巌の予想どおり、避難所へ指定された近所の小学校はこれ以上ないほどの混乱ぶりだった。
地震が起きてからまだ数時間足らずだ。それでも着の身着のままといった人たちが険しい顔つきで押しよせていた。ヒステリックな声も響いている。
「避難所はまだできていないのかな」
「担当の区役所職員くらいは到着しているはずだがな。町内会の連中と合流するか」
こっちだ、と巌はどんどん人波をかきわけて中へと進んでいく。
そのうちに「乙部さーん」と声が聞こえた。町内会婦人部長の小清水が手を振っていた。隣に町内会防災部長の沼田も立っている。あらかじめ巌が連絡を入れておいたのだろう。
巌は二人へ頭をさげる。
「世話になります。娘をよろしくお願いします」
「なんもさ。こっちこそ道庁を頼みます」、「柚月ちゃんは気が回るから手伝ってもらえるなら大助かりだあ」と二人は柚月の背中を叩く。
普段から町内会の防災訓練で見知った顔なので柚月も心強い。
巌は「じゃあな」と柚月の頭を撫でて、すぐに背中を向けた。
え、もう? 眉がよったけれど、不安になっている場合ではない。「いってらっしゃい」と声をかけて小清水へ振り向いた。
「なにからすればいいですか?」
「避難訓練どおりに避難所を作っている最中なんだわ。でも人手が足りなくてね。立ち入り禁止区域のテープ貼りもまだなんだわ。妊婦さんスペースもまだできてなくてさ」
「じゃあわたし、そっちの手伝いにいきます」
「ああいやいや、柚月ちゃんは受付の手伝いへ入ってくれるかい? あそこが一番ひどいんだわ。避難所はみんなが使うところだって、ちゃんと伝えなくちゃいけないから手間取ってんのさ」
「わかりました」と答えて校舎中央玄関前へ走った。
数脚の長テーブルが出て『受付』の表示が出ていた。
二十代後半くらいの女性がひとりで対応をしている。区役所の職員なのだろう。
その女性へ人が押しよせていた。「小清水さんにいわれて」と伝えると「助かります」と泣きそうな顔を向けられた。
柚月は受付後の問い合わせを請け負うことになった。受付を終えても「それでどこいけばいいの」と繰り返す人が多くて受付周辺の人波は一向に減らなかったからだ。
土足厳禁だと伝えても、そのまま足早に進む人もいる。盲導犬や介助犬以外のペットはいまのところは待機して欲しいと頼んでも、「猫なんだからいいっしょ」とか「ウチだって子犬だから」と押し切られる。
そこに「ウチの子は猫アレルギーなんでっ」と尖った声が飛び、そこかしこでいざこざが起きていた。
加えて余震だ。震度4くらいの余震がひっきりなしに起きていた。
巌に育てられた柚月は「また揺れたなあ」くらいにしか思わなくなっていたけれど、中にはしゃがみ込む人もいた。
そのまま動けなくなる人もいる。区役所の職員の中にもそういう人が何人かいた。そのたびに作業は中断する。
「……お父さんがいっていた『人手が足りない』ってこういうことか」
嘆いても仕方がない。動くことができる自分が代わりに動こう。
そう気合を入れて避難所のあちこちを動き回った、そんなときだった。「あれー?」と声をかけられた。
「乙部でしょ。久しぶりー」
振り向くと中学の同級生男子が立っていた。高校は別なので顔を合わせるのは中学の卒業式以来だ。
「なにしてんの? 雑用? 張り切ってるね」
口を開きかけると「ホントだ。乙部だ」と女性の声がする。これまた中学の同級生だった。
「避難所でも仕切ってんの? さすがすぎるっていうか──ウケるわ」
「昔からそういうトコあったよね。なんていうの? いい子?」
「ちょっと止めなよ」、「あはは、そうだね」と二人はいい合い「あー」とわざとらしく続けた。
「おれらも手伝うべき? でもさー。乙部の足を引っ張るとマズいっしょ」
「あたしもお母さんになんかいわれるかもだし。おばあちゃんの手伝いもあるし。まあガンバって」
すれ違いざまにボソリと「お前ムカつく」と告げられた。柚月は黙って同級生の背中を見送る。
……わたし、あの子たちになにかしたかなあ。
うつむきかけると足元が揺れた。地震だ。そうだ。いまは落ち込んでいる場合じゃない。両手で軽く頬を叩いて受付へ戻る。
けれど柚月の働きを快く思わない人たちはそれからも現れた。
「嬢ちゃん、もうボランティア? ひとり目立ってなんの点数稼ぎだい?」と中年男性から声をかけられ、避難所でのルールの用紙を手渡した青年から「なんであんたみたいなガキにこんな注意されんの」と小声で返された。「そったらはんかくさい(馬鹿らしい)こと、いうんでない(いうな)。こっちはわや(大変)なんだわ」と年配女性から怒鳴られることもあった。
そのたびに無理やり笑顔を作って乗り越えた。
お父さんだってがんばっているんだから。嫌な気持ちに飲み込まれている場合じゃない。
とにかくびっくりするくらいやることがある。
受付の手伝い以外に飛び入りの作業が山ほど入る。
コロコロ変わる共通ルールを知らせて回り、掲示板へ日本語と英語で貼り出し作業だ。
体育館の避難スペース配分も避難者に応じてどんどん変わり、そのたびにパーテンション用段ボールの移動がある。避難所設営後数時間なので、あれやこれやと変更の嵐だ。
どれくらい夢中で動いていただろう。
グランドで到着した物資の荷下ろし作業をしていたときだ。
「柚月さん?」と声がした。
公武が立っていた。
「ああやっぱり柚月さんだ」
受付は済ませたのか、ボディバッグを肩からさげた身軽な格好だ。
昨日会ったばかりなのに、どうしてだろう。公武の顔を見たら張り詰めていた気持ちがいっきに緩んでいく。気づくと頬を涙が伝っていた。
「ど、どうしました?」と公武が顔色を変える。あ、いえ、と柚月はあわてて頬をぬぐう。
「ちょっとホッとしちゃって」
「……地震大変でしたから。ご無事でよかった」
「父が防災マニアみたいになっていたので、あれこれ準備がしてありました。自宅はほぼ被害なしです」
「コップひとつ割れなかったということですか?」
「本一冊も落ちませんでした」
「さすがすぎる。僕の部屋はもうめちゃくちゃですよ。食器棚がひっくり返っちゃいました。水も出ないし電気も止まるし、余震も続くので早々にここへきました」
そういって公武は柚月の背後を見回した。
「おひとりですか? 乙部先生は?」
「道庁の対策本部へ。わたしはここを手伝うようにいわれて」
なるほど、と公武は大きくうなずく。
「なら僕も手伝います」
「本当ですか?」と明るい声が出た。
それを聞いて返って公武は眉をよせた。
「……なにかあったんですか? 泣かれるほどつらいことが?」
いえ、と首を振ったけれど、公武は珍しく「柚月さん」と言葉を重ねた。柚月は小さく息をはく。
「ここへお手伝いにきて数時間ですけど、いろいろいわれたんです。どうも目障りだったらしくて。手伝いを出しゃばっているって思う方もいて」
え? と公武の顔が険しくなる。
「区役所の人や町内会の人に混じって荷物を運んだりしていただけなんですけど。生意気に見えたんでしょうね」
柚月さん、と公武はまっすぐに柚月の目を見る。
「文句をいった人たちは柚月さんを手伝ってくれたんですか?」
えっと、と口ごもる。胸の奥がざらついた。これ以上は悪口になるみたいでいいたくない。だから、その、と顔をあげる。
「でも、そんなこと、なんでもないんだ、って気を張って動いてきて。そこで公武さんにお会いできて、気が抜けちゃいました。すみません」
公武が膝を屈めて柚月の肩へ両手を乗せた。目線を柚月へ合わせてくる。
「地震が起きて、みんなが動転して、どうしたらいいのかわからなくなって気持ちがけば立っているときに、柚月さんはみんなのために動いてくださっていた。すごいことです。しかも笑顔で。あなたの笑顔を見て僕はとてもホッとしました。ほかの方もそうでしょう。本当にあなたはすごい。──尊敬します」
そんな、と頬に手を当てる。また泣きそうだ。必死でこらえて笑顔を作る。
「でもよかった。笑顔で作業できていたんですね。──祖母によくいわれたんです。忙しいときほど笑顔でいなさいって。そうじゃないと『イソガシオニ』にとらわれて、もっと忙しくなるよって」
「イソガシオニ?」
「祖母が作った悪い鬼のようです。しかめっ面でたくさんの作業をこなしていると、もっと作業がふりかかるよっていわれました。いまなら負の連鎖だってわかりますけど、小さいころは怖かったなあ」
「うまいことをおっしゃいますねえ。では僕も『忙し鬼』にとらわれないよう笑顔を心がけます」
それから、と小声で続ける。
「迷惑かもしれませんが、これから作業はご一緒させていただいていいでしょうか。──非常時です。どんないい人でも気持ちに余裕がなくなっています。こんないい方は嫌ですけれど、柚月さんを力のない女性だと侮って、強引に出る人もいるかもしれません。弱いふりをして柚月さんに危害を加えようとするかもしれない」
停電もしているだろうから暗いところは危険だし、余震でなにかが落下してきてもひとりだったら気づきにくいし、と公武は真顔で続けた。
しみじみと公武が自分を心配してくれているのが伝わった。言葉の途中で公武は「あ」と動きを止める。
「すみません。しつこかったですね」
「いいえ。ありがとうございます。ご一緒にお願いできますか?」
はい、と公武はまぶしいほどの笑顔になる。
それから──。
公武の働きに柚月は目を見張った。
重い荷物を手にした年配者を見つけると体育館の町内会区分エリアまで荷物を運び、途中で声をかけられた外国人には流暢な英語でトイレの場所を伝えた。
「僕の背丈が役立つかもです」とテント設営へも率先して手伝いに回り、その最中も迷ったふうにグランドへ入ってくる車を一般車駐車スペースへと誘導した。
実に頼もしい。
そうして夢中で動いていると、あっという間に日が暮れていった。
「柚月ちゃーん」と小清水が声をかける。
「ありがとうねえ。疲れたっしょ。そこの、えっと、阿寒さんだっけ? 助かったよお。二人ともご飯をお食べよ。外の天幕つきベンチが空いてるよ。しっかりと食べるんだよ」
そういって小清水はカレーの皿を差し出した。レトルトのようだが香ばしい匂いに公武と二人で「わあ」と頬を緩める。
「いいですねえ、カレー。食べたいところでした」
「僕もです」
「そりゃよかった。ベンチの脇にカンテラがあるから使っていいよ」
ありがとうございます、と声をそろえてベンチへ向かう。
さっそく公武がカンテラをつけると、穏やかなクリーム色の灯りが手元を照らした。ソーラーランタンだ。
「いただきます」と手を合わせてカレーを頬張る。ひと口食べたら止まらない。皿はみるみる空になる。
喉を鳴らして水を飲み、はあ、と二人そろって大きく息をはいた。顔を見合わせ笑い合う。
「さすがに今日はとても疲れました」
「柚月さん、すごくあれこれ動いていましたから。僕も負けていられないとムキになって動いちゃいましたよ」
「そうだったんですか?」
「明日はお互いほどほどにしましょう。身体がもたない」
はい、と笑って大きくうなずく。足元がプルプルと揺れた。地震だ。それでも公武と一緒だと思うと安心だった。
「それで柚月さん、今晩はどうしますか? ご自宅へ戻られますか?」
「あ、そっか。どうしようかな」
そのときだ。
柚月のつぶやきが聞こえたかのようにサコッシュに入っているスマートフォンが鳴った。
巌からの電話だった。
画面をタップするや否や『おう、俺だっ』と巌の吠え声が聞こえた。「お父さん」と返す間もなく声が続く。
『大丈夫か』、『怪我とかしてねえか?』、『あんまり真面目に動くんじゃねえ』、『休み休みにやれや』、『水分補給も忘れるな』、『ちゃんと飯を食えよ』とまくし立てられる。『それから』と低い声が続いた。
『悪いが今日は戻れそうもない』
「あー、そうよね」と答える。それが自分でも驚くほどガッカリした声になった。あわてて手で口元を押さえると『すまん』と巌に謝られた。
「お父さんが謝ることじゃないわ。お父さんはそっちで一生懸命動いてくれているんでしょう?」
ありがとう、と続けると『ああもうっ』と巌が吠えた。ギョッとしてスマートフォンを耳から離す。
『お前、今晩は避難所に泊れ。夜中の地震でマンションが倒壊したらシャレにならねえ』
「怖いことをいわないでよ」
ひとしきり巌はうなると『あのよ』と不機嫌そうな声を出した。
『そこに阿寒がいるだろう』
「どうして公武さんがいるって知っているの?」
『阿寒から連絡をもらった』
だから、とこれまた嫌そうに巌は吠えた。
『なにかあったらヤツに頼れっ』
「え」
『どうしても自宅に戻る必要があったら阿寒についてきてもらえ。町内会のやつにも阿寒は怪しいやつじゃねえから心配ねえって伝えておいたからよ』
わかったなっ、と叫んで巌は通話を切った。「え? ちょっと待って」と続けたけれど間に合わなかった。
「乙部先生、どうかなさったんですか?」
公武が心配そうな顔をしていた。
「あ、いえ、今夜はこっちに泊れという話でした。公武さん、父に連絡をしてくださったんですね。知りませんでした。ありがとうございました」
「非常事態とはいえあなたを置いていくなど、乙部先生はものすごく心配なさっているだろうと思いまして」
「そんな。大げさです」
「お母様のお話をうかがったあとでは、そうは思いません」
あ、と口を閉じる。
胸の奥がシンとした。目元がじわりとあたたかくなる。そうか。こんなふうに考えてくれる人だから、お父さんが信頼するんだ。
鼻をすすって公武へほほ笑む。
「ありがとうございます」
地震が起きてからまだ数時間足らずだ。それでも着の身着のままといった人たちが険しい顔つきで押しよせていた。ヒステリックな声も響いている。
「避難所はまだできていないのかな」
「担当の区役所職員くらいは到着しているはずだがな。町内会の連中と合流するか」
こっちだ、と巌はどんどん人波をかきわけて中へと進んでいく。
そのうちに「乙部さーん」と声が聞こえた。町内会婦人部長の小清水が手を振っていた。隣に町内会防災部長の沼田も立っている。あらかじめ巌が連絡を入れておいたのだろう。
巌は二人へ頭をさげる。
「世話になります。娘をよろしくお願いします」
「なんもさ。こっちこそ道庁を頼みます」、「柚月ちゃんは気が回るから手伝ってもらえるなら大助かりだあ」と二人は柚月の背中を叩く。
普段から町内会の防災訓練で見知った顔なので柚月も心強い。
巌は「じゃあな」と柚月の頭を撫でて、すぐに背中を向けた。
え、もう? 眉がよったけれど、不安になっている場合ではない。「いってらっしゃい」と声をかけて小清水へ振り向いた。
「なにからすればいいですか?」
「避難訓練どおりに避難所を作っている最中なんだわ。でも人手が足りなくてね。立ち入り禁止区域のテープ貼りもまだなんだわ。妊婦さんスペースもまだできてなくてさ」
「じゃあわたし、そっちの手伝いにいきます」
「ああいやいや、柚月ちゃんは受付の手伝いへ入ってくれるかい? あそこが一番ひどいんだわ。避難所はみんなが使うところだって、ちゃんと伝えなくちゃいけないから手間取ってんのさ」
「わかりました」と答えて校舎中央玄関前へ走った。
数脚の長テーブルが出て『受付』の表示が出ていた。
二十代後半くらいの女性がひとりで対応をしている。区役所の職員なのだろう。
その女性へ人が押しよせていた。「小清水さんにいわれて」と伝えると「助かります」と泣きそうな顔を向けられた。
柚月は受付後の問い合わせを請け負うことになった。受付を終えても「それでどこいけばいいの」と繰り返す人が多くて受付周辺の人波は一向に減らなかったからだ。
土足厳禁だと伝えても、そのまま足早に進む人もいる。盲導犬や介助犬以外のペットはいまのところは待機して欲しいと頼んでも、「猫なんだからいいっしょ」とか「ウチだって子犬だから」と押し切られる。
そこに「ウチの子は猫アレルギーなんでっ」と尖った声が飛び、そこかしこでいざこざが起きていた。
加えて余震だ。震度4くらいの余震がひっきりなしに起きていた。
巌に育てられた柚月は「また揺れたなあ」くらいにしか思わなくなっていたけれど、中にはしゃがみ込む人もいた。
そのまま動けなくなる人もいる。区役所の職員の中にもそういう人が何人かいた。そのたびに作業は中断する。
「……お父さんがいっていた『人手が足りない』ってこういうことか」
嘆いても仕方がない。動くことができる自分が代わりに動こう。
そう気合を入れて避難所のあちこちを動き回った、そんなときだった。「あれー?」と声をかけられた。
「乙部でしょ。久しぶりー」
振り向くと中学の同級生男子が立っていた。高校は別なので顔を合わせるのは中学の卒業式以来だ。
「なにしてんの? 雑用? 張り切ってるね」
口を開きかけると「ホントだ。乙部だ」と女性の声がする。これまた中学の同級生だった。
「避難所でも仕切ってんの? さすがすぎるっていうか──ウケるわ」
「昔からそういうトコあったよね。なんていうの? いい子?」
「ちょっと止めなよ」、「あはは、そうだね」と二人はいい合い「あー」とわざとらしく続けた。
「おれらも手伝うべき? でもさー。乙部の足を引っ張るとマズいっしょ」
「あたしもお母さんになんかいわれるかもだし。おばあちゃんの手伝いもあるし。まあガンバって」
すれ違いざまにボソリと「お前ムカつく」と告げられた。柚月は黙って同級生の背中を見送る。
……わたし、あの子たちになにかしたかなあ。
うつむきかけると足元が揺れた。地震だ。そうだ。いまは落ち込んでいる場合じゃない。両手で軽く頬を叩いて受付へ戻る。
けれど柚月の働きを快く思わない人たちはそれからも現れた。
「嬢ちゃん、もうボランティア? ひとり目立ってなんの点数稼ぎだい?」と中年男性から声をかけられ、避難所でのルールの用紙を手渡した青年から「なんであんたみたいなガキにこんな注意されんの」と小声で返された。「そったらはんかくさい(馬鹿らしい)こと、いうんでない(いうな)。こっちはわや(大変)なんだわ」と年配女性から怒鳴られることもあった。
そのたびに無理やり笑顔を作って乗り越えた。
お父さんだってがんばっているんだから。嫌な気持ちに飲み込まれている場合じゃない。
とにかくびっくりするくらいやることがある。
受付の手伝い以外に飛び入りの作業が山ほど入る。
コロコロ変わる共通ルールを知らせて回り、掲示板へ日本語と英語で貼り出し作業だ。
体育館の避難スペース配分も避難者に応じてどんどん変わり、そのたびにパーテンション用段ボールの移動がある。避難所設営後数時間なので、あれやこれやと変更の嵐だ。
どれくらい夢中で動いていただろう。
グランドで到着した物資の荷下ろし作業をしていたときだ。
「柚月さん?」と声がした。
公武が立っていた。
「ああやっぱり柚月さんだ」
受付は済ませたのか、ボディバッグを肩からさげた身軽な格好だ。
昨日会ったばかりなのに、どうしてだろう。公武の顔を見たら張り詰めていた気持ちがいっきに緩んでいく。気づくと頬を涙が伝っていた。
「ど、どうしました?」と公武が顔色を変える。あ、いえ、と柚月はあわてて頬をぬぐう。
「ちょっとホッとしちゃって」
「……地震大変でしたから。ご無事でよかった」
「父が防災マニアみたいになっていたので、あれこれ準備がしてありました。自宅はほぼ被害なしです」
「コップひとつ割れなかったということですか?」
「本一冊も落ちませんでした」
「さすがすぎる。僕の部屋はもうめちゃくちゃですよ。食器棚がひっくり返っちゃいました。水も出ないし電気も止まるし、余震も続くので早々にここへきました」
そういって公武は柚月の背後を見回した。
「おひとりですか? 乙部先生は?」
「道庁の対策本部へ。わたしはここを手伝うようにいわれて」
なるほど、と公武は大きくうなずく。
「なら僕も手伝います」
「本当ですか?」と明るい声が出た。
それを聞いて返って公武は眉をよせた。
「……なにかあったんですか? 泣かれるほどつらいことが?」
いえ、と首を振ったけれど、公武は珍しく「柚月さん」と言葉を重ねた。柚月は小さく息をはく。
「ここへお手伝いにきて数時間ですけど、いろいろいわれたんです。どうも目障りだったらしくて。手伝いを出しゃばっているって思う方もいて」
え? と公武の顔が険しくなる。
「区役所の人や町内会の人に混じって荷物を運んだりしていただけなんですけど。生意気に見えたんでしょうね」
柚月さん、と公武はまっすぐに柚月の目を見る。
「文句をいった人たちは柚月さんを手伝ってくれたんですか?」
えっと、と口ごもる。胸の奥がざらついた。これ以上は悪口になるみたいでいいたくない。だから、その、と顔をあげる。
「でも、そんなこと、なんでもないんだ、って気を張って動いてきて。そこで公武さんにお会いできて、気が抜けちゃいました。すみません」
公武が膝を屈めて柚月の肩へ両手を乗せた。目線を柚月へ合わせてくる。
「地震が起きて、みんなが動転して、どうしたらいいのかわからなくなって気持ちがけば立っているときに、柚月さんはみんなのために動いてくださっていた。すごいことです。しかも笑顔で。あなたの笑顔を見て僕はとてもホッとしました。ほかの方もそうでしょう。本当にあなたはすごい。──尊敬します」
そんな、と頬に手を当てる。また泣きそうだ。必死でこらえて笑顔を作る。
「でもよかった。笑顔で作業できていたんですね。──祖母によくいわれたんです。忙しいときほど笑顔でいなさいって。そうじゃないと『イソガシオニ』にとらわれて、もっと忙しくなるよって」
「イソガシオニ?」
「祖母が作った悪い鬼のようです。しかめっ面でたくさんの作業をこなしていると、もっと作業がふりかかるよっていわれました。いまなら負の連鎖だってわかりますけど、小さいころは怖かったなあ」
「うまいことをおっしゃいますねえ。では僕も『忙し鬼』にとらわれないよう笑顔を心がけます」
それから、と小声で続ける。
「迷惑かもしれませんが、これから作業はご一緒させていただいていいでしょうか。──非常時です。どんないい人でも気持ちに余裕がなくなっています。こんないい方は嫌ですけれど、柚月さんを力のない女性だと侮って、強引に出る人もいるかもしれません。弱いふりをして柚月さんに危害を加えようとするかもしれない」
停電もしているだろうから暗いところは危険だし、余震でなにかが落下してきてもひとりだったら気づきにくいし、と公武は真顔で続けた。
しみじみと公武が自分を心配してくれているのが伝わった。言葉の途中で公武は「あ」と動きを止める。
「すみません。しつこかったですね」
「いいえ。ありがとうございます。ご一緒にお願いできますか?」
はい、と公武はまぶしいほどの笑顔になる。
それから──。
公武の働きに柚月は目を見張った。
重い荷物を手にした年配者を見つけると体育館の町内会区分エリアまで荷物を運び、途中で声をかけられた外国人には流暢な英語でトイレの場所を伝えた。
「僕の背丈が役立つかもです」とテント設営へも率先して手伝いに回り、その最中も迷ったふうにグランドへ入ってくる車を一般車駐車スペースへと誘導した。
実に頼もしい。
そうして夢中で動いていると、あっという間に日が暮れていった。
「柚月ちゃーん」と小清水が声をかける。
「ありがとうねえ。疲れたっしょ。そこの、えっと、阿寒さんだっけ? 助かったよお。二人ともご飯をお食べよ。外の天幕つきベンチが空いてるよ。しっかりと食べるんだよ」
そういって小清水はカレーの皿を差し出した。レトルトのようだが香ばしい匂いに公武と二人で「わあ」と頬を緩める。
「いいですねえ、カレー。食べたいところでした」
「僕もです」
「そりゃよかった。ベンチの脇にカンテラがあるから使っていいよ」
ありがとうございます、と声をそろえてベンチへ向かう。
さっそく公武がカンテラをつけると、穏やかなクリーム色の灯りが手元を照らした。ソーラーランタンだ。
「いただきます」と手を合わせてカレーを頬張る。ひと口食べたら止まらない。皿はみるみる空になる。
喉を鳴らして水を飲み、はあ、と二人そろって大きく息をはいた。顔を見合わせ笑い合う。
「さすがに今日はとても疲れました」
「柚月さん、すごくあれこれ動いていましたから。僕も負けていられないとムキになって動いちゃいましたよ」
「そうだったんですか?」
「明日はお互いほどほどにしましょう。身体がもたない」
はい、と笑って大きくうなずく。足元がプルプルと揺れた。地震だ。それでも公武と一緒だと思うと安心だった。
「それで柚月さん、今晩はどうしますか? ご自宅へ戻られますか?」
「あ、そっか。どうしようかな」
そのときだ。
柚月のつぶやきが聞こえたかのようにサコッシュに入っているスマートフォンが鳴った。
巌からの電話だった。
画面をタップするや否や『おう、俺だっ』と巌の吠え声が聞こえた。「お父さん」と返す間もなく声が続く。
『大丈夫か』、『怪我とかしてねえか?』、『あんまり真面目に動くんじゃねえ』、『休み休みにやれや』、『水分補給も忘れるな』、『ちゃんと飯を食えよ』とまくし立てられる。『それから』と低い声が続いた。
『悪いが今日は戻れそうもない』
「あー、そうよね」と答える。それが自分でも驚くほどガッカリした声になった。あわてて手で口元を押さえると『すまん』と巌に謝られた。
「お父さんが謝ることじゃないわ。お父さんはそっちで一生懸命動いてくれているんでしょう?」
ありがとう、と続けると『ああもうっ』と巌が吠えた。ギョッとしてスマートフォンを耳から離す。
『お前、今晩は避難所に泊れ。夜中の地震でマンションが倒壊したらシャレにならねえ』
「怖いことをいわないでよ」
ひとしきり巌はうなると『あのよ』と不機嫌そうな声を出した。
『そこに阿寒がいるだろう』
「どうして公武さんがいるって知っているの?」
『阿寒から連絡をもらった』
だから、とこれまた嫌そうに巌は吠えた。
『なにかあったらヤツに頼れっ』
「え」
『どうしても自宅に戻る必要があったら阿寒についてきてもらえ。町内会のやつにも阿寒は怪しいやつじゃねえから心配ねえって伝えておいたからよ』
わかったなっ、と叫んで巌は通話を切った。「え? ちょっと待って」と続けたけれど間に合わなかった。
「乙部先生、どうかなさったんですか?」
公武が心配そうな顔をしていた。
「あ、いえ、今夜はこっちに泊れという話でした。公武さん、父に連絡をしてくださったんですね。知りませんでした。ありがとうございました」
「非常事態とはいえあなたを置いていくなど、乙部先生はものすごく心配なさっているだろうと思いまして」
「そんな。大げさです」
「お母様のお話をうかがったあとでは、そうは思いません」
あ、と口を閉じる。
胸の奥がシンとした。目元がじわりとあたたかくなる。そうか。こんなふうに考えてくれる人だから、お父さんが信頼するんだ。
鼻をすすって公武へほほ笑む。
「ありがとうございます」