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 橘は予備校へ通う代わりに、放課後図書室で勉強するようになった。無理をしなければ合格できる志望校だったのも大きいが、念のため旧校舎に寄ってからでも勉強できるからだ。
 ……なのに。
 気がつけば、橘は花岡のことを避けるようになっていた。 
 廊下ですれ違って、軽く目を合わせることはある。それでも何人か分の距離が空いていて、ごく一瞬だけの関わり。
 会いたいのに、会いたくない。自分の心がぐちゃぐちゃで、整理をつけられない。
 そして何より、雪の日に絡まってしまった自分の気持ちを花岡に知られたくなかった。
 いつの間にか、第2科学室に寄ることもなくなっていた。
 
 その代わり、放課後橘は自動販売機に立ち寄ることが多くなった。花岡に、いつも水を買っていた自販機。
 橘はコーヒー牛乳のボタンを押しかけて、思い直して缶のブラックコーヒーを選んだ。ブラックコーヒーは苦手だ。でも。
 ――『香りを嗅ぎすぎて匂いがわからなくなったら、一旦コーヒー豆でリセットするんですよ』
 そう言って花岡はよくコーヒー豆を持参していた。
 些細なことですら、すぐに花岡を思い出してしまう。飲み干したブラックコーヒーはやっぱり苦すぎて、橘は髪をくしゃりと握った。
 ……この気持ちも、コーヒーと一緒にリセットできたらいいのに。

 そうこうしているうちに、受験生の正念場の夏に突入した。

 
 
 橘の家は高校からそこそこ遠いので、明日からの夏休みは図書室ではなく地元の図書館へ行こうと考えていた。
 うだるような暑さにうんざりして、橘は冷却用のミントのスプレーを首元にかける。瞬間、脳裏に去年の夏が蘇った。
 あれはもっと青臭くて、楽しくて。ひとりじゃなくて。
 笑いあった花岡の顔を、昨日のことのように思い出せる。思い出せるのに、横にはいない。
 ――今日はもう帰ろう。
 「……橘くん」
 あまりの日差しに昇降口で躊躇していた橘を、小さな声が呼び止めた。久々に聞いた声に、心臓が大きな音を立てる。
 「……花岡」
 振り返ると、花岡が少し緊張した面持ちで立っていた。白衣ではなく、白いブラウスが夏の日差しを受けて浮かび上がっているように見える。
 「――元気?」
 ――できる限り平常心で、冷静に。
 橘は心のなかで唱えながら、花岡に微笑みかけた。