夏輝くんとの(仮)の関係が終わって、俺の情緒はおそろしいほどに落ち着いていた。

「結木、今日部活に神山先輩くるけど、お前も顔だす?」
「ぜっったいやだ」
「?お前かわいがられてたじゃん。この前も会ったんだろ?」
「偶然な」

神山先輩はなんにも悪くない。わかってるそんなことは。でも会いたくないもんは、会いたくない。「ナツは元気?」とか平気で聞いてきそうなんだもん、あの人。

同じ学校とはいえ、学年が違えば教室のフロアも違うわけで、しかも夏輝くんたち三年生はもうあまり学校にも登校しないから、本当に顔を合わせる機会はないまま。

偶然見かけたら挨拶くらいはできると思ってたけど、それもできないまま、夏輝くんは大学生になるらしい。……ああ、卒業式があるか。でもまあ、あの人気者だからな。卒業式に身体が空くことはないだろう。

あの日からずっと、俺の頭は静かだ。なんにも鳴らない。それも夏輝くんと出会う前に戻っただけのことだ。あの期間が異常だっただけ。すじこと鮭のおにぎりを食べて、第三棟の音楽室までわざわざ出向くのも、今までと同じ。ただ隣に夏輝くんがいないだけのこと。

「ああ、律くん。今日も?」
「はい……というかすみません。曲まだできてなくて」
「いいのいいの。焦らなくていいから。気軽な演奏会なんだしさ」

幡野先生は目を糸みたいに細くして、錆びれたピアノでショパンを弾いた。

「……先生は、ショパンの気持ちがわかるんですか」
「ええ?ちっともわからないよ?」
「え」
「ああでも、遺言の話は同情するけどね」
「出版されてない作品は捨ててほしいってやつですか?」
「そうそう。僕たちはおかげで名曲に出会えたわけだけど、ショパンの身になったら、不憫だよね」

幡野先生ががたんと席をたって、俺の方へ近づいてくる。

「じゃあ鍵ね。終わったら職員室へ」
「……はい。ありがとうございます」

ショパンの死後、彼の遺言は叶えられず、未出版だった作品は友人のフォンタナの手によって世に出る。

俺はこの話、ショパンのかまってちゃんなのかと思ってた。あんな名曲を捨ててくれだなんて、壮大なフリかよ、とか。けど、幡野先生はそれを不憫だと言った。それでその意味が、今はちょっとわかる……ような気がする。

誰にも気づかれず、捨てたいものってあるんだと思う。それが他人からみてどんなに綺麗なものだったとしても。

「……はあ…」

きっとあの日の夏輝くんも。ひっそり捨ててしまいたかったんだ。誰にも暴かれることなく。

でも俺はそれを暴いてしまったあげく、「捨てなくていいんじゃないか」とか言っちゃったわけだ。無神経すぎて反吐が出る。ていうか普通に、恥ずかしい。

自然と指が動いてしまう。夏輝くんが好きだって言ってたバンドの曲。

そんなものばかり弾いたって、俺の曲は完成しないし、誰にも届かないのに。夏輝くんはもう、ここにいないのに。

「ばかみたいだな……」

音が、鳴らない。


幡野先生の音楽教室主催のバレンタインコンサートが、すぐそこまで迫っていた。

「有馬~」

部活に向かう途中の有馬の背中を呼び止める。前から言われていたから、一応、な。

「お!結木!」
「演奏会やるよ」
「ん!?」
「前に次は誘ってって言ってたじゃん」
「え、まじ!?まじで誘ってくれんの!?」

なんだよ、まじじゃなかったのかよ。律儀に誘っちゃったじゃねえか。

「いややっぱいいや」
「なんでなんでなんで!?」
「うるさ……社交辞令だと思わなかったんだよ」
「いや社交辞令じゃないんだけど!?」
「……二月十四日。十一時からだけど」
「バレンタインじゃんっ」
「予定あるなら別に……」

じとっとした目で俺を睨む有馬。

「ないですけど?悪いですか?」
「お前最近カツカツだな」

彼女欲しいなら作ればいいのに。ああ、違うのか。この男、変わった性癖なんだった。

「結木のピアノさ、一回ちゃんとしたとこで聴いてみたかったんだよね」
「大したもんじゃないけどな」
「よく言うよ、楽しみにしてるな!!」
「……ん。よろしく」

有馬がどうして俺のピアノに興味をもってくれるのかは、いまだによくわからない。でもあいつの気持ち悪いくらい真っ直ぐな言葉は、俺の枯れ果てた自己肯定感を、ほんの少し潤してくれる。まあとりあえずやってみるか……くらいの気持ちにはさせてくれる。

あと少しのところで、まだ足りない俺の音楽。頭の音が鳴らなくなってから、その続きがずっと書けずにいる。何度書いてもなんとなく堂々巡りみたいな音になってしまう。……それでこういうことをうまく言語化できないから、先生にもアドバイスもらえないっていう、俺の悪いところな。

冬山……久しぶりに行ってみようか。『冬山なんて危ない!』って母さんが騒ぎ立てる姿は想像に容易いし、そうなると母さんが仕事の日にこっそり行って帰ってくるしかない。往復の時間を考えると、白岳山か三代山が妥当。三代山、今なら氷瀑みれるかもしれないな。

………山、なぁ……。


「さっっっむ……」

地元から二時間。降り立った真冬の海岸は、当然冷たい風がびゅーびゅー吹き付けて、寒いったらない。

どうしてわざわざ……でも、山じゃなかった。こんなこと初めてだ。よっぽど海に魅せられてしまったのか、俺は。

ぺとぺとと、なるべく濡れた部分の砂浜を歩いてみる。それでもやっぱりスニーカーのなかには、どんどん砂がたまっていく。

はあ……きもちわるい。

この辺りで知っている場所といえば、この海岸と島原水族館だけだ。

「おとな一人」
「二千百円です」
「ペイペイで」

ちゃりん、という電子音で我に返ったけど、もう遅い。

ほんとに俺、なにやってんだろな……。

「エポ…レットシャーク…」

エポーレットシャーク!とはしゃいでいた夏輝くんの顔が思い出される。夏輝くんの言うとおり、普段はあまりでてこないらしい。自分じゃ見分けがつかなくて、飼育員さんに聞いたらそう言われた。

夏輝くん、やっぱり飼育員さんじゃん。「岩場に隠れがちで~」って物言い、まんまだったぞ。

「イルカショー開演まであと十分で~す」

陽気な声に誘われそうになったが、これはやめとこ。今日濡れても着替えとかないし、カッパ買うのも馬鹿らしいし。またべとべとになるのは勘弁だ。

「くらげ……」

なんか言ってたよな夏輝くん。めずらしいクラゲがいるって。ああ、なんて名前だったかな……やばい全部そうっぽく見える。

あーあ。一人できたら、なーーんにもわかんないや。


結局、そううまくはいかない。当たり前だ。夏輝くんに会うまでだって、ずっとそうだった。

朝の海岸を散歩して、水族館に一人で入って、また夕暮れの海岸を眺めてみたって、音は一つも鳴らない。むしろ日が沈むときの真っ赤な海岸は、夏輝くんが隣にいないと普通に嫌いな赤だった。

赤はいやだ。なんとなく、終わりを連想させる。

夏輝くんは、今頃どうしてるんだろうか。まあ普通に、引越しの準備とか入学の準備とかか。

髪の毛、染めたいって言ってた。あの綺麗なつやっつやの黒髪、ちょっともったいないのに。ピアスもあけたいって言ってたっけ。俺にあけろって言ってたけど、その約束はまだ有効なんだろうか。ピアス……俺もあけたいなとか、思っちゃってたんだけど。

…………いや……いやいやいやいや。おれ、普通にきもくね……?

帰ろう、いますぐに。早急に現実へ。

慌てて帰りの電車に飛び乗った。……夕暮れ時の海は危険すぎるな。



そういえば今日は、あの魔法みたいな空にならなかった。マジックアワーだっけ。

条件があるのか調べてみようとスマホを手にしたが、『わかりやすく解説!』っていうページの冒頭でつまずき、そっとページを閉じたとき。

最寄駅の一つ前の駅に電車がついた。二つくらい向こうのドアから入ってきた人は、とてもオーラがあった。ごく自然に、そっちを向いてた。


………夏輝くんだ。


久しぶりにみた夏輝くんは、黒いマフラーを巻いてた。髪の毛は変わってなかった。左手の人差し指に指輪をはめてた。隣には、夏輝くんよりも少しだけ背の高い男の人がいた。

神山先輩だった。

『ソウジくんのばかーっ!!キスくらいさせろーっ!!』

あの日、そうやって叫んでたもんな。よかったね、夏輝くん。高身長同士、お似合いじゃん。

家に帰ったら、母さんはまだ仕事から戻ってなかった。ちょうどいいや、防音室こもれる。

音が溢れてとまらなくなった。

欠けてたところ、ようやく埋まりそう。いつも弾いてて思ってた。盛り上がりのない俺の曲。なんかわかった気がする。

「………できた」

早朝四時。やっと、できた。俺の曲。

音でぐちゃぐちゃだった頭のなかが、すっと晴れた。



「……ねえ律くん。これ、本当にあなたが?」
「え、はい」
「お母さんにはみせた?」
「いえ」
「そう……」

幡野先生(奥さんのほう)は、困ったとき口元に手をもってく癖がある。今もそれだ。だめっぽいな。

「律くん、これ演奏会で弾いてくれるのよね」
「先生がよければですけど」
「うん。最高。すっごく。楽しみにしてるわ!」

あ、そっち?最高のほうのやつなの??

「よかった……がんばります」

……うん。がんばろう。

バレンタインコンサートの日、母さんは仕事が終わり次第行くと言って、いつもより随分早くに休日出勤していった。そこまでしてこなくたっていいのに。俺は母さんの望むものにはなれないって、言ってるのにな。

「結木~!」
「あ、有馬」
「なに、すんごい決まってんじゃん!」
「そりゃ演奏会だから」
「かっけー!!ちょ、写真とらね?」
「やだよ」
「なんでだよっ」

決まってるって言ったって、コンクールじゃないしそこまでかちっとした服装じゃない。ただカッターシャツにジャケット羽織ったくらい……あ、髪か?さすがにぬぼっとしたいつもの感じじゃ失礼だから、多少流したりはしてるけど。

でも普通に、有馬のジャケット姿のほうが決まってる。……背が高いって、やっぱずるい。

「がんばってな!」
「おう……?ありがと」

有馬となぜかグータッチを交わし、ステージ裏へと向かう足取りは少し重い。先生は褒めてくれたけど、自分の曲を人前で演奏するのは今日がはじめてだから、やっぱり多少は緊張する。

でも、できたんだ。やっと。俺の、俺だけの音楽が。

スポットライトを浴びるのは、不思議と嫌いじゃない。俺とピアノだけに視線が注がれる時間は、結構特別に感じたりする。

『次はOBの結木律くんです。曲は、自身で初めて作曲に挑戦した「マジックアワー」』

ぺこっと頭を下げると、観客席から拍手が浴びせられる。それがやんで静まり返る会場に、俺が椅子を引くぎぃっという音が響いた。

この瞬間。俺が鳴らす一音で、この静寂を破る瞬間は、何年経ってもかわらずドキドキする。



ピアノは、いかに『俺』という人間が薄っぺらなのかを、何度だって突きつけてきた。譜面通りに弾くんじゃだめ、あなたなりの解釈は?どうして今、その音なの?……そんなん、しるか。

バッハ?モーツァルト?シューマン?ベートーヴェン?知らない、知らない。会ったこともなければ、同じ時代を生きたわけでもない。

同じ家に住む血を分け合った家族のことさえわからないのに、わかってくれないのに、太古の偉人の気持ちを汲むことなんて、できっこないだろ?

だけど、わかろうとすることが大切なんだと、幡野先生が言ってた。理解したいと思うことが、想像してみることが、大切なんだと。……さっぱりわからなかった。俺はバッハのことをわかりたいとも、知りたいとも思わない。バッハの音楽はそのままで素晴らしいのに、どうして俺なんかの解釈をいれるのか、さっぱりわからなかった。

ああ、なんか俺、欠落してんだなぁと悟った、中一の冬。母さんの眉間には深いしわができていて、父さんはまるで逃げるように、ヨーロッパの山に旅立った。

人として、たぶんすごく重要らしいなにかが欠落してる俺に、夏輝くんは何度も『やさしい』と言ってくれた。……ほんと、人たらし。あの人寒がりなのに、空調入ってない音楽室に、毎日毎日付き合ってくれた。やさしいのはどう考えても、夏輝くんのほうだ。

魔法みたいな色の空、マジックアワー。

あのとき俺、実はちょっと期待しちゃってた。

繋いだ手、ずっと離してくれなかったから。いつも引くくらい俺の顔のぞきこんでからかってくるくせに、あのときは、目、真剣だったから。いつだって俺よりひんやりしてた手が、ずっとあったかかったから。

でも、手は一瞬で離れた。どうせおわりなら、もっとすぱっとさくっと終わらせてくれたらいいのに。律儀に夜ごはんまで予約してくれてるしさ、そんなの、思い出にいらないんだよ。

……ていうかもしかして夏輝くんは、俺を思い出にもしてくれないのかもしれない。あっという間に忘れ去られて、神山先輩とか他の誰かにぜんぶ塗り替えられちゃうのかも。

あの二人が並ぶと、まるでモデルみたいだった。背が高くて、顔がしゅっとしてて、爽やかでからっとしてて。

わりと俺を肯定してくれる有馬にさえ、『湿度が高い』と言われている俺なんかじゃ、到底むりだ。夏輝くんにカビを生やしてしまいかねない。だからあれでいい。あるべき姿、あるべき場所に戻っただけだ。


なのに俺のなかにはずっと、濃い霧がかかったみたいな気持ちがある。その正体がわからなくても、この気持ちがなんとなく無様なことだけはわかってた。


こんな旋律を書けるのかと、自分でも驚いた。初めて浮かんだ、こんな感情的なの。

弾いてて、息がくるしくなる。心臓握りつぶされてるみたいに、ぐうって痛くなる。

まるで自分じゃないみたいな音楽。

夏輝くんは、俺にいろんな感情を与えてくれた。それはずっとわかってて、でも、こんなみじめな感情まではいらなかったのになって、ちょっとだけ恨んでる。

それもここで発散すれば、昇華すれば、きっとぜんぶ元通りになる。いらいらしたり、じめじめしたり、情緒不安定にならなくてよくなる。いつもの俺に戻れる。



…………あれ。この音じゃ、ない。

頭で鳴ってるの、この音じゃない。



ほんの一瞬、指がとまった。

『レ』夏輝くんのレ。なんの変哲もないただの『レ』。何度もたしかめるように、それを弾いた。

なんの変哲もないただの『レ』、レの音。


なんでこんなに、特別な音がすんの?


脳裏によぎる、あの日、夏輝くんにチューリップのうたを弾いてあげたときのこと。これなら弾けそう!ってうれしそうに、俺の指についてきた夏輝くんの長い指。

予鈴鳴っちゃって、慌ただしく教室に戻っていたとき、階段から転げそうになった俺を、いとも簡単に抱きとめてくれたこと。

ステージの隅に飾られた赤い花。赤。俺の嫌いな色。あの日、真っ赤な夕焼けと海を背負った夏輝くんは、綺麗だった。ずっと見てたいと思った。それでこのまま、閉じ込めておきたいと思った。

ずっと、あのままがよかった。



――……そっか。俺があのままがよかったんだ。


俺は、夏輝くんのとなりにいたかったのか。



演奏の途中で席を立った。客席に向かって勝手に一礼をした。この先は俺が鳴らしたい音じゃない。まだ俺は、なにも、一つも夏輝くんに伝えてない。

案の定、拍手してくれたのは一人、二人くらい。でもそれでよかった。勝手したことはあとでちゃんと幡野先生に謝ろう。

今日の天気は午後からの雪予報。どんよりとした空の色が、いまにも雪を降らせそうだった。なのに俺は、ばかみたいだ。ジャケット姿のまま、会場を飛び出していた。

はやく、夏輝くんに伝えたい。さむいってわかってる。でも俺の足は、鼓動は、止まってくれない。俺は恋すると、走り出したくなるタイプだったらしい。足遅いくせにな……。

『夏輝くん!』

三コール鳴る前に繋がった電話。もしもし、と電話に出てくれた夏輝くんの声は、少しかすれているようなかんじがした。

『夏輝くん、いまどこ?会えない?』

なんて一方的なセリフ。痛々しくってもう、目も当てられない。わかってるのに、とめられない。身体も心も、自分のものじゃなくなったみたいだ。

履きなれない革靴の音が、冬空に響いていた。

『律!』
『……えっ』

コツコツという革靴の音は、どうやら俺のものじゃなかったらしい。その音がどこから聞こえてくるのかも理解できてなかった。

振り向いた視線の先、夏輝くんがいた。


「なっ、えっ!?なんで?」

白いタートルネックのニット姿の夏輝くんは、ホールの入り口に立っている。あんまりにも儚げな雰囲気と信じがたい光景に、まじで幻覚かと一瞬疑った。

「有馬くんが誘ってくれたんだよ」
「ありま……?」

なんでそこで有馬がでてくるんだ、とハテナを浮かべてすぐに『総二くん』が思い浮かぶ。

「そうですか」

……じゃなくて。拗ねるな俺。言うんだろうが。

「律」「夏輝くん」

だあっ、声被った。

いつもなら先にどうぞって言うだろうな。でも今日は言ってあげられない。なんかきっと、ろくなこと言われない気がする。夏輝くん、そういう雰囲気ぷんぷんさせてる。ちょっとよれよれしてるし。

「夏輝くん、俺、」「演奏っ」

な、めずらしい……。お互いに譲らないなんて、今までにないパターンだ。たぶん夏輝くんも同じこと思ってる。目、まんまる。

「演奏、よかった」
「あ、はい……ありがとうございます」

冷静に考えてみれば、あの曲、あの演奏、夏輝くんに聴かれてたって結構まずいな。題名『マジックアワー』ってまんまじゃん。はっっっず。

「……いや!よくないですよ。俺途中で弾くのやめちゃった」
「ね。びっくりしたよ」
「……夏輝くん、俺、」
「待った」
「むがっ」

夏輝くんの大きな手に口を覆われてしまった。なんだよもう!はやく言いたくてしょうがないのに……。

「……言わないで」

………は?

「律のこと好きだよ」

……………は??

「だから律には、普通に幸せになってほしい」

………………はあ????

「ふぁふきくん」
「あ、口、ごめんね」

ようやく夏輝くんの手から解放された口元に、きんっと冷えた空気を感じる。いまの、あったかかったんだなとか思ってしまった。

「待って、普通にってなに?」
「普通に恋して、普通に幸せになってってこと」

……やばい、夏輝くんの言ってる意味ぜんぜんわかんない。

「俺が夏輝くんを好きなことは、普通じゃないの?」

今まで史上、いちばんわかんない。普通ってなんだかもわかんないし、俺の幸せは俺が決めることだろ。

それに俺が普通じゃないって言うなら、夏輝くんだって大概だ。お試し三か月で恋してみようとか誘ってきたの、そっちだろ。どう考えても普通じゃないよ。

「……律は恋愛経験ないから勘違いしちゃってるんだよ」
「はあ?ばかにしてる?」
「してない」
「俺は夏輝くんが好き、以上」
「おわらないで~」

そうやってすぐ気の抜けた喋り方するの、好きだよ。

「律の隠れファンが多いの、球技大会のとき知ったんだよね」
「あれただの冷やかしですよ、ださかわいいってやつでしょ」
「かわいいもん律」
「はあ?夏輝くんのほうが全然かわいい」
「………なんの話してんだこれ……」

口に詰め込みすぎな食べ方、かわいいよ。神様によろしくって言う男子高校生、夏輝くんくらいでしょ、かわいいじゃん。

「だから、俺が夏輝くんを好きだって話ですよ」
「ちーがーうー」
「なんもちがくない。てか俺の演奏聴いてました?わかりますよね、聴いてたなら」
「……わかりません、ぼく芸術肌じゃないので」
「ふざけないで」
「すいません」

そのしゅんっとした迷子の子犬みたいな顔、好きだもん。目が離せなくなる。わかんねえな、これじゃだめなの??

「……男同士じゃん」
「まあ、はい」
「俺、総二くんにキスできないって振られたんだよ」
「そうですか」
「やっぱり男同士は男同士だったって」
「へえ」
「え、律、聞いてる?」

聞いてますよ、一応ね。でもまじでどうでもいい。神山先輩の話、今する必要あんのか。苛立ってしかたない。

………ああ、ちがうな。違うんだった。また俺の悪い癖だ。一人で突っ走ろうとしてる。相手に聞く余裕をもてって、前に自戒しただろうが。

夏輝くんの不安げな顔をみて思い出した。

「……聞きます、どうぞ」
「律も、きっといつか思うよ」
「?」
「かわいい女の子のほうがいいって」
「……なっ、はあ……?」

落ち着け。この人の言ってること全然わかんないけど、とにかく落ち着け。ここでがーっとなるのはきっと違う。考えろ俺。夏輝くん、なにが言いたいんだ。俺にどうしてほしいんだ。俺のこと好きって言ってくれたじゃん。

普通……普通の幸せ……恋……女の子……?

え待って、この人もしかして、海岸で神山先輩が彼女といたの見て、そういうこと言ってる?俺もああなるよってことが言いたいのか??でもそんなの……

「そんなの、夏輝くんだって一緒じゃないですか」
「え?俺は女の子は……」
「そうじゃなくて」

男とか女とかじゃなくて、俺以外に目移りするって意味だよ。

「夏輝くんだって違う人好きになるかもじゃん。女でも男でも」

そんなの気にしてたらキリないじゃん。

「それは……まあ……そうかもだけど」
「俺のこと信じてほしいんですけど」

あーあ、あの意志のある目はどこいっちゃったんだ。すっかりしょぼくれて、かわいいことになっちゃてる。

「信じてないとかじゃなくてさぁ……」

だいたい夏輝くん、普段は後先考えずに行動するくせに。なんで今は理性的な大人みたいな顔しちゃってんだ。あれか、恋愛上級者だからか?先輩風吹かしてるのか??さっきもなんか『恋愛経験がないから~』とかばかにされたもんな。

曇り空からは、とうとう湿った雪が降り出していた。
夏輝くんはタートルネックを鼻まで被せて、いやに顔色が白い。

「上着、着てくださいよ」

夏輝くんがずっと右脇に抱えていたダウンジャケットを着せようとすると、全力でそれを拒まれた。

「律が着な」
「いや、いいです」
「律が着ないのに俺が着るとかない」
「なに言ってるんですか、風邪ひきますよ」
「身体は丈夫なほうです」
「いーから、着てって」

頑なに着ようとしないじゃん、もう。
奪い取ろうにも、俺の貧弱な身体ではこの人に力で勝てるわけもない。

まじで、寒い。そろそろほんとに寒い。

夏輝くん、もう一回言ってよ。好きだって。そしたらもういいよ、ホール戻ってあったまろうよ。このままじゃ戻れないよ。

「夏輝くん」
「ん?」
「俺、これでも考えました。人の気持ちとかよくわかんない……ていうか自分の気持ちも鳴らしてみないとよくわかんないけど、でも夏輝くんのことはわかりたいって思ってます」

バッハもベートーヴェンも父さんや母さんのことだって、わかりたいなんて思ったことはないけど。

でも夏輝くんのことはできればぜんぶ、わかってあげたいって思ってるよ。……希望な、希望。

「だから、ちゃんと教えてほしい。俺にどうしてほしいのか」

たぶんきっと、俺の能面面だと伝わりにくいんだろうなとは思ってる。それに加えて言語化が壊滅的だし。なに考えてるかわかんないってのも、言われ慣れてる。

でも、夏輝くんには俺のことわかっててほしい。だからどれだけかっこ悪くても、ちゃんと伝えたいって思ってるよ。

それじゃだめ?信じられない??

「好きだよ夏輝くん」
「……おれだって、すきだけどさぁ……」

夏輝くんのタートルネックの首元を引き寄せた。そうしないと、悔しいけど届きそうもなかった。

「!?」

氷みたいに冷えた唇。やっぱ寒いんじゃんか。……でもなんか、思ってたのとちがう。これ氷みたいなのたぶん、夏輝くんだけじゃなくて、俺もだ。

夏輝くんはうっかりぽろっと落ちてしまいそうなくらい、目を見開いてた。ふふ、傑作。

「考えるより先に行動しちゃうのが、夏輝くんのいいところじゃないんですか?」

ざまあみろ。いつまでもぐちぐちしてるからだ、俺だってこれくらい……これくらい、余裕なんだからな!


「な、なに……律っ!!」
「はぁい」
「なに、なにして……」
「神山先輩はキスできないって言ったんですよね、俺はできますけど」
「それは口で言ってくれればいいだろ…!」
「『口』でいいました」
「そうじゃなくて!!」

かわいい……こんな慌ててる顔、はじめて見た。いっつも俺がそっち側だったのに、ちょっといい気味だ。

「好きです夏輝くん」
「……はい」
「俺と、ふがっ」

なに!?また!?意味わかんないけど、俺の息でちょっと手あったまったりしたらいいなって、はーっと口をあけて息を吐いてた。

「言うから……どうしてほしいか。てかまじかっこわる~…」

……あ、この目。いつも俺がかなわない、この意志のある目。大好きな目。

「俺と、付き合ってほしいです」

湿った雪が、夏輝くんの長いまつ毛にじわっとついては溶けてく。それがあんまりにも儚くて綺麗だったこと、きっとこの先雪が降るたびに、思い出すんだろうな。

「……はい!」

あーーさっっっむ!!!