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 その日から、橘は放課後に第2科学室へ寄ることが増えた。
 花岡の持ってきた器具のセッティングを手伝ったり、園芸委員に花を貰いに行ったり、近所のスーパーに買い出しに行ったり。橘がろくにしたこともないフルーツの皮むきに挑戦した際は、2人して目が血走るくらい緊張してしまった。
 蒸留したフレーバーウォーターやオイルは、花岡の手によって丁寧に小瓶に詰められていく。


 「匂いって、記憶と深く結びついてるんですよね」
 いつだったか、花岡がそう言ったことがあった。
 「じゃーこの微妙な匂いを嗅ぐ度に今日のこと思い出すのか。もう嗅ぎたくないんだけど」
 橘が笑いながら抽出に失敗した蒸留水を花岡に返すと、花岡も困ったように眉尻を下げて笑った。
 「うまくいくと思ったんだけどなあ……」
 花岡の敬語は相変わらずだったが、ふとした時に砕けた言い方もするようになっていた。本人に伝えることはしなかったが、橘はそれが少し嬉しかった。
  
 
 
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 「お疲れ……うわっ」
 いつものように第2科学室に入った瞬間、橘の鼻腔をツンとした香りが通り抜けた。
 「あ、橘くん」
 「……あれだ、掃除洗剤」
 さすがにトイレの洗剤とは言えず、橘は少しだけ言葉をボカす。匂いの正体は青々としたペパーミントだった。
 確かにそうだけど、と苦笑する花岡に、橘はペットボトルを渡した。いつの間にか、冷たい水を差し入れするのも定番になっていた。
 「しかし今日は暑いなー」
 いつの間にか季節は夏になり、容赦ない西日が古びた室内の気温をガンガン上げていた。旧校舎にクーラーなどないので、橘が他の教室から拝借してきた扇風機だけが生ぬるい風を送り続けている。
 「……ミントティーなら出せるけど、飲みます?」
 「いらんいらん。洗剤って言った後に飲めないって」
 橘が手を横に振ると、花岡はクスクスと笑った。
 「ペパーミントの香りは冷却効果があって、体感温度が下がるって言われてるから夏向けなんですよね」
 ミントの成分を詳しく語る花岡の説明を聞きながら、橘はなんとなく窓の外を見た。夕方とは思えない底抜けに青い空に、確かにミントはしっくりくる気がする。
 「そういえば、イランイランっていうアロマもあるんですよ。海外では結婚式に使われたりする、恋に効くって言われてるアロマで」
 「へー。恋に効くアロマねえ」
 男女比が大幅に偏っている学校のため、比較的恋愛の話になることは少ない。それでも他校の生徒と付き合ったり、ごく少数だが校内で恋愛してる生徒もいるにはいるが。橘にはあまり縁のない話だった。
 「……橘くんは、彼女いないんですか」
 「いたら毎日ここに来ないって」
 橘はそう笑うと、器具を洗う花岡の横に立った。
 花岡が洗った道具を受取り、橘がクロスで水滴を拭く。こういうことも慣れたものだ。
 「なんとなく付き合うより、誰かをちゃんと好きになって、その結果として付き合いたいんだよね」
 橘は水滴の拭き残しがないか確認しながらそう答えた。
 「――中学んときさ」
 橘は当時を思い出すように斜め上を見る。
 「隣のクラスの女子に告られて週末にデート行ったんだけど、その場で振られたんだよね」
 「……え」
 扇風機の弱々しい風が白衣を揺らす。蛇口を止める花岡の横顔は、少し困っているようにも見えた。
 「デートコースがしょぼすぎて論外だったらしい」
 ファストフードからのゲーセンは神だと思ってたのになー。橘は笑いながらペットボトルの水に口をつけた。
 「……悲しくなかったんですか」
 「いや、しょうもなさすぎて忘れてたレベルだし。どっちかっていうと、恋愛経験がこれしかないことのが悲しいくらいか」
 ミントの葉の抽出が終わったらしく、花岡が蒸留の器具をひとつひとつ外していく。瞬間、冷たい香りがブワっと教室に充満した。
 「うわ、ほんとに体感温度下がった気がする。すげーな」
 橘はふざけて腕をさする。
 「そういう花岡は、好きな人とかいないの」
 「……そもそも、恋愛以前に人とうまく喋れるようにならないとなので」
 「俺とは普通に喋れてるしいけると思うけどなあ」
 「橘くんだからですよ」
 俺?不思議に思って橘が聞き返すと、花岡は小さく頷いた。
 「突然香りの成分の話とかしても聞いてくれるし、急かさないで待ってくれるし……」
 ……なんだかこそばゆくて、橘は思わず頬をかいた。そんなことを素直なことが言える花岡の方がすごいと思ったが、それは口に出さなかった。
 うだるような暑さの中、ミントで下がった体温がまた少し上がったような気がする。
 ――これからトイレ掃除する度に、今日のことを思い出すのだろうか。そんな馬鹿げた考えが橘の頭をよぎった。