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 「キンモクセイ嗅ぐと物悲しい気持ちにならない?」
 第2科学室に入るや否やそう言った橘に、花岡は驚く様子もなくサラリと答える。
 「キンモクセイは安眠効果に優れる一方で心拍数や血圧も下げるから、落ち着き過ぎちゃうのかも……」
 焼けるような暑さも一段落し、蝉の大合唱が鈴虫の声に入れ替わった頃。
 旧校舎近くの植え込みからはキンモクセイの甘い香りが漂ってくるようになった。
 「まあ俺が夏生まれだから、夏の終わりが悲しいだけなのかもしれないけど」
 橘はそう呟くとカバンを椅子に置き、窓枠に腰掛け外を眺めた。夏と同じような晴天なのに、青の色が全く違う。
 「……誕生日、夏だったんだ」
 「言ってなかったっけ。7月18日だったけどプレゼントはお構いなく」
 横に並んで腰掛けた花岡に、橘は笑いかけた。涼しい風が花岡の白衣をはためかせる。
 「そういう花岡は?冬生まれ?」
 「……12月25日」
 「おお、クリスマス当日」
 「あるあるだけど、クリスマスプレゼントと誕生日プレゼントが一緒だった」
 机に戻り、実験器具を準備しながら花岡は苦笑する。当然ながら今日手元にあるのはキンモクセイの花だ。
 「最近キンモクセイの香りの物をよく見るけど、実は抽出が難しくてほとんどが合成香料なんだよね」
 「花岡ん家の店にあったやつは本物なんだ?」
 「そう、だから高い」
 橘は夏休みに店に行った時のことを思い出していた。……初めて友達が訪ねてきたことに感動した母親と姉に、熱烈な握手を求められたことは記憶に新しい。
 「てかキンモクセイって安眠効果あるんだ」
 「……寝れてない?」
 橘が花岡の手元を覗き込んで呟くと、花岡が少し心配そうにこちらを見上げた。
 「いや、枕変わると寝れなくてさ。来週修学旅行じゃん」
 蒸留が始まると、あたりに一層濃いキンモクセイの香りが漂い出す。花岡はああ、と合点がいったように頷いた。
 「花岡は自由行動何すんの?」
 「……あんまり決めてないけど、お香のお店には行きたいかな」
 修学旅行の行き先は京都。確かに和の香りのお土産がたくさんありそうだ。そう思う一方で、橘は少し悩んでいた。
 一緒にいることの多い丸山は彼女と、細川は部活の友達と自由行動を回るらしい。
 別にクラスで浮いている訳ではないし、誰かしら声を掛ければ一緒に行けるとは思う。でも。
 「あのさ」
 「あの!」
 同時に話してしまい、橘と花岡は目を見合わせる。譲り合った結果、花岡がおずおずと話し出した。
 「……もし、もしも空いてる時間があったら、一緒に回りませんか……」
 最後の方は消え入りそうなくらい小さな声。少し震えている手元。外された目線の代わりに、真っ赤な耳が感情を物語る。
 「……俺もそれ言おうと思ってたわ」
 なんとなく気恥ずかしくて、橘は軽い口調で返す。弾かれたように顔を上げた花岡の目が心なしかキラキラして見える。
 「じゃあどこで待ち合わせるか決めるかー。それか俺がそっち行くか」
 「……楽しみにしてます」
 嬉しそうに微笑む花岡を見て、橘は心の中で小さく呟く。
 ――誰かじゃなくて、花岡と行きたいんだよな。