――嬉しかったのに。
 橘は階段を駆け上がりながら頬の雫をぬぐった。汗か、涙かもわからない。
 咄嗟に走り出したせいで、入口とは反対側に来てしまった。
 あんなことを言ってしまって、もう花岡に合わせる顔がない。なのに、無意識に橘の足は3階へ向かっていた。
 ――普段は鍵のかかっているはずの第2科学室。引き戸に手をかけると、簡単に扉が開いた。
 中はガランとしている。去年の夏にレモンアイスを入れた冷凍庫はなくなり、幾度となく実験器具を取り出した棚は空っぽになっていた。
 全部、終わったんだ。
 自分のせいなのに、胸が痛くて仕方ない。関係ないのに、旧校舎取り壊しすら自分のせいのように思えてしまう。
 「――くん!」
 ぐい、と突然後ろから腕を引かれ、橘は思わずよろめいた。
 瞬間、一筋だけ眦から冷たい物が流れ落ちる。
 「はな、おか」
 息を切らし、怒ったような表情の花岡の顔が至近距離にあった。橘は驚きでかすれた声を出すのが精一杯だった。
 「……ビターオレンジは、爽やかな中に苦味のある香りなんです」
 唐突にそう言った花岡の顔を、橘はまじまじと見つめる。みずみずしさの中に少しスパイシーさのある、花と果物の香りが鼻腔をくすぐった。
 「……僕はずっと、友達がいなくて。そこに突然、橘くんが現れて」
 あの日香った爽やかで甘いオレンジとは別物だ。まぶたの裏に、夕焼けに浮かび上がる花岡の映像が映し出された。
 「優しくて、一緒にいると楽しくて。僕にとっては橘くんのほうがずっと眩しくて」
 小瓶を持つ花岡の手が震えている。落としてしまわないか不安で、橘は思わず自分の手を添えた。
 「……でも、格好つけず自分の苦しい心も素直に教えてくれて。名前だけじゃなくて、苦味のあるビターオレンジが似合う人だなって思ってて」
 ――ああ。橘はその瞬間、自分の気持ちに気づいてしまった。
 赤い顔を更に真っ赤にして、最早泣き出しそうですらある花岡に、橘は一歩近づく。
 「今回も、むしろ打ち明けてくれて嬉しかった。そういうの全部含めて橘くんだと思うから……受け取ってください」
 もう逃げようがなかった。誤魔化しようがなかった。
 真剣でまっすぐな表情の花岡に、橘は柔らかく微笑んだ。添えた手からそっと、小瓶を受け取る。
 「……ありがとう」
 
 でも、その後に続く言葉は、どうしても言えなかった。