「ふんふふーん」
秘書の山内は足取り軽く階段を昇った。誰よりも早く出社して、社長室を清掃するのが彼の日課である。
昨夜は探偵の濱家が圭一郎からたっぷりもらった前金で、豪勢に飲み歩いた。
いつもより高いお酒を沢山飲んだので、隣に座ってくれるお姉ちゃん達がチヤホヤしてくれた。それで山内はご機嫌なのだ。
「さあ、今日も頑張ってお坊っちゃまを操縦するぞぉ!」
るんるん気分で社長室のドアを開けた山内は、目の前の光景に瞬時に青ざめた。
「遅かったね、山内くん」
「しゃ、社長!?」
山内はその姿を見てひっくり返った。圭一郎は静かにデスクに座り、両肘を立てて顔の前で手を組んでいる。
そのため口元が確認できず、圭一郎の鋭い眼光だけが際立っていた。
「き、きょ、今日はお早いんですね……?」
山内は注意深く言葉を選んで言った。いつもは部下に気を遣って始業ギリギリの時間で出社する圭一郎が一時間以上前に来ているのだ。
こんなことは山内が入社してから初めてだった。何かある、と思うのは当然のことだった。
「うん、早く山内くんに会いたくてね」
にっこり笑いながら言う様は、相対するものには恐怖でしかない。しかし、山内は圭一郎に寵愛されている自信があるので愛想笑いを返した。
「そ、そうですかあ? ボクも社長にお会いできて嬉しいなあ、ナッハハハ……」
「──昨夜は、随分とお楽しみだったようだね?」
「ギクぅ!」
わざわざ言葉に出して言ったのは、山内なりのユーモアだ。目が笑っていない圭一郎を前にしても、ここまでの胆力を見せつけるのは社内では彼だけだ。
「アホな探偵を言いくるめて、俺が払った前金でどんちゃん騒ぎとは……君もなかなかやるなあ」
「さ、さすが先輩、よくおわかりで……」
最終奥義、後輩の揉み手を出しながら山内は愛想笑いを続けた。
「まあ、そのことは別にいい。君がピンハネしようが、あの探偵が仕事さえきちんとやってくれればな」
「は、はは……それはもう」
「ところで、君に頼みがあるんだ」
「おまかせください、社長!!」
山内は背筋を正して、帽子も被っていないのに敬礼をした。それに圭一郎は満足そうに笑う。
「あの探偵に追加調査の依頼を。アスマ、という男についてだ」
「アスマ……ですか? 誰です?」
「それがわからないから調べて欲しいんだが?」
圭一郎が軽く睨むと山内は身を竦めて返事する。
「ごもっともでございます! ……して、そのアスマと言うのはどうやってお知りになったので?」
「うん、それが……桃が、寝言で……な?」
「寝言ぉ……!?」
山内は途端に顔を赤らめて叫んだ。
「ね、ねね、寝たんですか、社長!? ままま、まだ調べも進んでないのに、我慢出来なかったんですか!?」
「違う! 違うぞ! そんなこと出来るワケないだろ!」
山内の勘違いに圭一郎は慌てて狼狽え、もの凄い想像をして、山内より顔を赤くして否定した。
「居眠りをしてたんだ! 桃が! そうしたら寝言でアスマって口走ったんだよ!」
「ええ……?」
山内は半信半疑の眼差しを向けた。
「信じて、お願い! 山内くん!」
何故か立場がすっかり逆になってしまった。圭一郎は気を取り直して冷静に説明しようと試みる。
「と、とにかくだ。アスマという男を探って欲しい。早急にだ!」
「ちょ、ちょっと待ってください、社長。それ、ほんとに人名ですか? 『明日またね』とかじゃないんですか?」
山内の切り返しは見事だった。彼の有能さを改めて確認できて圭一郎は満足だったが、しかし首を振って付け足す。
「いや、桃ははっきり言ったんだ。『大丈夫よ、お爺ちゃま。アスマさんもいるから』とな」
「なるほど……確かにそれなら人の名前なんでしょう」
「だろう?」
圭一郎はほっとしたが、山内の目がギラリと光った。
「ですがそれだけでは男であるとは限らないのでは?」
「ええっ!? だって組長の夢を見てるんだぞ? 組には男ばかりのはずだろう?」
圭一郎がそう言うと、山内は腕を組んでまるで探偵のような口ぶりで話す。
「……まあ、私も八割がた男性だとは思いますが。社長は既に嫉妬で思考が曇っておいでのようですからなあ」
「うっ!」
山内の言う事は的を射ていた。しかし圭一郎は直感しているのだ。あの時、アスマと呼んだ桃の顔。あれは男に向ける顔だった。
「いいでしょう。ではアスマという『人物』を濱家に探らせます。それでよろしいですね?」
「あ、ああ。もちろん。よろしく頼む」
「かしこまりました」
恭しく礼をしながらも、山内は右手をぴらぴらと差し出した。
「うん?」
「私も手ぶらでは頼み辛いですからぁ……」
「ああ、うん。それはもちろんだ」
圭一郎は用意しておいた追加料金を入れた封筒を山内に渡した。
「ははー! おまかせください、早速行って参ります!」
「……もう飲むなよ?」
「あははー! 当たり前じゃないですか! 一、二枚抜いとこうとかする訳ないじゃないですか!」
こういう要領のいい所が彼の有能さのひとつではある。圭一郎としてはそれでも別に構わなかった、と言うかそれを見越して多めには入れてある。
「何でもいい。俺は結果が出れば満足だ」
「さすが社長! 太っ腹、よっ、社長!」
山内は殊更におどけて社長室を飛び出して行った。
「いつでも部下を呼び出せるベルとかないかなあ……」
圭一郎のそんな呟きが、後に一大センセーションを巻き起こす道具の発明に繋がるのだが、それはここでは関係ない。
秘書の山内は足取り軽く階段を昇った。誰よりも早く出社して、社長室を清掃するのが彼の日課である。
昨夜は探偵の濱家が圭一郎からたっぷりもらった前金で、豪勢に飲み歩いた。
いつもより高いお酒を沢山飲んだので、隣に座ってくれるお姉ちゃん達がチヤホヤしてくれた。それで山内はご機嫌なのだ。
「さあ、今日も頑張ってお坊っちゃまを操縦するぞぉ!」
るんるん気分で社長室のドアを開けた山内は、目の前の光景に瞬時に青ざめた。
「遅かったね、山内くん」
「しゃ、社長!?」
山内はその姿を見てひっくり返った。圭一郎は静かにデスクに座り、両肘を立てて顔の前で手を組んでいる。
そのため口元が確認できず、圭一郎の鋭い眼光だけが際立っていた。
「き、きょ、今日はお早いんですね……?」
山内は注意深く言葉を選んで言った。いつもは部下に気を遣って始業ギリギリの時間で出社する圭一郎が一時間以上前に来ているのだ。
こんなことは山内が入社してから初めてだった。何かある、と思うのは当然のことだった。
「うん、早く山内くんに会いたくてね」
にっこり笑いながら言う様は、相対するものには恐怖でしかない。しかし、山内は圭一郎に寵愛されている自信があるので愛想笑いを返した。
「そ、そうですかあ? ボクも社長にお会いできて嬉しいなあ、ナッハハハ……」
「──昨夜は、随分とお楽しみだったようだね?」
「ギクぅ!」
わざわざ言葉に出して言ったのは、山内なりのユーモアだ。目が笑っていない圭一郎を前にしても、ここまでの胆力を見せつけるのは社内では彼だけだ。
「アホな探偵を言いくるめて、俺が払った前金でどんちゃん騒ぎとは……君もなかなかやるなあ」
「さ、さすが先輩、よくおわかりで……」
最終奥義、後輩の揉み手を出しながら山内は愛想笑いを続けた。
「まあ、そのことは別にいい。君がピンハネしようが、あの探偵が仕事さえきちんとやってくれればな」
「は、はは……それはもう」
「ところで、君に頼みがあるんだ」
「おまかせください、社長!!」
山内は背筋を正して、帽子も被っていないのに敬礼をした。それに圭一郎は満足そうに笑う。
「あの探偵に追加調査の依頼を。アスマ、という男についてだ」
「アスマ……ですか? 誰です?」
「それがわからないから調べて欲しいんだが?」
圭一郎が軽く睨むと山内は身を竦めて返事する。
「ごもっともでございます! ……して、そのアスマと言うのはどうやってお知りになったので?」
「うん、それが……桃が、寝言で……な?」
「寝言ぉ……!?」
山内は途端に顔を赤らめて叫んだ。
「ね、ねね、寝たんですか、社長!? ままま、まだ調べも進んでないのに、我慢出来なかったんですか!?」
「違う! 違うぞ! そんなこと出来るワケないだろ!」
山内の勘違いに圭一郎は慌てて狼狽え、もの凄い想像をして、山内より顔を赤くして否定した。
「居眠りをしてたんだ! 桃が! そうしたら寝言でアスマって口走ったんだよ!」
「ええ……?」
山内は半信半疑の眼差しを向けた。
「信じて、お願い! 山内くん!」
何故か立場がすっかり逆になってしまった。圭一郎は気を取り直して冷静に説明しようと試みる。
「と、とにかくだ。アスマという男を探って欲しい。早急にだ!」
「ちょ、ちょっと待ってください、社長。それ、ほんとに人名ですか? 『明日またね』とかじゃないんですか?」
山内の切り返しは見事だった。彼の有能さを改めて確認できて圭一郎は満足だったが、しかし首を振って付け足す。
「いや、桃ははっきり言ったんだ。『大丈夫よ、お爺ちゃま。アスマさんもいるから』とな」
「なるほど……確かにそれなら人の名前なんでしょう」
「だろう?」
圭一郎はほっとしたが、山内の目がギラリと光った。
「ですがそれだけでは男であるとは限らないのでは?」
「ええっ!? だって組長の夢を見てるんだぞ? 組には男ばかりのはずだろう?」
圭一郎がそう言うと、山内は腕を組んでまるで探偵のような口ぶりで話す。
「……まあ、私も八割がた男性だとは思いますが。社長は既に嫉妬で思考が曇っておいでのようですからなあ」
「うっ!」
山内の言う事は的を射ていた。しかし圭一郎は直感しているのだ。あの時、アスマと呼んだ桃の顔。あれは男に向ける顔だった。
「いいでしょう。ではアスマという『人物』を濱家に探らせます。それでよろしいですね?」
「あ、ああ。もちろん。よろしく頼む」
「かしこまりました」
恭しく礼をしながらも、山内は右手をぴらぴらと差し出した。
「うん?」
「私も手ぶらでは頼み辛いですからぁ……」
「ああ、うん。それはもちろんだ」
圭一郎は用意しておいた追加料金を入れた封筒を山内に渡した。
「ははー! おまかせください、早速行って参ります!」
「……もう飲むなよ?」
「あははー! 当たり前じゃないですか! 一、二枚抜いとこうとかする訳ないじゃないですか!」
こういう要領のいい所が彼の有能さのひとつではある。圭一郎としてはそれでも別に構わなかった、と言うかそれを見越して多めには入れてある。
「何でもいい。俺は結果が出れば満足だ」
「さすが社長! 太っ腹、よっ、社長!」
山内は殊更におどけて社長室を飛び出して行った。
「いつでも部下を呼び出せるベルとかないかなあ……」
圭一郎のそんな呟きが、後に一大センセーションを巻き起こす道具の発明に繋がるのだが、それはここでは関係ない。