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 「なー、第2科学室って入ったことある?」
 橘の唐突な問いかけに、同じクラスの細川は怪訝な顔をした。
 「そもそもそんなとこあったっけ?」
 「旧校舎の3階」
 放課後のガヤガヤした教室は、雑談にはもってこいだ。
 「あー、昨日斎藤探してたんだっけ。そんなところにいたんだ」
 細川の後ろから顔を出した丸山が口を挟んできた。
 「いやいなかったんだけどさ」
 なんじゃそりゃ、と丸山が笑う。
 結局斎藤先生は職員室に戻って来ていて、完全なる入れ違いとなってしまった。
 古びた教室、夕焼け、オレンジの香り。見たこともない実験道具と、それについてぽつぽつと語る大人しそうな同級生。橘の脳裏に、昨日の風景が浮かび上がる。
 「じゃーおつかれ」
 「おー、部活頑張れ」
 男子のほうが圧倒的に多いこの高校では、部活加入率が高い。細川はサッカー部、丸山はバスケ部だ。橘のように何もしていない生徒の方が珍しい。普段は暇なクラスメイトと遊びに行くか、帰ってゲームするか、単発バイトに入るかなのだが。


 橘は自販機で水を2本買い、第2科学室へ向かうことにした。
 まだ明るいのに旧校舎はがらんとしていて、使用頻度の低さからか少し埃っぽい。
 昨日と違い開け放たれた入口から覗き込むと、今日も細身の白衣姿が見えた。
 「失礼しまーす。おつかれー」
 驚かせないように細心の注意を払いながら声を掛けたが、花岡はそれでも驚いたようにこちらを振り返った。
 「……えっと、また何か……?」
 「昨日邪魔しちゃって悪かったなと思って。これお詫び」 
 ほい、と橘がペットボトルの水を渡すと、花岡はますます困惑した表情を浮かべた。
 「水……?」
 「好き嫌いわかんないし、なんとなく匂いの無いもののがいいかと思って」
 「……それは、どうも……」
 実験器具が散らばる机に、2人でなんとなくもたれかかる。
 「今日は実験しないの?」
 「……本当は園芸委員に頼んで花壇の花をもらいたいんですけど」
 花岡がそこで言い淀む。
 橘は花岡の目線の先を辿る。窓のすぐ下には花壇があり、水やりをしているのは1年生の女子だ。
 「同性でも同級生でも緊張するのに、面識のない下級生の女子って声かけづらくて…」
 「俺ついてこうか?」
 橘の返答に花岡がバッと顔を上げる。そのあまりの勢いに、橘は思わずたじろいでしまった。
 「いいんですか?」
 「別にそんくらい」
 大人しそうだとは思っていたが、ここまで人見知りだとは。……そして、花岡と初めてマトモに目が合った気がする。


 
 花壇には、楽しげにホースで水やりをしている下級生。当然橘も面識がなかったが、背後で震える花岡を鑑みるに自分が声を掛けたほうが早そうだ。
 「あのー、ちょっといいですか」
 「はい?」
 「実は科学の実験で花使いたくて。花壇の花を分けて欲しいんだけど」
 ホースの手を止めて彼女は首をかしげる。
 「先輩科学部なんですか?」
 「いや、俺じゃなくて友達が」
 橘が指差した方を覗き込んだ彼女はああ、と頷いた。
 「顧問から花岡先輩来たら分けてやってくれって聞いてます。どうぞ」
 ……そんなに有名人なのか。
 驚く橘を尻目に、花岡はペコペコお辞儀しながら花を摘みはじめた。
 摘んでいるのは薄紫の小さな花。その細い背中を橘はぼんやり見守った。


 ふたりで下級生に礼を言って花壇を離れると、花岡が大きく息を吐いた。
 「助かりました………ありがとうございます」
 横に並んでみて気がついたが、花岡は随分小柄だ。そこそこ身長のある橘からすると見下ろす形になる。長めの髪から覗く耳は、緊張のせいか真っ赤だ。
 「……本当に、昔からずっと人見知りで。いい加減克服しないとって思ってるんですけど」
 「まあ、誰にでも苦手なことはあるし」
 旧校舎の薄暗い階段に、2人の声が響く。
 「そのぶん花岡は科学得意だし、良いんじゃない」
 俺なんて苦手なもののが多いしなーと橘が続けると、花岡が少しだけ目線を上げる。
 「……橘くんにも苦手なことが?」
 初めて名前を呼ばれたことに驚き、橘は虚を突かれた。というか、名乗ってたっけ。
 「俺めっちゃ走るの遅い」
 「……え」
 そんなに予想外の答えだったのか。目をぱちくりさせる花岡が珍しく、橘は吹き出してしまった。
 「そこまで意外だった?」
 「あ、ごめんなさい……」
 「あとブラックコーヒーも飲めないし、生の魚も食べれないし、数学全然出来ないし」
 回転寿司で玉子しか食べれん、と笑う橘につられたように、花岡がかすかに微笑んだ。
 ……あ、初めてちゃんと笑顔見た。だいぶぎこちないけど。
 踊り場に差し込む西日が、その珍しい光景を照らし出していた。


 
 相変わらず人気のない第2科学室に到着すると、花岡は打って変わってテキパキと実験の準備を整える。
 集めてきた花を洗い、昨日見たのとは違う実験装置に花と茎を詰め、アルコールランプに点火した。
 「この花は?」
 橘は机に残された薄紫の花びらを摘んで花岡に尋ねる。
 「ローズマリーです。時期的にもう終わりかけなんで、貰えるかなと思って」
 熱せられたフラスコがコポコポと音を立て、そこから伸びた細い管が花びらの入れ物に入っていく。
 「昨日とはやり方違うんだ?」
 「昨日はここにある道具で出来ないか試してたんですけど、やっぱり家にある器具のほうがいいなと思って持ってきました」
 家?橘が聞き返すと、花岡は伏し目がちにおずおずと答えた。
 「……実家がアロマオイルの店をやっていて。それで僕も香りとかに興味持って……家だと狭いしバタバタしてるから、ここを借りて色々実験してるんです」
 「へえー!すごいな」
 橘が素直にそう返すと、花岡は少しだけ目を見開いた。
 出来上がったローズマリーの蒸留水を嗅がせてもらう。いかにもハーブといった感じの、草っぽさと爽やかさが同居した香りだ。
 「ローズマリーの香りはリフレッシュ効果があるんです。単品だと強いんですけど、他のハーブと合わせてスッキリした香りにすることが多くて。ロスマリン酸っていう成分が……」
 滑らかな口調で語る花岡に、橘は少し驚く。最初の印象とは全く違う。イキイキとして、楽しそうで。
 橘が相槌を打ちながら聞いていると、ふいに花岡が言葉を止めた。
 「……ごめんなさい」
 「ん?なにが?」
 花岡が、ぎゅっと白衣の裾を握っている。
 「……急にペラペラ喋りだして。こういう所が駄目なんですよね……」
 そうか?橘はそう呟いて首をかしげる。
 「好きなことがあって、こんなに熱中できる方がすごいよ」
 自分が全然知らない話聞くの面白いし、と橘は花岡に笑いかける。
 ふいに吹き込んだ南風が、カーテンを揺らす。夕日に照らされた花岡の表情は、何故か少し泣き出しそうに見えた。
 

 「そういや、同級生なんだし敬語じゃなくていいよ」
 帰り際に橘が差し込んでみると、花岡は「……善処します」と小さく頷いた。もうすでに敬語だが、出会った日に比べれば慣れてきてくれている……気がする。
 鍵を返しに行く花岡と別れ、小瓶に分けてもらったローズマリーの蒸留水を改めて嗅いでみる。好きな香りとは言い難いのに、自然と口角が上がるのを感じた。