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 「花岡の下の名前、青(あお)って言うんだな」
 机に無造作に置かれていた花岡のプリントを見て、橘は何気なくそう口にした。
 瞬間、花岡が驚いたようにビクリと肩を揺らす。
 「……うん」
 いよいよ冬に向かうこの季節、建付けが悪く隙間風だらけの旧校舎はとにかく寒い。だと言うのに、花岡の顔は真っ赤だ。
 「かっこいいじゃん」
 「……爽やかすぎて、自分には似合わないかと」
 今日の第2科学室には、優しい花の香りが漂っている。
 カモミールは、少しフルーティーさもある柔らかな香り。リラックス効果に優れていて、寝る前にハーブティーで飲むこともあると花岡は説明してくれた。その精油は不思議なことにきれいな青だ。
 「青って何か優しいしイメージだし、似合ってると思うけどな」 
 「………」
 完全に照れたのか、花岡は黙りこくってしまった。とりあえず話題を変えようと、橘はもう一度プリントを見る。
 「――というか、もうそんな時期か」
 花岡の書きかけのプリントは進路希望調査表だった。
 2年生の冬。高校生活も折り返しに入り、周りも徐々に雰囲気が変わりつつある。
 「花岡はやっぱ理科系の大学行くの?」
 「……うん。前から行きたかった大学と、最近気になる所で迷ってる」
 花岡は成績優秀だ。基本的に運動部のイメージがあるこの学校では珍しいので、校内でも一目置かれている。
 「橘くんはもう提出した?」
 「なーんにも決まってない」
 橘は大げさにため息をつくと、名前すら書いてない白紙のプリントを取り出してヒラヒラと振った。
 「やりたいこととか、なりたいものとか全然わかんないんだよな」
 つい、本音がこぼれてしまう。
 「……だから、花岡が羨ましい。熱中できることがあるってすごいよな」
 「……僕からしたら、橘くんのほうがずっとすごいと思うけど」
 「買いかぶりすぎだって」
 橘は無い無い、と顔の前で手を振った。空気がかき混ぜられ、カモミールがふわりと香る。
 「俺が前に足遅いって話したの覚えてる?」
 橘の唐突な言葉に、花岡は戸惑った様子で頷く。
 「こんなんでも中学の時陸上部でさ。自分なりに必死で打ち込んだけど、全然駄目だった」
 ――走るのは好きだった。人一倍練習した自覚もある。でも、全く振り向いてもらえなかった。
 「部内でダントツのビリ。たまに大会出してもらっても当然ビリ。で、あんなに練習してるのに可哀想って目線がキツくなって辞めた」
 だから高校では部活をやらないと決めていた。中学の同級生がいない、ちょっと遠めの学校に進学し、ゆるくそれなりの学校生活を送ろうと考えていた。
 「……で、ここで花岡が何かやってんの知って。全然知らない世界だったけど楽しいし、花岡と仲良くなれたし」
 木枯らしでサッシがカタカタと揺れている。窓の外は、すっかり夜の暗さだ。
 「でもその一方で、花岡は好きなものと両想いなんだなーってずっと羨ましくもあった」
 自嘲気味に笑う橘に、花岡が息を呑んだ。そんな表情は見たことがない。
 ――今、自分はどんな顔をしているのだろうか。
 「……あのっ」 
 突如、花岡が立ち上がって机に置かれた橘の手を握りしめた。
 「え?どうした?」
 さすがに戸惑って、橘は握られた手と花岡の顔を交互に見る。
 「……橘くんのこと、知ってたんです」
 てのひらから、花岡の熱いくらいの体温が伝わってくる。
 「……最初のクラス発表の時、たまたま柑橘系みたいな名前の子がいるなって気づいて。クラスは違ってたけど、色んな人に名前呼ばれててすぐ橘くんだって分かって」
 ふと気がつくと、花岡の手は震えていた。
 「あの日、日直も本当は2人のはずなのに、1人でノート出しに行ってて。……後からもう1人が部活の大事な時期で、橘くんが引き受けたってクラスメイトから聞いて」
 橘はあの日のオレンジスウィートの香りを思い出す。甘くて爽やかで酸っぱくて、みずみずしくて。
 「……ずっと人見知りで、友達もほとんどできなくて……そんな自分が、こんな優しい人と友達になれるなんて思ってなくて、嬉しくて……」
 ――まるで初恋の香りだ。
 「だから、そんな風に笑わないでください」
 今にも泣き出しそうな花岡の顔が、橘の目に焼き付く。
 ああ、お願いだ。
 
 カモミール、早く鼓動を鎮めてくれ。