない。
「咲さん、三年前に俺に聞きましたよね? それって恋なのって。答えが遅くなっちゃったけど、自信もって言います。あの時は、間違いなく恋でした。それは今も変わらないです」
幸知は、さっきとは違って真剣な表情になった。
「でも……。あの後、なんの連絡もなかったし……即答できなかったってことはそうじゃなかったってことじゃないの?」
「違います。俺が子供で、未熟だったのは認めます。だけどあれから三年間、ことあるごとに咲さんの言葉を思い出してました。美味しい物を食べたり、綺麗な物を見たり、感動する話を聞いたら、咲さんに教えてあげたいって常に考えてました。これが恋じゃなかったら、一体何なんだよって気づくのにだいぶ時間がかかってしまって」
幸知が、甘えたようにコテンっと私の方に自分の頭を乗せた。
「気持ちに気付いても、今の自分じゃ駄目だってわかって。咲さんが言ってた十歳差のズレを何とかしないとって。俺、大学の最後の一年間は自分でもよく頑張ったと思います。あの一年間がなかったら、今の自分はいないですし……。一生懸命走ったので、大きなズレじゃなくなってます。今だったら二人で補えあえます」
私は恐る恐る幸知の顔を見る。三年前の彼よりも、自信に満ちていて私のことを真剣に考えてくれている顔だった。
こんな風に甘え上手なのは変わっていない。それは、相変わらずズルい。
「えっと……ってことは、どういうこと……」
三年前の私の問いには答えてもらった訳なのだけれど……。私はそれに対して何ていえばいいのかわからなかったのだ。
「今度こそ彼女になって下さい」
幸知は、頭を上げて私の顔を正面からみるとはっきりとそう告げた。
私の顔はきっともうずっと赤い。だけど私の中では、さっきよりも数段真っ赤になっている気がする。
だって頭の先からつま先まで、胸のドキドキに押しつぶされて熱を帯びている。こんな真剣な告白から逃げられるほど、私は場慣れした女ではない。
それにもう、逃げたくないって心が叫んでる。だってまだ、私の中にも幸知がいる。ずっと忘れられなくて持て余していたのだ。恋なんてもうわからないと濁すほどに。
「よろしくお願いします」
私は、それだけ言うのが精一杯。私の言葉を聞いた幸知は、パーっと顔を輝かせてそれは嬉しそうに笑顔になった。
「良かった」
そうポロっと零した言葉と共に、緊張の糸を切ったみたいだった。そんな彼を見て私は、ずっと言いたかった言葉を思い出す。言わずに別れたことをずっと後悔していた。
今、言わなかったらまた言えないかもしれない。
「ねえ、幸知君」
「はい。咲さん」
「私ね、幸知君のこと好きだよ」
言えずに後悔していたから、やっと言えたと笑みが零れる。
「咲さん! 何で、咲さんが先に言うんですか! もう、だから咲さんはいつも俺を翻弄する。酷いです!」
幸知が、訳の分からない理屈で怒り出す。
「そんな訳ないでしょ。いつもドキドキさせてくるのは幸知君じゃん!」
「もう……。またそんなことを……」
そう言って、私の肩に頭を乗せたかと思うとチュッと首筋にキスされた。
「ちょっちょっと」
「咲さん、ずっと好きです。覚悟して下さいね。俺、もう我慢しないんで」
幸知の目が、獲物を捕らえたようなギラついたものに変化した気がする。私の胸はもう限界点を超えていた。
「もう無理! 離れなさい」
「嫌です」
閉店間近の喫茶店。もうほとんどお客のいない店内の一番奥では、このお店の人気商品ビッグパフェより甘いカップルが誕生した。
きっと私は、今までよりもずっとこの喫茶店が好きになる。彼氏になった幸知と、くだらない問答を繰り返しながら幸せを噛み締める。
きっとこれから、幸知と二人で知らなかった幸せを知っていく。そんな予感がしてワクワクした。
完