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 秋の夕暮れは早い。
 いつの間にか、放課後旧校舎に向かう頃には夕焼けが広がるようになっていて、橘がパク…拝借していた扇風機も元の教室へ返却した。
 今日も橘が薄暗い第2科学室に足を踏み入れると、爽やかな柑橘の香りが頬を撫でた。
 「……あ、この匂い好きだわ」
 「え、本当に?」
 橘の呟きに花岡が驚いたように目を丸くする。
 「これは、ビターオレンジだよ」
 今日は何かを抽出するのではなく、家から持ってきたアロマをあれこれ調合しているようだった。花岡は、その中の小瓶のひとつを橘に手渡してくれる。手で優しく扇ぐと、その名の通り少し苦みのあるオレンジが香った。
 「……そういえば、初めてここに来た時もオレンジの匂いがしてたな」
 橘がノートをぶちまけたあの日のことを思い出していると、花岡は懐かしい、とクスクス笑った。
 ――花岡はよく笑うようになった。目線が合わなかった頃から考えると、信じられないくらいに。
 「あれはまた違うオレンジで、オレンジスウィートっていう王道のオレンジで。種類は違うけど、どっちもリモネンっていうリラックス効果のある成分が含まれていて……」
 ただ、香りのことになると饒舌になるのだけは変わらない。なんだか微笑ましくて、無意識に橘の顔が緩む。
 「ちなみに、ビターオレンジの和名は橙(だいだい)。……橘くんの名前に入ってるのと同じ漢字」
 「え、俺の下の名前知ってたんだ」
 ちょっと驚いて橘が反射的に聞き返すと、恥ずかしかったのか花岡の顔が赤くなった。うん、とか何とか小さくゴニョゴニョ言っている。
 「……名前が柑橘系すぎるなって、前から思ってました」
 名前が柑橘系。一瞬きょとんとしたが、意味が分かり橘は吹き出す。「橘」も直「橙」も、柑橘の名前だ。
 「確かに。親は字面見て何も思わなかったんかな」
 初めて言われた、と笑う橘に、花岡はずっと恥ずかしそうにしたままだ。
 「だ、橙の別名は回青橙って言うんだけど」
 カイセイトウ?と橘がオウム返しすると、花岡は教壇まで歩き黒板に文字を書いた。
 ――回青橙。
 「橙の実は、冬にオレンジ色になってもそのまま残って春にまた緑になるからなんだけど、不思議だよね」
 振り返りながら花岡が微笑むと、ふわり、とビターオレンジが香った。爽やかでありながら落ち着いていて、少し苦味も感じる不思議な香り。
 「僕も、この香り好きです」