◆◆◆
 誕生日の日から、花岡との距離が少しだけ変わった。連絡先を交換してたまに通話するようになったのだ。
 時間は主に、花岡の予備校終わりの夜。
 頭が良い花岡でも勉強についていくのは大変らしく、愚痴……とまではいかなくとも、疲れたことや辛かったことをぽつぽつと語ってくれた。
 焦りがなくなったわけではない。でも。
 『――むしろ打ち明けてくれて嬉しかった』
 花岡が言ってくれた言葉を、橘はそっくりそのまま反芻する。  
 何にもできなくても、せめて寄り添ってあげられれば。

 
 それから、たまにお昼を一緒に食べるようにもなった。
 これは橘からの提案だった。
 もうすぐ取り壊されてしまう、ガランとした第2科学室。
 卒業後、今のようにほぼ毎日顔を合わせることもなくなるであろう自分達。
 だったら今、後悔しないようにしたいと思ったのだ。
 短い秋が過ぎればあっという間に冬が来て、受験本番になる。それまで少しでも傍にいたかった。


 「……橘くん、最近は眠れてる?」
 「おかげさまで。花岡こそ寝れてるの」
 「うん……」
 花岡が頷きながらも小さくあくびをする。
 涼しい風が吹きこむようになってきた第2科学室で、橘と花岡は並んで昼ごはんを食べていた。
 「……眠かったら寝てていいよ。予鈴鳴ったら起こすし」
 橘がそう言うと、花岡はじゃあ少しだけ……と机に腕を投げ出した。横向きに寝転ぶと、眼鏡が少しズレる。
 「危ないから眼鏡外しな」
 橘がそっと花岡の眼鏡に触れようとすると、花岡は驚いたようにびくりと体を揺らした。
 「……あ、ごめん。勝手に触って」
 「ううん!大丈夫。大丈夫……」
 顔を赤らめ、視線をそらす花岡に橘も少し恥ずかしくなる。馴れ馴れしすぎたか。
 「橘くんは、本当に優しいね」
 逆方向を向いた花岡が小さな声で呟く。こちらからは、真っ赤な耳しか見ることができない。
 「……橘くんと付き合える人は幸せだね」
 ――前にも、恋愛の話になった。中学時代の恋愛とも言えないエピソードを引っ張り出して笑っていた。
 今回もそうすればいいだけなのに、あの時とは全く心境が違ってしまっている。
 勝手に速くなる鼓動も、涼しいはずなのに背中にかいてしまう汗も。全てが、橘に違う感情を訴えかける。
 「……好きな人がいるって言ったら、どう思う?」
 逡巡した橘の口から出たのはそんな言葉だった。言ってから恐る恐る、花岡の様子を伺う。
 「……寝てるか」
 答えず静かなままの花岡の後頭部に、橘は少しホッとする。
 このまましばらく眺めていたい。ふいにそう思って、橘は花岡と同じ方向に寝転んだ。
 いつまでこうしていられるだろうか。いつまで、この気持ちを隠しておけるだろうか。

 
 
 純粋に慕ってくれている気持ちを裏切りたくない。余計なことを考えさせて、受験の邪魔をしたくない。
 そして何より、関係性を終わらせたくない。
 ビターオレンジを嗅ぐ度に思い浮かべては、そういった言葉で蓋をする。
 また春が来れば、熟した果実もきっと青に戻る。