卒業式の定番ソングの伴奏は、正直なんてことはないんだ。なんてことないのに、おかしい。手が震える。

三月九日、私立清澄高等学校卒業式。
夏輝くんは今日、この学校からいなくなる。

それで俺は、夏輝くんへ……じゃなかった、卒業生へ贈る歌の伴奏を任されてる。

それだけのことがこんなにも俺の手を震わすんだから、やっぱり恋っておそろしい……。


『卒業生、入場』

A組、B組の拍手とは圧倒的に熱量の違う拍手が、C組に贈られる。その理由はもちろん、谷野夏輝くんの存在に他ならないわけで。

『ナツ先輩〜』と囁く声が、俺の耳にも届いていた。……俺だって、正直呼びたい。でも俺が呼ぶなら『夏輝くん』だ、と誰にも届かないところでひっそりマウントをとってみる。

『ヤノ』だから出席番号順の後ろのほうに並んだ夏輝くんは、花道側にいる下級生たちに手を振ってあげたりしてる。あんなんファンサじゃん。

「ナツ先輩やばいな、アイドルじゃんもう」
「……黙って前向いとけ」
「こわっ同担拒否かよ!」

茶化してくる有馬に、ほんの少し感謝した。ほんの少しな。花道とは反対側の端っこ、夏輝くんみたいに背が高いわけでもないし、俺が見つけても、夏輝くんは俺を見つけられないと思う。

きらっきらの夏輝くんが、もうすぐ俺の列の横を通る。

あの黒髪、明日には染めちゃったりするのかも。そのブレザー姿も今日で見納めだし。別にこれからだって会えるよ、全然。わかってるけど、やっぱり、学校でみる夏輝くんは特別じゃん。

白岳山で出会う前から知ってた、秋風みたいに爽やかなナツ先輩のこと。
(仮)が始まった最初の頃は、理不尽な罰金制度でよく自販とか購買に走らされたこと。
人気のない校舎裏で、思い出せもしないようなくだらない話をしたこと。
保健室で頭を撫でてくれたこと。第三棟の音楽室でピアノを鳴らしたこと。三年C組の教室での、二人だけの思い出とか。

ここには、夏輝くんとの思い出がありすぎる。

拍手にいっそう力を込めてた。もしかしたら、あの人なら、気づいてくれるかもって。

長い前髪をかきあげた夏輝くん。あの横顔、好き。

その横顔が、ちらっとこっちを向いた。

「りつ」

こっちを見て、たしかにそう口が動いた。笑ってる。シンバル叩くみたいな真似して、後ろの先輩につっこまれてる。

「……おれ、あんな拍手してないし」

こみあげてくるなにかを、何度も何度も飲み込んだ。


お決まりの校長の挨拶やら来賓挨拶やらがだらだらと長ったらしく続き、隣のクラスのやつが在校生代表の送辞をそつなくこなしたあと。

『答辞、卒業生代表、三年C組、谷野夏輝』

呼ばれた名前に、会場がざわついた。全体の予行練習では明かされなかった、卒業生代表挨拶。

「夏輝くんなの……」

いや俺には教えてよ……!

夏輝くんは前髪をきゅっと耳に掛けながら、舞台への階段を一段とばしにあがってく。脚が長いって、それはそれで大変そうだ。

『卒業生代表、三年C組、谷野夏輝です』

マイクを通した、夏輝くんの声。堂々としてて変なかんじだ。いつものふにゃ具合じゃ全然ない。

夏輝くんの声で読まれる、先生たちや保護者、学校関係者への感謝の言葉。なんか別人みたいにしっかりしてた。……そりゃそうか。卒業生代表だもんな。

『私は清澄で、たくさんの友に出会いました。仲間に出会いました』

『投げやりになっていた自分に、手を差し伸べてくれる存在に出会いました』

『清澄で過ごした日々はどれもかけがえのない……生涯捨てることのできない、大切な思い出です』

『クラス一丸となって臨み総合優勝を勝ち取った球技大会、』

『校舎裏で他愛もない話をした昼休み、音楽室で鳴らしたピアノ、卒業旅行ではゾンビの仮装をして肝試しをしたりしましたね』

夏輝くんの紡ぐ言葉の節々に、自分を感じようとしてる。夏輝くんの三年間の話だろ、俺だけがひとりじめしてたわけじゃないんだから。

……わかってるのに、こみあげてくるなにかを、口から吐き出してしまいたかった。

我慢しようとすればするほど、それは喉を焼くように熱くしてくる。

『在校生のみなさん』

一層はっきりと聞こえた、夏輝くんの声。

『三年間はあっという間です。やりきれない日も、なにもしたくない日もあると思いますが、この清澄で過ごした日々を""捨てたくない大切な思い出""と呼べるよう……肩の力を抜きながら、がんばってください』

ペコリと頭を下げた夏輝くん。

………なにあの人、かっこよすぎるよ。このあとにピアノ弾けとか、どんな拷問?無理だよ無理。だってもう俺……

「ほらティッシュ!」

有馬にポケットティッシュ差し出されるくらい、鼻水垂れちゃってんだもん。


『在校生より卒業生へ』

行事に力を入れる清澄らしい計らい。合唱曲は在校生のアンケートによって決まる。大体が定番のポップスで、合唱祭の歌唱曲と被らなければ、なんでもいいってことになってる。

『伴奏、二年A組、結木律』

名前が呼ばれて、今日顔を合わせたばかりの指揮者の女子と二人、舞台への階段をあがる。俺の短い脚じゃ、別にこの階段も特に窮屈ではないのがちょっと悔しい。

一礼して、第三棟の音楽室のものとは比べ物にならないくらい丁寧に磨かれたピアノの前に、腰をおろす。ぎぃっという椅子を引く音。演奏会と同じ静寂のなか、指揮にあわせて、俺は鍵盤を鳴らした。

まだ鼻がつんっとしてる。プールのあとみたい。たぶん、この歌唱曲の歌詞に耳を傾けてしまったら、もうだめだと予感してる。だからなるべく演奏にだけ集中した。だめだよな、本当は。卒業生に贈る歌だもんな。わかってるんだけど。

俺の頭には、たった一人、夏輝くんのことしかなかった。夏輝くんのことだけを想って、ピアノを弾いてる。

ありがとう、夏輝くん。
捨てたくない思い出に俺をいれてくれて、ありがとう。
俺の捨てたくない思い出になってくれて、ありがとう。
だいすき。だいすきだよ、夏輝くん。
俺の手をとってくれて、ほんとにありがとう。

喉の奥が熱くてしょうがなくて、生唾を飲み込んで誤魔化しては唇をきつく結んで、なんとか伴奏を終えた。


『卒業生、退場』

いよいよ卒業式がおわってしまった。伴奏が終わってからの記憶はあんまりない。卒業生の歌は泣かせにきてるから、ちょうどよかったかもしれないな。

「おい!結木っ!」
「ん……?」
「あっち!ほら!!」

有馬が指差すほう、花道には、大きく手を振る夏輝くんの姿。騒ぎ立てる周りの悲鳴にも似た歓声。

………は?

「ちょ、え!?」

なに、あの人、なにして……

目があうと夏輝くんは、出会った日と同じ指ハートを俺におくってきた。

なんだよあれ、なんだよ、もう……!!

「……はずかしぬ……」

滲んでよく見えない視界だったけど、たぶん、夏輝くんも俺の目一杯の指ハートに、笑ってくれてたと思う。


「ねえ結木くん、どうしてナツ先輩と…」
「結木くん、ナツ先輩の連絡先知ってる!?」
「結木くん」「結木くん」

……まあ、こうなるよな。予行練習の日だって、有馬がいなきゃこうなってたんだ。あいつがかなり上手いこと捌いてくれたからな。

有馬は当然部活の先輩のところに行ってるから、俺は一人、この答えていいのか微妙な質問を浴びている。嘘はつきたくないけど、夏輝くんの価値をだだ下がりにするのはもっといやだ。

「……ごめん、幡野先生に呼ばれてて」

微妙に嘘だけど、俺はそれだけ言って職員室へと逃げ込んだ。

「律くん!伴奏よかった、本当にありがとうね」
「いえ、こちらこそです……弾けてよかったです」

きっと、俺が人前で弾く最後の演奏だった。それが夏輝くんの晴れ舞台に花を添えられるなんて、よく考えてみればそんな幸せなことってない。

「ふふ。律くん、すごくいい顔してる」
「……そうでしょうか」
「うん。律くんの顔だ」

幡野先生はその言葉とともに、第三棟の音楽室の鍵を渡してくれた。まだ、なんにも言ってないのに。

「弾きたくなったら、いつでも言ってね」

糸みたいに目を細めた幡野先生が、俺の背を押してくれる。

「……ありがとうございます」

人の気持ちって、いまでもわからない。わかりたいと思う人だって、片手で数えられるくらいなものだし。だけど俺は、知らないうちにこうやって、いろんな人にわかろうとしてもらっていたんだろうな。思い返せばたぶん、幡野先生が作曲を教えてくれたのだって、そうだったんだと思う。……そんなことずっと気が付かなかったけれど。

第三棟の音楽室のピアノ。俺にとって唯一無二のピアノ。

「いままで、ありがとな」

ピアノに声を掛けるだなんて、俺にしてはずいぶんメルヘンな話。でもこいつは、相棒みたいな存在だったからな。たったひとり、俺の感情のぜんぶを、俺よりも理解してくれてた相棒。

俺、こんな曲を書けるようになったんだぜ。どうよ、なかなかよくない?ラブソングだよ。

半音ずれた音でも、なんだかそれがかわいく思える。俺の特別だ、おまえは。

「やっぱり律だ」
「夏輝くん……」

なんとなく、わかってた。今日ここへ夏輝くんがきてくれること。

わかってた……じゃないか、期待してた、だ。

「あれ、めずらしくびっくりしないじゃん~」
「なんとなく、きてくれるかなって思ってました」
「げえ。読まれてたか」

すとんっといつもの場所に腰をおろす夏輝くん。

「いまの、バレンタインのときのやつだ」
「……はい」
「マジックアワー」
「……はっっっず」
「あは、なんでぇ。俺この曲好きだよ」

「ていうか、俺への曲、でしょ?」

……この目。出会ってからずっと翻弄され続けてるこの目。

「大好き」

溢れてとまらなくなった。

夏輝くんのその目から視線を外し、鍵盤を目に映す。あの日の続き。まだ母さんにしか聴かせてなかった。

夏輝くんが愛おしいって旋律。夏輝くんは芸術なんてわかんないって言ってたけど、なんとなく、届く気がしてる。届かなくても、まあ、俺が言えばいいし。

最後の音のあと、夏輝くんの拍手が耳を癒してくれる。破裂音が弱めの拍手の音。夏輝くんの音。

「夏輝くん、俺ね」
「うん」
「ピアノ、やめる」
「そっか」
「……俺のピアノ好きって言ってくれて、ありがとう」

誰も聴いてくれなかった俺のピアノ、夏輝くんだけはずっと、まっすぐに受け取ってくれて、ありがとう。楽しそうに身体を揺らしてくれて、驚いたように目を輝かせてくれて、嬉しそうに笑ってくれて、ありがとう。

「律にプレゼントがあります」
「いきなり」
「ふふふふ」

不敵な笑みを浮かべた夏輝くんは、ブレザーの胸ポケットにピン留めされた造花のブローチを、俺の胸ポケットに差してくれた。
彼氏彼女、片思いの人にこれをもらうってのは、清澄の卒業式の定番みたいなやつ。第二ボタンよりももっと、外への主張強めな。

「え、いいの?」
「当たり前でしょ、あとこれね」

そのブローチのついでみたいな言い方で、手のひらサイズの四角い箱が、ピアノの鍵盤の上にそっと置かれる。

「なんですか……ええ……」

知ってる、このアウトドアブランドのロゴ。最近SNSで話題の『山でも街でも使える』ってキャッチフレーズの。……これ、がちのプレゼントじゃんかよ。

「ちょっと早いけど、バレンタインのお返し」
「俺なんもあげてないです……あっ」
「ふふふ。もらいました〜」

曲のことかよ……もうやめてくれ、恥ずかしぬ……。ドヤ顔で書いてドヤ顔で演奏してたって、今のなんの武装もない俺には、ただただ気恥ずかしさしかないのに。

夏輝くんはいつもそうやって、俺をからかってあそぶ。

「ほらあけて〜」とゆるく急かされて、その巾着をおそるおそる開けた。

「……キーケース?」
「兼ミニ財布?」
「えお金入るの?」

ぱっとそのキーケース兼ミニ財布を手に取って、マジックテープをびりっとはがしたときだ。
カラビナについた一本の鍵が顔をだした。

「……これ……」

それに続く言葉が、ひとつもでてこなかった。人って最上級の感情を抱くとき、なにも言えなくなるんだなって最近よく思う。うれしいとかありがとうとか、たくさん言いたい。でもどれもしっくりこないんだよ。そんなんじゃ足りないんだよ。

「……なづきぐん」
「うわ、ぐじゃぐじゃじゃん」
「だっで……ええ……」

溢れて、とまらなかった。

「いつでもおいでって言ったじゃん、前」
「……ゔん」
「鍵なきゃこれないなって思ったの」
「ありがどぉっ……」
「だから泣かないよ~ほらぁ」

俺、泣いてるんだ、人前で。いやさっきもそうか、夏輝くんの答辞にも、指ハートのファンサにも泣いてたわ。

人前で泣くとか、そんなこと、俺の身に起きるんだ。

ずっとなんにもなかったのに。ただただ息を吸って吐いてたまに山に登って、それだけだったのに。

この人の手で頭を撫でられるのが好きだ。この人の腕のなかが落ち着く。この人と繋ぐ手はすごく特別に思える。あれだけ手を大事しなさいと言われても、ちっとも大事にできなかったのに。

「夏輝くん」
「ん~?」

「卒業、おめでとう」

この人とするキスしか、知らなくていい。


ぜんぶ、この人が教えてくれた感情だ。

もう俺の頭のなかに、きっと音は鳴らない。



「ていうか夏輝くん」
「ハイ」
「なんで卒業生代表だってこと教えてくれないんですか」
「律びっくりするかな~とか思って」
「またそれだよ」

イルカショーのときとおんなじこと言ってる。

「まあ……俺だってちょっとはかっこつけたかったんですよ」
「?夏輝くんはいつでもかっこいいですけど。なにいまさら」
「ね!!そういうとこ!!」

追い剥ぎにあったみたいにワイシャツとズボン以外なんにもなくなった夏輝くんと、校門で待ち合わせして一緒に帰る。ワイシャツ一枚じゃまだ寒い、春の匂いがしはじめた頃。

「カイロありますけど」
「えちょうだい~」

子どもみたいに無邪気な顔でじゃれついてくる寒がりなこの人は、俺の彼氏。