ホールの一番後ろの壁に寄り一人ポツンと立っていた。ホール内は暗く、ステージだけが眩いライトが当たり光り輝いている。
 その中央に立つバンドメンバーたちは、楽しそうに自分たちの音楽を奏でている。若いっていいなーと、他人事みたいにぼんやりホール内の喧噪を味わっていた。

 やがて、バンドの演奏が終わり司会進行役の案内は次の歌い手紹介へと移る。私は、喉の渇きを覚え鞄からペットボトルを出して口をつけた。

「ラストを飾るのは、経営学部三年、政本幸知です」

 司会の紹介と共に、ギターを下げた幸知がステージに現れる。幸知がステージに現れると同時に、女の子たちから声援がとんだ。

「キャー幸知、かっこいい!!」
「幸知ー。こっち向いてー!」
「幸知ー!」

 よく見ると女の子たちは、お手製の幸知の顔写真が貼ってある団扇を掲げている。私は、びっくりして飲んでいたペットボトルを落としそうになる。え? 噓でしょ? 幸知のファンが多い……。
 一番最初に会った時、聞いたのはファンがたくさんいるなんて言ってなかったはず……。これ、私来る必要あった?

 思っていた状況と違い、私は困惑を隠せない。ステージ上の幸知は、いつもの真面目な印象とは違い、屈託ない無邪気な笑顔を観客たちに振りまいている。
 眩しさもいつもの倍くらい割り増しされ、人の変わりように驚きを隠せない。ステージ上の幸知ってこんななんだ……。

 ステージ上に置かれた背が高くて座面が丸いカウンターチェアーに、幸知はかっこよく腰掛ける。足が長いので、座った姿がとても絵になる。
 ジーパンに白の長袖シャツと言ったシンプルな装い。それが、幸知の格好良さを引き立てる。どっから見ても格好いい。

 そんな幸知が、ギターに手をかけてポロンと一度弦を奏でる。一瞬、観客席の方に目を配ったと思ったら私と目がった。そして、フワッと嬉しそうに笑顔を零した。
 さっきの作ったような無邪気な笑顔から一転、幸知が素で零した笑みだった。

 そんな幸知の笑顔を、見逃すはずもないファンたちからざわめきが起こる。

「何今の笑顔。めっちゃ可愛い」
「やだー、絶対今私見たよー」
「尊すぎるんだけど。最高かよ」

 私は、ファンたちの声を遠くで聞いていた。幸知が、私を見て零した笑顔が頭から離れない。何で、私を見てあんな笑顔を……。
 自分の胸がドクンドクンと音を鳴らし煩い。私と言う人間から火が噴いたように、体全身が熱い。顔なんて、きっと真っ赤になっている。私の視線は、幸知から離すことができなくなった。

 幸知は、視線をギターに向け最初の音を奏でる。一音はやがていくつもの音が重なって、曲の前奏となる。そして、幸知が歌い始めた。

 出会う一秒前まで
 違う場所
 違う時間
 違う人たちに囲まれて生きていた

 僕を見つけた君は
 何の見返りも求めずに
 傘をさしてくれて、優しい言葉をくれた

 怒りとか、情けなさとか、呆れとか、
 全部とっぱらってくれた君

 幸せは知るものだと言った
 ご飯が美味しいだけで幸せ
 それが幸せになるのが上手な君の口癖

 その笑顔を見た日が
 大好きを知った今日だった

 幸せは知るものだと言った
 そんなこと考えたこともなかった
 考えた途端に真っ暗な道に光が指した

 大好きを知った今日だった


 その声音は力く、ホールの一番後ろの私にまでしっかり届く。しっとりと歌うバラードに、みな静かに聞きほれている。
 歌のことなんてよくわからないけれど、聞いていて心地いいそんな声だった。

 オリジナル曲を歌い切ったホールに、大きな歓声と拍手が上がる。私も、自分の手が痛くなるくらい拍手を送っていた。
 なんだ、悩んでるのがおかしいくらい格好いい……。私とは、住む世界が違っているみたいに透明で大きな壁を感じた。

 そして二曲目。今度は、さっき演奏していたバンドメンバーがもう一度ステージに戻って来た。バンドと幸知のコラボで、有名バンドの大ヒット曲。明るくポップなその曲は、最後に盛り上がるのにはもってこいの選曲。

 二曲目の幸知は、ギターを脇に置き今度はマイクスタンドの前に立つ。ドラムが拍をとり、演奏が始まる。
 幸知は、両手を上げて手拍子を始めそれに合わせて、会場の観客たちも同じように手拍子を打つ。会場が段々と一体化し、熱気は最高潮に達していた。

 幸知は、さっきとは違う明るくアップテンポの曲で観客たちを乗せて歌い上げる。観客は、彼の歌声に答えるように手を挙げてリズムをとる。
 団扇を持っている子は、それを上下に振って自分を見てとばかりに存在をアピールしている。
 舞台上でパフォーマンスをする彼らと、その演奏で盛り上がる観客たち。それ全部が、私の目には作品みたいに感じた。

 最後は、幸知が高く右手を挙げて伴奏を引き延ばすと大きくジャンプして曲を締めた。観客の一人が「アンコール」と叫ぶ。
 その声を皮切りに、ホールの中はアンコールの嵐が吹き荒れた。

 私は、観客の歓声に吹き荒れるホールに圧倒され立ち尽くす。

 一度、ステージからはけた幸知とバンドメンバーが戻ってくると、観客の「アンコール」が鳴りやまぬ中、幸知がマイクを持った。

「みんな、ありがとう。じゃあ、これが本当に最後」

 そう言って、バンドメンバーと目配せをすると一拍置いて演奏が始まる。そして、幸知の最後の歌が始まった。

 私は、ホールの壁際に立って幸知をずっと見ていた。会って話をしていた時とは違う顔の幸知は、大学生らしい若さ溢れるパフォーマンスを披露している。
 ホールに詰めかけて、盛り上がっている女の子たちは目をきらきらさせて幸知に魅せられている。

 盛り上がって、幸知が輝くほどにここは自分の居場所ではないと感じてしまう。幸知を見ていて素敵だと思うし、格好いいと思う、でも自分の中の熱を帯びた彼への気持ちが遠ざかっていく。
 これが私の中の、十歳という年の差を超えられない現実。せめて、自分が二十代だったのならば彼の好意を純粋に喜んだかもしれない。

 アンコールが終わりを迎えようとしている。ホールは、ステージと観客が一体となり一つの空間ができあがっていた。私は、静かに出口へと向かって歩く。
 光り輝いているのは、ステージだけでホールの後ろは暗闇に包まれている。入って来た時と同じように、両開きの扉を今度は強く押した。そして、外の光が漏れ出てしまうので自分の体が外に出るギリギリですぐに扉を閉める。

「眩しい」

 外に出た私は、眼前に広がる夕陽に目を細める。いつのまにか、青かった空はオレンジ色に染まっていた。

 私は、一段一段ゆっくりと階段を降りる。幸知のライブの余韻が、体中に残っていてまだこの興奮を感じていたかった。
 きっと傍から見たら、足取りもおぼつかない危なっかしい女に見えたのかもしれない。

「あれ、お姉さん、大丈夫です?」

 受付を済ませたテントの横をフラフラと歩いていたら、さっきチケットを切ってくれた男の子が声を掛けてくれた、

「あ、うん。ちょっと、熱気が凄くてあてられちゃったかな……」

 私は、ぼんやりとそう答える。頭の中は、自分を見て笑った幸知の顔や、汗を振りまいて歌う幸知の顔、アイドルのような無邪気な幸知の顔、いろいろな顔が回っていた。

「幸知を見に来たんすか? あいつ、格好いいっすよねー」

 男の子は、現実に戻れないでいる私を見て笑っている。幸知の友達なのかなと少し、思考がしっかりしてくる。

「幸知君のお友達? たくさんファンの女の子がいるからびっくりしちゃった」

 私は、こんな話は誰にもできないからポロっと本音が零れてしまう。

「そうっす。俺、幸知とタメなんすよ。今日は、受付頼まれちゃって。あいつ、去年初めてライブしたくせにその日からファンクラブとかできちゃって。羨ましいっすよねー。お姉さんも幸知のファンなんすか?」

 男の子は、興味津々で聞いてくる。

「ファンか……。そうだねー私の推しなの」

 男の子の人懐っこさが面白くて、私はちょっと調子に乗って話してしまう。きっともう会うことはないだろうし、ちょっとくらいいいよね。

「へー、あいつってターゲットゾーン広いんすねー。まじあいつ、なんなの?」

 男の子は、面白くないのか言葉の端々にとげとげしさを感じる。

「ふふふ。ねー、なんなんだろ?」

 私が笑いながらそう返事をすると、ホールの方からひと際大きい喝采が聞こえた。

「あっ、終わったみたいっすね」

 男の子が、ホールの方を振り返ってそう言ったので私も同じようにホールを見た。きっと、今日のライブは大成功だ。
 気持ちよさそうに歌っていた幸知の顔が頭に浮かび、私は帰ろうと正面に向き直る。

「じゃあ、私は帰るね。幸知くんにお疲様って伝えてね」
「えっ? 帰っちゃうんすか? 少し待っててもらえたら、きっと幸知に会えますよ?」
「うん。いいの。ありがとう。じゃーね」

 私は、男の子に手を振ってその場を立ち去る。来て良かったって心の底から思う。これは強がりなんかじゃなくて、本当に感じたこと。
 幸知が、暮らしている世界での彼を見ることができて良かった。いつも彼に会っていたのは、私側の世界だったからもしかしたらと淡い期待を抱いてしまうところだった。

 私はゆっくりと、大学の門へと歩いて行った。