『小倉くんは当分のあいだ学校を休むらしい。球技大会は出られないって』

 トーナメント表の黒い塗りつぶしは、そういうことか。

 『担任からその話を聞かされてた時、教室に鈴木さんがいて』

 鈴木流瑠さんね、輝星の親友兼たぶん彼女の。

 『小倉くんの代わりはテニス経験者の萌黄(もえぎ)くんが適任、萌黄くんしかありえないって、鈴木さんがすごい熱量で営業してて』

 輝星が小6まで真剣にテニスをしていたことを、本人から聞いていたんだろうな。
 彼氏がテニスをしている姿を見てみたいとか?
 やめて欲しい、俺のメンタルが持たないから。

 『先生も俺もどうしていいかわからなくなっちゃって。萌黄くんが出てもいいならって鈴木さんに伝えたら、鈴木さんが嬉しそうに教室から飛び出て行っちゃったの。ペアを組む霞くんの同意も必要だよなって気づいた直後に、今度は教室に体育委員長が入ってきて。テニスのトーナメント表を全クラスに配るけど、出場者の名前あってる? 違ってたら今すぐ言って! って急かされたから、とりあえず小倉くんの名前を消して萌黄って書きかえたんだ』

 そういうことだったんだ。
 体育委員の堀北くんも、いろいろお疲れ様だね。

 『相談もせず勝手にごめん。でもまだ変更できるって。大会の朝にやっぱ違う人と組むってなってもいいって言ってたし』

 いやいや、俺のことは気にしないで。
 今度堀北くんに労いのスポーツドリンクでもさしいれしよう……って。

 いやいやいや、ちょっと待ってください。
 頭の中をいったん整理させてください。

 俺は幼稚園の頃から輝星が好き。
 替えが利かないくらい特別でたまらない。
 話さなくなった今も、日々輝星への執着がしつこく色濃くなっていて……って。
 あっ、今はそのことは関係ないか。

 落ち着けオレ、深呼吸、深呼吸。

 球技大会は来週に迫っている。
 もう一週間もない。

 俺と輝星でペアを組んで、テニスの試合に出るってことだよね?
 まずい、心臓吐きそう、今すぐに。

 大会中、がっつり一緒にいることになるよ。
 輝星の近くにいたらダメな気がする。
 だって一緒にテニスなんてしたら、小学校の頃の楽しかった記憶が玉手箱のようにあふれ出して、好きという気持ちが噴水のように湧き出て止まらなくなってしまいそうだから。

 そもそもの話。
 俺とペアを組むことを、輝星はもう知っているのだろうか?

 俺たちはいまバスの中。
 一番後ろの席から、前の方に座る輝星のつむじに視線を突き刺す。

 寝ているね、あれは。
 背もたれから横に飛び出ている輝星の後頭部しか見えないけれど、上半身の傾き具合から寝ているとしか思えない。
 俺とテニスの試合に出るとわかっていての熟睡だったら、尊敬を通り越して怖すぎなんだけど。

 人間に恐怖を与える根源の一つは、他人の心だと思う。
 他人の心の中が見えないからこそ、勝手に想像して、勝手に怖くなって、勝手に絶望するんだ。

 輝星にこれ以上近づくのが怖い。
 卒業まで、お互い顔を合わせなくなる日まで、他人の距離を保っていたい。
 完全に恋心を捨てるために。 
 輝星の幸せを願い続ける王子様でいるために。

 流瑠さんは彼氏がテニスをしているところを見たいだけかもしれないが、俺にとっては大問題なんだ。
 残りの高校生活を平穏無事に過ごせる希望が、崩れかけているんだ。

 俺がテニスの試合に出るのを辞退する?
 いやそれは避けたい。
 クラスにテニス部は俺しかいない。
 全スポーツで優勝を勝ち取りたいと練習に励んでいるクラスメイトの士気を、下げることになりかねない。

 輝星が断ってくれないかな。
 嫌いな俺と、ダブルスなんて組みたくないよね?
 もう二度と、俺と一緒にテニスなんてしたくないでしょ?


 どれくらい放心状態のまま、バスに揺られていただろう。
 俺はカバンから手のひらサイズの箱を取り出した。
 しわくちゃでギュっと潰れたおにぎりぐらいの大きさの塊を、丁寧に撫でる。
 ところどころ黒く焦げていて、愛おしさと一緒に悲しみがこみあげてきた。

 同じ失敗を繰り返してはダメだ。
 あの時の絶望は二度と味わいたくない。
 生きた心地がしなかった。
 輝星が死んじゃったらどうしよう……
 俺の命を代わりに差し出すから、輝星だけは助けて……
 あの時、必死に願ったんだ。

 涙が止まらなかった。
 地獄をさまよっている気分だった。
 今も変わらず、輝星の幸せを願っている。
 たとえ隣にいる相手が俺じゃなくても。

 ただ……

 苦しい。
 しんどい。
 輝星のそばにいたい。
 俺が隣で輝星を守り続けたい。
 
 この病みすぎた恋心をどう処理すればいいか、そろそろ誰か教えてよ。

 6年以上も俺は、悲しみの業火に焼かれ続けているんだから。