陽翔は表情を一変させて公武を睨んだ。

「なんだよ。おれが甘っちょろいっていいたいの?」
「逆です」
「は?」
「虐待の域です。異常です」
「なにいって」
「君が我慢する域じゃない。児童相談所や保護機関へ相談をしましょう。シェルターもあるはずです。このままそこへ向かう手もある。調べてみます。少し待ってくだ──」

 柚月はスマートフォンを取り出そうとする公武の腕を引く。
 陽翔が公武を睨みつけたまま泣いていた。
 唇を震わせ声を出さずに鼻先を真っ赤にして、大粒の涙を流している。頬を伝わる涙は顎をしたたり、雨で濡れた陽翔のTシャツをさらに濡らしていた。「……そっか」と陽翔は声を絞り出す。

「……ずっと、おれが悪いのかと思っていたんだけどさ。おれ、悪くなかったんだ」
「当り前です」

 公武は運転席から身を乗り出して断言した。

「君は悪くない」

 息をのんで陽翔は公武を見る。その視線が気弱そうに揺れた。ためらうように、「だけどさ……」と陽翔は公武から目をそらす。

「親は本気で心配そうに泣くんだ。それってさ。おれのことを思ってくれているからで。おれのためで──」
「自分の子どもなら気持ちを聞かずに一方的に考えを押しつけてもいいんですか? なにをしてもいいとでも?」
「それは」と陽翔は口ごもる。
「君のためというのなら、より添うこともできたはずだ。だけど話を聞く限りではそうはみえない」

 公武は運転席のシートを強くつかむ。

「相手のいい分もあるでしょう。ですが、君はつらい、苦しい、耐えがたい、そう思うんですよね。そうずっと我慢してきたんですよね。それを貫いた君はどうなるんです? 親の期待どおり? 親が喜ぶ?」

 そんなの、と公武は吐き捨てる。

「ただ君が壊れるだけですよ」

 陽翔の眉が大きく歪む。その陽翔へ公武はもう一度力強くいい放った。

「君は悪くない」

 口をきゅっとしめて、陽翔はまっすぐに公武を見た。公武もその視線に答えるように真剣な眼差しで陽翔を見る。

 やがて陽翔は、「うん」と声を震わせた。

「……誰かに、そういってもらいたかった」

 ありがと、と続けて陽翔はうつむく。
 その肩が徐々に揺れ出し、やがて嗚咽になる。喉の奥から絞り出すようなその声。聞いていると胸が張り裂けそうで、たまらず柚月も鼻先が熱くなる。

 ──どれだけ長い間、陽翔くんは我慢してきたんだろう。かばってくれる人はいなくて、ひとりでずっと……十何年も? 助けてとも、やめてよとも、なにもいえずにひたすらお父さんとお母さんの機嫌をうかがって? それでも陽翔くんは学校で笑ってくれていたの? 

 頬を伝った涙が胸元へとしたたり落ちる。喉が痛くて身体が熱くなる。
 公武がタオルを差し出していた。「どうして柚月が泣くの」と陽翔もティッシュを差し出している。「ご、ごめん」と柚月は顔をぬぐう。
 はあ、と大きく息をついて陽翔もバスタオルで顔をぬぐった。

「おれさ。さっきいったみたいな家庭だったからさ。いつも完璧を求められてもいたしさ。気が狂いそうでさ」

 うん、とタオルから顔をあげて陽翔を見る。

「だったら、ってできるだけ笑うようにしていた。なにもかも、なんでもない。世の中面白いことばっかり。そういうふうに振舞っていれば、だんだん本当に気持ちも軽くなったしさ。フリだけど、それでやっていけるならいいやって思っていた」

 だけど、と陽翔は言葉を切る。

「柚月の弁当を見て、頭を殴られた気がしたんだ」
「わたしのお弁当?」
「菜飯おにぎりにしらすの入った玉子焼き。シソを巻いたささみの天ぷらに菜の花の和え物」

 うたうように陽翔は献立をそらんじる。

「ウチとは違って季節を楽しむラインナップ。色鮮やかに詰めてあった。自分で作ったっていわれて、それを楽しそうに教えてくれて声が出なくなった」

 当時を思い出したのか、二度三度とゆっくりまばたきをして陽翔は続けた。

「こいつは本当に生活を楽しんでいる。いまを大切にしている。大切にすることを、本心からできている。──おれとは違う。本物だ。そう思った」

 だから、と陽翔は弱々しい笑みを浮かべる。

「柚月と一緒にいたら、おれもいつか偽物じゃなくて本物になれるんじゃないか。なれたらいいな。そう思ってさ。いつもお前を見ていた。いつも──お前のそばにいたいなって、思っていた」

 柚月の眉が震える。
 陽翔くんが毎日毎日わたしに声をかけてきたのはそういう意味があったんだ。
 ただ気にかけてくれていたんじゃない。陽翔くんは生活をつなぐために、わたしを見ていたんだ。たぶん、冗談ぬきで──正気を保つために。

 だけどさ、と陽翔は顔をくしゃりと崩す。

「どういうことだよ」と公武を指さす。
「柚月さ。おれがお前のことを好きだって気づいていたでしょ。なのに、男と助けにくるってどういうことよ」

 あわてたのは公武だ。陽翔がここまでいってようやく自分の立場に気づいたらしい。

「柚月さんは悪くありません。僕が強引に提案したんです」

「はあ?」と陽翔が逆ギレしようとするのを「そうか、だから柚月さんはあんなに渋ったのか」と公武が声をかぶせた。

「いやもう本当にデリカシーがない。情けないです。女性の気持ちをくむのが苦手で」

 陽翔がぞんざいな態度になる。

「いままでの彼女とかどうしていたの」
「いません」
「ちょい待った。あんたいくつ?」
「二十八です」
「二十八年間彼女なしってこと?」
「ずっと男子校でしたから。大学も工学系でしたのでほぼ男子ばかりで。いまはおじさんに囲まれて仕事をしていますし」

 ああもうなんだよ、と陽翔はシートからずり落ちそうなほど身をよじった。

「……そんな必死な顔になって、おれだって必死なのにさ。なんかさ──ズルいでしょ」

 陽翔はバスタオルごと頭を抱える。そのまま背中を丸めて、「あんたさ」と声を出す。

「柚月のおにぎり、食べたんだ」
「いただきました。目から(うろこ)が落ちました」
「なにそれ。あんた魚?」
「もののたとえで」
「知ってるよっ」

 くっそ、と吐き捨てて呼吸を整え、陽翔は「柚月」と向き直る。

「さっき、おにぎりが余っているっていったよね」
「うん。食べる?」
「食う」

 柚月が弁当箱を広げると、陽翔はわずかに頬を緩めておにぎりへ手を伸ばした。まさにさっき陽翔がいっていた菜飯のおにぎりだった。
 ひと口頬張って目を見張り、唇を震わせて食べ進む。梅チーズささみ揚げに箸を伸ばし、アスパラベーコン巻をひと口で頬張る。甘い玉子焼きに「うめー」と声を漏らし、最後に梅のおにぎりを平らげた。

「……やっと食えたよ。いつも仁奈と亜里沙が邪魔するからさ。おれは本気で柚月の弁当を食いたかったのに。やっぱ柚月はすごいなあ」

 ほっと柚月は公武の顔を見た。公武も肩をおろして柚月を見る。「ああもう」と陽翔が小さい声を出す。

「そんなふうに笑うなよ。羨ましくなるだろう?」
「へ?」とあわてて陽翔を見る。陽翔は顔をくしゃくしゃにして笑う。
「柚月」
「うん」
「うまかった。ありがとうな。元気が出た。力もみなぎってきた」
「……うん」
「親に電話するわ」
「陽翔くん」と柚月は顔色を変える。
「おれ、がんばるから。がんばったらさ。また柚月のおにぎり、貰えるかな。その人のついででいいから」

 陽翔は公武を指さす。
 眉が歪んで、次第に視界がかすむ。
 小さくなんどもなんども陽翔へうなずく。
 ……陽翔くんがどんな思いでお弁当を食べたのか。どんな思いでご両親と向き合う決心をつけたのか。どんな思いでそれを──わたしに伝えたのか。
 陽翔くんはなんて、なんて、なんて。両手を握りしめる。
 ──勇気があるんだろう。

   *

 陽翔と両親とのやり取り。
 それは電話越しからも過剰なほど激しいものだった。
 漏れ聞こえる会話だけでも、行方がわからなくなっていた息子を心配する内容にはとても聞こえない。怒鳴り声は途切れることはなく、陽翔が弁解をする暇はない。陽翔が「クラスメイトとその友人に助けてもらった」と伝えても、柚月や公武に両親が通話を代わって礼をいうこともなかった。

 しかも長い。

 小一時間近くも陽翔はただ責め立てられ続けていた。
 出先の電話口でこの長さだ。もし顔を合わせてのやりとりだったら数時間になっただろう。
 こんな会話ではない一方的なののしりを、陽翔くんは毎日受けているの? 胸が張り裂けそうだ。
 とにかく一刻も早く帰ってこいと、これまた一方的にまとめられて通話は終わったようだった。

   *

 陽翔を自宅の近くまで送るころ、雨はようやく小降りになった。

 車から自転車をおろす公武とともに、柚月も陽翔を見送るために外へ出る。緊張した顔つきでバックパックを背負う陽翔の前に公武が立つ。

「──本当に帰るんですか? 専門機関へいく手もあります」

 力なく首を振る陽翔へ公武は歯がゆそうに続けた。

「頑張るのと無茶をするのは違います」

 ハッと陽翔は顔をあげる。「ですから」と公武は陽翔へ名刺を差し出した。

「なにかあったら遠慮なく連絡をください。力になります。こうして知り合ったのもなにかの縁ですから」
「どうして」と陽翔は声を震わせる。
「どうしてそこまでしてくれるの。出会ったばかりなのにさ。憐(あわ)れんでんの?」

 虚を突かれたような顔をして公武は言葉をのむ。「そっか、そうですよね」と淋しそうな笑みを浮かべた。

「いわば、僕のエゴみたいなものです」

 それでも、と語気を強める。

「無茶をしてほしくないんです。道はひとつじゃない。いくつもある」

 そう前置きしてから、「実は」と続けた。

「お伝えしたとおり、僕は中学高校と男子校でした。なかなか厳しいところで、過度の親の期待を背負った生徒も多くて。重圧に耐えられず、知り合いの何人かが世界から姿を消しました」

 六年間でひとり二人ではない。毎年誰かがいなくなった。
 不登校になったと思いたかった。そうではなかったと知らされたときの絶望。
 さらには、明らかに異常事態であるのに、大人の誰ひとり声をあげなかった理不尽さ。

「……僕たち生徒自身も声をあげられなかった。受験で気持ちに余裕がないのを盾に事態に向き合わなかった。あのとき、あいつらと一緒に逃げておけば、あるいはもっと違う声をかけていたら、いまなお連絡を取り合える仲でいられたかも。よくそう思います」

 唇を噛む公武を見て、柚月も眉を揺らす。学祭の前に公武からかけられた言葉を思い出す。公武さんにはもう一緒に楽しめない人たちがいる。だから、「いま全力で楽しめ」って伝えてくれたんだ。

 公武はいっそう力強い眼差しになる。

「ですから君をほうってはおけない。迷惑でしょうが、あきらめてください」

 ガッシリと陽翔の肩をつかむ。

「君はひとりじゃない。忘れないでください。いつだって頼ってください。待っていますから」

 陽翔が眉を大きく歪める。「ああもう」と首を振って、それまでの斜に構えた視線ではなく、真っ直ぐで必死な眼差しを公武へ向けた。

「本当に頼っちゃいますよ?」
「全力で支えます」

 公武の力強い答えに柚月まで身体が熱くなった。