高校3年生の夏はまたたく間に過ぎ。
 季節は秋になった。
 
「全国かぁ……」

 ――10月。
 グリー部は北海道で行われる合唱コンクールの全国大会に進むことになった。

「ソロパート歌うんだろ? 夏音」
 昼休みのグラウンド。
 サッカーやソフトボールに興じる生徒たちを眺めながら、花壇のレンガに腰を下ろし、花菱と話をする。

「うん。関東でも歌ったけど――今度は全国だからよけい緊張する」
「そっか……」
 花菱は、おれの頭をやさしく撫で、
「いつもどおりやればきっと大丈夫だよ。夏音ならできる。北海道には行けないけど、こっちで応援してるから」
 と励ましてくれる。

「うん……」

 甘く香る、花壇の金木犀。
 オレンジの小さな花の咲くころは、なんだか、少しせつない。
 
「あ――いたいた」
 校舎の向こうから桜木先生が息を切らし走ってくる。
「奈良崎。昼休み、音楽室でソロの練習するって伝えてただろ」
「あっ……!」
 すっかり忘れていたおれは、慌てて立ち上がり、「すみません」と頭を下げる。
「まったく――いまからやるぞ。来い」

 音楽室での個人レッスン。
 桜木先生の指導はめちゃくちゃ厳しくて、終わったあといつもぐったりする。

「よし。今日はここまで。明日も昼練な。弁当食ったら来いよ」

 三階の音楽室にも、金木犀の香りが届いていた。

「――おまえら、いつも一緒なのな」
 楽譜を片付けながら、桜木先生はいう。
「おまえと花菱。だいたいいつもひっついてる。いいよな、アオハルって感じで」
「――先生は――」
 おれは思いきって聞く。
「先生は、つきあってるひと、いますか?」

「……なんだ、藪から棒に――――」
「すみません、つい気になって……」
「まぁ、いいけど。――いるよ。3つ年下の社会人。つきあってもう5年になるかな」
「へぇ……同棲とかしてるんですか?」
「ずいぶん食いついてくんな、おまえ――」
「す、すみません……おとなの恋愛ってどんな感じなのかなぁ? って思って――」

「おとな――か。まぁ正直40過ぎてもおとなになったって自覚はないけどな。気づいたら年とってただけ、みたいな。あ、ちなみに同棲はしてないぞ。向こうが大阪に転勤になって、いま遠距離だから」

「えっ……」
 遠距離、ということばにドキッとしたおれは、
「遠距離って――不安にならないですか……?」
 と聞く。
「会えないと気持ちが離れちゃうような気がして――」

「……そういえばおまえ、第一志望北大なんだってな」
 先生は、ピアノの椅子に腰かけ、足を組む。
「獣医学部だって?」
「はい」
「獣医だと6年か。6年はたしかにまぁ、長いよな」
「…………」
 
 やっぱり――そうだよな。

「だがな、奈良崎。考えてみろ。仮に北海道と東京に離れたとして、花菱がほかに好きなコをつくると思うか?」
「そ――それは……」
「あいつのおまえへの愛はそうとう重いぞ。ああいうヤツは、好きな相手以外には目もくれない。むしろ離れたら毎日うざいくらい連絡してくるタイプだ。もし、おまえが浮気したら、自分に落ち度があったと落ち込むだろうな」
「そ、そんなっ……浮気なんてっ……おれは花菱しか好きにならない――」
「――それは花菱も同じだろう。花菱にとって、世界はおまえか、おまえ以外か、だ。たとえどんな美女が言い寄ってきても、相手の顔は、かぼちゃかじゃがいもくらいにしか見えてないだろう」
 
 じゃ、じゃがいもか――かぼちゃ……?

「どうしても心配なら花菱に直接気持ちを伝えてみろ。どんなに思いあっていても、話さなきゃわかりあえないこともある。受験勉強に身をいれるためにも、いちど腹を据えて話しあってみたらどうだ」

 キーンコーンカーンコーンと午後の授業のはじまりを知らせるチャイムが鳴る。

「あっ、やばっ……!」
 音楽室を出るとき、
「――いろいろアドバイスくれて――ありがとうございましたっ!」
 と頭を下げた。
 なんだか少しだけ――気持ちがラクになった気がした。

 
□□□


 全国大会は、10月最後の土曜日に行われた。

 会場で、久しぶりに北海道の伯父さん夫婦に会った。
 子どものいない伯父さん夫婦は昔からおれをすごくかわいがってくれた。

「あとはやるだけだから。いままで練習したことをすべて出しきっておいで」
 優しい伯父さん夫婦の笑顔に後押しされて、出番を待つ。
 本番では、不思議と緊張することなくソロパートもいままでのいちばんの出来で歌うことができた。
 
 結果は――3位。
 はじめての全国で、じゅうぶんすぎる成績。
 歓喜の涙と笑顔のなか、その日おれはずっと笑っていた。

 大会の翌日は、部員全員で札幌観光した。
 味噌ラーメンやジンギスカンを食べ、観光地をわいわいはしゃぎながら回る。
 札幌は東京よりだいぶ寒くて、冷たい風に襟もとがひんやりした。

 途中、花菱にSNSで連絡をとる。

『こっち、すげー寒い』
『風邪ひかないようにしろよ』
『ああ。……爽一朗いまなにしてる?』
『地元の図書館で勉強してる』
『……今日、会える?』
『いいよ迎えに行く。飛行機、何時だっけ?』
『17時新千歳発』
『だったら19時前には羽田に着くな。――また連絡する』
『うん……ありがと』


 ――羽田空港に着き、部員たちと別れてから、待ち合わせ場所のカフェに行く。
 花菱は、カフェの窓際の席に座っていた。
 白い厚手のフードパーカーにインディゴブルーのジーンズ。
 参考書を読んでいた花菱は、顔を上げ、店の外を見る。
 その顔を見たとたん、なぜだろう。涙がぼわっとあふれてきた。

「……? 夏音……!?」

 ばたんっ、と立ち上がった花菱が、急いで駆け寄ってくる。
「――どうした? なんか……あった?」
「ううん……」
 転がしてきたキャリーから手を離し、手のひらで涙をぬぐう。
「なんだか、おまえの顔見たら、涙が出てきて……。たった三日――会えなかっただけなのに――会えたらすごくうれしくて……」

 涙が、とまらない。

「ごめん……男のくせにメソメソして――みっともないよな……」
「いや」
 そんなことない、おれの肩を強くつかんだ花菱は、
「そんなふうに自分の気持ちを素直に表現できるのが、夏音のいいところだ」
 と抱きしめてくれる。
 
 花菱のからだ――すごく大きくてあたたかい。
 胸のなかにすっぽり包みこまれると守られてるみたいで安心する。
 おれは花菱の背中に腕を回す。
 カフェの前で抱きあうおれたちをチラチラ見ていく人たちもいたけど、そんなことはもうどうでもいい気がした。
 
「……おれさ――大会終わったら爽一朗に話そうと思ってたことがあるんだ」
「……なに?」
「おれ、やっぱり北大受けることにした。もし受かったら、おまえと6年間、遠距離になる」
「うん……」
「正直、さみしいし、不安もたくさんある。今回たった三日会えないだけでこんなにさみしいんだって実感したし、できるならずっとおまえのそばにいたいけど――」

 鼻水をすすりながら、背の高い花菱を見上げる。

「おまえと一緒にいたいから北大に行くのやめるとかそういうのはなんかちがう気がして――おまえも東大に行くためにがんばってるし。だったらおれも――おれの夢をちゃんと追っていこうって決意したんだ」

「うん……」
「だから、遠く離れても――こころはそばにいるって約束して。――これからもずっと、おれだけを好きでいてほしい。おれも、花菱のこと――ずっとずっと想ってるから」
「……あたりまえだろ」
 おれの顎をつかみ、顔を上げさせた花菱は、
「何度もいってるだろ? おれは夏音と結婚するつもりだって。この先もずっと、おまえだけを見てる。ずっと、ずっと――愛してるよ……」
 おれの唇に、すっと唇を合わせてくる。

「……そう――いち……ろう……」

 あふれる涙が頬をつたい、口のなかに入る。
 苦くてせつない――「愛してる」のフレーバー。

 「おれも……爽一朗を――ずっと、ずっと愛してる……」

 ――「愛してる」。

 そのことばだけで、おれと花菱のあいだにある目に見えない赤い糸が、きゅうっときつく結ばれた気がした。