その出会いはオレンジの香りがした。


 重いノートの束を抱え、廊下をよろよろと歩く。
 初夏に差し掛かろうとする放課後の校内はどこもかしこも賑やかで、1人で汗をかいているのなど自分――橘直橙(たちばななおと)だけのような気さえしていた。
 日直として科学のノートを集めたはいいが、肝心の担当教師がどこにもいない。職員室、科学室、準備室と回っても見当たらず、残る心当たりはひとつしかなかった。

 旧校舎の第2科学室。
 もともとあまり使われていない旧校舎の、更に何に使っているのか謎の部屋だ。2年生になった現在まで一度も足を踏み入れたことがない。
 まあこんなことでもないと行くことないか。少しの好奇心と、今度こそここにいてくれという祈りの気持ちを込めて橘は引き戸を引いた。


 瞬間、風が吹いた。
 少し遅れて、ふわりと甘くて青臭い、柑橘のような香り。
 夕焼けの真っ赤な逆光。思わず目を細めると、細い影がこちらを振り向く。

 「――え、わっ?!」
 

 小さな声の後、ガン!ゴン!と何かにぶつかったような音が響き、橘は咄嗟にノートを投げ捨てて影に駆け寄った。
 「――だ、大丈夫?」
 小さな影……白衣を着た細身の男子生徒は、突然の乱入者に驚いて尻もちをついたようだった。
 「スミマセン、人がいると思わなくて」
 橘が謝りながら手を差し伸べると、彼はいや、あの、と何やらモゴモゴ呟きながらも手を取りゆっくり立ち上がる。
 「どこかぶつけた?」
 顔を真っ赤にして首を振る彼に安堵し、橘はぐるりと周囲を見渡す。この教室には彼1人しかいないようだった。
 そして、机には実験道具。フラスコが複数繋がれていて、その中のひとつにはオレンジ色の何かが詰め込まれている。
 「……あの、何かご用でしょうか……」
 謎の用具をまじまじと見つめていると、至近距離から消え入りそうな声が聞こえた。橘はそこで彼の手を握りっぱなしだったことに気づく。
 「うわごめん!これ、何だろうと思って」
 「……蒸留の器具です」
 蒸留?と橘が聞き返すと、彼は小声で丁寧に説明してくれた。
 「……蒸気の力で香りを抽出するんです。オレンジの皮を煮出して、出てきた蒸気を冷やして。その時に出る水と油に香りが移るんです」
 彼がビーカーを手に取ると、ふわりと爽やかな香りが鼻腔をくすぐる。この部屋に入ってきた時の香りだ。
 「へえ……」
 橘が思わず顔を近づけて香りを嗅ぐと、彼は驚いたようにビクリと体を動かした。サラサラの黒髪が視界の端で揺れる。
 「すげーいい匂い。100%ジュースみたいな」
 偏差値2くらいの橘の感想に、縁無し眼鏡の奥で小動物めいた彼の目が若干細くなる。……顔を、どこかで見たことがある気がする。
 「科学部の活動?」
 「いえ、斎藤先生から許可をもらって」
 そこで橘は我に返った。そういえばノート!
 橘が勢いよく入口を振り返ると、ノートは見るも無惨に散らばっている。本来の目的をすっかり忘れていた。
 やばい、と慌ててノートを拾い集めながら、そこでふと思い出す。
 「B組の花岡、だよな?科学の何かで表彰されてた」
 夕焼けを背にした彼――花岡が驚いたように瞬きをする。
 「とりあえずお邪魔しました!実験頑張って!」
 彼の返答も待たず、橘は廊下に飛び出した。最後の一瞬まで、オレンジの香りが漂っていた。