公武の車は天陣山のすそ野、柚月のマンションとは反対側の賃貸アパート前にちょこんととまっていた。
 公武が告げたとおり、コンパクトなワンボックス軽自動車だった。
 ただ屋根が黒色、そのほかは白いボディカラーと洗練された印象だ。さらにその屋根にはルーフマウントタイプのサイクルキャリアがついていた。

 公武はアパートの部屋からタオルやバスタオルを持ってきてはてきぱきと後部座席へ積んでいく。
 予報は豪雨だ。濡れた陽翔に必要だと判断したのだろう。

「お待たせしました。いきましょう」と声をかけて公武は運転席へ乗り込んだ。
 躊躇したものの、柚月は助手席へ座った。
 ソワソワする。
 巌と祖母の車以外の助手席に座ったのははじめてだ。

「メノウのとれる石狩の浜といったらここでしょうか」

 スマートフォンで検索をして公武はカーナビを設定する。それから穏やかに車を出した。
 乱暴な巌の運転とはぜんぜん違う。カーブの曲がり方に信号の止まり方など、いちいち感心して、やがて豊平川(とよひらがわ)を越えたあたりだ。
「あの」と公武が声を出した。

「もしよかったら、なんですが」

 首をかしげて公武を見る。

「そもそもどうして彼は海へ向かったのか、聞いてもいいですか?」

 あー……、と間延びした声が出る。
 そっか。そこまでは公武さんに伝わらないわよね。

「柚月さんのために彼が海へいったのなら柚月さんも関係しているんですよね。海と柚月さん、どう関係するんですか?」

 眉が震えた。覚悟を決める。

「実は──海へいくのは父から禁止されているんです」

 ええっ、と公武が声を裏返す。

「じゃあ、いま海へ向かっているのはまずいのでは」
「いいんです」
「柚月さん」
「このまま向かってください。お願いします。わたしのせいで陽翔くんになにかあったら、わたし、父を恨みそうです」

 強い声になり、公武は「わかりました」と姿勢を戻す。

「……そうか。それで柚月さんはあんなにためらっていらしたんですね。余計な提案をして申し訳ありません」

 柚月は首を振る。「母が」と言葉が続いた。

「海で亡くなったんです」

 これまた、「えっ」と公武は声をあげて柚月へ顔を向けた。
 運転中だ。すぐに前へ戻したものの、「それって」と視線はチラチラと柚月へ向けている。

「母はサンゴの研究者でした。ミクロネシアの海のサンゴを研究していました。とても──とてもサンゴを愛していたそうです」

 小学生のころからサンゴに興味を持って、沖縄、パプアニューギニア、オーストラリア、あちこちのサンゴを見て回って、大学へ入る前からサンゴの保護活動をしていたという。
 ダイビングライセンスを持っていて、ほかの研究者の依頼があれば自分の調査のかたわらサンプリングも請け負っていたそうだ。

「……父が母と出会ったのは大学二年、教養課程の授業だったそうです」

 地質まっしぐらの巌とサンゴまっしぐらの母。
 接点などなさそうなのに、ひたむきに研究対象へ向き合う姿勢を見て互いに強くひかれあった。

 地質図を見ると興奮して立ち止まる巌に、図鑑などで造礁サンゴのクシハダミドリイシを見るだけで幸せになる母。柱状節理を前に歓声をあげる巌に、色とりどりのサンゴを見てその褐虫藻に思いを馳せる母。

 ──二人とも呆れるくらいの変わり者なんだから。嫁ととても仲のよかった祖母はよくそういって笑っていたらしい。

「サンゴって表面に小さい花みたいなのがあるでしょう? あれひとつひとつ別の動物なんですって。すごいですよね。サンゴは産卵が有名ですけど、卵じゃなくてどんどん分裂して大きくなるサンゴもあるんですって。ご存知でしたか?」

 思わずまくし立てて口を閉じる。
 誰かに母の話、それからサンゴの話をするのはこれがはじめてだ。あふれ出た記憶と思い出が押しよせて止まらない。目を閉じて深呼吸をする。

「──わたしが三歳のときです。パラオでサンゴのサンプリング調査をしていた母はダイビングの事故に遭いました」

 あってはならないダイビング中の機材トラブル。
 十分にメンテナンスをしていたはずなのに。悪いときには悪いことが重なる。
 別のダイバーのケアをしていたスタッフが母の異変に気づいたときにはもう遅かった。

 ──海に好かれ過ぎたのかねえ。だから連れていかれたのかねえ。

 祖母の繰り言に、そんなわけはねえだろうが、とはねつけていた巌だったが。
 ──妻だけでなく娘まで海へとられたら。
 その思いに囚われて、海へいくのを柚月に禁じた。

 黙って柚月の話を聞いていた公武は、創成川(そうせいがわ)が左手に流れるようになったころ、「乙部先生の気持ちはわかります」と声を出した。

「娘を守りたいって、当然でしょう。だけど、いい張るっていうのはちょっと違う気がする」

 え? と柚月は公武の横顔を見る。

「現実問題として、柚月さんが一生海を見ないでいるのは無理があります。現に、なにも知らなかった僕がこうしてあなたを海へ連れていこうとしているんですから」
「それは……」と言葉に詰まる柚月へ公武は穏やかな声で続けた。

「そんなことはきっと乙部先生もわかっていると思います」

 無茶苦茶な命令をしている。けれどいわずにいられない。
 その矛盾に巌も苦悩している──。

「ひょっとしたら乙部先生は、柚月さんに禁じながらも、どこかでそれを破ってくれるのを待っているのかもしれませんね」
「そんなことは」と急き込む柚月に「だって」と公武は朗らかなに声をかぶせた。
「柚月さん、めちゃくちゃサンゴが好きでしょう?」
「え?」
「工学系の僕にはちょっとわからないレベルでやたら詳しい説明でしたよ。かなり勉強をされていますね。……禁じられているからこそ、憧れが強くなったんでしょうか?」

 公武の言葉が身体にしみ込む。呆けた表情で顔を正面に戻す。大きく息を吸う。目を閉じた。肩から徐々に力が抜けていくようだ。

 ……そうか。そうだ。……そうだったんだ。

 サンゴについて──ほとんど無意識に調べていた。
 母の研究はどんなだったんだろう。ただ知りたくて、調べまくった。海へいくことはかなわなくても、文献調査までは巌も止める理由がない。
 でも、と胸に手を当てる。
 いつもどこかで後ろめたかった。

「……サンゴが好きとか嫌いとか、海へいきたいとかどうとか、そんなこと思っちゃ駄目だって思っていました。考えることすらも父が悲しむって思ってたんです」

 それくらい、母に関わる話題があると巌の背中は淋しそうだった。
 ガチガチにこわばって、やり切れなさが漂って、守れなかった悲しさとか、おいていかれた切なさでいっぱいだった。
 たまらずその手をつかんでも、巌は笑みを向けてくれるがまとった空気は変わらないのだ。

 だけど、と目を開ける。

「ネット動画でサンゴを観たんです。月夜の晩の産卵動画でした」

 初夏の満月あたりの夜。
 一斉に産卵するサンゴ。真っ暗な海の中で生み出された小さな卵の群れが波に揺られて、どこまでも伸びていく。その生命の営みの不思議とたくましさ。
 まばたきするのも惜しいほどの光景だった。

「それが──海の温度があがって、サンゴたちがピンチになっているっていうんです」
「ああ、聞いたことがあります。サンゴの白化現象ですね」
「そうです。特に浅瀬のサンゴは世界のあちこちの海で大きなダメージを受け続けています。この『海洋熱波』とか『プロブ』と呼ばれているあたたまった海域はあちこちに広がっています。以前は五日程度続いていたものが、いまは数か月続いているものが多いんです。猶予はないとのことです。それを知って──なんとかしたいと強く思うようになりました」

 人間が変えた気候変動でサンゴが大ピンチにおちいっている。
 ほうっておけない。じっとなんてしていられない。

「母もそうだったのかなって思ったら、切なくてやりきれなくなって」

 両手を強く握って視線を落とす。公武も黙って運転を続ける。
 ずっとかける言葉を探していたのか。日本海が見える日本海オロロンラインへ入ったあたりで、ようやく公武は口を開いた。

「乙部先生は、あなたが本当にやりたいことを止めるような方ではないと思います」

 ゆっくり公武へ顔を向ける。

「それが研究活動ならなおさらです。研究という行為のすばらしさ、それに苦しさをわかっているからこそ、あなたの強い味方になってくれるはずです。違いますか?」

 背中から腕へと鳥肌がたつ。

「乙部先生のことだ。一番嫌なのはあなたが我慢すること。それからコソコソやることだと思う。──勇気がいるとは思います。だけど、ぶつかってみるのも一策かもです」

 鼻先が熱くなってきて、柚月は大きく息を吸った。

 誰かに、こんなふうに胸の内を伝えるのははじめてだった。
 海へいくのは禁止されているんだ──、そういえば父子家庭の柚月を気づかって誰もが話を避けてくれた。仁奈と亜里沙もだ。
 おばあちゃんにだっていえなかった。だって言葉にすれば、おばあちゃんはきっとお母さんのことを思って悲しくなるから。

 だけど、そうか。

 わたし、誰かに聞いてほしかったんだ。
 こんなふうに、きっと、いってもらいたかった。

 しみじみと公武を見る。胸が痛いくらいあたたかくなる。
 本当に──本当に……公武さんに出会えて、よかったなあ。

 その公武が不意に「ああ」と声色を変える。

「降ってきましたね」

 顔をあげるとフロントガラスに雨粒がついていた。みるみる雨粒が大きくなる。

「この先、東向きにカーブした先あたりがメノウのとれる海岸らしいですが。まずいな。ひどい雨だ」

 公武の言葉どおり横殴りの雨になる。
 ワイパーの速度をあげてもフロントガラスの視界を得るのが難しいほどだ。
 不意に公武が車の速度を緩めた。

「左手の路肩。あれって自転車ですかね?」

 あわてて身を乗り出す。
 下り坂の途中、遠くに日本海が望める簡易駐車場に自転車と人らしいなにかがあった。カーナビ画面には望来(もうらい)駐車場とあった。

「雨で途方に暮れているだけですかね。いや──パンクでもしたのかな?」

 近づくにつれて自転車のそばでうずくまる人影がはっきりとわかった。
 柚月はさらに大きく身を乗り出した。

「陽翔くんっ」