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 「……花岡!」
 バイト終わり、橘が息を切らして待ち合わせのモニュメントの下に駆け込むと、花岡がゆっくりこちらを振り向いた。
 「バイト、お疲れ様」
 「ごめん、遅くなった」
 大丈夫だよと笑う花岡の顔色は暗い所がなく、橘はなんとなく全てを悟った。嬉しさと安堵と、ほんの少しの胸の痛み。
 「……歩こう」
 どちらともなくそう呟く。橘と花岡の最寄りの中間地点にあるこの駅は降りたことがほとんどない。行き先もわからないまま、2人は歩き出した。
 
 「――大学、合格したよ」
 馴染みのない国道沿い。行き交う車の雑音の中から、花岡の声がまっすぐ聞こえてきた。
 「おめでとう」
 橘は花岡に向かって微笑んだ。心の底からの本心。その更に奥底は、見ないふりをした。
 「ずっと頑張ってたもんな。本当に良かった」
 「……橘くんと仲良くならなかったら、頑張れなかったと思う」
 花岡の震えるか細い声を、橘はじっと聞いていた。
 「高校の楽しい思い出も、受験勉強中の支えも全部橘くんだった」
 轟音を上げてトラックが通り過ぎる。巻き起こった風が花岡の前髪を揺らし、その表情を露わにした。
 「本当にありがとう」 
 ……何かを、勘違いしてしまいそうになる。
 そんな笑顔、自分に見せないでほしい。
 そんな笑顔、自分以外に見せないでほしい。
 橘の胸に矛盾した気持ちがこみ上げる。

 「……実は、ちょっと迷ってた。第一志望に受かったら、橘くんと会えなくなるかもしれないから」
 ――寂しくて。花岡かぽつりと漏らした言葉に、橘の足が止まる。
 3月の夜はまだまだ冷える。そのはずなのに、体温とか顔の持つ熱がぐんぐん上がっていくのを感じる。爆発しそうなくらい、鼓動がうるさい。カラカラに乾いた口を小さく開けて、呼吸するのが精一杯だ。
 寂しい。ずっと橘の心の奥底にこびりついていて、でも絶対に認めてはいけない感情だった。花岡の邪魔をしたくなかった。
 ――それを、同じ風に思っていてくれたなんて。

 橘は街灯に照らされた花岡の顔をまっすぐ見据える。
 この気持ちは言わなくていい。自分から関係性を断ち切ることになるかもしれない。純粋に友達だと思ってくれているのなら、迷惑かもしれない。すぐに離れ離れになるのだから、待っていれば友達としての感情に戻れる。
 頭の中でいくつも言い訳が浮かんで、多分それが正解なのに。――ぐるぐる回って、同じ場所に留まって。それでいいのだろうか。


 ピカピカ光るファミリーレストランの看板。派手派手しいパチンコ屋のネオン。あの旧校舎とは全く違う、懐かしくもなんともない風景が、非現実的な今を余計浮かび上がらせる。 
 「前に、花岡が匂いと記憶は結びついてるって言ってたけど」
 花岡は黙ってこちらを見上げている。潤んだような目が自分をまっすぐ見つめていて、それすら愛しく思える。
 「ビターオレンジを嗅ぐ度、花岡のこと思い出して頑張れた」

 「――俺、花岡のことが好き」


 言ってしまってからは、時間が止まったみたいだった。
 もうトラックの轟音も、まばゆいネオンも橘には届かない。世界が自分と花岡だけのような気になってしまう。
 ただひとつ分かるのは。
 「……ごめん。困らせたくなかったから、言わないつもりだったんだけど」
 こちらを凝視し微動だにしない花岡に手を伸ばしかけて、コートのポケットにしまい直す。
 伸ばせば届きそうな距離にいるのに、届かない。
 「……帰ろう」
 花岡が口を開くより先に、橘はそう言って来た道を戻りだした。花岡は何も言わなかった。
 橘は振り返れなかった。恥ずかしさとか恐怖とか、でも少しだけ解放されたような気持ちもあって。
 春の夜風だけが、2人の間を吹き抜けていった。