ちょっと来てほしい、と花岡に声を掛けられ、2人は旧校舎に足を踏み入れた。入ってすぐ、例の掲示板が目に入る。
 「――ここ、壊すらしいな」
 「えっ?……本当だ」
 取り壊しを知らなかったのか、花岡は目を丸くした。
 「……僕達の卒業と同時期か……」
 横に並んで貼り紙を見ていると、花岡がぽつりと呟いた。
 卒業。その頃、自分は――ひいては、自分達はどうなっているだろうか。そんなことを考えているのは、もしかしたら自分だけかも知れないけれど。
 「……で、今日はどうした?」
 橘は邪念を振り払うと、花岡に向き直った。――今のところ、普通に振る舞えているはずだ。
 「あの、」
 すると、花岡は言い淀んで恥ずかしそうに俯いた。そんな花岡を見下ろすと、橘は懐かしい気持ちに包まれた。
 真っ赤になる耳、眼鏡の下の合わない視線、動くたび揺れるサラサラの黒髪。
 去年、誰よりも隣で見てきた姿。
 「……今日、橘くん誕生日だよね」
 「え?……本当だ」
 普通に忘れていた。橘がスマホの画面を確認すると、確かに日付は7月18日。
 「これ、良かったら貰ってください」
 意を決したように、花岡が真っ赤な顔で何かを突き出す。まるでバレンタインに告白するかのような勢いで、橘の鼓動が一瞬速まった。
 「開けていい?……ごめん、もう開けてるわ」
 少しだけ震える手で包みを開ける。中から出てきたのは、見慣れた小瓶だった。
 「……ビターオレンジと、カモミール。安眠とリラックス効果……なんだか、眠れてなさそうだったから」
 「どうしてそれを?」
 「すれ違った時にクマができてて、ずっと気になってて。あと、前にビターオレンジの香りが好きだって言ってたから」 
 橘の鼓動が更に速くなる。自分のことを見てくれていて、言ったことを覚えてくれていた嬉しさ。それと同時に……橘の胸に広がったのは苦味にも似た感情だった。
 自分のことしか考えていなかった自分。花岡はこんなにも、純粋に自分のことを考えて、時間を割いてくれたのに。
 「……ごめん」
 口をついて出たのは、感謝ではなく謝罪の言葉だった。
 「……花岡には夢があって、いつも頑張ってて、周りとも打ち解けていって」
 ぐるぐるぐるぐると、ずっと同じ場所から進めない自分とは大違いで。
 「……眩しすぎて、勝手に苦しくなってた。それで、無意識に避けてて」
 心臓が、さっきとは別の意味でうるさい。なんでこんな格好悪いこと言ってるんだろう。
 「……なのに、そんな自分のために花岡はここまで考えてくれて。俺にプレゼントを受け取る資格なんてない。……ごめん」
 最後は花岡の顔も見れなかった。そっと花岡の胸にプレゼントを押し付けると、橘は踵を返した。