「輝星」

 傘の上で跳ねる雨音とともに、真剣な落ち着き声が降ってきた。
 ビクリと肩が跳ね上がりはしたものの、僕はまだ顔を上げられない。

 「答えて」

 真剣さが色濃くなった低音ボイス。
 声帯を震わすことさえままならない僕は、オドオドしながらあごを下げる。

 「付き合ってないの? 流瑠さんと」

 そうだよ、霞くん。
 流瑠ちゃんと僕は、高1で出会って以来ただの親友だよ。
 ただの親友という言葉は、語弊があるか。
 僕のことを妄想の対象物として崇拝しているところがあるから、友達という言葉ではくくれない特殊な関係で……って。

 ん? 付き合ってる? 僕と流瑠ちゃんが?

 予想もしていなかった言葉に驚きを隠せない。
 目を見開いた直後、僕は顔を思い切り左右に振った。

 僕の初恋は霞くんなんだよ。
 幼稚園の頃から僕の心を独占しているのは、霞くんだけなんだよ
 こんなに大好きなのに、他の人に恋心を抱くなんてありえないよ。

 わかってもらいたくて顔をブンブンしたのが、いけなかったらしい。

 「流瑠さんと付き合っているってこと?」と、さらに深く勘違いをされてしまった。
 違う違うと涙目になりながら、頬に毛束が当たるくらい全力で顔を振る。

 「なんで……霞くんは……そう思うの?」

 「いつも教室でふたりは一緒にいるよね。部活も同じだし、仲良すぎだなって」

 違うの、違うの!

 「流瑠ちゃんから、僕と霞くんが高校で絡んだらこんなシチュになるっていう腐女子の妄想を聞かされてるの」

 僕は霞くんに嫌われてるから、そんなシチュにならないよって言ってはいるんだけど、流瑠ちゃんはそんなことないって聞いてくれなくて……

 「調理室でのキスだって……」

 「キス?」と、勝手に僕の首が傾いた。

 「流瑠さんにされてたでしょ? テニスコートから見たんだ、部活中に」

 「待って待って、なんのこと?」

 「そのあとの輝星……おでこに手を当てながら微笑んでて……」


 昨日バスの中でも言われたけれど、まったく心当たりがない。
 誰かと付き合ったことすらない僕が、キス経験者になれるはずもなく。
 そもそも口づけしたい相手なんて、霞くん以外考えられない……って。

 おでこに手を当てた? 調理室で?
 ってことは……

 「それ、流瑠ちゃんの頭突きだよ」

  お願い霞くん、勘違いしないで。

 「違うから! キスとかじゃないから! 絶対に違うから! お願い、信じて……」

 僕がこぼした弱々しい言葉尻が、傘に落ちる雨音でかき消されていく。
 さっきよりも雨が強くなったと今さら気がついたが、そんなことはどうでもいい。
 僕の好きな相手は流瑠ちゃんじゃない。
 流瑠ちゃんにキスなんかしていないと、霞くんに信じて欲しい。
 
 傘を持つ霞くんが、僕のそばから離れようとしない。
 僕が雨に当たらないようにとの配慮なのかもしれないが、この6年間拒絶されていただけにハートがバクバクうなってしまう。

 僕は顔を上げられない。
 霞くんも何も話さず、お互い無言のまま。

 たまに霞くんの腕が僕の背中に当たるのが心臓に悪くて。
 なんか怖くて。
 無性に泣きたくて。
 震えが止まらなくて。
 ここから逃げたい気持ちもあって。

 でも本当は知りたいんだ。
 霞くんの声で聞きたいんだ。
 僕のことを、どう思っているのか。

 さっき僕はどさくさに紛れて告白をした。
 流瑠ちゃんがどんな子か説明している中で
 『僕は霞くんのことが今でも大好きだから、一緒にテニスができるなんて嬉しすぎなんだけど』
 なんて膨れ上がった想いを伝えてしまった。

 霞くんは僕の告白をスルーだ。
 聞こえていたはずなのに何も言ってはくれない。
 漂う気まずい空気を一掃する術を持っていないけれど、一本の傘の下から逃げ出さない自分を褒めてあげようと思う。

 僕の後頭部に霞くんの胸板が一瞬だけ触れた直後だった。

 「……ごめんね」

 悲しげな声が、僕の鼓膜を切なく揺らしたのは。

 そっかそっか、今のが告白の答えなんだね。
 霞くん、謝らないくていいよ。
 僕が嫌われているのは、わかっていたことなんだ。

 それなのに僕は恋心を捨てられなくて。
 一途に霞くんだけが大好きで。
 霞くんと奏多くんを推しカプだと思い込むなんて馬鹿らしいことまでしてきたにもかかわらず、恋心なんて捨てられず、初恋が諦めらめきれず、今も霞くんが大好きで大好きでたまらない。
 この極端すぎる執着はストーカーレベルだということを、僕は自覚しなければいけないよね?

 霞くん、僕の愚かさをわからせてくれてありがとう。

 「ごめんって霞くんに言わせて、僕の方こそごめんね」

 失恋の悲しみで、声が焦り震える。
 強がりが涙声となってこぼれてしまった。
 顔なんか上げられない。
 大好きな人の瞳に映したくない。
 悲哀で歪んだ、僕の醜い顔なんて。

 「球技大会のテニス……僕の代わりに霞くんとペアを組んでくれる人を見つけるから……」

 もう二度と、霞くんには話しかけないから……
 だからこれ以上、僕のことを嫌いにならないでください。
 お願いだから……

 こぼれそうになった涙を瞳の奥に押し戻そうと、唇をかみしめた時だった。
 体中の細胞が一斉にキュンと飛び跳ねたのは。

 ……え?

 視界に飛び込んできたのは、足元に転がる真っ赤な傘。
 戸惑い揺れる瞳で、情熱的な色味をただただ見つめてしまう。

 雨除けがなくなって、雨粒がジャージにしみこんでくる。
 でも僕の体があまり濡れていないのは、背後から心地いい熱に包まれているからだろう。

 耳にかかる吐息がくすぐったい。
 心臓もくすぐったい。
 何が起きたの?
 緊張で息が止まりそう。
 心臓が急停止しちゃいそう。

 「嫌なの? 俺とテニスをすること」

 切なくも甘い声が、僕の鼓膜を溶かそうとしてくる。
 僕の胸元に絡む腕。
 背中に感じる胸板。
 右頬がやけにくすぐったいと顔を回すと、霞くんの顔が僕の右肩にのっていて、その時初めて、霞くんに抱きしめられていることを脳が理解できた。

 ドキドキとバクバクでハートが悲鳴を上げている。
 呼吸が乱れ始めたのは、恥ずかしさと嬉しさと困惑が3種同時に責めてきたから。
 意識を保つ限界が来てしまったと、心臓がSOSを出した直後だった。
 「ごっ、ごめんね」
 霞くんの焦り声とともに、後ろから絡みついていた腕がほどかれてしまったのは。

 ぬくもりが薄れていく背中に、さみしいさ混じりの悲哀がわく。
 もっと抱きしめて欲しかったのに。
 そんなワガママを口にできないのは、霞くんにこれ以上嫌われたくないという思いが強すぎるから。

 羞恥心で色づく頬を隠したくてうつむく僕の心臓は、休息を与えてはもらえない。
 
 「輝星が可愛いことを言うから」

 恥ずかしさで震えた声にドキリ。
 語尾までちゃんと僕の耳に届き、顔面がさらに燃えそうになってしまった。
 
 「雨に濡れないところに行こう」

 「え?」
 
 「二人きりになれる場所。ねっ、いいでしょ?」

 僕の意見を問うような言い方なのに強引で、僕に拒否権は全くなくて、拾った傘を僕の上に掲げた霞くんは僕の肩に手を回しながら歩き始めた。
 
 もちろん霞くんの腕の中から抜け出すことはできる。
 連行を拒否して、僕だけ真っ赤な傘の下から逃げ出すことも可能だ。
 でも僕の足は大好きな人に従順なのかもしれない。