宮殿の、最も高貴な部屋から歌声が聞こえる。その歌声は海風のように澄んでいて美しいが、どこか儚げで悲しげだった。
翡翠葛の女王、その乙女は長らくベッドから離れられていない。腰まである緩くカールした、南国の澄みきった海の髪を右側に垂らし、窓の外を見つめる。青白いとも言える頬は痩け、コバルトブルーの瞳も光を宿していない。
「お母様……」
娘らしい少女は母親によく似てる。ターコイズブルーの髪は特に母親譲りだ。瞳は藤色で、潤んだ愛らしいものだ。
「……こ、今年の開花式こそ私が」
「翠咲(みさき)。お母さんは大丈夫よ。」
今年一八歳になる娘・翠咲。そう、今年が彼女にとって最後の開花式だった。しかし、立つこともままならないほど弱った乙女に開花の術はあまりにも重役すぎる、と翠咲は分かっている。
「もし死んじゃったらどうするの?!お父様に会えないまま……死ぬの?」
乙女の肩がピクっと跳ねる。
「お父様はまだどこかで」
「翠咲、」
乙女はゆっくり首を横に振った。
翠咲の父、そして乙女の番である青年は今から一〇年前攫われた。ある日家族で街にでかけている時だった。
『動くな!番の野郎よ。』
『っ……!いつの間に……』
知らぬ間に敵に包囲され、父は無理に拘束された。
『クソ……離せ!下郎!』
『おいおい下手な真似すんなよぉ?ちょっとやそっと怪しい動きでもしてみろ。娘と嫁の首が飛ぶぞ。』
『パパァ……!』
翠咲と乙女も拘束され、首にはナイフがあった。
『っ……!……どうすればいい?』
『話が早ぇな。俺らの目的はお前だ。お前さえ来てくりゃぁ嫁にも娘にも何もしねぇ。約束すんぜ?』
『…………分かりました。少しだけ話をさせてください。』
『いいだろう。』
父が力を抜き、無抵抗を示すと自然と翠咲と乙女も開放された。
『パパァ……?』
『翠咲、いいか?ママの言うことをちゃんと聞くんだ。……パパは翠咲が大好きだよ。』
何か悟った翠咲は瞳をうるうるとさせ、必死に父にしがみつく。
『翠波(みなみ)さん、翠咲を頼みます。必ず帰るその日まで……「私を忘れないで」』
『っ……!』
敵の方に振り返り向かうと、ずんずん歩みを進める。
『待ってください!貴方!待って!!置いていかないで!!』
そんな悲痛な叫びを覚えている。それに一つも振り向かない父の姿も。
それ以来乙女は一人で術を使い続け、その結果体を壊し、今では杖なしで歩くことはできない。不幸中の幸いか、二人の間には翠咲がおり、翡翠葛は絶滅しそうにないが、次がないとも言えない。
翠咲は母がいつも父を慕っているのを知っている。乙女がよく口ずさむ歌は父が好きな曲だ。彼の爽やかな低い声で歌っているのを聞いた事がある。
翠咲が覚えている父はとても優しく知的な人だった。名前は聡真(そうま)。母より少々歳が上で、医者の卵だったこともあり、婿入りしてからも宮廷医として働いていた。
渋い灰色がかった青緑色の髪、本人は胆礬(たんば)色と言っていた。瞳は翠咲と同じ藤色、銀縁の丸メガネをしていた。とても穏やかな性格をしていて、翠咲が怒られたのは母親に「嫌い」と言った時の一回だけ。彼の諭すようなひんやり冷たい説教が当時の翠咲にはトラウマに近く、もう一生怒らせないと誓ったくらいだ。
今の母を見て、父はなんと言うだろうか。あの父のことだ。「申し訳ありません」が一番しっくりくる。結局、そんなことを考えようと彼はいつまで経っても帰ってこない。きっと母はもう父は亡くなっていると思っている。見れば分かる。今すぐにでも父の元に行きたい、と思ってることだろう。一〇年探しても見つからないのだ。そう思わざるを得ないだろう。
母の歌を聞く度、うろ覚えの父の顔が浮かぶ。本を読む彼の膝に頭を乗せ、ふと撫でてくれる体温が恋しい。
「お父様……」
転機が訪れたのは開花式の四ヶ月前のことだった。
「殿下……!殿下!」
ノックもせずに乙女の自室に入ってくる兵が一人。たくさん汗をかいて、何やら急いでいるようだった。
「静かにし」
「翠咲、大丈夫よ。そんなに急いで、どうかしたの?」
乙女は実に穏やかだった。
「ご無礼をお許しください……先程捜索隊の方から手紙が届きまして、聡真様が発見されたと連絡がありました!」
乙女の目が大きくなる。体が小刻みに震え、深海色の瞳に光が宿り一つ雫が流れた。
「そう……ま……さん……」
翠咲も信じられないといった顔で口を手で抑え声を殺して泣いていた。
それから数日してまた一人の兵も男が部屋にやってくる。
「どうぞお入りください。」
隣にいた男が自室に入ると兵は去っていった。
「もう一〇年になるのですね。」
覚えている顔よりいくらか老けて、でも声は変わらず雲のように柔らかく優しい。
「遅くなってすみません。ただいま帰りました。」
男が見せる笑みは昔から変わっていない。
「そ、うま、さん……聡真さん……」
乙女はゆっくり立ち上がり、よろよろと歩き始めた。
「翠波さん、」
「聡真さん……きゃっ!」
「危ないっ……!」
しかし聡真まで行けずに膝から力が抜けた。間一髪聡真が受け止め、転ばずに済む。
「こんなに痩せて……辛い思いをさせてしまいましたね。」
「聡真さん……!私……私、!ずっと……!」
そっと抱きしめる聡真に身を寄せボロボロと涙を流す翠波。
「ほら、翠咲もおいで。寂しい思いをさせてしまったね。」
「お父様……」
「おや?そんなによそよそしく呼ぶようになったのかい?」
「っ……パパ……パパァァァ……!!」
みっともなく泣き聡真に抱きつく。一〇年振りの再会を分かちあった。
その夜は大きなベッドを用意し三人で川の字で寝た。真ん中に翠咲が寝て右側が翠波、左側が聡真、それは一〇年前と同じだった。
「少し窮屈だね。翠咲が大きくなったからかな?」
「何それ?私が太ったみたいじゃない……!」
「そうじゃないよ。立派に育った証拠さ。目元や鼻筋は僕に似てるが、髪や肌は翠波さんに似て綺麗だ。」
聡真が優しく頭を撫でると、嬉しそうに笑った。一方向こう側にいる翠波が不服そうな顔をしたのを、聡真は見逃さない。
「明日構ってあげますね、翠波さん。」
「っ……///!私は何も言ってません……///」
「顔に出てますから。ふふふっ……!」
あまりの興奮になかなか寝れない翠咲はずっと気になっていたことを聞いた。
「パパは一〇年も何をしてたの?」
「そうだね……実は輩の目的は誘拐だけみたいでね、女王が死んだら放してやる、って。奴らには言わなかったけど、翠咲がいるから翡翠葛は絶滅しないのに。攫われてから僕は外れの村で医者をしてたよ。監視付きだけどね。」
至って平凡な医者として働いた一〇年。その中で思うこともあった。
「不便はしなかったよ。収入はちゃんと入ったし、外出は制限されたけど出来ない訳では無かった。でも……帰りたいとはずっと思ってた。」
「パパ……」
「二人を忘れたことはないよ。隙をついて抜け出すことを考えた。ただ、それで死ぬのは嫌だったから、助けを待ち続けたんだ。」
二人に聡真のペンダントを見せる。中には一番新しい家族写真が入っていた。
「翠波さんの体調が良くなったらまた撮ろう。もうこの写真も古くなってしまったからね。」
「そのためにも早くママが元気にならないと!」
「そうね。」
しばらく話していると、だんだん安心して翠咲は寝てしまった。
「寝顔は昔から変わらないですね。」
「……こんなに気持ちよさそうに寝ているの、久しぶりに見ました。」
「そうですか。……一〇年です。翠咲はもう一八歳になるのですね。短いようで、長い……そうですか……帰って……来れたのですね……」
ポツポツとシーツの白が濃くなる。そこで初めて聡真は泣いた。何気ないこの一瞬で、帰宅を実感したのだ。
「聡真さん、」
「翠波さん、すみません。情けないですね……」
「そんなことありません。あの時の聡真さんは、とてもかっこよかったですよ。おかえりなさい、貴方。」
「っぅ……ただいま、翠波さん。」
次の日執事が起こしに来ると、三人が抱きしめ合って寝ているのも目撃し、そのまま起こさなかったという。
聡真の帰還から翠波は少しずつ体調を戻していった。だんだん食事が喉を通るようになり体力を付けていく。
聡真も仕事をしばらく休み、翠波の看病も兼ねて家族の時間を大切にしている。
「翠波さん、車椅子を用意したので、少し外に出ましょう?」
「ありがとうございます、聡真さん。」
夫婦仲は何も変わらず良好で、何をするにも二人でいる。そんな二人を見てるだけで翠咲は幸せだった。
翠波は痩せた頬に膨らみと赤みを取り戻し、歩けるほどに回復した。よくベランダに立って、木陰に座る聡真と翠咲を見ている。
「お茶の準備が出来ましたよぉ……!!」
「あっ!ママの声!分かったぁ!今行くぅ!!」
至って平凡で平和な日常だ。ただこの家族にはそれが一番の幸せであった。
奇跡の再会から四ヶ月、開花式の日がやってくる。前までの頼りない姿はなく、ずらりとスタイルの良い体躯に程よく肉が付き、ほとんど前の姿を取り戻していた。翡翠葛の色のマーメイドドレスが翠波にとても似合い、より一層乙女の美しさを引き立たせる。
「ママ、すごく綺麗……」
「はい、とてもお似合いですよ、翠波さん。」
「ありがとう、二人とも。」
何より翠波の最後の開花式に聡真がいることが幻のようだった。
「私……ママみたいに綺麗に着れる気しないわ……」
「うふふっ!大丈夫よ、翠咲。心配しなくても貴女は十分綺麗よ。」
母娘が温かなハグを交わしているのを見つめる聡真。ずっと静かに誰にも知られず涙を流した。
「私会場行ってるね!」
控え室で聡真と翠波の二人きりになった。
「気を遣わせたかな。」
「翠咲も大人になったのね。」
翠波に近づき、そっと抱きしめる。
「どうしたんですか?」
「何となく、貴女の温もりを感じたくて。」
背中が開いているのに気づくと、触れるか触れないかの瀬戸際で背をなぞる。
「ひゃっ……///!」
「ふふふっ♡可愛い声が出ましたね。」
「もう……///」
「もう少し遊びたいところですが、せっかくのセットが崩れてしまいますからね。また今度にしましょうか。」
優しい笑みに見えるのに、どうもいやらしく感じる。
「愛してます、翠波さん。いつもいつまでも。」
「聡真さん……///私も貴方を愛してますよ。」
額をあわせるとそのまま唇が重なる。甘く熱く、長い口付け。
「ぅふふっ♡あ、……そろそろ時間ですね。」
「そうですか。それじゃあ僕も会場に向かいますね。ちゃんと見てますからね。」
「はい。」
その年、年々減っていた翡翠葛の花々は数を増やし見事な海を成したのであった。
翡翠葛の女王、その乙女は長らくベッドから離れられていない。腰まである緩くカールした、南国の澄みきった海の髪を右側に垂らし、窓の外を見つめる。青白いとも言える頬は痩け、コバルトブルーの瞳も光を宿していない。
「お母様……」
娘らしい少女は母親によく似てる。ターコイズブルーの髪は特に母親譲りだ。瞳は藤色で、潤んだ愛らしいものだ。
「……こ、今年の開花式こそ私が」
「翠咲(みさき)。お母さんは大丈夫よ。」
今年一八歳になる娘・翠咲。そう、今年が彼女にとって最後の開花式だった。しかし、立つこともままならないほど弱った乙女に開花の術はあまりにも重役すぎる、と翠咲は分かっている。
「もし死んじゃったらどうするの?!お父様に会えないまま……死ぬの?」
乙女の肩がピクっと跳ねる。
「お父様はまだどこかで」
「翠咲、」
乙女はゆっくり首を横に振った。
翠咲の父、そして乙女の番である青年は今から一〇年前攫われた。ある日家族で街にでかけている時だった。
『動くな!番の野郎よ。』
『っ……!いつの間に……』
知らぬ間に敵に包囲され、父は無理に拘束された。
『クソ……離せ!下郎!』
『おいおい下手な真似すんなよぉ?ちょっとやそっと怪しい動きでもしてみろ。娘と嫁の首が飛ぶぞ。』
『パパァ……!』
翠咲と乙女も拘束され、首にはナイフがあった。
『っ……!……どうすればいい?』
『話が早ぇな。俺らの目的はお前だ。お前さえ来てくりゃぁ嫁にも娘にも何もしねぇ。約束すんぜ?』
『…………分かりました。少しだけ話をさせてください。』
『いいだろう。』
父が力を抜き、無抵抗を示すと自然と翠咲と乙女も開放された。
『パパァ……?』
『翠咲、いいか?ママの言うことをちゃんと聞くんだ。……パパは翠咲が大好きだよ。』
何か悟った翠咲は瞳をうるうるとさせ、必死に父にしがみつく。
『翠波(みなみ)さん、翠咲を頼みます。必ず帰るその日まで……「私を忘れないで」』
『っ……!』
敵の方に振り返り向かうと、ずんずん歩みを進める。
『待ってください!貴方!待って!!置いていかないで!!』
そんな悲痛な叫びを覚えている。それに一つも振り向かない父の姿も。
それ以来乙女は一人で術を使い続け、その結果体を壊し、今では杖なしで歩くことはできない。不幸中の幸いか、二人の間には翠咲がおり、翡翠葛は絶滅しそうにないが、次がないとも言えない。
翠咲は母がいつも父を慕っているのを知っている。乙女がよく口ずさむ歌は父が好きな曲だ。彼の爽やかな低い声で歌っているのを聞いた事がある。
翠咲が覚えている父はとても優しく知的な人だった。名前は聡真(そうま)。母より少々歳が上で、医者の卵だったこともあり、婿入りしてからも宮廷医として働いていた。
渋い灰色がかった青緑色の髪、本人は胆礬(たんば)色と言っていた。瞳は翠咲と同じ藤色、銀縁の丸メガネをしていた。とても穏やかな性格をしていて、翠咲が怒られたのは母親に「嫌い」と言った時の一回だけ。彼の諭すようなひんやり冷たい説教が当時の翠咲にはトラウマに近く、もう一生怒らせないと誓ったくらいだ。
今の母を見て、父はなんと言うだろうか。あの父のことだ。「申し訳ありません」が一番しっくりくる。結局、そんなことを考えようと彼はいつまで経っても帰ってこない。きっと母はもう父は亡くなっていると思っている。見れば分かる。今すぐにでも父の元に行きたい、と思ってることだろう。一〇年探しても見つからないのだ。そう思わざるを得ないだろう。
母の歌を聞く度、うろ覚えの父の顔が浮かぶ。本を読む彼の膝に頭を乗せ、ふと撫でてくれる体温が恋しい。
「お父様……」
転機が訪れたのは開花式の四ヶ月前のことだった。
「殿下……!殿下!」
ノックもせずに乙女の自室に入ってくる兵が一人。たくさん汗をかいて、何やら急いでいるようだった。
「静かにし」
「翠咲、大丈夫よ。そんなに急いで、どうかしたの?」
乙女は実に穏やかだった。
「ご無礼をお許しください……先程捜索隊の方から手紙が届きまして、聡真様が発見されたと連絡がありました!」
乙女の目が大きくなる。体が小刻みに震え、深海色の瞳に光が宿り一つ雫が流れた。
「そう……ま……さん……」
翠咲も信じられないといった顔で口を手で抑え声を殺して泣いていた。
それから数日してまた一人の兵も男が部屋にやってくる。
「どうぞお入りください。」
隣にいた男が自室に入ると兵は去っていった。
「もう一〇年になるのですね。」
覚えている顔よりいくらか老けて、でも声は変わらず雲のように柔らかく優しい。
「遅くなってすみません。ただいま帰りました。」
男が見せる笑みは昔から変わっていない。
「そ、うま、さん……聡真さん……」
乙女はゆっくり立ち上がり、よろよろと歩き始めた。
「翠波さん、」
「聡真さん……きゃっ!」
「危ないっ……!」
しかし聡真まで行けずに膝から力が抜けた。間一髪聡真が受け止め、転ばずに済む。
「こんなに痩せて……辛い思いをさせてしまいましたね。」
「聡真さん……!私……私、!ずっと……!」
そっと抱きしめる聡真に身を寄せボロボロと涙を流す翠波。
「ほら、翠咲もおいで。寂しい思いをさせてしまったね。」
「お父様……」
「おや?そんなによそよそしく呼ぶようになったのかい?」
「っ……パパ……パパァァァ……!!」
みっともなく泣き聡真に抱きつく。一〇年振りの再会を分かちあった。
その夜は大きなベッドを用意し三人で川の字で寝た。真ん中に翠咲が寝て右側が翠波、左側が聡真、それは一〇年前と同じだった。
「少し窮屈だね。翠咲が大きくなったからかな?」
「何それ?私が太ったみたいじゃない……!」
「そうじゃないよ。立派に育った証拠さ。目元や鼻筋は僕に似てるが、髪や肌は翠波さんに似て綺麗だ。」
聡真が優しく頭を撫でると、嬉しそうに笑った。一方向こう側にいる翠波が不服そうな顔をしたのを、聡真は見逃さない。
「明日構ってあげますね、翠波さん。」
「っ……///!私は何も言ってません……///」
「顔に出てますから。ふふふっ……!」
あまりの興奮になかなか寝れない翠咲はずっと気になっていたことを聞いた。
「パパは一〇年も何をしてたの?」
「そうだね……実は輩の目的は誘拐だけみたいでね、女王が死んだら放してやる、って。奴らには言わなかったけど、翠咲がいるから翡翠葛は絶滅しないのに。攫われてから僕は外れの村で医者をしてたよ。監視付きだけどね。」
至って平凡な医者として働いた一〇年。その中で思うこともあった。
「不便はしなかったよ。収入はちゃんと入ったし、外出は制限されたけど出来ない訳では無かった。でも……帰りたいとはずっと思ってた。」
「パパ……」
「二人を忘れたことはないよ。隙をついて抜け出すことを考えた。ただ、それで死ぬのは嫌だったから、助けを待ち続けたんだ。」
二人に聡真のペンダントを見せる。中には一番新しい家族写真が入っていた。
「翠波さんの体調が良くなったらまた撮ろう。もうこの写真も古くなってしまったからね。」
「そのためにも早くママが元気にならないと!」
「そうね。」
しばらく話していると、だんだん安心して翠咲は寝てしまった。
「寝顔は昔から変わらないですね。」
「……こんなに気持ちよさそうに寝ているの、久しぶりに見ました。」
「そうですか。……一〇年です。翠咲はもう一八歳になるのですね。短いようで、長い……そうですか……帰って……来れたのですね……」
ポツポツとシーツの白が濃くなる。そこで初めて聡真は泣いた。何気ないこの一瞬で、帰宅を実感したのだ。
「聡真さん、」
「翠波さん、すみません。情けないですね……」
「そんなことありません。あの時の聡真さんは、とてもかっこよかったですよ。おかえりなさい、貴方。」
「っぅ……ただいま、翠波さん。」
次の日執事が起こしに来ると、三人が抱きしめ合って寝ているのも目撃し、そのまま起こさなかったという。
聡真の帰還から翠波は少しずつ体調を戻していった。だんだん食事が喉を通るようになり体力を付けていく。
聡真も仕事をしばらく休み、翠波の看病も兼ねて家族の時間を大切にしている。
「翠波さん、車椅子を用意したので、少し外に出ましょう?」
「ありがとうございます、聡真さん。」
夫婦仲は何も変わらず良好で、何をするにも二人でいる。そんな二人を見てるだけで翠咲は幸せだった。
翠波は痩せた頬に膨らみと赤みを取り戻し、歩けるほどに回復した。よくベランダに立って、木陰に座る聡真と翠咲を見ている。
「お茶の準備が出来ましたよぉ……!!」
「あっ!ママの声!分かったぁ!今行くぅ!!」
至って平凡で平和な日常だ。ただこの家族にはそれが一番の幸せであった。
奇跡の再会から四ヶ月、開花式の日がやってくる。前までの頼りない姿はなく、ずらりとスタイルの良い体躯に程よく肉が付き、ほとんど前の姿を取り戻していた。翡翠葛の色のマーメイドドレスが翠波にとても似合い、より一層乙女の美しさを引き立たせる。
「ママ、すごく綺麗……」
「はい、とてもお似合いですよ、翠波さん。」
「ありがとう、二人とも。」
何より翠波の最後の開花式に聡真がいることが幻のようだった。
「私……ママみたいに綺麗に着れる気しないわ……」
「うふふっ!大丈夫よ、翠咲。心配しなくても貴女は十分綺麗よ。」
母娘が温かなハグを交わしているのを見つめる聡真。ずっと静かに誰にも知られず涙を流した。
「私会場行ってるね!」
控え室で聡真と翠波の二人きりになった。
「気を遣わせたかな。」
「翠咲も大人になったのね。」
翠波に近づき、そっと抱きしめる。
「どうしたんですか?」
「何となく、貴女の温もりを感じたくて。」
背中が開いているのに気づくと、触れるか触れないかの瀬戸際で背をなぞる。
「ひゃっ……///!」
「ふふふっ♡可愛い声が出ましたね。」
「もう……///」
「もう少し遊びたいところですが、せっかくのセットが崩れてしまいますからね。また今度にしましょうか。」
優しい笑みに見えるのに、どうもいやらしく感じる。
「愛してます、翠波さん。いつもいつまでも。」
「聡真さん……///私も貴方を愛してますよ。」
額をあわせるとそのまま唇が重なる。甘く熱く、長い口付け。
「ぅふふっ♡あ、……そろそろ時間ですね。」
「そうですか。それじゃあ僕も会場に向かいますね。ちゃんと見てますからね。」
「はい。」
その年、年々減っていた翡翠葛の花々は数を増やし見事な海を成したのであった。