「うわぁっ――……!」

 観覧車のゴンドラが上がるにつれ、外の世界がどんどん広がっていく。
 住宅地のあいだに田んぼが点在する、のどかな田園風景。
「あ、あそこにあるの、おれのマンション――見える?」
 自分の家を花菱におしえる。
 
 ゴンドラのなかは冷房が効いていて、快適だった。

「夏音」
「ん?」
「こっち――おいで」
 向かいの席に座っていた花菱が、横のシートをポンポン叩く。
「う……ん」
 花菱の横に移動したおれの手を握って膝の上に置き、
「さっきはごめんな」
 と花菱はいう。

「ううん……おれのほうこそ、ちょっときつくいいすぎた。ごめん」
 うつむいたおれの髪を、くしゃくしゃっと撫で、
「ぜんぜん気にしてないから。大丈夫」
 花菱はやさしくほほえむ。

 その笑顔に背中押されたおれは、思いきって、
「あ、あのさ――爽一朗はどう思う?」
 と聞く。
「――どうって?」
「その――男同士でこういうことするの――はたから見たらやっぱりヘンなのかな……?」
「…………」

 しばしの沈黙のあと、
「……夏音はヘンって思うの?」
 と花菱は聞いてきた。
「男同士で恋をするのはおかしなことって思う?」
「……べ、べつに思わない――けど――」
「けど?」
「――そういうふうに思うひともいるのかな……とは思う」
「世の中にはいろんな考えの人がいる。すべてのひとにおれたちのことを認めてもらうのはムリだろう」
「うん――」
「多様性なんて人に押し付けるものじゃないし、すくなくともおれたちの大事な人――たとえばおれの親とか、夏音の親御さんとか。そんな人たちにわかってもらえればいいとおれは思ってる。たとえもしそれが叶わなくても――おれたち自身がなにもおかしくないって思えたら――それでじゅうぶんじゃないかな」
「爽一朗は、いままで男を好きになったこと――ある……?」
「え――……な――ない――けど」
「おれも中学のときまでは、いいなと思うのはみんな女のコだったんだ。だけど爽一朗と出会ってはじめて、いままで経験したことのないくらい、胸がドキドキして……文化祭の日、ステージで歌ってるとき、これは恋なんだなってわかった。男とか女とかそんなことはどうでもよくて――爽一朗が爽一朗だったから、好きになったんだ」

「――夏音――」
 ぎゅうっと強く抱きしめられ、
「うっ、くっ、くるしっ――」
 とうめく。
「あっ、ごっ――ごめんっ……」
 あわてて力をゆるめた花菱は、
「――ごめんすげー感動して――夏音がそんなふうに思ってくれてたなんて知らなかったから」
 感きわまったようにいう。
「ありがとう。ほんとうに、ほんとうにありがとう……」

 てっぺんまで辿りついたゴンドラ。いまなら、他の誰の目もない。

「キス――したい」
「おれも……」
 重なり合う唇。
「好き……大好きだ……」
 花菱が、おれの舌に舌をからめてくる。
 いつもより濃厚なキスに、おれのからだの中心が、きゅんっ、と反応する。

(や――やば……――――)

 モゾモゾするおれに、
「だいじょうぶだよ」
 ほほえんだ花菱は、耳もとでささやく。
「おれもおんなじ――だから」
 おそるおそる覗き見た花菱のショートパンツの股間は――あきらかに隆起していた。

「――な?」
「う、うん……」
 真っ赤になってうつむくおれ。
「怖いんだろ? だったらむりしなくていい。夏音からしたいって思うようになるまで、何か月でも何年でも待つよ」
 優しい花菱のことばが、胸のなかにしんと沁みわたる。

 ――おれたちはまだ、キスより先を知らない。
 男同士でどうするのか知識がないわけじゃないけれど、そこから先にいくのはまだ――少し怖くて。

 禁断の果実まで届かない。

 17の夏。


 □□□

「あ――」
 プールから駅までの帰り道。
「電車――止まってる」
 スマホを見た花菱が立ちどまる。
「沿線火災で運転開始時間未定か――困ったな」
「だったら――ウチ来る?」
「え――?」
「ウチのマンション、すぐそこだから」
「そっ、そんないきなりっ――手ぶらで訪問するなんてっ……」
「だいじょうぶだよ。いまの時間、だれもいないから。――あ、コンビニでなんか買っていこう」

 駅前のコンビニで、少し高めのカップアイスと、チキンを買う。

 15階建ての黒いオートロックのマンション。
 おれのウチは13階。
 L字型のバルコニーに囲まれた角部屋。

 おれの部屋に入った花菱は、バルコニーから差し込む陽の光に目を細め、
「……マンションっていいな、すごい開放感」
 感心したようにつぶやく。

「でもペット飼えないんだぜ。おれはおまえんちみたいに自由のある一戸建てのほうがいいな」
 青いブランケットのかかったベッドに腰を下ろし、コンビニのビニール袋からアイスを取り出す。
 隣に腰を下ろした花菱にアイスを差し出し、
「溶けないうちに食べよ」
 という。
 おれはチョコチップクッキー。花菱はラムレーズン。
 アイスを食べながらチキンを食べるおれと、アイスだけ先に食べる花菱。

「……おまえってホント、動物好きなんだな」
 本棚に並んだ動物に関する本や図鑑を見て花菱はいう。
「うん。――北海道にいる伯父さんの話ってしたっけ?」
「オーケストラにいるっていう?」
「そう。あの伯父さんが動物好きで。札幌の郊外に広い家建てて動物たくさん飼ってるんだ」
「へぇ。犬とか猫とか?」
「うん。あとにわとりとか、アヒルとか、ヤギとか。家の敷地内に森があってさ。子どものころ、伯父さんちに遊びに行って動物と遊ぶのがすごく楽しかったんだよ」

 おれの学習机に目をやった花菱が、あ、というような顔をする。
 その目線の先にあるのは――北海道大学の参考書だった。

「――あ……」 
「……北大、受けるんだ?」
「ま、まだ決めたわけじゃ――」
「――獣医学部?」

 北海道大学は獣医学部が有名だった。

「う、うん……あ、で、でもまだ模試でもC判定ばかりで――おれおまえみたいに頭よくないし――」
「まだ夏前だし、いまからがんばればいけるよ。おまえ3年になって成績あがったじゃん」
「で、でも――」

 ずっと――ずっと悩んでいたこと。

「北海道は――遠いじゃん……」
 思いきって口にする。
「獣医学部は6年だし、そんなに長いあいだ離れるなんて――不安にならない……?」
「そりゃまぁ――さみしくないといったらウソになるけど――夏音のしたいことなら応援する」
 花菱はまっすぐな目でおれを見る。
「おれも東大行きたいし。お互いがんばろうぜ」
「う……うん――」

 アイスのカップを握りしめたおれは、いえないセリフを飲み込む。

 爽一朗は――ほんとうにいいの……?
 おれだけが……こんなに不安なんだろうか……?


 手のなかで、食べそこねたアイスがみるみる溶けていった。