(もも)が屋敷を去ってから一週間が経とうとしている。
 あれから、何の連絡もない。

「……」

 圭一郎(けいいちろう)は真っ昼間から、自室のデスクに突っ伏してうだうだしている。
 ちなみにこの一週間、出社していない。そんな気力が湧いていないからだ。

「坊っちゃま、何かお食べになりませんと。そんなに憔悴されては皆が心配しております」

 執事長の富澤(とみざわ)が和洋中のおかずを取り揃えてワゴンを引いてきた。
 ああ、前はこれは桃がやっていたっけ。

 可愛かったなあ……

「坊っちゃま! せめて果物と牛乳だけでも!」

「ああ、うん……」

 目の前に置かれるバナナとミルク。圭一郎は仕方なくバナナの皮を剥く。
 しかしそれを一口食べる前に、けたたましい電話の音が鳴った。

「チッ、山内(やまうち)か……」

 十分おきにかかってくる電話のなんと面倒くさいこと。渋々出ては秘書の怒号を聞かされる。あいつも十分おきに怒って大変だなあ、と圭一郎はどこか他人事だった。

「坊っちゃま、いい加減に会社に行ったらどうです?」

「ああ……そうなんだが、なんだか気力がわかないんだ。きっと俺は病気になってしまったのかも」

「病気なことは病気でしょう。桃様欠乏症ですな」

 富澤はシラーとして圭一郎が剥き途中のバナナを引ったくり、果物ナイフで一口サイズにカットしてまた目の前に戻した。ご丁寧に楊枝がさされたバナナの切り身を圭一郎は弱々しげに口に運ぶ。

「ところで富澤、茨村(しむら)組長はあれからどうなったんだ?その……亡くなったのか?」

 桃を帰した最大の理由の人物について、圭一郎はずっと気になっているのになんの情報ももたらされずに一週間も経つ。そのストレスもあって、圭一郎は元気を出せなくなっていた。

「それが……私にもさっぱり。貫井(ぬくい)様に毎日お電話を差し上げているのですが、一向にお出にならないのです」

「忙しいのだとすると、やはり葬式を出しているんだろうな。ああいう大きな組織の葬儀はかなり大変だろう」

「ですなあ……」

 ところで富澤は貫井(ぬくい)遊馬(あすま)と共謀していたことをあっさり打ち明けた。
 
 今回の件の真実は、概ね先日貫井が圭一郎に言った通りだった。
 体を悪くした茨村組長が桃の将来を心配して、(みなと)家に戻そうと考えたことに端を発する。そう決めた組長がまず連絡を取ったのが、執事長の富澤だったのだ。その後組からの連絡係として貫井を引き合わせた。二人は話し合いで桃をメイドとして屋敷に送ることにした。

 一見素っ頓狂な案ではあるが、実は湊家が六条家を追い出したのは財界の有名な出来事であり、六条家令嬢がそのまま出戻れば当然好奇の目に晒される。加えて、桃は茨村組で育ったこともあり、当時の性格は一変、活発で迂闊な女の子になっていた。
 まずは目立ってしまわないように、「茨村桃」として、使用人として湊家に迎え入れる必要があった。そして二人が期待したのが圭一郎の動向である。

 圭一郎は二人の思惑通り、成長した桃にゾッコンラブになった。そこまでは良かった。だが、桃が迂闊にも自分の素性を早めにバラし、圭一郎は圭一郎で頭に血が上って桃を部屋に軟禁する始末。
 拗れてしまった事態に貫井遊馬が動く。圭一郎への恋敵宣言である。そこへ茨村組長危篤の知らせ。二人の計画はあっという間に空中分解してしまった。

「いやあ、二人ものお子様を操ってまとめようとするなど、私共の思い上がりでございました」

 圭一郎に全てを自白した富澤は最後にそう結んだ。
 二十八にもなって「お子様」扱いもどうかと思うが、圭一郎は反論できなかった。桃が来てからというもの、圭一郎は多分あの頃の──別れた当時の十五歳に戻ってしまっていたのだろう。桃にもそう言われたし。

「とにかく、坊っちゃまは明日こそ出社なさるべきです」

「ええ……ヤダなあ、怖いなあ」

 休み続けた罪の意識で、更に行けなくなる。圭一郎は負のスパイラルに陥っていた。

「十分おきに恐怖の電話が鳴り続ける生活をお望みで?」

 富澤がそう言い終わらないうちに、また電話が鳴った。圭一郎は受話器を取ってすぐに切る。電話の向こうで山内が真っ赤になって怒る姿が目に浮かんだ。

「わかった、今から出社する……」

「それがようございます。さすが坊っちゃまでございます」

 それから更に一週間。
 圭一郎は長期休暇のツケを払うように、ほぼ不眠不休で働くことになった。




 

「坊っちゃまぁ! 大変でございます!!」

 圭一郎がボロ雑巾のようになって帰宅すると、富澤が血相を変えて部屋に入ってきた。

「富澤ァ……大声はやめてくれ。徹夜の体に響く」

「も、もも、申し訳ありません! ですが、大変なのでございます!」

 圭一郎はくたくたの体をどうにか起こして聞いた。

「どうした?」

「も、もももも! いえ、新しいメイド志望の方が……!」

「すぐ通せ!」

 春の既視感。
 夏に起こったのなら、それは陽炎か?

 圭一郎は逸る胸を押さえながら、部屋の扉が開かれるのを待った。

「湊家使用人、及び旦那様のお世話係志望の茨村桃です」

「も……」

 大きくて黒い瞳、緩く編んだ豊かな黒髪、真珠のように白い肌。
 そこにいたのは紛れもなく、圭一郎の愛しい桃だった。

「ただいま戻りました。兄さま」

 その笑顔は、昔のまま。

「桃……」

 圭一郎は駆け寄って抱きしめたい衝動に駆られたけれど、踏み止まった。

「桃、大変だっただろう……お祖父様とお別れはできたのか?」

「はい。元気でおやりと。いつでも里帰りしておいでって」

「……え?」

「え?」

 またも二人で見合わせて首を傾げてしまった。

「茨村組長は……その……」

「お爺ちゃまならすっかり元気になりましたけど」

「えええっ!?」

 驚いたのは圭一郎だけではなかった。横に立つ富澤も驚愕でのけ反っていた。

「富澤、どういう事だ!?」

「だって、組長の容体が急変したって!」

 狼狽える二人に、桃はコロコロと笑って答えた。

「よくわかんないけど、お爺ちゃま、急に元気になったんですって! 悪い細胞もすっかり消えたって、お医者様が不思議がっていました!」

 急変……急に変わること。
 何もそれは悪い事を指すだけではない。

「そんなんアリかあ!」

 圭一郎が叫ぶ声を、桃はにっこり聞き流してペコリとお辞儀する。

「そういう訳で、またメイドとしてお仕えしますのでよろしくお願いします!」

「桃ちゃん……? なんでまだメイドやるの?」

 もう、そんな必要はないのに。
 すぐにでも結納とかしたいのに!

 そんな圭一郎の思惑を綺麗に無視して、桃は実にイイ顔で拳を握る。

「あたし、コック長に弟子入りしたんです! いつかとっても美味しいお料理を作って兄さまに差し上げるの!」

 その花嫁修行は永遠に終わらないのでは……?
 そんな事は口が裂けても言えない富澤であった。

「旦那様、いかがいたしますか?」

 圭一郎はガックリ肩を落としたが、すぐに奮起して高らかに宣言する。


 

「採用に決まってるだろっ!!」



「よろしくお願いします!」

 可愛い小鳥は自由に飛び回るようになった。





 元婚約者がメイドをやめないんだけど俺はどうしたらいい!!




 完