桃が寝言で口走った「アスマ」という男の名前。文脈から茨村組の誰かだということはわかった。だから早急に、できるなら今日中に、すぐにでも調べたかったのに、肝心の秘書も探偵も捕まらない。
圭一郎は衝動のままに駆け込んだ電話ボックスを後にした。スーツのポケットには余った小銭が空しく揺れる。
足取り重く屋敷に戻り、執事長の富澤にはやっぱり食欲がないことを伝えた。当然心配されたが、圭一郎は富澤を軽くあしらって部屋へと繋がる廊下を歩く。
どんな顔をして桃を見ればいい。まだ寝ていたらどうしよう。決定的な寝言を言っていたらどうしよう。
そんな軟弱な考えに囚われながら圭一郎がトボトボと廊下を歩いていると、自室のドアが音もなく少し開いた。
「?」
ドアを開けたのは桃だった。小さな顔だけ出して、まず奥を見る。それから首をクルと回して前を見たところで圭一郎と目が合った。
「!」
すると桃は見るからに「まずい」という顔をしてから、すぐに引っ込んだ。ドアがパタンと閉まる。
圭一郎はその仕草が終わらないうちに駆け出していた。
すぐさまドアを開けると、桃はまだ入口付近に立っていた。
「桃!」
圭一郎が呼ぶと、桃は動揺を隠すように懐かしのポーカーフェイスで姿勢を正して礼をした。
「お、お帰りなさいませ。旦那様」
「……ただいま」
その顔をされるとどう接していいのかわからない。
圭一郎が少し困っていると、桃は頭を上げずにスカートをぎゅっと握りしめて何かを堪えているようだった。
「桃?」
「き、今日は……随分と遅いお帰りだったんです、ね」
「……心配してくれたのか?」
拗ねたような態度を見せる桃に、圭一郎は期待を込めて聞いた。
すると桃はガバっと顔を上げて真っ赤になって反論する。
「はあ!? そんなこと言ってないし! ただの事実の確認だし!」
すぐさま崩れるポーカーフェイスのなんと可愛らしいことよ。
圭一郎は抱きしめたい衝動を抑えるのに全神経を集中させるほどだった。
「ごめんな、今度から遅くなる時はこの部屋に電話をかけよう」
「いりません! 私は使用人なので! ……奥様じゃあるまいし」
即座に突っぱねた桃が、小声でボソッと言った言葉を圭一郎は逃さなかった。
「なら……妻になるか?」
「──!」
桃は赤い頬をさらに朱色に染めた。
「なりませんっ!」
くるりと背を向けて桃は裁縫道具の片付けを始めてしまった。
だが、耳まで真っ赤になっている。もしかして脈ありなのかな、と圭一郎は少し浮かれた。
「気が変わったらいつでも言いなさい」
「変わりませんっ!」
性急さは禁物だ。まだ何も解決していない。
圭一郎はデスクまで行ってから呟いた。
「……まあ、待つのはもう慣れた。今更慌てなどしないよ」
「……」
桃は聞こえないふりをしていたが、道具を片付ける指が少し震えていた。
圭一郎はそれまで胸に渦巻いていた嫉妬の感情が薄れていくのを感じていた。
「桃、夕食はとったのか」
「いいえ。ここでずっと留守番していたので」
棘のある答えが可愛かった。
圭一郎はやっと空腹を感じ始めていた。
「俺もまだなんだ。支度をして持ってきてくれないか」
「……わかりました」
「二人分」
「え?」
桃は怪訝な顔で圭一郎を見た。「そんなに食べるの?」と言うような顔だった。
表情から言いたいことが丸わかりで、圭一郎は楽しくなってしまう。
「一緒に食べよう」
「できません、私は使用人なので」
圭一郎にはそんな気はとうにないのに、使用人という壁は意外と厄介だ。
だが、それも使いようである。
「では命令だ。俺と一緒に夕食を食べなさい」
「……かしこまりました」
桃はジト目で圭一郎を睨んだ後、大股で歩いて部屋を出ていった。
今の顔は初めて見たな。心の桃アルバムに焼き付けよう。寝顔とジト目をコレクションできた。
圭一郎はそんなことを考えて一人で笑ってしまった。
五分も経たないうちに、桃がワゴンと共に戻ってきた。
「お待たせしました」
「随分早かったな」
圭一郎が驚いていると、桃はまたもジト目で見ながらボソリと答える。
「食堂に行ったら、富澤さんがすでにご用意済みで」
「へええ」
さすが富澤。全てを見透かす男。
「……二人分」
「おお……」
富澤、それは分かりすぎててちょっと怖い。
「では、いただくとしよう」
「はいはい……」
桃は観念してテーブルに食事を並べ始めた。
最初は桃の前で食べることに緊張していたのが嘘のようだ。
今は向かい合って、会話はないけれど二人で食事ができている。
その日の夕食は、ここ数年で会心の出来と思えるほどに美味だった。
翌朝、その感動とともにコック長にボーナスを与えたいと富澤に言ったら、「コック長はいつも通りです。バカな真似はおやめください」と叱られた。
圭一郎は衝動のままに駆け込んだ電話ボックスを後にした。スーツのポケットには余った小銭が空しく揺れる。
足取り重く屋敷に戻り、執事長の富澤にはやっぱり食欲がないことを伝えた。当然心配されたが、圭一郎は富澤を軽くあしらって部屋へと繋がる廊下を歩く。
どんな顔をして桃を見ればいい。まだ寝ていたらどうしよう。決定的な寝言を言っていたらどうしよう。
そんな軟弱な考えに囚われながら圭一郎がトボトボと廊下を歩いていると、自室のドアが音もなく少し開いた。
「?」
ドアを開けたのは桃だった。小さな顔だけ出して、まず奥を見る。それから首をクルと回して前を見たところで圭一郎と目が合った。
「!」
すると桃は見るからに「まずい」という顔をしてから、すぐに引っ込んだ。ドアがパタンと閉まる。
圭一郎はその仕草が終わらないうちに駆け出していた。
すぐさまドアを開けると、桃はまだ入口付近に立っていた。
「桃!」
圭一郎が呼ぶと、桃は動揺を隠すように懐かしのポーカーフェイスで姿勢を正して礼をした。
「お、お帰りなさいませ。旦那様」
「……ただいま」
その顔をされるとどう接していいのかわからない。
圭一郎が少し困っていると、桃は頭を上げずにスカートをぎゅっと握りしめて何かを堪えているようだった。
「桃?」
「き、今日は……随分と遅いお帰りだったんです、ね」
「……心配してくれたのか?」
拗ねたような態度を見せる桃に、圭一郎は期待を込めて聞いた。
すると桃はガバっと顔を上げて真っ赤になって反論する。
「はあ!? そんなこと言ってないし! ただの事実の確認だし!」
すぐさま崩れるポーカーフェイスのなんと可愛らしいことよ。
圭一郎は抱きしめたい衝動を抑えるのに全神経を集中させるほどだった。
「ごめんな、今度から遅くなる時はこの部屋に電話をかけよう」
「いりません! 私は使用人なので! ……奥様じゃあるまいし」
即座に突っぱねた桃が、小声でボソッと言った言葉を圭一郎は逃さなかった。
「なら……妻になるか?」
「──!」
桃は赤い頬をさらに朱色に染めた。
「なりませんっ!」
くるりと背を向けて桃は裁縫道具の片付けを始めてしまった。
だが、耳まで真っ赤になっている。もしかして脈ありなのかな、と圭一郎は少し浮かれた。
「気が変わったらいつでも言いなさい」
「変わりませんっ!」
性急さは禁物だ。まだ何も解決していない。
圭一郎はデスクまで行ってから呟いた。
「……まあ、待つのはもう慣れた。今更慌てなどしないよ」
「……」
桃は聞こえないふりをしていたが、道具を片付ける指が少し震えていた。
圭一郎はそれまで胸に渦巻いていた嫉妬の感情が薄れていくのを感じていた。
「桃、夕食はとったのか」
「いいえ。ここでずっと留守番していたので」
棘のある答えが可愛かった。
圭一郎はやっと空腹を感じ始めていた。
「俺もまだなんだ。支度をして持ってきてくれないか」
「……わかりました」
「二人分」
「え?」
桃は怪訝な顔で圭一郎を見た。「そんなに食べるの?」と言うような顔だった。
表情から言いたいことが丸わかりで、圭一郎は楽しくなってしまう。
「一緒に食べよう」
「できません、私は使用人なので」
圭一郎にはそんな気はとうにないのに、使用人という壁は意外と厄介だ。
だが、それも使いようである。
「では命令だ。俺と一緒に夕食を食べなさい」
「……かしこまりました」
桃はジト目で圭一郎を睨んだ後、大股で歩いて部屋を出ていった。
今の顔は初めて見たな。心の桃アルバムに焼き付けよう。寝顔とジト目をコレクションできた。
圭一郎はそんなことを考えて一人で笑ってしまった。
五分も経たないうちに、桃がワゴンと共に戻ってきた。
「お待たせしました」
「随分早かったな」
圭一郎が驚いていると、桃はまたもジト目で見ながらボソリと答える。
「食堂に行ったら、富澤さんがすでにご用意済みで」
「へええ」
さすが富澤。全てを見透かす男。
「……二人分」
「おお……」
富澤、それは分かりすぎててちょっと怖い。
「では、いただくとしよう」
「はいはい……」
桃は観念してテーブルに食事を並べ始めた。
最初は桃の前で食べることに緊張していたのが嘘のようだ。
今は向かい合って、会話はないけれど二人で食事ができている。
その日の夕食は、ここ数年で会心の出来と思えるほどに美味だった。
翌朝、その感動とともにコック長にボーナスを与えたいと富澤に言ったら、「コック長はいつも通りです。バカな真似はおやめください」と叱られた。