長い時間、雨に打たれながら俺は、心の中で何をやっているんだと自分で自分を罵っていた。家を飛び出した時には降っていなかった雨が、容赦なく自分に降り注ぐ。

 家を出た当初、大学でも行こうかと剥き出しのままのギターを抱えながら駅までの道を歩いていた。しかし、駅近くなってスマホも財布も何も持たずに家を出たことに気が付く。
 むしゃくしゃして自暴自棄になった俺は、駅近くのビルの路地に座り込んだ。今考えると人通りの多いその場所では、凄く目立っていたのではないかと思う。

 座り込み始めて少しすると、灰色の雲越しに赤い夕陽が傾きやがて完全に日が沈み辺りは暗くなった。
 かなりの時間その場所に留まっていると、ポツッポツッと雨粒が自分の体に当たり始めた。なんだ、天気も味方してくれないのかと項垂れる心が加速する。

 雨は、段々強くなりどんどん俺の服を濡らしていく。大量の雨粒が、夏の暑さを和らげ俺の体温と一緒に怒りで沸騰していた頭を冷やしていった。
 ギターを折ろうとした父親への怒りが、段々とクールダウンしてくる。冷静になってくると、自分の今の状態に恥ずかしさを覚える。

 父親と喧嘩をして、何も持たずに家を飛び出すなんてガキがすることだ……。もっと冷静に話し合うべきだった。だけど、今回ばかりはどうしても父親の言う通りにすることはできなかった。
 今までずっと、父親や母親の言う通りにやってきた。幼稚園、小学校では勧められた習い事に通い、中学校は高校がエスカレーター式の私立の進学校に進んだ。
 そして、大学は有名な大学に合格した。そのことに不満を抱くこともなかったし、その時その時の自分を楽しんでいた。
 しかも有難いことに容姿もそれなりに整っている俺は、恋愛もそこそこ楽しんだ。

 特に何の障害もなくここまで来たから、少しくらい自分の好きにしても大丈夫だという奢りもあった。父親の会社を継ぐのは、正直やぶさかではない。
 だけど、それは自分が好きなことをやった後にしたいのだと冷静に話すべきだった。怒りに支配されてしまったのは、父親がどうしても許せない言葉を言ったからだ。今でも、思い出すとカッと頭に血が上りそうになる。

「お前は、回り道なんてする必要がない。成功するとわかっている道が目の前にあるんだ。よそ見せずに真っすぐ進め」

 何もかもが面白くなかった。今までのように、いい成績をとるだとかいい学校に行くのとはわけが違う。
 今までは自分が将来何をするかわからないけれど、何をするにしても邪魔になるものではないと思ったから黙ってしたがってきた。
 だけど、会社を継ぐことは父親の押し付けでしかない。父親がやりたくて立ち上げた会社なのだ、そこに俺の意思なんてどこにもない。
 友人や知人からは、将来安泰だから羨ましいとよく言われる。経済的な面ではそうかもしれないけれど、選択肢もなくやりたくないことを仕事に選ばなくちゃならないなんて羨ましいわけがない。
 それに、そう言った父親の顔が「何下らないこと言っているんだ」と言わんばかりで怒りに拍車をかけた。

 雨に打たれながら、ひたすら父親との問答を悶々と考えていた。どうしても今日は家に帰る気になどなれない。だけど、スマホも家に置いてきた自分は何も打つ手が浮かばない。

 そんな風に、どうすることもできずに考えあぐねていたら突然、頭上に水色のシンプルな傘が差しだされた。

「こんなところでどうしたの?」

 俺を気遣う声だった。俯けていた顔を上げると、心配そうな顔をした年上の女性がそこにはいた。
 最初は、興味本位で声をかけたのだと思いすぐに顔を俯けた。だけど、その女性はあろうことか自分の家に来るかと誘ってくる。
 変な人に声を掛けられてしまったと警戒していると、自分の社員証を俺の目の前に差し出してきた。社員証を見ると女性の顔写真の隣に名前が記されている。

『藤堂咲』

 言われた会社も、確かにこの道沿いにあるなと女性が説明した場所に顔を向けた。すると、社員証に記載されている社名が書かれたビルがここからでも見える。
 身元がしっかりした人ならと、警戒を解いて話を聞いた。藤堂さんの顔をよくみると、どこにでもいる普通のOLだった。どちらかと言うと、地味でお人よしそうで悪い人には見えない。
 社員証を見せてくれる辺り、真面目で誠実なのだろう。だから、少しの怖さはあったけれどお言葉に甘えることにしたのだ。
 何かあったとしても、逃げてしまえばいいだろうと軽い気持ちだった。

 びしょびしょになった重い体を押しのけて立ち上がると、思ったよりも藤堂さんは小さくて今度は彼女が俺を見上げる形になった。

 藤堂さんも身長差に驚いていた。だからちょっとからかうつもりで「小さくて可愛いですね」と言ってみた。
 すると、藤堂さんは言われ慣れていないのか、俺にはわからないように照れ隠しをしている。俺よりもずっと年上に見える女性なのに、やけに初々しさを感じた。

 その後も、自分の持っていたストールを貸してくれたり見ず知らずの俺にとても優しくしてくれた。今までだって、女性が手を貸してくれるようなシチュレーションはいくらでもあったし、実際に手を借りたことも沢山ある。
 でも、大体は俺への好意からくるものだったし見返りを求めることがほとんどだった。

 それなのに藤堂さんは、何の見返りも要求してこない。むしろ俺のことを、異性として見ていないような感じまである。善意の塊に、柄にもなく恐縮しきっていた。
 連れてこられたマンションは、1LDKで思ったよりも立派な建物だった。社会人になったばっかりの女性が暮らすようなマンションに思えず、自分が思うよりも年上なのかもしれないと感じる。
 玄関の中に入ると、すぐにシャワーを浴びて欲しいとお願いされた。流石に一瞬、身の危険を感じるが藤堂さんの顔を見ると純粋に心配しているのと、部屋を汚されたくないとわかりやすくかいてある。
 ここまで付いて来て、今更だなと素直に従った。

 俺の心配をよそに、藤堂さんは甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。シャワーを浴びている最中に着替えも買いに行ってくれ、もう警戒心はほとんど無くなっていた。
 家に来るまで、名前を教えるのは控えようと思っていた。本当は、名前を教えることに抵抗もあったのだが、実際に聞かれるとあっさりと教える自分がいた。
 自分の名前を教える時は、揶揄われる覚悟をしていた。いつも同年代の友人から、変わった名前だと揶揄われていたから。だけど、藤堂さんは俺の名前を格好いいと褒めてくれた。
 容姿じゃなくて、名前を褒めてくれる人なんて初めてだったし、今まであまり好きになれなかった名前が突然特別なものになった気がした。

「一生かけて幸せを知っていくんだね」と言われて、自分でもはっとした。そんなこと思ったこともなかった。幸せなんて誰でも知っているものだと思っていた。
 幸せを知るって何なんだよ? って初めて疑問に感じた。

 それから夜遅くまで、俺の話を真剣に聞いてくれた。多分、くだらない悩みだなと心の中では思っていたかもしれない……。
 でも、ちゃんと話を聞いてくれて遠慮ない助言をくれた。俺の周りにいるやつは、歌手なんて夢物語だと一笑に付し、父親の会社って安定がある奴は本当に羨ましいと馬鹿にされた。
 同年代の女の子たちは、歌手も格好いいし歌上手いからきっと大丈夫だと言ってくれるが、結局は就職した方がいいと最後は締めくくられる。

 藤堂さんは、他人事だからとわざと突き放したような言い方をしたけれど、でも一番言っていることはまとを得ていた。
 俺は、周りの目や意見を気にして自分が思っているよりもずっとブレーキを踏んでいた。なりたいって想いだけじゃなれる訳がないのに……。こんなんで父親が認める訳もない。

 藤堂さんは、外見は大人しそうで地味なのに言うことははっきりズバッとものを言う。だけど、俺の夢を否定しなかった。
 夢を追った結果「どうなっても私は責任もてないけどね」と笑っていたけれど、でもそう言ってもらえてわかったこともあった。
 とても優しくて、もっと中に入れてもらえるかと思ったけれど連絡先も交換してはくれなかった。正直、それについてはかなりショックだった。絶対に最後は聞いてくれると思っていたのだ。

 だから、ちゃんと報告できる進展を持ってお礼に行こうと決めた。こんな風に、自分から誰かに会いに行きたいと思うのは初めてだった。
 今までは、自分が会いに行かなくたって向こうから会いにきたから。なんのアポもとらずに、家に行くのはかなりの勇気を要した。
 もしかしたら、居ないかもしれないし、いても中に入れてくれないかもしれない。こんな怖さを味わうのも初めてで、藤堂さんに会いに行くために歌手活動も活発的に行ったし自分がどうしたいのかも真剣に考えた。

 恐々訪れた藤堂さんの家、拍子抜けするくらい簡単に部屋に入れてくれてあの時と同じ笑顔で迎えてくれた。
 思い切って自分から連絡先も教えて欲しいとお願いもした。こんな風に必死な自分に驚いてしまうが、何もしなかったら藤堂さんとはこれっきりだと思ったら嫌だったのだ。
 藤堂さんは、明らかに俺と一線を引いていた。自分が声を掛けて拾った癖に、一度きりの出会いで終わらせようとした。
 ただの気まぐれだったとしても、心配して声をかけてくれたのは藤堂さんだけだった。拾って世話をしてくれたのに、最後に突き放したのに、会いに行ったら優しく迎えてくれた。
 名前で呼んだら、嫌がるどころが嬉しそうに微笑んでくれた。

 こんな女性は初めてで、俺を見ていて欲しいと思った。もっと話を聞いて欲しいし、連絡しても許される間柄になりたかった。

 やりたいことは全部やった方がいいと教えてくれたのは咲さんだ。