ひどく寒々しい十月の終わり。
どうにかやっと、身体が動いてくれた。履き慣れたスニーカーにかかとを合わせたとき、ほんの少しだけ胸がうずっとしたけれど、それもすぐにどこかへ消えてしまう。もう俺は、人としてだめなのかもしれない。
「律、また山へ行くの?」
「ああ、うん。まだ今シーズンは行ってないよ」
「そうだった?」
「うん」
本当は、紅く染まってしまう前に行こうと思ってたんだ。なのに山へ登ることすら出来なかった。気力がなかった。
最近の俺はまるでゾンビみたいに、体感としてはずるずると足を引きずって歩くような、そんな気だるさに見舞われている。
「気をつけて行くのよ、ちゃんと連絡して」
「うん」
母さんが心配そうなのはその言葉だけで、表情も口調も、不機嫌そのものだ。これもまあ、いつものこと。
家から電車を乗り継いで三十分、小さな頃から登り慣れた白岳山は、俺のパワースポットみたいなもの。
山頂までおよそ一時間、ハイキングに毛の生えたようなものだけど、気だるさがまとわりついて離れてくれない今の俺には、それくらいがちょうどいい。
「こんにちはぁ」
「こんにちは」
「今日は冷えるわねぇ」
「本当ですね。お気をつけて」
「あら、ありがとう。あなたもね」
すれ違いざま、どこの誰とも知らないご婦人とそんな会話ができるのは、山登りのいいところらしい。けど、いまだに俺は得意じゃない。世間話ってやつが、とことん苦手だ。
すっかり葉を紅く染めきってしまった木々の間を、ただただ歩く。道の脇に咲く花だとか、転がってる木の実だとか、垣間見える空模様だとかには、あまり興味がない。俺が見たいのは、ただ一つだけ。
「……ふう」
人でごった返す山頂の脇道を少し進んだ先、見えてくる道祖神に一礼してもう少し進むと、急に視界がひらける。
遠くの海と空がくっつく場所。地球儀の中に自分が入り込んだみたいな気分になる、俺の特別。
「やっぱりここだよなぁ〜」
ああ、また父さんの口癖を真似てしまった。でもここへきたら、どうしたってそれ以外の言葉が見つからない。やっぱりここ、なのだ。
なのに、だ。
「……っソウジくんのアホーっ!!バカーっ!!ふっざけんなぁー!!キスくらいさせろー!!!」
こんなにも見晴らしのいい場所で大声張り上げて、バカはどっちだ。と、言いたい気持ちをぐっと堪えた。きっと彼には彼なりの事情……いやどうみても訳ありだし、色々あるのかもしれない。
ただ、教えてあげたほうがいいのだろうか。向こうに山がないのだから、いくら耳に手をあて返事を待ったって、やまびこは返ってこないってこと。
迷っているうちに、ずいぶんと軽装なその彼の背中が、くるりと俺の方を向いてしまった。
「……あっ」
目が合った瞬間、二人そう声を揃えていた。
大きな瞳からは涙がとめどなく流れ落ち、鼻は真っ赤、口はへの字、華奢な肩はでろんと垂れ下がって、あまりに情けない姿だった。
そんな姿になっても、彼がどこの誰なのかはすぐにわかった。わからないはずがなかった。
光が反射するくらいの光沢のある黒髪、伸ばした前髪からのぞく印象的な大きな目に、しゅっとした輪郭。そしてなにより、この長い脚。学校中の憧れ、圧倒的カーストトップの『ナツ先輩』だ。
色々な武勇伝を聞いたことがあるけど、一番有名なのは、中学の卒業式に他校の女子が押し寄せて警察がきたとかって話。
その嘘みたいな話を疑う余地すらない、納得のオーラをまとった人だった。
「あっ、すみません、俺……うわぁぁ……」
そんなみんなの憧れは、鼻をずびずび鳴らしながら、どんどんと後退りしていく。
「ちょっ、危ないですよ!」
俺は咄嗟に『ナツ先輩』の腕を掴んでいた。柵も設置されていない崖っぷちで、この人、なんて危なっかしい人なんだ……。いやまさか、自殺志願?
「ご、ごめんなさい!俺全然まわり見えてない……すみません……」
しゅん……という文字が背後に浮かんでみえそう。潤んだ瞳に眉毛をこれでもかと下げて、ナツ先輩は見るからにしょぼくれていた。なんだか迷子の子どもみたいな……いや、子犬?とにかく、危うい。
「いやいいんですけど……。あとここ、向かい側に山ないですから、やまびこ返ってきませんよ」
「えっそうなんですか!?」
「はい」
危う気な雰囲気はそのままに、驚いたときの目の大きさは、およそ俺の二倍だな。妬ましくなるくらい、華のある顔立ちだ。能面みたいと言われる俺とはまるで正反対。
ナツ先輩は「そうなのかぁ~どうりで〜」などと語尾をだらだら伸ばして、出会った時よりは多少落ち着いたようにも見えた。
とはいえ泣き腫らしたその目に、ここを退けとは思えなかった。……まあ、しかたない。俺の特別な場所、今日は譲ってあげよう。この人なんかよれよれだしな。俺は若干の気まずさにそう理由をつけて、ここを立ち去ろうとした。
「あっ!」
……が、この声には振り返るべきなのか。あの人危なっかしいし、とはいえ年上なんだ、そこまで心配しなくてもいいか……いいよな……?
「なっ!?」
あーあ。やっぱり振り向かなきゃよかった……。
「なにしてるんですか…!?」
案の定あの人は、今度は四つん這いになって崖の下を覗き込んでいるんだから、やっぱり人生終わらせにきているのかもしれない。しかし見てしまった以上、はい、さよならとはいかないだろ、さすがに……。
「あ、いやあの……おにぎり落としちゃって……」
「……は……?」
おにぎりを?崖の下に落とす……??童話か??
……あっ、この人もしかして……
「天然なんですか」
「え!?いやいや!たまたま手が滑って……!」
いやまあ、あるのかもしれない。手が滑ること。ないとは言い切れない。
けれどこの人、さっきまであんなに泣いてたんだぞ?ソウジくんとやらを罵倒しまくって、泣き腫らした目で、返ってくるはずのないやまびこ期待して叫んでたんだぞ……?
「なんでそれで急におにぎり……ふふっ……」
じわじわきちゃうだろ。この人、変だ。変な人だ。俺が知る『ナツ先輩』とは別人なのかもしれない。兄弟とか?その方が全然しっくりくる。
校内で見かける『ナツ先輩』の周りには、いつだって男女問わずたくさんの人がいる。その真ん中にいるのがナツ先輩。周りが賑やかに笑い合っているその輪の中心で、爽やかに微笑んでいるのが、俺のこの人のイメージだった。
見方によっては治安悪めなグループのなかで、ナツ先輩はある意味異質。ただひたすらに爽やかだから。夏って言うより、秋風みたいな人。
……が、今、リアルおむすびころりんしてるわけだが。
「食べますか、よかったら」
朝握ったなんの変哲もないおにぎり。そんなものカーストトップに食べさせていいのかという不安はあるが、泣いてるよりは食べてる方がいいに決まってる。
俺が差し出したアルミホイルに包まれたそれを、ナツ先輩はそれほど遠慮することもなく受け取った。……よっぽどお腹を空かしていたんだろうな。
「なんか本当、迷惑かけてばっかりで……すみません……」
もぐもぐと両頬を膨らませたその姿は、まるでハムスターのよう。不思議だ。俺よりもずっと背は高いし、普通にしてれば肩幅もしっかりあるのに、ナツ先輩はどこか小動物みがある。
俺が「いいえ」と言うと、ナツ先輩はどう見ても街中用のブランドリュックから、スナック菓子の小袋を取り出した。
「これよかったら……」
「え、いいですよ。ナツ先輩が食べてください」
「……え?」
あ、しまった。
「あー……すみません。言うタイミングわからなくて。俺、清澄の二年です」
「うわ、そうなの!?俺やばっ……かなり恥ずかしいところ見られたね!?」
「あー……」
どっちのことだろう。両方か?俺的には、おむすびころりんはだいぶ気に入っているんだけど……。
「引いたよね、え、てか聞こえてたよね?」
ああ、そっちか。
「聞こえちゃいました。すみません」
「いやいやいや、俺が悪いどう考えても。なんだけどさ、できれば、言わないでほしくて……」
ナツ先輩は「なんでもするから!」と付け加えた。なんでも、なんてそんな簡単に。俺がとんでもない悪人だったらどうする気だ?脅して金をせびったりとか、するかもしれないじゃん。やっぱりこの人、危なっかしくてしょうがない。
「言わないですよ、言う人もいません」
「本当?……ありがとう」
消えそうな声で呟いた横顔を言葉で表すなら『健気』。それしかなかった。綺麗な顔がわずかに歪んだその一瞬、呼吸を忘れた。足元がむずむずする。でもまだはっきりとは鳴らない、朧げな感覚が襲ってくる。
「登山が趣味ってわけではないですよね」
「あ、うん。失恋したらなんか登りたく……いや叫びたく?なってさぁ」
「それでその軽装……」
「ね、山って寒いんだね。知らなかった」
パーカーの上にやや厚手のシャツを羽織っただけのその格好じゃ、そりゃ寒いだろう。ぶるっと肩をすくめてみせたナツ先輩は、上から下までラフではあるものの、まったく山登りらしくない格好だった。山登りらしくない、イマドキのおしゃれな格好。……俺のネルシャツがかわいそうになってくる。
「レインコートとか持ってきてないんですか?」
「えっ今日雨予報だった!?」
「いやそうじゃなくて……」
山に入るなら最低限の装備ですよ、先輩。よくそのゼロ知識でこの穴場見つけたな、なんかちょっと悔しい。俺と父さんの穴場だと思ってたのに。
「……あの、これよかったらどうぞ」
指先をパーカーの袖の中にもぐり込ませている仕草のせいかもしれないし、乾いた涙が跡になった横顔のせいかもしれない。理由ははっきりわからないけど、俺はさっきから先輩を見ていると、なんだかいたたまれない気持ちになる。妙にそわそわしてしまう。落ち着かない。どうしようもなく、なる。
どうしようもないその感覚から逃れるように、リュックに忍ばせていたミニカイロを二つ、先輩に渡した。
「なんっ、ええ……!ええー……いいのぉ……?」
さっきと同じだ。もらう気しかない、建前上の遠慮。
「まだありますから。どうぞ」
「ありがと〜……ええ君プロだ……?」
「プロってなんですか」
「あっ、てか名前は?まだ聞いてない!」
ああ、そういえばそうか。
「結木律です」
「律?かっけー名前だね」
「そうですか…?」
俺はあんまり、好きじゃない。親の願望があまりに滲み出たこの名前。
「俺は谷野夏輝。夏輝でいーよ」
「いや呼べないですよ……」
「なんで?あ、年上だから?」
「はい」
「そんなの気にしないでいいよ、二年でしょ?一個しか変わんないじゃん」
俺を覗き込んだその顔面は、あまりにも浮世離れしていた。造形が常人じゃない。しかもこの長身に、どうしてこの小さな顔が割り当てられるんだ。チートか。
「無理です……」
「なんでぇ、いいって」
「いやいや……」
「なら、二人のときはいいじゃん。ね、律?」
いやぁ……この人、すっげーな……。ラブコメの世界から飛び出してきたみたいな人だ。いや、ラブってなんだ、ラブって。
「……じゃあ、まあ。また会うことがあったら」
「ん!まあ、会うでしょ同じ学校なんだし。もうすぐ球技大会じゃん」
「ああ、たしかに」
「律はなに出るの?俺はねバレーとバスケとサッカー出る~」
「ほぼ全部じゃないですか」
「ははは、そうなの。やばくない?過労だよ過労」
「先輩、運動神経もいいんですか」
「あ~先輩って言った」
ナツ先輩の頬骨まである長い前髪が、ふわりと風になびいた。
きりっとした綺麗なアーモンドアイが、俺に訴えかけている。
……ああ、いやだな。この人がどうして人気者なのか、なんとなくわかってしまった。
柔らかな雰囲気の奥底に、とんでもない意志の強さを感じる。
「……なつき、くん」
俺、この人のこと苦手かもしれない。
「まあ、よしとしますか」
なんだ、人の頑張りを小馬鹿にしたみたいに笑いやがって。さっきまでぴーぴー泣いて迷子の子犬みたいだったくせに。その手に握ったカイロだって、俺があげたやつなのに。
なんだか急に、形勢逆転された気がする。
「律は山によく登るの?慣れてるかんじする」
ナツせんぱ……夏輝くん、はすっかり元気そうに見える。学校で見かけるときと同じ、爽やかで堂々とした喋り方に戻っていた。
「まあ、はい。父が登山家なんです」
「ええ!?やっぱプロじゃん」
「父は、そうですね」
「律も山好きなんだ?」
山が好きかって聞かれたら、好きだ。ピアノよりもずっと。
「……普通です」
「普通て。そっかー、俺山登りなんて小学生以来だよ」
「そんなでよく登ろうと思いましたね」
「ね~。俺、自分のこういうところ好きじゃない」
夏輝くんの顔がまた歪む。だんだん、満ちてくる。俺の頭のなか。
「こういうところ、って?」
「考えるより先に動いちゃうとこ。ばかっぽくない?よく言われんの」
まあ、ばかっぽいと言えばそうではあるけど。でもそんな、本気のやつじゃない。夏輝くんはばかというか、なんだ……えっと……
「純粋……?なんじゃないですか」
夏輝くんのただでさえ大きな目が、また俺の二倍になっている。そんなになんか、まずいこと言ったか……?
「律にはそう見えるの?」
「いやすみません。よく知りもしないのに」
「ちがうちがう!嬉しいって意味!」
「え?」
「純粋っていい意味だよね?あれ、違った!?」
いい意味、だよ。そりゃそうだろ。よく知りもしない後輩のおにぎり平気で食ったり、あんまり気の利いたこと言えない俺とこんなに話してくれたり、そんなの、ばかの一言で片づけられない。
「いい意味です」
「よかった~。ありがと」
なんかやっぱり、苦手だ。こんなふうに力の抜けた笑顔を、人から向けられたことがない。こんな顔で笑う人なんて、俺の周りにはいない。だからこそ、溢れてくるんだろう。
「……そろそろ下山しますか?」
「えっ?律一緒に行ってくれるの?」
「はい?だって同じ道ですよね?」
夏輝くんの顔が、迷子の子犬に戻った。なんなんだこの人?情緒不安定?さっきまでふにゃっとした顔で笑ってたはずなのに。
ああああ、落ち着かない。全然、落ち着かない。
「行きますよ」
早く、下りよう。この人変なんだよ。ひっぱられて俺までおかしくなりそうだ。
また出会った道祖神に一礼すると、夏輝くんは「そういうもんなんだ」と呟いて、同じように一礼していた。やっぱり純粋。俺は癖でやっちゃうだけで、本当はちょっと恥ずかしいのに。
「こんにちはぁ」
「こんにちは」
「こんにちは!」
「いいわねぇ、若いのに珍しい」
「っすかね?山最高っす」
「あらあら、素敵~」
この顔でにこやかに対応なんてするものだから、わらわらとご婦人たちが集ってくるし、道端の花とか、落ちてる木の実とか、あれはなんだこれはなんだと、夏輝くんはいちいち足を止める。もう、ぜんっぜん先に進まない。とうとう落ち葉が顔みたいとか、子どもみたいなこと言いだす始末だ。
「……夏輝くん、日が暮れちゃいますよ」
「あ、ごめん!つい…」
「行きは気になっても話す人がいなかったから…」なんて肩を落とされたら、まるで俺が人でなしみたいじゃないか、まったく。本当、この人、変。
俺も俺で、ヤツデは天狗のうちわですよ、なんてつまんない豆知識を披露してしまうんだから、もうかなり手遅れかもしれない。
「山、来てよかったな~。楽しい」
「よかったですね」
「やまびこは聞けなかったけどさ」
「ああ……うん、はい。ふふっ……」
遠くの海が見える俺の特別な場所。向こうまでなんの障害物もないから、特別なのに。まさかあの場所でやまびこを期待する人がいるなんて、思いもしなかった。というか現実にいるんだな、失恋して空に向かって未練を叫ぶ人なんて。
「なに笑ってんだ、ん~?」
「いやすみません……ちょっとあまりにも、初めてみた光景で」
「なんでよ~。律はないの?叫びたくなること」
あるわけない。そんな激情。
「ないですね」
「え、そうなの?じゃあなんで山登るの?」
いや前提がおかしい。叫ぶために登る人なんて少数派だろ。……少数派だよな?
「山は、受け取る場所らしいんです」
「受け取る?」
「父がよくそう言っていて。悩んだり迷ったりしたら、山に貰いに行くって」
「……そんな場所なんだ、山って」
「いやまあ、俺もよくわかんないです。でもまったくわからないわけでもないっていうか……」
我ながらクソみたいな説明……。父さんが言うと、もう少し説得力あったのに。
「じゃあ俺、間違えたな」
「ん?」
「俺、ここに捨てにきちゃった」
捨てにきたのは、ソウジくんとやらのことなんだろうか。八の字眉毛の夏輝くんから、なんとなく目を逸らした。見ちゃいけないような気がした。
「別に、捨てなくてもいいんじゃないですか」
「……え?」
だって、そんなの。俺からしたら普通にうらやましい。俺ならきっと一生大事に、心の一番深いところにとっておく。あんなふうに泣いて、叫んで、ボロボロになるくらいの感情、捨てる必要ないだろ。
「……捨てなくて、いいのかな」
「?いいんじゃないですか」
いやまあ、正直他人事だし、俺には恋とかよくわからないんだけど。でもたぶん、いいんじゃないか?だって夏輝くん、さっきより顔が柔らかい。また俺の頭のなかで音が鳴る。
「律は本当、優しいんだね」
「いま初めて言われましたけど」
「それは嘘でしょ!」
「いや本当に。いつも冷たそうとか、何考えてるかわかんないとかって言われます」
「ええ、律が?」
「はい」
でもそれ、自分が一番納得しちゃってるんだよな。俺も俺に思う。何考えてるんだろうって。かといって夏輝くんみたいに、先に身体が動いちゃってるってわけでもない。なんにも考えてなくて、なんにもしてない。なんにもできてない。毎日が消化試合みたいな。
「……正直羨ましいです。夏輝くんとか他のみんなみたいに、俺も感情的になってみたい」
「ええ、叫びたくなって突然山登りしたりしたいの?」
「ふはっ、そうです。そんなのすごい。すごい……楽しそう。自分じゃないみたいだろうなぁ」
俺はなにに感情的になれるんだろう。たとえば恋だとして、俺が恋したらどうなるんだろう。夏輝くんみたいに叫びたくなる?それとも、母さんみたいに毎日涙したり?よく見かける、改札前でうだうだくっついてキスなんてしてみたりとか、するのかな。そんなの、自分じゃ全然想像つかない。
「じゃあさ」
「はい?」
夏輝くんと不意に目が合う。本当、意志のある目。なんだっていいなりにされてしまいそうだ。
「じゃあ、俺としてみようよ」
「なにをですか?」
「恋♡」
「……は?」
……あ、そうか。この人、やっぱり失恋して頭のネジぶっ飛んじゃってんだ。ていうかヤケをおこしてるのか。俺と?恋??このカーストトップが、俺と??おかしいだろ。
……その指ハート、はやくしまってくれ。
「なに言ってるかわかってますか…?」
「わかってるわかってる。俺がんばるよ!」
いやいや頑張るって、なにをだ。
「いや俺そういうの、たぶん無理だし」
「……俺が男だから?」
「男とかじゃなくて、俺あんまり……人に興味持てないっていうか」
「……俺でも?」
俺でも?か。ああ、そうなんだよな。相手この人なんだ。夏輝くん、なんだよな……。
「……っいや!?なにがだ!」
「おん?」
「いやいやいや……」
ないと言い切れない自分が怖い。だってこんな、王道ラブコメのヒーローだぞ?
「律さ、俺に声かけてくれたじゃん。おにぎりもくれたし、今一緒に山降りてくれてるよ?」
「まあそれは……」
「少しは俺に興味持ってくれてるんじゃないの?」
興味っていうか、あれだ。危なっかしいからだ、夏輝くんが。
なのに、そう言葉にできない。音が、やまない。もうずうっとだ。早く帰って書き起こしたい。この旋律を。
「……でも……」
「お試し三か月でどう?」
「三か月……」
「うん。絶対手は出さないし、周りにも言わない。俺にも恩返しさせてよ」
冷たい風がびゅうっと吹いたとき、夏輝くんのパーカーのフードが、それに煽られて綺麗に彼の頭に被さった。一層はっきりした音が、頭のなかで鳴り響く。こんなこと、もうずっとなかったのに。
「楽しいことだけしよ?」
真っ紅に染まった山はあまり好きじゃない。季節の終わりが見えてしまうから。染まった葉は、落ちるしかないことを知っているから。
「……じゃあ……ハイ」
どうかしてる。やっぱり夏輝くんは変だ。
それで俺もやっぱり、かなり手遅れだったらしい。