高校に入学してから一週間が経った。
なるべく同じ中学校の人と一緒になりたくなかったので、地元から遠い高校を選んだ。
そのため、同じ学年で知っているのは大人しそうな女子が二人。同じクラスにはならなかったので、教室は新鮮な環境だった。
心機一転、友達を作ろうと思ったが、話し方がわからずに日々が過ぎていく。
今日も誰とも話さず六限まで終わり、ホームルームが始まった。
部活見学が始まると担任が言ったのが耳入ってきて、昇降口前の掲示板に貼ってあった部活勧誘のポスターを思い出した。
部活ごとの個性が溢れていて、熱意が伝わるポスターたち。これだけ盛んなら当たり前だが、野球部とサッカー部があるのだと思った。
通っていた中学はサッカー部はなかったし、野球部は人数が集まらずに周辺の中学と合同で練習をしていた。そもそも全体の生徒数が違うので比べるべきではないが、中学と高校の差を感じた。
僕は部活に入る気がなかったので、詳しい説明は聞き流す。オカルト研究部みたいなのがあれば入ったのに、そういうマニアックな部活はなかった。
話を聞いているふりをして、今日の夕飯は何かなとか、オカルト研究部出てくる小説の続きが気になるなとかを考えていた。
ホームルームが終わると、僕はいつも通りにリュックを背負って歩き出す。
友達の元に行き、放課後の予定を決めるクラスメイトを横目に廊下を出ると、いつもはない人影を見た。背が高くて、まさに運動部という感じだ。
後ろ姿だから、確信はないけど同じクラスの上田碧葉だろう。人の名前を覚えるのは得意ではないが、自己紹介の時に「あおば」って綺麗な響きだなと気になり、漢字を見たら碧に葉って、本当に綺麗だなと強く印象に残っている。
名前の繊細さとは裏腹に、本人のガタイの良さにギャップがあったから、一度も話したことはないけれど後ろ姿で分かった。
多分当たりだろう。
だからと言って、声をかけても向こうは分からないだろうし、声をかける理由もない。階段を降りて、昇降口を流れるように出て、校門に向かう。
部活見学はしないのか。興味がなかったとしても、友達に誘われて付き添いで見学に行ったりしそうだと思った。
もしもかしたら、部活が出来ない事情があるのかもしれない。家事を手伝うとか、バイトをするとか、部活をやらない理由はいくらでもある。
上田のことを見ていると、制服のポケットからスマホを取り出した時、何かが飛び出して地面に落ちた。
上田は気づかないまま進んでいく。
ゴミかもしれないと近づいてみると、それは学生証だった。大切なものなので、そのまま無視するのは出来なくなる。
誰が落としたのかは一目瞭然。
持ち主に置いてかれた学生証を手に取って、上田へ視線を戻す。ちょうど点滅した信号を渡りきるところで、走っても追いつかない事が判明した。
明日、学校の職員室に持って行こうか。教室で本人に声をかけるか。後者の方がいいのは分かってるが、先生に話しかけるのと、教室で上田に話しかけるのとではハードルが違いすぎる。
駅に着くと、ホームの椅子に上田が座っているのが見えた。おそらく待っているのは十分後に来る上り線の電車。僕が乗る予定の電車。
落とした所を見たのだし、さっき落としてましたよと渡せばいい。特に何も思わないだろ。
だが、先程と悩みは変わって、今は友達になれるのではないかと考えている。自然に話しかける絶好のチャンス、これを逃したらもう二度とないのではないだろうか。
春の風が吹いて、僕の背中を押す。
今しかない。
「あ、あの」
自己紹介の時が僕の勘違いでなければ、上田と目があったのは二度目だった。
「はい?」
上田は目を丸くして、首を傾げた。やっぱり僕のことなんか知らないか。
「これ、さっき落としたのを見たので」
と、学生証を渡す。上田は戸惑いながらも、中身を確認して、自分のポケットに手を突っ込んだ。
「気づいてなかった。ありがとうございます」
はにかんだ笑顔が僕を見つめる。こんな表情を向けられたら誰もが恋に落ちそうだった。
何かしらの会話を続けたら、友達くらいにはなれるかもしれないが、微妙な反応をされたら怖いと、さっきまであった決意が、どこかへ消え去っていた。
その場から動かずに、身体を上田から線路側に向ける。実は同じクラスなんだよね、何度も心の中で繰り返すが、声には出せなかった。
時折、上田の方を見るがスマホを見ていて目が合わず。僕はリュックから小説を取り出す。文字は読めている気がするが、内容が全く入ってこない。続きを楽しみにしていたはずなのに、同じ文章を何度も何度もなぞる。
頭の中にあるのは上田のことばかり。
まもなく電車が到着するとアナウンスが流れると、僕は上田を見た。
その時、上田も僕を見たようで視線がぶつかる。
「もしかして、同じ電車ですよね?」
口を開いたのは上田だった。
「たぶん」
「そうですよね、というか、同じ制服ですよね」
「はい」
上手く喋れなかった。よく考えたら、家族以外の人と会話を最近していない。
電車がホームに着いて、上田は立ち上がってドアに近寄った。僕もその後に続く。乗客は数えられる程度。昨日までは同じ制服を着た人がちらほらいたが、部活見学が始まった影響だろうか、僕たちが乗った車両には居なかった。
だから、上田の近くにいる必要はなかった。上田は座らず、ドアに寄りかかったので、僕は近くのイスに座って小説を開いた。
「何を読んでいるの?」
上田は僕の隣に座って、顔を覗き込んだ。僕は驚きながらも、小説の表紙を見せた。
「ラノベ的なやつです」
「ラノベ?」
上田みたいな人はラノベを知らないのか。僕とは真逆の人種。友達になろうとか、無理な話だったのだ。
「ライトノベルの略で、気軽に読みやすい小説のことです」
「そうなんだ。小説好きなの?」
「あっ」
上田が敬語からタメ語になっている事に気がついた。
「なに?」
声を出してしまったのか。どう言い訳をしようと考える。なんでもないと誤魔化せばいい。そんな簡単なことも、なぜか出来なくて馬鹿正直に答える。
「いや、敬語が……」
「あぁ、急に馴れ馴れしかった? ごめんね、同級生ならいいなかって」
同級生? 僕がいつ同じ一年生だと言っただろうか。制服に学年が分かるようなものはない。
「いや、逆に僕の話し方が堅苦しかったかなと思って」
上田は少しだけ目を見開いた後、くしゃっと笑った。
「そっちか」
ツボに入ったらしく、声を必死に押さえている。手で顔を塞いでしまったから表情は見えないが、肩が小刻みに揺れているから、まだ笑っているのだろう。何が面白かったのか僕にはさっぱり分からないけど、さっきまでの張り詰めた空気が和らいだ気がした。
「そんなに面白かった?」
「えっと、面白いというか、緊張がほぐれた感じ。急にごめんね」
「いや大丈夫、あ、あの、上田くんは僕のこと知ってるの?」
「えっ?」
「さっき同級生って言ってたから、まぁ、僕が二年生とか三年生に見えないだろうけど」
上田は僕の目をまっすぐ見て、答えた。
「知っているよ。一年B組の新藤創志くん。俺と同じクラス」
上田がなんで僕の名前なんかを知っているのだろうか。クラスメイトの名前を覚えるのは当然で僕の感覚が間違っているのだろうか。
他の人に比べれば、僕は人の名前と顔を覚えるのが苦手なように思えるけれども。
もし、あの事を知っているなら、僕と友達になんてなろうと思わないだろう。今は優しく話してくれているが、心の中では見下しているのかもしれない。
僕の頭の中が上田に伝わってしまったようで、
「新藤くん、メガネかけてたから」
と付け足された。
「メガネ」
僕が呆気に取られていると、
「俺らのクラスで、メガネをかけてる男子は新藤くんくらいだったんだよね、だから印象に残ってた」
メガネ。と教室の風景を思い出す。メガネをかけている男子はいただろうか。そんなこと気にしたことなかったが、いなかった気がする。
「そっか」
「逆に新藤くんは俺のこと知ってた?」
「えっ」
質問が返されることを考えてなかった。これも正直に答えるべきか、いやいや、名前が綺麗だったなんて、いや別に言ってもいいか。
僕の「名前が」と上田の「俺の」が重なった。
「ごめん、新藤くんは話して」
と、上田が謝る。上田が何を言いかけたのか気になるが、聞ける雰囲気ではなかった。
「えっと、名前が綺麗だなって思ってたから。碧葉って漢字も響きも魅力的だから印象に残ってたんだよね」
「名前か、嬉しい。じゃさ、これから名前で呼んでよ」
上田が優しく微笑んで僕を見つめる。
「えっ?」
「碧葉って言ってみて」
頭に全身の血が集まってきて、窓の外にある夕日のように頬が真っ赤に燃えているようだった。恋人同士なら恥ずかしがったりするかもしれないけど、上田と僕はただの同級生。
「碧葉」
僕が呼ぶと、上田は嬉しそうに
「なに? 創志?」
と、あざとく首を傾けた。上田と僕は友達になれたのだろうか。友達に対して、こんなにドキドキするものなのだろうか。僕は目を逸らして、遠くにある雲を眺める。
「えっと、本当にいい名前、碧葉の名前つけた人センスあるよ」
「じゃ、父さん喜ぶかも」
「お父さんがつけたの?」
「そうだよ」
「どんな人?」
「えっ?」
上田は驚いたようだった。
「変なこと言った?」
父親の話題は聞いてはいけなかったのだろうか。名付け親を聞いたのは僕だが、父親と言ったのは上田だ。触れてほしくないなら、わざわざ言わないだろう。
上田は返事に困っているようで、申し訳ないことをした。何か別の話題をと考えるが、思い浮かばない。
ややあって、
「父さんは立派な人だよ」
と上田は呟いた。