日中は取引先などと会って会議や商談をするだけで終わる。書類仕事がまるまる残るが、それは本社ではせずに定時で帰る。社長がいつまでも残って仕事をしていては下の者が帰れないからだ。
 
 だから圭一郎(けいいちろう)は目を通さなければならない書類や決裁は自宅に持ち帰るのが常だ。帰ってからが圭一郎の仕事が始まると言っても過言ではない。
 
 今日も概ねそのような一日の運びだったが、(もも)のことが気がかりでつい早足になり、定時になるとともに車に乗り込んでいた。

 屋敷に戻った圭一郎はまっすぐに執務室を目指す。だが、ドアの前で躊躇ってしまった。

 桃はいるだろうか。もしまた何処かへ消えてしまったら……

 今日メイドとして就任したばかりで流石にそれはあり得ない、と不安を打ち消して圭一郎はドアを開けた。

「お帰りなさいませ、旦那様」

 圭一郎が一歩踏み入れたほんの先で、桃は恭しく一礼していた。
 ほっと胸を撫で下ろす。しかし随分タイミングがよい。

「ただいま。私が入ってくるのがわかったのか?」

「はい。旦那様の足音が聞こえましたので」

「そうか……」

 そんなに音が派手にするほど急いで来たのだろうか。
 肩で息をしていた自分にやっと気付いた圭一郎は、恥ずかしさを隠そうとして桃を通り過ぎて部屋の奥へと進んだ。

「お言い付け通り、執務室の清掃をいたしました」

「あ、ああ。ありがとう」

 部屋をグルリと見回すと、三島(みしま)が退職して以来放っておいた部屋が綺麗に整頓されていた。
 置きっぱなしだった本やファイルも棚に仕舞われ、部屋の窓は全て光るほどに磨かれている。
 
 しかし、圭一郎のデスクだけは朝出かけた時のままだった。

「?」

「仕事のお机は私などが見てはいけない資料もおありでしょうから、そのままにしておきました」

「そうか」

 これが三島だったら有無を言わさずに片付けるものを、と圭一郎はなんだかおかしくなった。

「続きの間の寝室も清掃いたしました」

「──えっ!」

 相変わらず感情の見えない声音の桃の報告に、圭一郎は焦った。
 何か見られては困るものは置いてなかったかと、グルグル考える。

「ベッドメイクは大切な職務ですから致しましたが、不都合がおありでしょうか?」

「あ──、いや、ありがとう」

 桃の言い分はもっともだし、最近ベッドを使った記憶もないので大丈夫だろうと圭一郎は思うことにした。

「何かお茶を差し上げますか?」

「そうだな。アールグレイを頼む」

「承知致しました」

 その「承知致しました」って冷た過ぎないか?と圭一郎は昨日から思っていたが、そんなことは言えなかった。
 桃がお茶の支度をしているうちに、圭一郎は背広を脱いでソファの背もたれにかけた。次いでデスクに腰掛ける。

「?」

 朝のままに、デスクの上は書類が散乱していたが何か違和感があった。だが愛用の万年筆が左側に置いてあっただけだった。
 右利きの圭一郎はめったに左に置いたりしないが、デスクで夜明かししたため転がったのだろうと特に気に留めなかった。

「どうぞ。お茶が入りました」

「ああ、ありがとう」

 桃はデスクの脇に熱い紅茶を置くと、次いでソファにかけられた背広を取り、形を整えてハンガーに掛けてから埃を払い始めた。

「あ、すまない」

「いえ、仕事なので」

 澄ました顔で作業を続ける桃の姿が冷たく感じられて、圭一郎はやはり恨まれているのかと思いたった。
 
 しかしそうだとしても解せない。
 何故恨みに思っている相手の元へやってきて世話をするような仕事についたのだろう。

「桃」

 圭一郎は意を決してその名を呼んだ。

「──!」

 こちらに向けている小さな背中が、ビクリと大きく震えたのを圭一郎は見逃さなかった。