「びしょびしょになってるよ。大丈夫?」
私は、何も返事をしない彼に再度声をかける。彼は見上げていた頭を伏せて呟く。
「――――大丈夫です……」
そう言われたけれど、どう考えても大丈夫じゃない。声をかけたのは私だし、仕方ないな。
「帰れないの? 良かったら、家に来る?」
私は、そんなことを言う自分に驚いていた。こんなこと言うなんて、私の方が怪しい人だ……。案の定、彼はまた顔を上げて私を見るなり怪訝な顔をしている。
「別に怪しい人じゃないんだけど……。ほら、これ社員証。あそこの会社で働いているただのOLだよ」
私は、鞄から会社の社員証を出して彼の前に差し出す。彼は、社員証を見ると路地から会社のある建物の方に目をやった。
「あの……、どうしてですか?」
彼は、心底不思議そうに訊ねてくる。まあ、そうだろうなと私も思う。自分でも、明確な理由なんてない。強いて言うなら、変な子に思えなかったから。
それに、醸す雰囲気がとても必死だったから目を引いてしまった。
「ん-特に明確な理由はないけど……。強いて言うなら必死そうだったから?」
ギターを抱えて座り込んでいる表情が必死だった。ただ路地に座り込んでいるだけなのに、私が声をかけてしまうほどに彼には引き付ける何かがあった。
「…………必死。そうかもしれません」
自分に問うように、また俯いてしまった。私は、その場にしゃがんで彼と目を合わせる。
「どうする? うち、地下鉄に乗って20分くらいの場所なんだけど」
私は、至近距離で初めて彼の顔を見て整っているなと思った。印象としては、真面目で素直そうな好青年。恐らく髪は短髪で普段はスッキリした出で立ちなのだろうが、雨でびしょびしょだから顔に黒髪が張り付いてしまっている。
私が言ったことを、どうしようか考えているみたいだ。すぐに返事をしないところを見ると、やっぱり真面目な子だと感じる。
「あの……お言葉に甘えてもいいでしょうか?」
彼は、申し訳なさそうに恐縮した顔で返事をした。
「うん。じゃー行こう。歩ける?」
いつから座り込んでいたのかわからないけれど、かなり長いことこの場所にいたのではと勘繰る。
「はい」
彼は、濡れてしまったギターを悲しそうに見つめてゆっくりと立ち上がった。立ち上がってびっくりしたのだが、私よりもかなり背が高い。今度は、彼の方が私を見下ろしている。
「背、高いんだね。座っている時はわからなかった」
私は、正直な感想を溢す。
「あっ、そうですか? お姉さんは、小柄で可愛いですね」
彼が、にこっと初めて笑った。きっと社交辞令だ。それはわかっている。だけど、笑顔の破壊力が凄い。フレッシュ溢れる笑顔を、久しぶりに見た気がする。
だっていつも、疲れたサラリーマンたちに囲まれているし……。お姉さんか……。確かにそうだけど、なんていうか新鮮。
私は、鞄の中に入れていたストールを出す。夏のエアコン対策にいつも入れているのだ。モカブラウンで結構気に入っている。
「これ、良かったらギターにかけてあげたらいいよ」
私は、彼に向かってストールを差し出す。
「あのっ、でも濡れちゃいますよ?」
彼が、申し訳なさそうに恐縮しきっている。
「いいよ。ギター凄く大切そうだから」
彼が、頭をペコリと下げてストールを受け取った。大人な色味のストールを、ギターにかけている。夏用の大判のストールではあるけれど、流石にギター全体を覆うのは無理ではみ出していた。
「ありがとうございます。これで濡らさなくて済みます」
彼は、ホッとしたような顔でお礼をいった。きっとずっと気にしていたのだろう、ずっと緊縛していたような雰囲気が少し緩んでいる。
「よし、じゃー行こうか。こっちだよ」
私は、駅の方を指さして教える。歩き出すと、彼が私とちょっと距離を開けてついて来た。
「傘、一緒に入ろう」
私は、彼に近づいて傘の中に入れてあげる。だけど、彼の方が背が高いからちょっと腕が辛い。
「いえ、もう俺かなり濡れてるんで大丈夫です」
「でも、電車乗るし。夏だからってこれ以上濡れたら風邪引いちゃうよ」
「すみません」
彼が、肩を落としてしょげている。なんか、素直でわかりやすい子だな。最近、大人の汚い面ばかり見ていたからかやけに可愛く感じる。
彼が、ギターを持ち直して私が差していた傘に手を添えた。
「傘、俺が持ちますね」
「えっ、でもギター持ってるし」
持てないことはないだろうけど、腕が辛そうに見える。
「いえ、これくらいは大丈夫です。さっきからお世話になってて、これくらいさせて下さい」
頑として譲らなそうな顔をしていたので、私は大人しく手を離した。
「ありがとう」
そして、びしょぬれの青年と私は駅の方角に向かって歩き出した。
駅の入口まで着くと、傘を畳んで私が持った。彼と一緒に、改札へと歩いて行く。ここに来るまでの道のりや、改札への道に迷いがないのでこの駅のことは知っているのだろう。
私の会社の最寄り駅は、横浜にある関内という駅。市営地下鉄を使って通っていて、自宅は弘明寺(ぐみょうじ)という駅にある。関内から電車で10分くらい。
二人とも無言で改札へと歩いていたのだが、改札に近づいたところで彼の足が止まる。私は、そのまま持っていたPASMOで改札を通ろうとしていたのでどうしたのかな? と後ろを振り返った。
「あの……。重ね重ね申し訳ないんですが、お金もスマホも持ってなくて……」
彼は、自分の不甲斐なさに消えてしまいたいと思っているのかかなり落ち込んでいる。私の方も、気づかずに普通に改札を通り過ぎようとしていて悪かったと反省する。
「そっか。そうだよね、ごめんごめん。切符買ってくるからちょっと待っててね」
私は、切符売り場へと足を向ける。弘明寺駅までの料金を確認して切符を買った。PASMOを持ち歩いているから切符を買うのは久しぶりだ。
「はい、切符。うち、弘明寺って駅なんだ。知ってる?」
私は、彼に切符を渡して顔を見る。切符を見る目が、申し訳なさそうにしている。真面目な子だなー。これくらい若い子なら、ラッキーって思うものじゃないのかな。
それは、私が若者を馬鹿にし過ぎか……。
「降りたことはないけど知ってます。あの、本当にありがとうございます」
彼が、きちんと頭を下げてお礼を言った。
「いいよー。私が勝手に声かけたんだから。気にしないで」
じゃあ、行こうと私は改札へと足を進める。すると彼も、私の後を着いてきてくれた。駅の入口に着いたときに、ちょっとは服を絞ったりしたのだが……それでもやはりびしょびしょなのには変わりない。
電車の中は、冷房が効いているから寒くないかなと心配になる。
駅のホームに着くと、丁度電車が来るところだった。時間が遅いので、そこまで人はいないが、これから帰宅するのだろうサラリーマンがちらほらいる。
私は、人がまばらな前の方に向かった。
歩いていると、横を電車が通過していく。電車がきちゃったからここら辺で良いかと足を止めて、電車のドアが開くのを待った。
私の隣には、背の高い彼がいる。そう言えば、まだ名前も聞いてないなと彼の顔を見て思った。
私は、何も返事をしない彼に再度声をかける。彼は見上げていた頭を伏せて呟く。
「――――大丈夫です……」
そう言われたけれど、どう考えても大丈夫じゃない。声をかけたのは私だし、仕方ないな。
「帰れないの? 良かったら、家に来る?」
私は、そんなことを言う自分に驚いていた。こんなこと言うなんて、私の方が怪しい人だ……。案の定、彼はまた顔を上げて私を見るなり怪訝な顔をしている。
「別に怪しい人じゃないんだけど……。ほら、これ社員証。あそこの会社で働いているただのOLだよ」
私は、鞄から会社の社員証を出して彼の前に差し出す。彼は、社員証を見ると路地から会社のある建物の方に目をやった。
「あの……、どうしてですか?」
彼は、心底不思議そうに訊ねてくる。まあ、そうだろうなと私も思う。自分でも、明確な理由なんてない。強いて言うなら、変な子に思えなかったから。
それに、醸す雰囲気がとても必死だったから目を引いてしまった。
「ん-特に明確な理由はないけど……。強いて言うなら必死そうだったから?」
ギターを抱えて座り込んでいる表情が必死だった。ただ路地に座り込んでいるだけなのに、私が声をかけてしまうほどに彼には引き付ける何かがあった。
「…………必死。そうかもしれません」
自分に問うように、また俯いてしまった。私は、その場にしゃがんで彼と目を合わせる。
「どうする? うち、地下鉄に乗って20分くらいの場所なんだけど」
私は、至近距離で初めて彼の顔を見て整っているなと思った。印象としては、真面目で素直そうな好青年。恐らく髪は短髪で普段はスッキリした出で立ちなのだろうが、雨でびしょびしょだから顔に黒髪が張り付いてしまっている。
私が言ったことを、どうしようか考えているみたいだ。すぐに返事をしないところを見ると、やっぱり真面目な子だと感じる。
「あの……お言葉に甘えてもいいでしょうか?」
彼は、申し訳なさそうに恐縮した顔で返事をした。
「うん。じゃー行こう。歩ける?」
いつから座り込んでいたのかわからないけれど、かなり長いことこの場所にいたのではと勘繰る。
「はい」
彼は、濡れてしまったギターを悲しそうに見つめてゆっくりと立ち上がった。立ち上がってびっくりしたのだが、私よりもかなり背が高い。今度は、彼の方が私を見下ろしている。
「背、高いんだね。座っている時はわからなかった」
私は、正直な感想を溢す。
「あっ、そうですか? お姉さんは、小柄で可愛いですね」
彼が、にこっと初めて笑った。きっと社交辞令だ。それはわかっている。だけど、笑顔の破壊力が凄い。フレッシュ溢れる笑顔を、久しぶりに見た気がする。
だっていつも、疲れたサラリーマンたちに囲まれているし……。お姉さんか……。確かにそうだけど、なんていうか新鮮。
私は、鞄の中に入れていたストールを出す。夏のエアコン対策にいつも入れているのだ。モカブラウンで結構気に入っている。
「これ、良かったらギターにかけてあげたらいいよ」
私は、彼に向かってストールを差し出す。
「あのっ、でも濡れちゃいますよ?」
彼が、申し訳なさそうに恐縮しきっている。
「いいよ。ギター凄く大切そうだから」
彼が、頭をペコリと下げてストールを受け取った。大人な色味のストールを、ギターにかけている。夏用の大判のストールではあるけれど、流石にギター全体を覆うのは無理ではみ出していた。
「ありがとうございます。これで濡らさなくて済みます」
彼は、ホッとしたような顔でお礼をいった。きっとずっと気にしていたのだろう、ずっと緊縛していたような雰囲気が少し緩んでいる。
「よし、じゃー行こうか。こっちだよ」
私は、駅の方を指さして教える。歩き出すと、彼が私とちょっと距離を開けてついて来た。
「傘、一緒に入ろう」
私は、彼に近づいて傘の中に入れてあげる。だけど、彼の方が背が高いからちょっと腕が辛い。
「いえ、もう俺かなり濡れてるんで大丈夫です」
「でも、電車乗るし。夏だからってこれ以上濡れたら風邪引いちゃうよ」
「すみません」
彼が、肩を落としてしょげている。なんか、素直でわかりやすい子だな。最近、大人の汚い面ばかり見ていたからかやけに可愛く感じる。
彼が、ギターを持ち直して私が差していた傘に手を添えた。
「傘、俺が持ちますね」
「えっ、でもギター持ってるし」
持てないことはないだろうけど、腕が辛そうに見える。
「いえ、これくらいは大丈夫です。さっきからお世話になってて、これくらいさせて下さい」
頑として譲らなそうな顔をしていたので、私は大人しく手を離した。
「ありがとう」
そして、びしょぬれの青年と私は駅の方角に向かって歩き出した。
駅の入口まで着くと、傘を畳んで私が持った。彼と一緒に、改札へと歩いて行く。ここに来るまでの道のりや、改札への道に迷いがないのでこの駅のことは知っているのだろう。
私の会社の最寄り駅は、横浜にある関内という駅。市営地下鉄を使って通っていて、自宅は弘明寺(ぐみょうじ)という駅にある。関内から電車で10分くらい。
二人とも無言で改札へと歩いていたのだが、改札に近づいたところで彼の足が止まる。私は、そのまま持っていたPASMOで改札を通ろうとしていたのでどうしたのかな? と後ろを振り返った。
「あの……。重ね重ね申し訳ないんですが、お金もスマホも持ってなくて……」
彼は、自分の不甲斐なさに消えてしまいたいと思っているのかかなり落ち込んでいる。私の方も、気づかずに普通に改札を通り過ぎようとしていて悪かったと反省する。
「そっか。そうだよね、ごめんごめん。切符買ってくるからちょっと待っててね」
私は、切符売り場へと足を向ける。弘明寺駅までの料金を確認して切符を買った。PASMOを持ち歩いているから切符を買うのは久しぶりだ。
「はい、切符。うち、弘明寺って駅なんだ。知ってる?」
私は、彼に切符を渡して顔を見る。切符を見る目が、申し訳なさそうにしている。真面目な子だなー。これくらい若い子なら、ラッキーって思うものじゃないのかな。
それは、私が若者を馬鹿にし過ぎか……。
「降りたことはないけど知ってます。あの、本当にありがとうございます」
彼が、きちんと頭を下げてお礼を言った。
「いいよー。私が勝手に声かけたんだから。気にしないで」
じゃあ、行こうと私は改札へと足を進める。すると彼も、私の後を着いてきてくれた。駅の入口に着いたときに、ちょっとは服を絞ったりしたのだが……それでもやはりびしょびしょなのには変わりない。
電車の中は、冷房が効いているから寒くないかなと心配になる。
駅のホームに着くと、丁度電車が来るところだった。時間が遅いので、そこまで人はいないが、これから帰宅するのだろうサラリーマンがちらほらいる。
私は、人がまばらな前の方に向かった。
歩いていると、横を電車が通過していく。電車がきちゃったからここら辺で良いかと足を止めて、電車のドアが開くのを待った。
私の隣には、背の高い彼がいる。そう言えば、まだ名前も聞いてないなと彼の顔を見て思った。