ワンッ!

 花菱の部屋に入ったとたん、茶色い毛並みのゴールデンレトリバーがとびかかってきた。

「あっ、こらっ、マカロン。「Stay」だぞ」
黒いリュックを床に置いた花菱が、しっぽを振る愛犬に呼びかける。
「ごめんな、こいつ、人間大好きでさ」
「い、いや……だいじょうぶ――」

 頬をペロペロ舐められながら、床にしりもちをついたおれは笑顔を見せる。

 ――花菱の家は、学校から歩いて15分ほどのところにあった。
 幹線道路から少し離れた閑静な住宅街。
 車2台縦列で停められる屋根付き車庫と、小さな花壇のあるおしゃれな一戸建て。
 2階にある花菱の部屋からは、近くのショッピングセンターの看板と、オレンジ色の夕焼け空が見えた。

(かわいい……)
 夢中で犬の頭を撫でていると、
「奈良崎って動物好き?」
 と聞かれる。
「うん」
「やっぱり。そんな感じがした」
 花菱は笑う。
「ペット飼ってるの?」
「いや、うちペット不可のマンションだから。ほんとうはすごく飼いたいんだけど。特に犬」
「そっか……」
 おれの向かいに腰を下ろした花菱は、
「んじゃ、こいつ――マカロンっていうんだけど、自分の犬だと思って可愛がりに来てよ」
 という。

 「――っと、そうだ。ミスコンだよな」
 立ち上がり、「ちょっと待ってて」と部屋を出ていく。

 待っているあいだ、マカロンを抱っこし、部屋のなかをキョロキョロ見渡す。
 天井近くの壁一面に貼られたたくさんの額入りの賞状。
 スポーツ大会や、なんとかオリンピック、優良児童表彰……。

 窓際に置かれたベッドのヘッドボードには、飛行機のフィギュアが飾ってある。
 シンプルな学習机は、教科書や参考書がファイルボックスに入れられ、きれいに整頓されている。
 絨毯張りの床に転がった、マカロンのものらしき、犬用のおもちゃとクッション。

「お待たせ」
 数分後、戻ってきた花菱は、女物のワンピースやスカートを抱えていた。
 ベッドの上に放り投げ、
「これ、おれの姉ちゃんの」
 という。
「ちょっと着てみない?」
「えっ……!?」
「奈良崎、身長何センチ?」
「――ひゃ……172」
「うちの姉ちゃん、170なんだ。ちょうどいいかな」
「で、でも勝手に着たら、わるいだろ……」
「だいじょうぶ。姉ちゃん京都の大学行ってて、ほとんど帰ってこないから」
「……お姉さんって大学生?」
「ああ。京都大学の薬学部。バリバリのリケジョ。ちょっと――いや、だいぶ変わってんだ。ボロい学生寮に入って変な人に囲まれて楽しそうに暮らしてるよ」

(お姉さんも頭いいのか……)

「これなんていいんじゃないか?」
 サラサラした生地の淡い水玉のワンピースをおれのからだにあてがい、
「着てみなよ」
 という。
「で、でも……」
「いいから。あ――横向いてるから。着替え終わったらおしえて」

 花菱は、壁のほうを向き、マカロンと遊びはじめる。

 体育のときいつも教室で着替えてるのに――
 白いポロシャツとスラックスをコソコソ脱ぎ、白い丸襟のワンピースを被る。
 脇のチャックを上げ、
「……き、着替え終わった」
 と声をかける。
 マカロンを抱っこして振り返った花菱は、
「うわっ……」
 と目を大きく見ひらく。

  ……え?
 や、やっぱりヘン――なのかな……?

「すんげぇかわいい――」

 ――――はっ? 

「奈良崎、色白だし、線が細いからスカート似合うな。いいよ。うん。すっごくいい」
「そ……そう?」

 膝丈のスカートは、股のあたりがスース―してなんだか落ち着かない。

「うん。脚もきれいだし、襟が詰まってるから喉ぼとけも目立たないし。衣装はこれでいいんじゃないか? あとは出し物を何にするかだけど――」
「あ、それなら、もう考えてる」
「え、そうなの?」
「うん。これなんだけど――」

 脱いだスラックスから取り出したスマホの動画再生アプリを押す。
「この曲を歌おうかな、と思って」

 80年代女性アイドルのバラード曲。


 春色の汽車に乗って 海につれて行ってよ……

「……どっかで聴いたことあるな、この曲」
「最近動画サイトで昔の曲よく聴いてて。この曲いいなと思って歌いたくなったんだ」
「歌か。いいな。おまえ歌うまいから」
「べっ、べつにそんな……」
「いや。音楽のときも、奈良崎の声だけはきちんと聴きとれる。おれ、おまえの声――好きだよ」

 ――好き。
 そのことばに、胸がキュンっと疼く。

「と、とにかく曲はこれで――あとはウィッグとか、アクセサリーとか用意するよ」
「あ、買ったものはクラス費で落とすからレシートとっておいて」
「ああ……」

 心臓のドキドキがとまらない。
 こんな近くにいるのに――花菱に聞かれたら、どうしよう。

 近づいてくる恋の足音を、おれはまだ、それとわからずにいた。