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 ただでさえいつも静かだった旧校舎は、もう息をしていないかのように静まりかえっていた。
 備品類は全て運び出されていて、科学室だった面影もほとんど感じられない。それでも、窓から見える景色だけは去年と変わらなかった。
 校舎真下の花壇。青々とした金木犀。グラウンドでは卒業を惜しむ生徒たちが、あちらこちらで歓声を上げている。
 橘が窓を開けると、少し暖かな南風が入ってきた。
 「花岡はいつ引っ越すの」
 「……来週末には」
 花岡の声は震えている。橘はそちらを振り返らず、小さく息を吸った。……大丈夫。ちゃんと言える。
 「……あのさ。この間の、なしにしていい?」
 息を呑む気配を背中に感じる。ここ数日、ずっと考えていたことだった。
 「花岡を困らせたいわけじゃないし、遠くに行っても今まで通り仲良くしたいなーと思って」
 難しいかもしれないけど、と誤魔化すように笑って振り向くと、橘はぎょっとした。
 「なんで花岡が泣いてるの」
 号泣と言っていいほど大粒の涙をこぼす花岡に、橘は慌てて駆け寄った。眼鏡の奥の瞳が、真っ赤に染まっている。
 「……ごめんなさい」
 「なにが。どうし――」
 瞬間、何が起こったのか全く分からなかった。
 花岡に二の腕のあたりを引っ張られる。勢い余って顔が大接近し……花岡の眼鏡と橘の鼻筋がぶつかった。
 「痛っ」
 顔を真っ赤にした花岡が小さく悲鳴をあげる。そして。

 今度はぶつからないようにゆっくり顔を近づけてきた花岡と、唇が触れ合った。
 柔らかくて、涙でちょっと湿っぽくて。それから、少しだけ遅れてビターオレンジと……嗅いだことのない、甘い香り。
 
 ゆっくり唇が離れていく。離れてもなお超至近距離にある花岡の潤んだ瞳には、多分真っ赤な自分が映っている。
 「ごめんなさい。橘くんが好きです」
 パニックになった橘の頭は、花岡の言葉を理解できない。唇を押さえてうろたえるだけだ。
 「……どういうこと」
 辛うじて絞り出せた言葉があまりに情けない。
 「……本当はずっと前から、好きでした」
 今まで何度も見てきたはずの花岡の赤面。なのに、今は自分も負けないくらい顔面が熱い。心臓の鼓動が速すぎて、息が苦しい。浅い呼吸を繰り返してしまう。
 「――ただ、分からなくて。初めてできた友達だから、友達として好きだからドキドキするのかもしれないと思ってて。なのに、橘くんが告白されてるの見たら、胸が痛くて」
 カーテンすら取り払われた窓から入る、生ぬるい春風がお互いの髪を揺らす。
 「……それで今、なかったことにしてほしいって……。彼女と付き合うのかなと思ったら、苦しくて」
 あの日、伸ばせなかった手。
 橘は今度こそ震える手で、花岡の頬に触れた。涙の跡を、指でそっと拭う。
 「……遅くなってごめんなさい。彼女じゃなくて、僕と付き合ってください」
 顔面の熱さと、目の前で起きたことの信じられなさと。処理が追いつかない脳の片隅に、ビターオレンジの香りだけが届く。恥ずかしくて、幻みたいで。でも。
 「……ふふ」
 恥ずかしいのは自分だけじゃない。それが触れている指先の熱さから伝わってくる。多分、今自分達は同じくらい真っ赤だ。 
 急に笑い声を漏らした橘に、花岡は困惑したように眉を下げた。その困り顔すら愛おしい。
 「花岡って時々、ものすごく大胆だよな」
 頬から指を離し、ゆっくり花岡の後頭部に手を伸ばす。軽く引き寄せると、小さな体は橘の腕の中にすっぽりと収まってしまった。
 薄い胸板から伝わる鼓動のスピードは、橘と同じくらい速い。
 「……じゃあ、今日から恋人同士ってことで。改めてよろしく」
 胸の中で小さく、花岡が頷く。嗅ぐ度に花岡を思い出していたビターオレンジの香りが、今は2人の間に充満している。
 

 「回青橙って、俺だけじゃなくて花岡の名前も入ってるよな」
 青と橙。ふと橘がそう呟くと、花岡がか細い声で答えた。
 「……本当はずっとそう思ってて、密かに嬉しかった」
 そんな花岡がいじらしくて、橘は思わずもう一度花岡を抱きしめ直す。……いつの間にか、こんなに好きになっていた。
 「……橘くんにとってのリモネンになれるように、頑張ります」
 「リラックス効果だっけ?告白が独特すぎるって」
 橘が思わず吹き出すと、腕の中の花岡もクスクスと笑う。
 ……なんだか幸せすぎて、目眩がした。


 これから先、ビターオレンジを嗅ぐ度に今日のことを思い出すだろう。
 願わくば、その思い出をどんどん積み重ねていけますように。