6年前の古傷がうずく。
 右腕全体が鈍く痛みだし、大好きな人との唯一の絆を服の上から優しく撫でてみた。

 大好きな傷跡を撫でているのに、微笑むことができない。
 霞くんに避けられている日々がつらくて、みじめで、もう一度笑いかけて欲しくて、でも現実はそんなのありえなくて、唇を噛みしめながら手の平で何度も何度も古傷を愛でる。
 
 ひきつった顔を霞くんに見られないようにと、上半身を窓の方にひねった時だった。
 頭上から抑揚も感情もない、無機質な声が降ってきたのは。

 「痛むの?」

 極度の驚きで撫でていた手が固まる。
 心臓までもが止まりそうになって焦ったが、なんとか僕の生命は維持し続けている。

 霞くんが……
 僕に話しかけてくれた……

 心停止を免れた心臓はしだいに暴れだし、脈が異常なほど速く駆けはじめ、心臓と脈の乱動は一向に収まる気配がない。

 どうしよう……
 顔を上げられないよ……

 霞くんに久々に話しかけられ、嬉しさと感動がこみあげてきた。
 でも感情の大波の大部分は、恐怖が占めている。

 気軽に返事をして幻滅されたらどうしよう……
 もっともっと嫌われたらどうしよう……

 うつむいたまま返事をしないのも、好感度が下がるよね?
 何か言わなきゃ。
 でも言葉が出ない。
 何を話していいかわからない。

 拒絶されてからの6年間、霞くんが僕に話しかけてくれますようにと星に願い続けてきたのに、実際に奇跡が起きた今は、震えうつむくことしかできないなんて。
 僕のメンタルは豆腐確定だ。
 弱すぎて泣きたくなるよ。

 「大好き」という感情は、僕を弱くする。
 「嫌われたくない」という感情も厄介もの。
 一歩踏み出す勇気をガラスのごとく、粉々に砕いてしまうんだ。

 ドキドキを紛らわせたい僕は、膝に乗せてあったリュックを両手で抱きしめた。
 人肌を感じるわけでもないのに、緊張が少しだけ緩んでいく。
 生まれた心の余裕を糧に、うつむいたまま吐息に言葉を溶かした。

 「お……は……よう……」

 しまった!
 今は誰がどう見ても完全なる夜。
 バスの窓から見える薄い月が、僕の失態をイヒヒと笑っているではないか。

 恥ずかしい。
 なんてことを言っちゃったんだろう。
 小6の頃から脳が成長してないと、失望されたに違いない。
 
 自分にがっかりした僕は、これ以上霞くんと会話を続けるのを諦めた。
 肩を落とし、リュックを強く抱きしめ、早くバス停に着いてと懇願する。
 理由のわからない涙が、製造されそうになった時だった。
 薄くて縦長の小箱が、僕の視界に映りこんだのは。

 「これは?」と、瞳キョトンで霞くんを見上げる。
 箱を持った手を僕の前に伸ばしている霞くんの表情は、なんといえばいいものか。
 笑っているわけでも眉を吊り上げているわけでもない。
 感情が全く読めなくて。

 唇は一文字にぎゅっ。
 斜め上から真剣な目を、座席に座る僕に突き刺してきて。
 瞳が捕まってしまった僕は、ただただ霞くんを見上げることしかできない。

 「あげる」

 「この箱を……僕に?」

 「約束だったから」

 なんのことかわからない。
 僕と霞くんが何かを約束したとなると、拒絶される前、小6以前の話になるけれど。

 蓋をあけて中身を確認しようとした僕の手が完全にフリーズした。
 「テニスやるの?」と、霞くんが冷たい視線を突き刺してきたから。

 霞くんは、僕が父さんとテニス練習をしていることを知っているのだろうか。
 テニスは楽しい。
 ストレス発散になる。
 でもこの願望が一番強いんだ。

 【いつか霞くんと、もう一度テニスがしたい】


 「やるよ……テニス……」 

 「てらっ、萌黄《もえぎ》くんはイヤじゃないの?」

 やっぱり名前では呼んでもらえないか。
 灰色の悲しみが涙腺をつついてくる。
 今の質問はテニスはイヤじゃないの?という意味だろうか。
 勘違いされたくない。
 霞くんとボールを打ち合ったあの日々に勝る思い出なんて、この僕にはないよ。

 「好きだよ……今も……」

 「テニスが? それとも俺……」

 「え?」

 尻すぼみになった霞君の声は、最後の方が聞き取れなかった。
 僕は目をぱちくりせずにはいられない。
 だって霞くんの表情がおかしすぎなんだもん。
 
 何か恥ずかしいことでもあった?
 霞くん、顔が赤い。耳まで真っ赤だよ。
 視線を僕からそらし口元を手で隠している。
 伝染しちゃうからそんな顔しないで。
 僕の顔面まで熱くなり、心臓がバクバクとうなり始めちゃった。