あれは、まだ春が来る前だった。
 少し雪が降って庭にある五分咲きの梅の木に積もり、とても美しかったのを覚えている。

 その日はよく晴れた日だった。
 梅の木に積もっていた雪が解け始め、水滴で飾られた花が陽光を反射してキラキラと光っていた。

 梅の次は桃も咲くだろう。
 そうすれば庭には春が訪れ賑やかになる。

 そんな時、その少女は表れた。
 まだ年端もいかない彼女は、僕の前で緊張していた。
 それでも僕を見上げているその表情には気高さがあった。
 これが、貴族と言うものなのだと初めて思い知った。

「兄さま!」
 何度か遊びに来るうちには僕らはすっかり打ち解けていた。
 彼女は僕の周りを片時も離れない。そうするように躾けられているのだろう。

 ──僕らは、大人になったら結婚するのだから





 白昼夢を見た気がする。
 最近仕事が混んでいて寝不足なのだろう。
 だが、悪くない夢だった。彼女に会えたのだから。
 忘れたくても忘れられない、幼い頃の恋心。まだ胸の奥に沈んだままだ。

「旦那様! だだだ、旦那様!」
 
「どうした富澤」
 
 執事長の富澤(とみざわ)が突然執務室のドアを盛大に開けて血相を変えてやってきた。
 
「何をしている。お前がそんな醜態をさらしたら周りに示しがつかないだろう」
 
「も、もも、申し訳ありません! ですが、大変なのでございます!」
 
 富澤はハンカチで汗を拭いながら狼狽えていた。
 品行方正なこの老執事がここまで取り乱すのを、圭一郎(けいいちろう)は二十八年生きてきて初めて見た。
 
「落ち着け。そしてちゃんと説明しろ」
 
 自分がつい先ほどまで居眠りをしていたことは棚に上げて、圭一郎は富澤を叱る。
 
 そうしてやっと我に返ったらしい富澤は一礼をした後説明を始めた。
 
「は。先日部屋係の三島(みしま)が退職したため、メイドを一人補充するお許しをいただきました」
 
「うん。そういう話だったな」
 
 いくら仕事に忙殺される日々ではあっても、三日前に聞いた事くらいは圭一郎でも覚えている。
 
 執務室付きのメイドの三島はベテランだったが、娘の結婚を機に海外へ渡ることになったので暇を出したのだ。
 その三島の代わりのメイドを求人してもよいかと富澤に確認され、許可を出した。
 
「その、募集をした所、さっそく一人面接にやって来まして」
 
「そうか。それは良かった。側で雑用をしてくれる人がいないのは結構不便だった」
 
「それが……十九の少女でして」
 
 富澤が困ったような顔で言うので、圭一郎も少し不安になった。
 
「ええ? 学生に毛が生えたような娘で大丈夫か、三島の代わりが勤まるのか?」
 
「問題はそこではございません!」
 
 富澤はまた興奮し出して叫ぶ。その剣幕に圭一郎も驚いた。
 
「では何が問題だと言うんだ?」
 
 富澤は、今ではもう呼ばなくなった敬称で圭一郎を呼ぶくらいに取り乱していた。
 
「坊っちゃま、(もも)様です!」
 
「──は?」
 
「面接に来た少女が六条(ろくじょう)(もも)様の名前を名乗っておいでなのです!」
 
「──」
 
 その名を聞いて圭一郎の頭も真っ白になった。


 
 十二年前、突然姿を消した圭一郎の婚約者。
 六条桃、とはそういう名前だった。