夏輝くんはあのあと、お揃いのマグカップを買ってくれた。なんかこう、見るからに恋人同士♡みたいなマグカップじゃなくて、シンプルな色違いのやつ。色の名前がかわいくて、これがいいねってなった。
夏輝くんのは『甘色』で、俺のは『深海』。淡いベージュの土っぽい質感のと、俺のはつるっとした深い青。ちょっと大きめで、たくさん注げそうなやつ。

その二つを、夏輝くんの新居に置いておいてくれるらしい。「合格祝いのお返し~」なんて言ってくれたけど、それじゃお祝いにならないじゃん、とは思った。……でも、すっごいうれしかった。

帰り際、手を離すその瞬間に、夏輝くんは「いつでもきていいよ」って言ってくれた。このあとに待つであろう修羅場を、当然夏輝くんもわかってて、俺にこれでもかってくらいの逃げ道を用意してくれたんだ。ほんとにあの人には、一生かなわないと思う。

俺と母さん。昔は父さんも。たった三人で住むには異様にでかいこの家。おばあちゃんの土地。おばあちゃんの遺産。おばあちゃんのピアノ。もう姿かたちもないはずなのに、俺の家にはいまでも『おばあちゃん』が至るところにいる。

玄関の鍵をあけたとき、ドアがあかなかった。ああ、母さん、帰ってるんだなと瞬間わかった。

大きな溜息ひとつ。そのあと、三回くらい深呼吸。

「……ただいま」

俺の居場所は、ここだけじゃない。俺は母さんを捨てられる。父さんを捨てられる。夏輝くんの存在が、これは依存的なのかもしれないけど、でも、今はその存在が、ただただ俺を支えてくれていた。

「……律……」

リビングのテーブルに突っ伏した母は、飲めないお酒を飲んでいるようだった。こういうところが、本当に、本当に、大嫌いだ。

「どうして酒飲んでんの」
「どうしてって……やってられないじゃない」

それはこっちのセリフだよ。話し合おうとか、微塵も思わないのかよ。

「なんで男の子……しかもあんな大勢の目に触れる場所で……」

そのテーブルをひっくり返してやろうかという衝動を、深呼吸でなんとかやり過ごす。この人の思うつぼだから。事を荒立てればそれで肝心なことはなぁなぁになると、この人は知っている。父さんともいつもそうだった。

「母さん」
「……」
「母さんはかわいそうだよ」
「なっ……」
「かわいそうだから、一緒にいてあげたんだ。でももう、同情じゃ一緒にいられない。限界だ」

母さんは、なんでそんなこと、と何度も何度も同じことを言って、わんわん泣いていた。……本当に、かわいそうな人。

「父さんに連絡した。春休みに山形で会うことになってる」
「なに勝手にそんな……!」
「学費のことも話した。父さんは自分が払うって言ってくれてるけど、俺は公立に転校してもいいと思ってる」
「待って律、勝手に話進めないで」
「待たないよ」

もう、待たない。待ってやらない。

「俺の大切な人をあんな目で見る人、親なんかじゃない」

声をあげて泣く母。まだ話はそれだけじゃないっていうのに、感情で話を遮ってくるところが、本当に嫌い。

「……母さんはいつも、自分のことばっかりだよ」

俺の話も、父さんの話も、全然聞いてくれない。今もたぶん「私はかわいそう」「誰もわかってくれない」「全部犠牲にしたのにひどい仕打ち」とか思ってるんだろうな。わかりたくないのに、母さんのそういう感情は手に取るようにわかってしまう。

「ピアノ、何度もやめたいって言った」
「……っ!!結局やめたじゃない!!」
「でも進学するとき、幡野先生のとこ以外はだめだって言ったじゃん」

音楽科に進学しないと言った中三の夏。母さんはひどく取り乱した数日後、清澄のパンフレットを机においた。ここ以外は認めない、と言った。そこには幡野先生の旦那さんがいたから。結局ずっと俺をピアノに縛り付けようとしてただろ。

「なんでよっ……なんでそんなにピアノを嫌うの……」

長い髪をぐしゃぐしゃにかきむしって、山姥みたいだなぁとか、ぼーっと思ってた。あんまりにもいまさらなこと言ってて、心がすうっと冷えていくのを感じる。なんで嫌うかって、俺、何度も何度も言ったよ。

「……誰も、聴いてないからだって」

その話さえ、母さんは一度も聞いてなかったんだな。


本当は俺だって、父さんと一緒に逃げたかった。母さんからもピアノからも逃げたかったよ。でも、母さんが泣くから。ああこの人、かわいそうだなって思った。だから日本に残った。

「母さん」

呼びかけても、母さんの耳に俺の声は届かない。

もういいかと思った。どうせ一生わかりあえない。このまま親子をやめたら、その方がお互いに幸せなのかもしれない。でも不思議だった。なんで今?って思う。からっぽだった頭のなかに、音が鳴る。

………結局この人に伝えるには、これしかないのか。

泣きじゃくる母さんの腕を引っ張って、半ば無理矢理、防音室に押し込む。本当はいやだ。弾きたくない。でも、この人の耳には『音』しか届かないんだ。

「律……?」
「ちゃんと聴いてて」

俺は『マジックアワー』を弾いた。あの日途中で止めてしまった続き、すらすらと出てくる。音が溢れて、止まらなくなる。

湿った雪が夏輝くんのまつ毛にとけてく一瞬、かじかんだ手、ただのモノみたいに感覚を失った唇、夏輝くんが俺の名前を呼ぶ焦った声。

わかりたい。わかってほしい。祈りみたいな気持ち。

夏輝くんのつむじ、学校指定のセーターの背中、収まりきってない長い脚。

『あ』っという間にすぎてく時間、指を絡めるようになった手の繋ぎ方。

『甘色』のマグカップ、子どもたちのはしゃぐ声、春の匂い。


―― 愛おしい、だ。


夏輝くんが愛おしい。


……でも、愛おしいって、直接は言えないよな。さすがにちょっと恥ずかしい。

ああ、だからやっぱりそうなんじゃん。

だから恋人たちは、キスするんじゃん??



母さんは相変わらず泣いてるけど、少しは理性的な泣き方をしていた。笑っちゃうけど、さっきまであんなに声を荒げていたくせに、最後の音のあと拍手とかしちゃって。どこまでもピアノに忠実な人なんだろうな。

「……ごめんなさい……」
「……うん」
「律に……そんな旋律あったのね」
「夏輝くんに出会ってからだよ」

むかつくなぁ。俺がいくら話しかけたってちっとも届かないのに、ピアノを弾くと母さんと会話ができるだなんて。

「本当に……ごめんなさい」
「……俺も、さっきは言い過ぎた。ごめん。」

母さんは目をまあるくして、ぽろぽろと涙の粒をおとしている。ごめんね、と何度も何度も繰り返している。

「俺は……ただ普通に、父さんと母さんと家族でいたかった」

三人で山登りしたり、コンクールで入賞したらお祝いに焼肉食べに行ったり、たまには水族館行ったりもしてみたかったな。そういう普通の……ただ普通の家族でいたかっただけなんだよ。

俺のピアノが上手くいかないと母さんは不機嫌になる。防音室から出してもらえなくなる。それを見た父さんが俺を山へ連れ出してくれては、その夜、母さんの怒鳴り声が、この無駄にでかい家に響き渡った。

俺が上手く弾ければ、母さんの満足のいく演奏ができていれば、この家はおかしくならなかったのかもしれない。

元はといえば俺のせいかもしれない。でも、もう、限界だよ母さん。俺も母さんも父さんも、このままじゃもう無理だよ。

「……律は覚えてないかもしれないけどね……」
「え?」
「公園からの帰り道に言ったのよ、『すべりだいはシシラド~だね』って」
「すべり台……?」

あ、音だ。頭のなかで鳴る音のことか。

「あたしそのときね、ユマだって思ったの」
「ユマ叔母さん?」

こくりと頷く母。ユマ叔母さんは母さんの妹で、プロのチェリスト。海外で生活していてもう随分会ってないけど、母さんとは似ても似つかない、明快な人だ。なんで、ユマ叔母さんがでてくるんだ?

「ユマも同じだったの、頭で音が鳴るって言ってた」
「えっ……」
「あの子は天才だった。あたしとは全然違う、感性で音楽ができる子」

防音室に飾ってあるおばあちゃんの肖像画を、じっと見つめる母さん。

「律も……絶対そうなのよ。感性で音楽ができる子」
「俺はちがうよ」
「それはきっと、あたしのせい。律の感性を潰しちゃった」

いつもの「そんなことないよ」待ちかと思ったけど、母さんはめずらしくこちらを覗うことなく、話を続けている。

「あたしができなかったこと、きっと律にはできるんだって思ってたはずなの」
「……うん」
「それがいつの間にか、できるようにしなきゃ、なんでできないの、もっとやらせなきゃって」


「ごめんね……律。全部母さんが悪いの。ずっと……ずっと、ごめんね」


すぐに泣く母さんが嫌いだった。ピアノを弾けって言うくせに、目をつむって眉間にしわをよせて聴いてる母さんが嫌いだった。ピアノの話のとき以外、大して俺を見てない冷たい目が嫌いだった。ピアノを弾いてるときの母さんは幸せそうだった、だから余計に嫌いだった。

「……ピアノは……もうやらないと思う。でも、ぜんぶを恨んでるわけじゃないから」

ピアノがなかったら、俺はきっと夏輝くんへの気持ちに気付けなかった。いやもっと前……あの音が鳴らなかったら、たぶんお試し三か月なんておかしな提案にものらなかっただろう。夏輝くんと始まりさえしなかったかもしれない。

母さんの目が、こわいくらいに真っ直ぐ俺を捉えている。唇をぎゅっと噛みしめて、とても母親らしくない情けない顔で見ている。

「ごめん……ごめんなさいっ……」
「……春休み、ちゃんと話したい。父さんと三人で」

嗚咽をもらした母さんが頷いた。何度も何度も頷いている。

もう手遅れかもしれない。でもそれならそれで、いいと思えた。このままでいるよりずっといい気がした。

「………本当に……全部、夏輝くんのおかげなんだ」

いつか幡野先生が言ってた言葉、いまならすんなり心に落ちてくる。わからなくても、わかろうとすることが大切なんだってやつ。

わかりたいって言ってくれる人がいる。それだけでこんなにも心強いことを、俺はずっと知らなかった。

「だから、いつか……わかってほしい。わかってくれたら嬉しい」

泣きやむ様子のない母さんだったけど、俺のその言葉には、ふっと息を漏らしていた。

「……あんなラブソング聴いたらわかるわよ……」
「え?」
「あんなの律に書かせるんだもん、たくさん愛してくれる人なのよね」

「……母さん、ほんとに言語がピアノなんだな……」

母さんだって十分、感性で音楽やってけるよ、ほんとに。

「いつか、あなたたちがいいって思ってくれたら……ちゃんと謝らせてちょうだい」


その夜、日付が変わってしまうくらいの時間なのに、夏輝くんはすぐに電話にでてくれた。なんかきっと、すぐ気づくようにしてくれてたのかなとか、自惚れたりした。
「がんばったね」って球技大会の日みたいに褒めてくれたとき、ああ電話でよかったぁと心底思ったり、した。

『母さんが、いつかちゃんと謝らせてって言ってた』
『ええ!いいよ、謝られるようなことないし』
『……夏輝くん、仏だよね』
『ほとけ!?』

夏輝くんってほんとにすごい人だ。ゾンビみたいだった俺を、こんなにも無敵にしてくれるんだもん。



卒業式の予行練習がはじまった。はじまってしまった。
明日、夏輝くんはこの学校を卒業する。

「ナツ先輩って大学どこ行くの?」

名前順では真逆のところにいる有馬は、ちょうど俺の真ん前のパイプ椅子に座っていた。足を横に投げ出して、そんなことを聞いてくる。

「旭台の文学部だって」
「うわまじ!?俺もそこ狙ってんのよ!」
「ばか、お前声でけーよ」

反対側に座る先生たちが、声の出所を探して立ち上がっていた。有馬はぴっと前を向いて座り直している。こういうところ真面目なんだよなぁ……。

「結木も旭台行くの?」

今度は顔は前を向いたまま、背をやや後ろに傾けて小さな声でそう話しかけてくる。あとで教室戻ってから話せばいいものを。

「……わかんない」
「そっか~。ライバルになっても手加減しないからな?」
「お前に勝てるわけないだろ」

運動神経抜群、成績優秀、品行方正……こういうときの無駄話はちょっと減点かもだけどな。
対して俺は、部活をやってるわけでもなければ、赤点がまったくないってわけでもないし、先生に気に入られるようななにかがあるわけでもない。指定校を貰えるのは、どう考えても有馬だろ。

「俺さ、ライターになりたいの。音楽ライター」
「……は?音楽?お前が?」

言葉にしてから、結構失礼なこと言ったなと思って、一言ごめんと続けた。でもこんなスポ根だぞ?なんでそれで音楽……イメージになさすぎる。

「バスケも楽しいし、たぶん上手いほうなんだろうけど?でも俺はやっぱ音楽が好きなんだよ」
「へえ……有馬が音楽……」

思い返せば、やたらと俺のピアノに興味を示してくれていたのは、そういうこと?

「クラシックが好きなの?」
「いや~色々!結木のピアノ聴いてからクラシックもよく聴くようになったけど」
「……俺の?」
「?うん?」

気持ち悪いくらい真っ直ぐな奴が、俺のピアノを聴いて、それからショパンを聴いたりしてるわけだ?……ふうん。

「それはさ……ちょっと嬉しいわ」
「!?お前やっぱなんか変わったな!?」
「ばっ!!」

「有馬!結木!静かにしろ~」

馬鹿野郎……!!しかも名指しかよ!!

「最っ悪……!」
「ごめん~」

ごめんじゃねえよ、夏輝くんに聞こえてたらどうすんだよ!かっこわる!!


全体練習が終わって、体育館から教室へと戻る渡り廊下。人波のなかに夏輝くんの後姿を探すけど、たぶんいないんだろうな。夏輝くんがいる場所は、もう一目でわかるからな。

「あ、先生に怒られてた結木くんじゃん」
「ひっ!?」
「ナツ先輩、ちわーっす!」
「ちわ。有馬くんも怒られてたね」
「すんません!!」

いやいやいや、いいの?夏輝くん?みんな見てるよ…!?背後から回された長い腕を、それとなく振り解こうとしても、なかなかそれが許されない。

「律?どうかした?」
「や、だって……いいんですか」
「?なにが?」
「みんないるのに」

そう後ろを振り向いたとき、鼻をぎゅっとつままれた。夏輝くん、すごい楽しそうに笑ってやがる。

「なづぎぐん!」
「はははは!見て有馬くん。鼻ちっちゃくてかわいいね」
「いやあの、いちゃいちゃに巻き込まないでください……!!」

おい有馬ぁぁぁ!!いちゃいちゃとか言ってんな、夏輝くんに迷惑が……

「かわいいな~律~」

…………終わった……。

なにこの人、抱き締めてくれちゃってんの、え??どういうあれで??きゃあって声、聞こえたもん。絶対見られてるもん。いいんか、この人。最後の最後にこんな汚点残して……。

結局そのまま教室まで見送られ、とにかく帰りのHRまでずっと有馬にガードしてもらって過ごした。どんな顔したらいいかわかんないし、言っていいのか夏輝くんに確認とってないし……。

もう!!夏輝くんのばかやろう!!いいか悪いか先に言ってからああゆうことしろよ!!


「……伴奏……?」
「そう。弾く予定だった子ね、病院行ったらインフルだったんだって」
「いや……俺ぇ……?」
「もう明日だしさ。律くんしかいないと思って」

幡野先生は目を糸みたいに細くする。でもその顔が鬼になるのを俺は知っているし、なによりバレンタインコンサートではとんでもない無礼をはたらいたわけだから、そう極端に拒否することもできない。

「頼めないかなぁ」

……明日の卒業式。在校生から送る歌。たぶん弾けるよ、弾けるけどさ……。

「俺、泣いちゃうよ」
「あっははは、律ほんとおもしろ~」
「なんもおもしろくないですけど」

結局引き受けてしまった伴奏の件。帰り道に夏輝くんに報告したら、それはそれは無邪気な顔で笑われた。俺はこんなにも情緒がおかしなことになってるっていうのにさ。

この制服で隣を歩くの、もう今日で最後じゃん。明日はきっと友達と帰るよな、最後だもん。センチメンタルにもなるでしょうよ。

「ていうか夏輝くん。学校であんなのいいんですか」
「ああ、バックハグ?」
「なんて言い方を……まあそうですけど……」
「えっだめだった?」
「だって夏輝くんに迷惑かかる…」
「なんでぇ」

こんなぬぼっとした冴えないやつが相手だなんて、きっと夏輝くんのファンの子たち卒倒するよ。最悪って罵られても俺、甘んじて受け入れるもん。

「湿度高いし、冴えないし、能面みたいだし」
「能面!?」

中学のクラスメイトが社会科の授業中、教科書を持ってそう言ったのだ。『これ、結木に似てね!?』ってな。

「うける、能面……」

やっぱりそう遠くないみたいだ、夏輝くんまだ笑ってやがる。

「でも俺、律の顔好きなんだけど」
「は……?」
「能面か、ちょっと調べてみよ。俺能面にときめくのかな」
「いやいやいや……」

この人、ほんっと変だよ。
俺の顔が……顔……ええ………??

「ええ、能面より律のが全然いけめんじゃん」
「なっ……!?夏輝くん……」
「ん?」
「すき……」

ばかだなぁ、もう、俺。真に受けちゃって、はっっず。

「俺も好き〜だいすき〜」

甘くってでろでろで、とけちゃいそう。しあわせだなぁ俺。今人生のピークだな、これ。

ぎゅっと繋ぎ合わせた手をぶんぶん振り回して、夏輝くんと俺の最後の制服デートは、夕焼けの赤に消えてく。