「あー、セックスしてぇ~!」

 ――昼休み。
 そう叫んだ前の席の高瀬(たかせ)のことばに、おれはお弁当の卵焼きを落っことしそうになった。

「なー、ならさきぃ~。おまえ、セックスしたことある?」

 振り向き、顔を近づけながら聞いてくる高瀬に、
「そっ……そんなことっ――ないにきまっ……」
 と答えかけ、
「――いいたくない」
 そっぽを向き、卵焼きをぱくっと口に入れる。

「えー。なんだよ、ケチィ。教えろよぉ」
 むくれる高瀬に、
「オーガイ、おまえのそれ、セクハラだぞ」
 隣の席の花菱(はなびし)が、ズバッと切りこんでくる。

「いくら男子校とはいえ下ネタを大声で話すな。奈良崎(ならさき)が困ってるだろ」

(は、花菱……)
 おれはまぶしいくらいに整ったその顔を、横目で見る。

 ――花菱とは、2年のクラス替えではじめて同じクラスになった。
 1年のときは、隣のクラスだったが、いちども話したことはなかった。

 花菱は、いつもたくさんの友達に囲まれ楽しそうに笑っている、圧倒的陽キャタイプの人間だ。

 190センチくらいありそうな長身に、水泳部のエースというのが納得の、引き締まった逆三角形のスタイル。
 モデルみたいにスラッとしたカラダのてっぺんには、「イ・ケ・メ・ン!」としかいいようのない、完璧な顔がついている。

 きれいな並行線を描く二重まぶた。
 ヘーゼルがかった印象的な瞳。
 すらっと通った鼻筋に、かたちのよい薄めの唇。

 プールの塩素のせいで色素が抜けるのだろうか、肩先まで伸びた長い髪は、金と茶色の中間くらいの明るさ。
 そのせいか、少しチャラくも見える。
 けれど、花菱は、ものすごく真面目な男だった。


□□□

 その真面目さが明らかになったのは、1年のときの文化祭。
 うちは男子校なので、後夜祭で、女子とフォークダンスを踊る。
 文化祭に来てくれた女子に招待状を渡し、「踊ってください」とお願いするのだが、イケメンの場合、逆ナンされることも多い。
 後夜祭直前、10人以上の女子に取り囲まれた花菱は、「わたしと踊って!」「いやよ、わたしよ!」と文字通りひっぱりだこになった。
 フツーの思春期男子なら、鼻の下が10メートルくらい伸びてもおかしくないウハウハ案件。
 
 だが花菱はちがった。

 女子の輪の中心で、
「ごめんなさい!」
 深々と頭を下げたのだ。

「おれ、文実(ぶんじつ)だから、裏方専門というか――……みんなが楽しんでくれているところを見たいんです。だから誰とも踊ることはできません。ほんとうに、ごめんなさい!」

(……な……)

 それを見たおれは、目を疑った。
 文実(「文化祭実行委員」の略)でフォークダンス踊ってるヤツなんて山ほどいるのに――

 たぶん……花菱は、どのコとも、踊りたくなかったのかもしれない。
 でも正直にいうと女のコたちを傷つけてしまうから、あえてそう説明したんじゃないだろうか。

「えー」「そんなぁ~」とがっかりする女の子たちに、
「だったらおれと踊って!」
「おれも!」
 と近くにいた男たちが声をかけ、そのなかの何人かは、カップルになってフォークダンスを踊った。

 それを見る花菱の笑顔はとてもうれしそうで――――

(こいつ、イケメンなだけじゃなく、性格もめちゃいいヤツなんだなぁ……)
 おれは感動した。

 その日から、おれは花菱を目で追うようになった。
 2年生の新学期初日、
「隣の席? よろしくな!」
 教室の席で、花菱に大輪の花が咲いたような笑顔で話しかけられたとき、びっくりして心臓がとまるかと思った。
 
 花菱の名前は、「爽一朗(そういちろう)」といった。
 名前までウソみたいにさわやかだ。
 
 廊下の掲示板に貼りだされる、テスト上位者のトップ3にいつも載っている「花菱 爽一朗(はなびし そういちろう)」の名前。
 うちの学校は、東大に毎年30人くらいの合格者を出す、バリバリの進学校だ。

(イケメン要素に加えて、頭もいいなんて――)

 中学のときは地元の公立でトップだったものの、高校に入ってからは、鶏口牛後の後ろでジリジリしていたおれにとって、花菱の存在はまぶしすぎる太陽だった。


□□□

「んじゃ、花菱はセックスしたことある?」

 高瀬が花菱に話の矛先を向ける。
 高瀬の名前は、「高瀬 舟(たかせ しゅう)」。
 明治の文豪森鴎外(もりおうがい)の小説のタイトルと同じ名前なので、「オーガイ」と呼ばれている。

「ふ……ん」
 と不敵な笑みを見せた花菱は、
「おれはそういうのは好きなコとしかしないって決めてるから」
 という。

「好きなコ、いるの?」
 オーガイの質問に耳をダンボみたいに大きくするおれ。

「うーん、いまはまだいない……かな」

(いないんだ……)
 ちょっと――いや、かなりびっくりした。
 ぜったい彼女いると思ってたから。

「まぁどーせおまえはその気になったら選び放題なんだろうなぁ」
 急に興味を失ったように、くるっと前を向いたオーガイは、
「なぁ、ポーカーのメンツ足りないんだけど誰かやらねー?」
 という呼びかけに、「あ、やるやる!」と手を挙げ、席を立っていく。

 花菱とふたりになったおれは、
「――さ、さっきはどうも――」
 ぼそっと礼をいう。
「なんか――かばってくれたみたいで」
「いいよ。ぜんぜん」
 花菱は、にっこり笑う。
「そんなことより、奈良崎の弁当ってすごいうまそうだよな」
「……え?」
「いつも思ってた。色キレイだし、しょうが焼きとか、鶏のそぼろとか、おれの好きなもんばっかり。いいな、お母さん料理上手でうらやましい」
「こ、これは……」
 頬を赤く染め、
「自分で――つくってる」
 と打ち明ける。
「えっ? マジ?」
「ああ、うちの母親フルタイムで忙しいから――なるべく自分のことは自分でやろうと思って」
「……すごい。めっちゃえらい」
「簡単なメニューばっかりだし――たいしたことないよ」
「いや、すごいよ。うちも親が忙しいから弁当は作ってもらえないんだけど、自分で作ろうと思ったことなんていちどもないから。……毎日学食だと飽きるんだけどな」
 
 その日の花菱は、学食でテイクアウトした豚丼を食べていた。

「……だ、だったら――作ってやろうか?」
「……えっ? いいの?」
 花菱の大きな目が、丸くなる。

「うん、一個も二個もたいして変わらないし――さっきのお礼もしたいし――よかったら、明日から作ってきてやるよ」
「マジで……? めっちゃうれしい」

 宝石みたいにキラキラ輝く花菱の瞳に、おれはことばを失う。
 こんな――こんなきれいなモノが地球上に存在するんだ……
 
「お金払うよ。材料費かかるだろ」
「そんなのいらない。そのかわり――」
「ん?」
「できたら……時間あるときでいいから、勉強、教えてくれないか。おまえ頭いいだろ。……おれ、英語がマジでヤバくてさ、このままだと赤点かもしれないんだ」
「なんだそんなことか。いいよ」
「ほ……ほんとに?」
「ああ。人におしえるのって自分の振り返りにもなるし。――奈良崎って何部だっけ?」
「グリー部」

 グリー部は、男性合唱団のことだ。

「グリーだったら練習多いよな。だったら練習終わったら、教室戻ってきて。そこで勉強しよう」

 うちの学校は、夜の9時くらいまで教室に残って勉強することができる。

「……あ、ありがと」
「こっちこそ。おまえの弁当、すげー楽しみ!」
 豚丼を食べ終わった花菱が、立ち上がり、教室の前にあるゴミ箱に豚丼のカラ箱を捨てる。
「あ、今日からさっそく開始な。放課後、待ってるから」
 振り向き、白い歯の光るとびきりのスマイルを見せ、教室の外に飛び出していく。

 「よっしゃ! ロイヤルストレートフラッシュ!」
 トランプのあがりでガッツポーズするクラスメートの声が響く。

 7月の太陽が差し込む2階の教室、おれはりんごみたいに赤くなった頬をおさえる。
 花菱の笑顔が、まぶたの裏に焼きついて離れない。


 そのときのおれはまだ、花菱と恋に落ちることになるなんて、夢にも思っていなかった。