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 「……わっ」
 髪から雫を滴らせる橘を見て、花岡は少し驚いたようだった。
 夏真っ盛りの第2科学室は相も変わらず灼熱だが、部屋には柑橘系の爽やかな香りが満ちている。
 「5限プールだったからさー。扇風機借りようと思って」
 橘は首から掛けたタオルで無造作に髪を拭い、古ぼけた扇風機の前に座り込む。
 「今どきこんなアナログな扇風機も珍しいよな。それにしても暑すぎる」
 「……アイス食べます?」
 「え、なんであんの?」
 「抽出に使ったレモンが余ったので、絞って凍らせたんです」
 そう言って花岡は得意げな顔で冷凍庫を開けた。色んな顔をするようになったな、なんて橘はちらりと思う。
 一緒になって覗き込むと、棒の刺さった試験管のような器がずらりと並んでいる。花岡から手渡された試験管を、橘は興味深く見つめた。
 「――明日から夏休みか」
 試験管を手で少し温め、棒を引き抜く。淡い黄色の細長いアイスキャンディだ。
 「花岡は夏休み何す……すっっっぱ!!」
 言葉の途中で橘は思わず叫んでしまった。
 「レモンまんまじゃねえかこれ!」
 「第2科学室に砂糖とかないので……」
 咳き込みながら睨む橘に、花岡は悪びれず笑いながら答える。……その笑顔に免じて許してしまえるのがちょっと癪だ。
 「……橘くんは夏休み、何するんですか」
 「短期バイトでプールの監視員するくらいしか決まってないかな」
 ふたり並んで扇風機を浴びる。濡れた髪を通り抜ける風は、ほんのりレモンの香りで心地よい。
 「花岡は?」
 「祖父母の田舎に帰るのと、店の手伝いですかね」
 それを聞いて、橘はふと気がつく。……そういえば花岡の店に行ったことがない。
 一緒に帰っても、学校から徒歩圏内の花岡と電車通学の橘は途中で別れるのだ。
 「じゃあ夏休み店遊びに行くわ」
 「――ええ?!」
 橘が何気なくそう言うと、花岡は驚いたように尻もちをついた。
 「え、そんなに嫌だった?」
 「嫌じゃない!けど……」
 花岡は真っ赤になった顔を手でパタパタと仰いでいる。
 「まあまあ。顔ちょっと見に行くだけだからさ」
 「……今まで、家に友達とか来たことなくて」
 照れ隠しなのか、花岡はおもむろに立ち上がってカーテンを開けた。痛いほどの強烈な日差しが部屋に差し込む。
 「恥ずかしいけど、ちょっと嬉しいかも」
 ――振り返ったその花岡の笑顔が眩しくて、橘は思わず目を細めた。
 レモンの酸っぱさを、一瞬忘れる眩しさだった。