茨村(しむら)組の若頭、貫井(ぬくい)遊馬(あすま)の言った言葉は圭一郎(けいいちろう)には理解ができなかった。

「返せ……とは?」

 まるでこちら側が(もも)を誘拐しているような言い草だ。いや、現在は結果として軟禁しているかもしれないけれど、そもそも桃をメイドとして(みなと)に潜入させたのは茨村組の方だ。純粋な少女の心に憎しみを植え付けて。

「実は、組長(オヤジ)は病を患っていまして。医者の見立てでは長くないそうなんです」

「は……?」

「だから組長(オヤジ)には最期の時間を最愛の孫娘と一緒に過ごして欲しいんです」

 遊馬の言葉は人情の面から言えば確かにその通りだった。だが、それを飲み込むには説明が足りなすぎる。圭一郎は一瞬熱くなった頭を冷やし、努めて冷静に目の前の男に言った。

「その前に、私からの質問に答えていただきたい」

「どうぞ」

「茨村組長がご病気なのはわかりました。それなら何故今、桃をうちに寄越したんです?あの子が本当に産業スパイをやれるなんて思ってないでしょう?本当の理由は何ですか?」

 圭一郎がそう詰め寄ると、遊馬は苦悶の表情を浮かべてコーヒーを飲んでから答えた。

「……ごもっともな事です。実は、今回お嬢をそちらに差し向けたのは他ならぬ組長(オヤジ)の指示でした」

「でしょうね。ですから私は組長の真意が知りたいんです」

 遊馬が回りくどい、奥歯にものが挟まったような物言いをするので圭一郎は苛立った。すると遊馬は観念したように息を吐く。

組長(オヤジ)は自分がお嬢と血の繋がった祖父であることは明かしていません。元華族であるお嬢の経歴に傷がつく。だから細心の注意を払ってこれまでお嬢を養育してきました」

「まあ……確かに私がこの十三年、一向に探せなかっただけはあるんでしょうね」

「恐れ入ります。しかし、お嬢ももうすぐ二十歳になる。子どもであれば隠しておくのは容易いけれど、これからはそうもいかない。ならばと、組長(オヤジ)はお嬢を元の婚約者たる湊家にお返ししようと考えたのです」

「成程。随分と回りくどいことをされましたね」

 桃を産業スパイに仕立ててメイドとして送り込むだなんて。最初からそう言ってくれれば両手をあげて桃を迎えたのに、と圭一郎はまだ腑に落ちていなかった。

「言いにくいのですが、事はそう簡単にいきません。何しろお嬢は湊家に良い感情は持っていないので、懐いた組長(オヤジ)の側から離すのには一芝居打つ必要があった」

 えぇ……湊が嫌いなことは嫌いだったんだ……
 圭一郎は少し目眩がした。桃があんなに激しく拒んで見せたのは、組からの洗脳もあるのではと希望的観測をしていたからだ。

「まあ、少々やり過ぎてしまったのは申し訳ない。お嬢があそこまで湊家を憎んでノリノリになるとは……」

 良かった! やっぱりそうだったんだ。
 桃の憎悪は増幅されていた。だが、根本がなければそもそもああならない。結局圭一郎は複雑な気持ちになる。

「お嬢は純粋ですからね、人を疑うことを知らない。そこが愛らしい所であって美徳ではあるのですが……」

「えっ?」

 急に表情を緩めてそう言う遊馬の態度に、圭一郎は思わずギョッとしてしまった。

「あ、んん……失礼。そう言う経緯でお嬢はそちらに潜入という形でお返ししたつもりでした」

 急に咳払いなどして取り繕う遊馬の姿が圭一郎の目には不穏に映っている。いや、不穏なのは圭一郎の心だ。
 
 まさか、この男……
 俺より年上だったはずだ。なのに俺を上回るロリコンなのか?

 その疑念を直ぐにぶつける勇気は圭一郎にはなくて、結局、それでも解消しない疑問というか苦情を代わりにぶつけるしかなかった。

「いやしかし、その事を私に伝えてくれなくては意味がありません。こちらは桃がしょっちゅう迂闊な行動をするのでどうしたものかと戸惑ってばかりなんですよ?」

 圭一郎がそう言うと、遊馬は素直に頭を下げて謝った。

「それは大変申し訳ない。こちらの落ち度です。お嬢をそちらに送り込んだ後、組内でゴタゴタがありまして。組長(オヤジ)は病床ですから、私があちこちに走り回っていて、ご説明するのが今日になってしまったという訳です」

「……そちらの事情は私には関係がありません。桃を素直に返すつもりが本当にあるなら何を置いても先に説明するべきだったのでは?」

 ──しまった、口が滑った。
 遊馬(コイツ)も俺と同じ穴の狢かもしれないと思ったがために、挑発するような事を言ってしまった。

 だが、訂正しようとしてもどうやって?
 圭一郎が二の句を考えあぐねていると、遊馬はそれまで礼儀正しい紳士の様だった雰囲気をやめて、ニヒルに笑う。

「成程。さすがにお見通しのようだ、これも似た者同士という事ですかね?」

「あんた、やっぱり……」

 遊馬は、今日一番の男ぶりを見せた。少し危険な香りを孕んで不敵に笑う男前がそこにいた。

「私は、お嬢を愛している。組長(オヤジ)が動けないことを良い事に、あえて貴方に連絡はしませんでした。何故なら、私はお嬢をそちらに渡す気など最初からないのだから」

「──」

 目の前のハンサムは、今、確かに圭一郎に宣戦布告をした。
 温室育ちで、桃の事しか考えてこなかった圭一郎には、恋愛のいざこざなど経験がない。

 だから、何を今言うべきなのかわからなかった。
 それでも心にあるのは、たったひとつ。

「桃は、渡さない」

 圭一郎が遊馬を睨んでそう言うと、遊馬もニヤリと冷たく笑って返す。

「結構。私が今日言いたかったことは全て言いました。貴方と私はこれで対等だ」

「対等? ふざけるなよ、ヤクザ風情が桃を幸せにできると思っているのか?」

「お嬢の幸せはお嬢が決める。お嬢はすでに組の人間ですよ、組長(オヤジ)だって綺麗事を除けばお嬢が組に残ることを望んでいる」

 その言葉に、今朝桃が舎弟達に向けていた慈愛の瞳を思い出した。圭一郎は急いでその思考を取り払う。

「桃は、絶対に屋敷から出さない」

 冗談じゃない。
 桃が見つからなかったあの時にはもう戻れない。
 圭一郎は知ってしまった。桃の今の姿を。笑う顔も怒る顔も、柔らかな感触も。
 もう二度と、桃が目の前からいなくなることは耐えられない。

「残念ながら、貴方の意思は関係ない。決めるのはお嬢です」

「桃は俺のものだ」

 そんな子どもじみた独占欲が、この大人の男に通じるはずはなかった。
 それでも圭一郎にはそれしかない。

 遊馬はまたフッと冷たく笑って言い放った。

「いいえ。私がお嬢と結婚して茨村組を継ぎます。それを聞いたら組長(オヤジ)も喜んでくれるでしょう、そして──」

 勿体ぶった言い方で、遊馬は最後通告を突きつける。

組長(オヤジ)の喜びは、お嬢の幸せだ」

「!」

 短くそう言った後、貫井(ぬくい)遊馬(あすま)はレシートを手に席から立った。
 残された圭一郎は、「桃の幸せ」という物をずっと考えていた。