年が明けて二日。夏輝くんと会うのは終業式の日以来だ。
「あけましておめでとう」
「おめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
「こちらこそ~」
「というか、ほんっとうにすみませんでした」
「あは、クリスマス?」
「です」
俺でも知ってる。恋人たちの一大イベント、クリスマス。(仮)とはいえ、夏輝くんと俺も一緒に過ごす約束だったんだ。なのに、俺ときたら……。
「風邪は誰でもひくよ、しゃーない」
「すみません……」
前日に四十度近い高熱を叩きだし、予定をドタキャンする始末。夏輝くん、イルミネーションが綺麗なイベント探してくれてたのに。本当、自分で自分を呪った。
「律の弱った声聞けたのはレアでしょ」
「弱ったって……俺よく覚えてませんし」
「なのにわざわざ電話くれるなんてね〜?」
にやりとわざとらしく見つめられると、ぐうの音もでない。俺が一番びっくりしてる。意識朦朧とするなか、まさか夏輝くんに自分から電話してるだなんて。恥ずかしすぎて消えたい……。
「ほらお賽銭用意しときな?もうすぐ順番だよ」
「……ハイ」
財布にたくさん入れてきた小銭から、五円玉を一枚とって、ようやく目前に見えてきた賽銭箱に狙いを定めた。
行列に並ぶ間も結局夏輝くんと話してて、お願いごと決められなかった。そもそも、神頼みってあんまり好きじゃないし、でも夏輝くんは毎年ここへ参拝するっていうから……。
「どうしよ、夏輝くんもうお願いごと決めたんですか」
「え?ううん」
「え!?」
「お願いごとって俺ないんだよね~だから今年もよろしくっていつも言ってる」
神様に今年もよろしくって言うの……??……ふうん……?
「俺もそうしよ」
「律はお願いごとあるでしょ」
「え?」
「背が伸びますように」
な……っ!?そのいたずらっ子みたいな顔、やめてほしい。身長いじりもな。
「まだ成長期なんですけど」
「長い成長期だなぁ」
「っ!自分がちょっと背が高いからって……」
「んん?なんだって??」
最近の夏輝くんは、ちょっと意地が悪い。意地悪っていうより、意地が悪いってかんじだ。
「背が伸びますようにっ」
やけくそに俺が口に出すと、夏輝くんは「声にだしたら叶わないんじゃない?」なんてしれっと言いやがる。
本当に、本当に……っ!!
「意地が悪い……!!」
「いじわるって言わないとこがかわいいんだよな〜」
何食わぬ顔で、なんてこと言ってるかわかってんのか、この人??
背が高いほうではないとはいえ、もうすぐ170cmだぞ、別に特別小さいわけでもない。顔だってかわいい系とは真逆じゃん。いっつも冷たそうって言われる。そんなやつに。このぬぼっとした冴えない男に向かって。
かわいい、って、おかしいだろうが。
「夏輝くんはやっぱり変だ」
「あんだって?」
「変な人」
「言うじゃん、やっちゃうよ?」
なにをやるってんだ、そんな綺麗な顔して、まったく。
参拝の列を抜けて、おみくじやお守りが売っている場所まで出ると、そこは一層人でごった返している。
そんなにここに留まる理由がさっぱりわからないが、あちこちで「せーのっ」なんて浮ついた声や、鈴の音が聞こえるのだから、たぶん俺がおかしいんだろうな。
「おみくじ引く?」
「夏輝くんはいつもどうしてるんですか?」
「ひかない。むだに運使いたくないもん」
「……ふふっ。一緒」
「律も?じゃあいっか、ここ抜けて出店んとこまでいこ~」
なんか、こういうの、たまらない気持ちになる。ずっと知らない場所で知らない人と生きてきた知らない人だったのに、こう……重なる瞬間、っていうのかな。
ああだめだ、俺はやっぱり言語化が壊滅的。いつもかわりに頭のなかで音が鳴ってくれるのに、夏輝くんといるとなんだかそれもままならないし。
「え、ちょ」
「迷子にならないよーにね」
「……子どもじゃないんですけど」
「ん、俺が。俺が迷子にならないように~」
あーあ、かなわない。しかたないよな。背も高いし手も大きいし背中も大きいし、全然、迷子になったってすぐに見つけられそうだけど、まあしかたない。この人は抜けてるところあるし、危なっかしいからな。
手、繋いどいてあげるか。
三学期が始まり、いつものように第三棟の音楽室で一生どうでもいいような会話を交わしていたときだ。
夏輝くんは、いつのまにか大学に合格してたらしい。俺が聞くまで教えてくれなかったのは、ちょっと不満。
「なんで言ってくれないんですか」
「だって律、大変そうな時期だったんだもん。おまけに熱だすし」
「それは……そっか」
クリスマスの前には、幡野先生の音楽教室のクリスマスコンサートに呼んでもらっていたし、やっと身体が空いたと思えば熱を出したのは俺だ。……気つかわせちゃったな。でも一応彼氏(仮)なんだから、一言くらい報告欲しかったけど。
「リベンジしたいんですが」
「なんの?」
「クリスマスですよ!」
「ええ、リベンジって」
ずっと考えてたことだ。夏輝くんがイルミのイベントの候補をいくつも出してくれたの、たくさん調べてくれたからだろ。それ全部俺が無駄にしちゃったわけだし。おまけに大学も決まったんなら、なおさら。
「クリスマス兼夏輝くんの合格祝いです」
「いいよ、そんなの。大した大学でもないんだし…」
ぽーんと夏輝くんが鍵盤をたたく。レの音。そのあとずっと、ドレミを繰り返している。夏輝くんの音は、ドレミなんだな。
「……俺がしたいんですけど」
ドレミドレミ……チューリップのうた、弾きたいのかな。
…………あ、俺いま、なんか言った??
夏輝くんの大きな目がこちらを向いている。たぶん言ったんだ俺。とんでもないこと。心の声を。
「や、あの」
「律の食生活、まじで真似しようと思ってんだよね」
「だから……」
「ありがと。じゃあお願いしよっかな」
あーあ、もう!!夏輝くんにまた余計な気を遣わせてる!!ばか!!俺のばか!!押しつけがましい!!
「ご、ごめんなさい俺」
「なんでぇ。嬉しいよ」
「……」
そんなこと言ってくれるけど、眉毛、八の字になってるじゃん。頭ぽんぽんってやってくれるの、いつもより長いじゃん。いたたまれないんだろ、(仮)の分際でお祝いとかリベンジとかさ……。
「……きえたい…」
「はあ?なに病み期?」
「有馬……お前はいいな、快活だ今日も」
じめじめした俺とはまるで正反対……。
クラス中に聞こえそうなくらいの声量でわははと笑い声をあげた有馬に、ばしんと左肩を叩かれた。声もでかいし、力も強すぎ、こいつ。
「いって」
「結木は最近あれだな、情緒不安定だな!」
「やめろ」
女子みたいじゃんか。まあ自分で思わないこともないが……。
「もしかして、ナツ先輩絡み?最近よく一緒にいるよな」
ぎくっとした。最近、明け透けになっているのは俺も薄々感じていた。昼休みだってほぼ毎日になってしまっているし、水曜日はいつも時間をずらして帰っていたのに、三学期に入ってからは普通に同じ時間に帰ってしまっている。
右手に持ったシャーペンを無意味にくるくると回してみる。全然、なんにも焦ってませんよってアピールのために。
「ああ~ピアノ好きみたい?」
嘘では、ない。
「そうなんだ、意外だな。ナツ先輩って派手だから、結木といるの結構話題になってるし」
「もうやめろ、お前それ以上しゃべるな」
「なんで!?」
これ以上情緒乱されたくないからだよ……っ!!
「この間だって女バスの後輩が言ってたぜ。推しカプになりそうなんだって」
「?おしかぷってなに」
「な、俺も聞いた!推しのカップルだって!」
か、か、か、かっぷる………!?
明け透けどころの騒ぎじゃなさそうだ。一刻も早く夏輝くんに報告しないと……!
「なんだろな~じめっとした湿度がいいのかな~いや結局顔?」
「はあ?」
「結木の隠れファンって多いじゃん、俺もファンほしいんだよ!!」
こいつ、さっきからどうした。頭のネジ一本落としてねえか?バスケ強豪チームの主将のお前が、モテないわけないだろうが。記憶喪失??
「有馬、しょっちゅう告られてんじゃん」
「告られるのと!ファンは!ちがうでしょうが!!」
「なに言ってるのかわかりません」
「俺は付き合うとかじゃなくて、応援してほしいの!陰でキャーとか言われてたいの!」
「……変わった性癖なんだな」
「性癖じゃねーよ!」
有馬も疲れてるんだろうな、おつかれ。病み期は俺だけじゃないってことか。安心したわ。
……じゃなくて。夏輝くんに言わないと。(仮)とはいえ、バレたら絶対迷惑かかるもんな。
みんなの憧れが、こんな湿度の高いぬぼっとした男と、そんなおかしな関係になってるなんて。
「ええ、律、それはちょっと違うんじゃ……」
「え?」
「カップルってカップルだけど、その……本気のやつじゃないっていうか」
「本気と冗談のカップルがあるんですか」
「えっとなんて言えばいいんだ……?」
夏輝くんは散々頭を悩ませたあと、「コンビみたいな?」と非常にわかりやすく教えてくれた。
「なるほど、コンビ愛ってやつですね」
「うん?まあ、そうかな?」
「コンビか……それならまあ、合点がいくというか」
俺は最強の引き立て役になれてる自信がある。夏輝くんの輝きがいっそう増して見えるだろうな、俺が隣にいたら。
「でもそうだよね、律に迷惑かけちゃってるね」
「え?」
「ちょっと俺も気ぬけてた、ごめんね」
ごめんねって、別に俺はいいんだけど。困るのは夏輝くんじゃん。
「それより夏輝くん、行きたい場所考えてくれましたか」
「急に本題入るじゃん」
「あ、すみません」
だって、待ち遠しくて。よく考えてみたら、俺は夏輝くんの好きなもの全然知らなかった。クリスマスプレゼントだって、当日会って一緒に選ぶしかないって結論に至るくらい、考えてもなんにも浮かばなかった。
夏輝くんがいつも俺に合わせてくれてたことに気がついたら、いてもたってもいられなかったんだ。
「水族館、なんて、どうでしょうか」
「……水族館」
「あ、いや、あんまりなら別のところも考えてて」
水族館か……!
「俺、行ったことないです」
「え!?」
「めっちゃ行ってみたい」
「よかった~。じゃあ行こうよ」
「はい。あとは任せてください」
「え、いいよ、一緒に決めよ」
「いやいや」
「いやいやいや」
「だってこれリベンジですし、合格祝いですし」
「クリスマス任されてたのは俺ですよ」
「……いやいや」
「いいじゃん、一緒に決めるの楽しいじゃん絶対」
絶対、って言いきってくれるところがさすが夏輝くんだ。そしたらもう俺、これ以上なにも言えないもんな。夏輝くんが言うならそうなんだろうなって、納得しちゃう。
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
「甘えてこ、甘えてこ」
本当、かなわない、この人には。
家から電車で二時間。夏輝くん一押しだという島原水族館は、調べたところによると、あの白岳山から見える海の近くらしい。
たった二時間で来られるなら、もっと早く来てみればよかったな。山から見下ろすと遥か遠い場所みたいに見えるのに、案外近いもんだ。
ホームの階段をのぼり、言われたとおりの南口改札を見つけようと顔をあげたときだ。『南口』という看板を見つけるよりも先に、出口がわかった。
改札前の一番端っこの柱にもたれかかってるあの人。放つオーラが常人じゃない。俺の彼氏(仮)。
デートのときは決まっていつもそうだ。夏輝くんは絶対、改札の中で待っててくれる。俺はそれがどうしようもなく嬉しかったりするけど、それ言ったらまた大袈裟とか笑われるから、結局たぶん最後まで、言えないままなんだろう。
「夏輝くん」
「あ、おはよ~」
まだ眠いのかな、いつもより語尾の伸ばしが長い気がする。
「眠いですか?」
「いや…まあ、ちょっとだけ?」
「朝早かったですね、お昼くらいにすればよかったかな」
「違う違う。昨日あんまり寝られなかったの」
「引越しの準備?」
「ちーがーうー」
なんだ、もう。そんな勿体ぶって。オール自慢でもするつもりか?
「……今日、たのしみだったから」
………………ほう……?
真っ白な頬がほんのりピンクにみえるのは、たぶん俺の願望。それか照明のせいとか。あと今日すごい寒いし。な。
「な、な、なるほど」
なるほどって。おい俺、どもるな。なに引っ張られてんだ。
「じゃ、じゃあいきましょう、ね」
「はぁい」
結局最後に笑われるのは俺のほうだ。まったく、本当に!!
「律〜?いこ?」
マフラーに顔を埋めた夏輝くんが、俺のほうを振り返ってくれる。それで当たり前みたいに手、差し出さないでほしい。反射で握っちゃうじゃん。だってもう何度も、そうしたんだから。
「……はぁい」
どうして夏輝くんは、俺に手を差し出すんだ。俺と手つなぐの嫌じゃないの?繋ぎたいの?そんな顔向けられたら、俺、勘違いしそうになるよ。
「律!あれ見て!」
「ん?どれ?」
「あの岩のとこ、うねうね泳いでるドット柄のやついるじゃん!」
「ああ、はい、いますね」
「エポーレットシャーク!かわいくない?あの子岩場に隠れがちであんまり会えないんだよ!」
……エ、エポットシャーク?シャークってことはサメ?正直それっぽいの今目の前にもいるんだけど、たぶん違うんだよな?俺、見分けつかないんだけど……。
「あの顔がかわいいんだよなぁ」
「夏輝くん」
「ん?」
「これ……これはなに?なんとかシャークとは違うの?」
「え、うそでしょ。これトラフザメだよ、全然違うじゃん」
全然違う言われたが。え、ほぼ一緒じゃない?個体差レベルの違いじゃない??
「ほら、展示の写真見てごらんよ」
「はい」
「まず模様が違う。エポーレットシャークはこの大きい丸模様がかわいい。あとはトラフザメより小さいくてにょろっとしてるんだよ、ほら、またあそこ、でてきたよ」
「ああ……なんとなくわかるかも」
「でしょ、かわいいでしょ」
かわいいかは……別問題だけど。どちらかといえば夏輝くんがかわいいことになってるぞ。やたら詳しくて目キラキラさせて、博士ちゃんか。
「あとほら、あれ。電車で行ける範囲の水族館だと、ここでしか見れないんだよ」
「ほお」
「あのひげみたいなのあるじゃん、あれがさ……」
いやまあ、正直全部似たり寄ったりで、たぶん一人で来たらわからないんだけど。でも夏輝くんがこんなに饒舌なの、滅多にないだろう。許されるなら動画にでも収めておきたいくらいだ。
「だあっ、ごめん」
「ん?」
「俺オタク化してたね…」
いまさらしゅんとしたって、もう見ちゃったし、手遅れっていうか。
「オタクっていうか飼育員さんでしたよ」
「はっっず」
「魚類を『あの子』って言うの、飼育員さんぽい」
「魚類て……その呼び方、血も涙もないな」
「魚類でしょ、魚だもん」
「やめてよ、うちのかわいい子たちに」
「ふははは」
夏輝くん、魚が好きだったんだなぁ。それにしても、かなりマニアックな知識持ってる。小さい頃から好きなのかもしれない。さっきあっちにいた、小さい図鑑持って水槽の前に張り付いてた子に、夏輝くんの幼い頃を重ね合わせてしまう。
大きな水槽の中を悠々と泳ぐ魚たち。それを子どもたちと同じ目で追ってる夏輝くん。学校では派手なグループの真ん中にいて、いつも華やかな人たちに囲まれてる、秋風みたいに爽やかな人気者。
……俺の隣にいるときだけ、こうだったらいいのに。
「律やばいよ!イルカショー場所取りいこ!」
「そうでした、いきましょう」
ずっと、こうだったらいいのになぁ。
「ねえ夏輝くん!びっしゃびしゃ!どうしよ!」
もはや笑えてきた。なにイルカって、すっごい意図的に水ぶっかけてくるじゃん……!
「あはは!しょっぱ!」
そうか、あれ海水か。ってことはつまり……
「……べったべた」
海に飛び込んだのと一緒だもんな……。いや、なんとなく予感はしてたんだ。だって売店でカッパ売ってるしさ。でも夏輝くんが言ったんだよ。
『大丈夫大丈夫!ここならギリ濡れないって!』
……どこがだ!!
「めずらしく律が擬音ばっかり……」
「誰のせいだ」
「あは、すみませ~ん」
「絶対思ってないですよね、知ってたでしょ」
「うーん、微妙なラインを攻めてみたんだけど、今日は張り切ってたんだろうね」
「だれが?」
「イルカが」
びしゃびしゃになったロンTのすそをぎゅっと絞れば、びちゃびちゃと水がしたたり落ちる。まだまだ絞れそう。
思い返せば水族館に入ったときからおかしかった。「中は暑いかもだから上着預けちゃおうよ」……寒がりの夏輝くんが言いだしたんだもんな。
こんな真冬に、なんで海水まみれにならなきゃいけないんだか。髪の毛だってぱりぱりになりそうだし。
「……ふっ、はははは」
「やべ、怒らせすぎた?」
ほんとだよ、まったくさ。
「おかしいよ、真冬にこんな濡れてんの。夏輝くんのせいだ」
「ごめんて~着替え持ってきてるから~」
「ならカッパ買えばいーじゃん、もう」
本当、変な人だ。夏輝くんは。
「だって、見たかったんだもん。律がびっくりする顔?」
俺は夏輝くんといると、大抵驚かされてるよ。気付いてないの?だいたい、初めて会ったときからそうじゃん。ずっと、本当にずっと、夏輝くんの隣は刺激的だよ。
「……へんなの」
夏輝くんが貸してくれたパーカーは、たぶん、あの日のグレーのやつだ。
「ねえ律。海いかない?」
「?近いんですか」
「すぐそこだよ」
一日水族館を満喫して、夜ご飯の前に海に行くだなんて、これが本物のデートってやつか……。俺の登山プレゼンとはそりゃ大違いだ。はずかし。
夏輝くんに手を引かれるまま着いた海岸は、まあ、とにかく……
「さっっっむ!」
言いだしっぺがそれ言うか。
「やっぱかえろっか……」
「……いや、ちょっとだけ。海、久しぶりにきました」
「そう?じゃあ……なんかごめんね」
「イルカショーに比べれば全然ですよ」
「ごめんて!!」
自分が巻いてたベージュのマフラーを、俺に巻こうとしてくれる夏輝くん。ふわっと香る夏輝くんの匂いが潮の匂いとまざって、なんていうかすごく、もどかしい。
「いいですよ、夏輝くん寒いじゃないですか」
「いーの。俺も前に律からカイロもらったじゃん」
ああ、そんなこともあったな。
「律、あのカイロまだあるって言ってたけど、全部くれたでしょ?帰り、手真っ赤になってたじゃん」
「……そうでしたっけ」
「そうでした~」
そんなこと、まだ覚えててくれるんだ。
波の音をBGMに、手を繋いで砂浜を歩く。俯瞰でみればドラマのワンシーンみたいなんだろうけど、現実はスニーカーの中にたまってく砂が不快でしょうがないし、波の音はかなり騒々しい。
そんなこと、今日まで知らなかった。海水浴以外で海を訪れるなんて選択、俺にはなかったからな。
やだな、夏輝くんの体温が残ったマフラーは、妙な気持ちにさせてくる。
「この海なのかな…ちゃんとわかんないですけど、白岳山のあの場所から見える海、ここらへんらしいですよ」
「え、そうなの」
「……まさか、あの海に自分が行くことがあるだなんて思わなかった」
夏輝くんといると、そんなことばっかり起こる。自分では鳴らしようもないような音が、簡単に鳴る。
「俺、この海はよく家族できてたんだ~。昔の話だけどね」
「そうなんですか」
「兄貴と父親と、あっちの岩場でカニとかつかまえてさ」
「夏輝くん、野生児だったんですね」
「野生児!?そんなんじゃないけど、夏はよくきたんだよ。父親がそういうの好きで。釣りとか」
ああ、それで、魚?
「俺んち母親いなくて。男三人で、朝から日が暮れるまでずっとここにいたの」
まるでその言葉を再現するみたいに、水平線に太陽が沈もうとしていた。海岸が真っ赤に染まる。
「なんか……うまく言えないや。でも俺もそうだよ。またここに誰かと来れるなんて、思ってなかった」
夏輝くんの綺麗な横顔が、その赤を背負っている。俺の嫌いな赤が、すごく綺麗だ。また全然しらない音が、頭のなかで鳴り響く。
「律のおかげ。ありがと」
ああ、全部、このまま閉じ込めておきたい。
「……こちらこそなんですけど」
「ツンデレかよ」
「ふふっ…はい、これ」
「え?」
「お祝いとか言えるような物じゃないですけど、よかったら」
「……あけていい?」
「えっやです。帰ってからにしてください」
「なんでぇ」
だってそんなの。目の前でハズした反応されたら、どんな顔したらいいかわかんないじゃん……。
つい自分のものみたいに、夏輝くんのマフラーに顔を埋めてしまった。やばいやばい、べたべたくっついたら困る。
「律~~」
「なんですか」
「……りつ?」
「え、なに」
プレゼントを渡すためにいったん離した手が、また繋がれた。
……どうして、そんな目で、縋るみたいな目で、手を繋いでくるの。そんな目されたら俺……。
「……気付いてる?」
「…………はい」
「今日で、三か月だね」
日が沈んで、真っ赤じゃなくなった海岸が薄暗くなってきていた。なのに空の色が、おそろしいくらいに綺麗だったんだ。
これは何色っていうんだろうな。山で見る朝焼けとも違う色。濃い紫のグラデーションみたいな。魔法みたいな色。
「……マジックアワーっていうんだって」
「え?」
「これ。空の色。太陽が沈んで暗くなるまでのほんの少しの時間」
「マジックアワー……」
まじで魔法じゃん。
「兄貴が絵描く人なんだけどさ、よくこの時間狙って連れてこられた」
「絵描く人なんですか」
「そう。もうすげーよ、俺は芸術とかわかんないから、兄貴の絵はぜんぶ阿修羅にみえる」
「阿修羅って」
こうやってずっと……いやずっとは欲張りか。まだあとちょっと、(仮)でいられるかなって思ってたんだけどな。終わっちゃうのかな、この時間。
でもどうして、手、離さないんだよ。夏輝くん。
いま、どんな顔してるんだよ。
ありったけの勇気を振り絞って、俺は夏輝くんの方に顔を向けようとした。
「あれっ?結木じゃね?……え、ナツ……?」
その瞬間すれ違った男の人は、俺の名前の次に夏輝くんの名前を呼んだ。呼び捨てで呼んだ。
「……神山先輩?」
高校の二つ上の先輩。元バスケ部部長。有馬の先輩。何度か遊んだこともある…半ば無理矢理、有馬に連れられてだけど。
神山先輩……神山……
「ソウジくん……」
……そうだ。神山総二。
「なん、え?なんでナツと結木?お前ら繋がりあるんだ?」
「あ~いや……」
ソウジ、くん。あの日、夏輝くんが空に叫んでた人の名前。捨てようとしてた人の名前。偶然の一致なんてことは、まあ、ないだろうな。
「後輩だもん、そりゃ繋がりあるでしょ~」
そうだよな。一瞬で離された手が、答えだよな。
「ナツが後輩の面倒みてるの?意外すぎる……しかも結木じゃん」
「……お久しぶりです」
「有馬、元気にしてる?大学決めてないならうちこいって、何度も言ってんだけどさぁ」
「ああ……。有馬、バスケは高校までって言ってましたけど」
「なぁ。もったいないよ、俺はまだ諦めてないんだけど……」
あんたが諦めるか諦めないかは関係ないだろうが。
「ナツは?大学決まった?」
「まあ、うん」
「どこ?」
「言わな~い」
「なんでだよっ」
「それより、彼女。ほったらかしにすんなよ」
一瞬で離れた、夏輝くんと俺の手。しょうもない会話の間にも、固く繋がれたままの神山先輩と彼女の手。
「ナツ」
「なに~」
あーあ、もう。見てらんないよ。神山先輩はわかんないのかな。誰が今この人にこんな顔させてるのか。
「俺、ほんとに」
「てか寒すぎない?もう帰ろうよ」
「俺ほんとに悪かったって思ってて……!」
「先輩。彼女さん、鼻まっかですよ」
「あ、ごめん!!寒いよな!!」
「いいよ、久しぶりに会ったんでしょ?てか総ちゃんの友達にこんなイケメンがいるって、あたし聞いてないし~」
彼女さん、もっと言ってやれ。そうなんだよ、この人、谷野夏輝くんは、綺麗でイケメンで優しくて周りのことよく見てるし、おもしろくて一緒にいて飽きないし、包容力の権化で、いろんな音をくれる、ほんとに、ほんとにいい男なんだよ。
「総二くん。俺はほんとにもう大丈夫だから」
「ナツ……」
「じゃあ、ここで解散で。有馬に一応伝えときますね」
「あ、おう!ありがとな!」
ねえ夏輝くん。俺あの日のこと、後悔してるよ。
「……ごめんね、夏輝くん」
捨てなくていい、なんて、残酷なこと言ったんだな俺。
こんなの捨てたほうがいいに決まってた。夏輝くんのあんな顔、知りたくなかった。
あの日捨てられてたら、きっとそんな顔しなかったんだよな?
俺はなんにも、本当になんにも、わかってなかった。
「なんで律が謝るの~」
「……」
「てかうけるね、総二くんと律が知り合いだなんて思わなかったよ」
「……」
「……律?ご飯、食べ行こうよ。カニだよカニ」
「……カニ…」
「うん、カニ。あとは~小龍包とか」
「……フカヒレ……」
「あるある、中華だもん」
俺は本当に、なんにも、わかってなかった。ごめんなさい夏輝くん。しかもなんで今、俺がなぐさめられてんだ。ごめんなさい、ごめんなさい、夏輝くん。
あの日、ちゃんと捨てさせてあげられなくて、ごめんなさい。
まっくらになった海岸。手を繋がなくてもはぐれないのは、もう俺たちは大人だから。手を繋ぐ理由なんて、俺たちには最初からなかったんじゃないの?
「おいしかったね~」
「食べ過ぎました」
「律な!めっちゃ食ったね。小龍包好きなんだ?」
「あのフカヒレの小龍包おいしかったです」
「ふふっ、よかったね~」
やわらかい笑顔、ぱんぱんの腹、暖房の効きすぎた電車内。頭がぽーっとする。
「……夏輝くん、食べ方綺麗ですよね」
「ん?そう?」
「はい」
「はは、ありがと」
「あと……猫舌」
「だね、小龍包なんて鬼門だよ」
いちいちワードセンスがおもしろいなぁ。夏輝くん。
「夏輝くん」
「はぁい」
ああ、この返事のしかた、夏輝くんだなぁ。
「夏輝くん」
「なに~?」
もう、夏輝くん、だな。『ナツ先輩』なんて呼んでたの、ずっと昔のことみたいだ。
「席空いたよ、座ったら?」
「……ううん、いい。夏輝くんどうぞ」
「えー…いいや。俺たち若いしね」
このままがいい。ドアの端っこで、夏輝くんに隠されてるみたいなの。最後なんだからこれくらい、いいよな?もう今日が終わったら、この匂いも声も音も、なんにもなくなっちゃうんだから。
あーあ、もうすぐ着いちゃう。もっと遠くにご飯食べに行けばよかった。
最後……ちゃんと、言わなきゃな。
暗くなった外の景色は、嫌ってくらいに夏輝くんと俺を窓に映しだしている。自分がどんな顔してるのか、おそろしくて見られなかった。
「三か月間、ありがとうございました」
「こちらこそ。すげーたのしかった」
「俺もです」
「……楽しいこと、いっぱいしたね」
「はい」
「少しは力になれたかな」
力になれたかなって言われて、ん?って一瞬思ってしまった。この変な関係が始まったの、そもそも俺が『感情的になりたい』とか中二病みたいなこと言いだしたからなのに。もうそんなこと、すっかり忘れちゃってたな。
「……今日、海綺麗だなって思ったんです」
「うん、綺麗だったね」
「魚のこといっぱい教えてもらって。おいしそうって思わなくなったし」
「それは今までがどうかしてるねぇ」
「ふふっ……なんていうんだろう」
うまく、言葉にできない。ずっと頭のなかはうるさいのに。夏輝くんにこのまま聴かせたい。俺がいま、どう思ってるのか。言葉よりずっと上手に伝えられそうなのにな。
「形容詞を使う機会が増えました」
「どゆこと」
絞り出した言葉に、夏輝くんは歯をみせて笑ってくれた。最後にこの顔見れてよかった。
夏輝くんがみせてくれた、景色、色、味、感触、匂い、音。ぜんぶ。
「……宝物にします」
「律は大袈裟だなぁ」
「夏輝くんのがうつりました」
「俺ぇ?そんなことないでしょ」
「『デッドオブ』見に行ったときも、大袈裟なくらい驚いてました」
「ねえそれ忘れて!?」
「はははは」
「はははじゃないのよ」
あの映画、まだシリーズ続くのになぁ。
見るたびにきっと思い出す。あの日、みんなの憧れが隣でびくびく肩を震わせていたこと。
俺のニットを握りしめて、寝息をたてていたこと。
長い足が窮屈そうだったこととか。
きっと、一生、忘れられないんだろうなぁ。
「じゃあ」
「ん、気をつけてね」
「先輩も」
これで、終わりかぁ。