きれいな青空が窓から見える。
今はもう、空を見上げたくなくなるようなあの機械も飛んじょらん。嫌なあの背筋の凍るような音も聞こえやせん。
こんなに穏やかな日が来るとは思っちょらんかった。
ね、そうじゃろ?もう先にいかれたけれど、あんたさんもそう思っちょったやろ。
穏やかな日を迎えられて、良かった。
あんたさんに会えてよかったわ。
そんな風にしみじみと感じる。
ふと、ガラガラと玄関の戸を開ける音が聞こえた。そして、元気のいい声が聞こえてくる。
「ひいばあちゃーーん!彩子ひいばあちゃーーん!」
そうやって、どたどたと走ってくる音が聞こえる。煩い音は嫌いで、普段ならもっと静かに歩けんちゃろか、と毒つくところなのだが、不思議にこの子がすると愛らしく、ずっと聞いていてもいいというくらいに不快ではない。
今日は孫娘が来る日で小学生の曾孫の桜が来る日だった。他の孫たちは遠くへ行っていてなかなか会えない。
唯一地元に残った孫娘は月に1回は会いに来てくれる。昔は来たら、魚の煮付けやらを振る舞ってやるのだが、もうこの年になると立つのだけで精一杯だ。
「はーい、さーちゃん。こんにちは、元気じゃったかい?」
「うん!実はね、来月のね、11月にね、ピアノの発表会があるの」
早口ではしゃいで言う桜には落ち着きがない。自分の血が入ってるからだろうと思う。
「そうけ。さーちゃんはもうずっとピアノを続けちょって偉いねえ」
そうやって褒めると、とても嬉しそうに目を細め、満開の笑みを浮かべる。
こんなに素直に育ってくれて本当に嬉しい反面、老い先短い自分の限界に少し腹立たしくなる。
友達も兄弟もみんな死んでいしまって、もう十分長生きもしたし、体もだるくなって生への執着もまったくなく、死んでしまったほうが楽だとまで思うことが多い。
だが、これから、この子達が何を成していくのか、どんな人生を送るのか見届けていきたいという気持ちもある。
「よかったらさ、ひいばあも見に来てくれん?」
ここで返答に困る。もう寿命も短いことを悟っている身、もう出歩くことは叶わなくなっている。
ピアノを頑張って来ているのを知っているし、まだ、実際に見たことがない。孫娘に見せてもらった事はあるが、実際に見てみたい。
だが、もうこの弱りきった足腰ではどうにも難しいだろう。
「すまんねえ。出かけるのはちっとばかし難しいわ。」
「そっかー…」
案の定、しょんぼりしている。この子は感情が表に全部出るから、表情がコロコロ変わる。
お昼を一緒に食べたあと、孫娘は少し出かけてくると、桜をおいてどこかに行った。
「ねね、ひいじいちゃんってどんな人だったの?」
桜は、曽祖父に赤ん坊のときに会ってはいたが、流石に覚えてはいなかった。
人は忘れていく生き物だ。
私も最近物忘れが激しくなってきた。忘れたことを忘れてしまっている。
なんだか寂しい。
これまで、楽しかったことや悲しかったことも忘れてしまうのだろうか。この子たちのことも、そして、義一さんのことも。
そんな思考を巡らせている間、眼の前の桜はくりくりの目で私をじっと見つめ、きょとんとしていた。思わず笑ってしまった。
「そうだねえ、少し長話をしようかね」
私は、もう長くもなければ、今からの短い人生で忘れてしまうだろう。それでもいいと思った。
この子がこれから話すことを覚えてくれていたら、と。