カランカランと下駄を鳴らして歩く。いつもより歩幅が狭くて、急ぎたくても急げない。慌ててしまうとよろけそうになるから、ゆっくり進んだ。
 さっき西澤くんと別れた曲がり角まで来ると、息を切らせながら西澤くんが前から走ってきた。
 そして、あたしを見るなり立ち止まって、目が合うと固まったみたいに動かなくなってしまった。

「……西澤、くん?」

 そっと声をかけると、ようやく我を取り戻したように、西澤くんは瞬きを何度もしてから目を泳がせる。

「ゆ、浴衣で来るとか、聞いてないし……」

 先ほど合っていた目は、今度は合わそうとしてくれない。照れているのか、暗がりでも街灯の下だと耳が赤くなっているのがわかった。

「……ごめん」
「あ! いや、違う。ごめんとかじゃなくて。その……嬉しすぎると言うか、ありがとうと、言うか」
「え?」
「あー、いや、なんでもない。行こうっ」

 くるりと向きを変えて歩き出すから、あたしも慌ててついていこうとするけど、普段と同じペースで歩く西澤くんには、二歩、三歩とどんどん遅れていく。

「に、西澤くーんっ」

 さすがに距離が出来てしまったから、あたしは慌てて呼び止めた。
 不思議に振り返った西澤くんは、あたしとの距離が開いていたことに全く気がついていなかったんだと思う。
 大慌てで戻ってくるから、おかしくって笑ってしまった。

「ご、ごめんっ! こんな離れてるなんて気付かなくて」

 すぐ横まで戻ってきてくれた西澤くんの手を、あたしは迷いなく繋いだ。

「置いてかないでね」

 寂しさと恥ずかしさで俯いて言うと、しっかりと手を繋ぎ直した西澤くんが、今度はゆっくり歩き出す。

「置いてくなんて絶対しないから」

 繋がれた手から伝わる安心感は、信用しても良いのだろうか。あたしはまだ、心を完全には開けていない。頼り切ることが、出来ない。だけど、西澤くんには、そばにいてほしい。
 あたしはいつだってわがままだ。
 こうやってあたしのそばにいてくれる人を離したくないと、思ってしまうんだ。

 西澤くんの家は住宅地からは少し離れた河川敷の通りにある一軒家だった。
 広い庭には小さいながらに畑もある。

「ママー! 大空兄が友達連れてきたー!」

 庭で遊んでいた西澤くんの弟たちが、あたしと西澤くんが帰ってきたことにいち早く気がついて家の中に入っていく。
 玄関前までくると、「りょーかちゃ!」と、ふわふわの帯を巻いた花ちゃんが、蝶々みたいに駆けてきた。

「こんにちは、あ、もう、こんばんはかな」
「こんばちわー!」

 あたしが間違えたからか、花ちゃんまでこんにちはとこんばんはが混ざってしまっている。だけど、そのことには本人は気が付いていないで満面の笑み。抱っこをせがむように両手を差し出してくるから、とても愛おしくなる。

「ほら、花。兄ちゃんにおいで。杉崎さんは浴衣だから抱っこできないよ」

 すぐに、西澤くんがあたしの前に出て、花ちゃんを軽々抱っこする。

「りょーかちゃも花といっちょ!」

 自分の浴衣とあたしの浴衣を指さして、嬉しそうに笑う。

「そうだね、一緒だね」
「涼風……ちゃん?」

 花ちゃんと話しているのに夢中でいると、後ろから名前を呼ばれて心臓が飛び跳ねた。
母の声に、間違いなかった。

「あ、母さん。連れてきたよ。こちら、杉崎涼風さん」

 西澤くんが紹介してくれて、あたしはようやく顔を上げて母のことを見れた。

「こんばんは……いらっしゃい」
「こ、こんばんは」

 戸惑うように、だけど微笑んでくれた母の表情にホッとする。あたしも、ぎこちなかったかもしれないけれど、笑顔を向けた。

「わああ! ママ! マーマー! ちょっと助けてっ!」

 いきなり、庭の方から叫ぶように助けを求める男の人の声が聞こえてきた。あたしが驚いていると、西澤くんも母もやれやれと呆れ顔をしているから不思議に思った。

「またパパ、たすけてしてるー!」

 西澤くんの腕の中で、花ちゃんが楽しそうに足をバタバタさせた。

「花ちょっと降りて。俺助けてくるから」
「いや、待って。あの人あたしを呼んでるから大空じゃたぶん無理。お友達と紙皿とか用意するの手伝って」
「あー、分かった。じゃあ母さんに任せる」

 一方はいまだに騒いでいる声が聞こえてきているが、こちらは至ってと言うか、何も起きていないくらいに冷静だ。
 母が外に出ていくと、西澤くんが苦笑いして「とりあえず中入って荷物置いたら手伝って?」と家の中に入っていく。
 花ちゃんは、母を追いかけて外に飛び出していってしまった。

「ごめんな、騒がしい家族で」
「う、ううん」

 キャー、ははははっ、さっきから庭ではみんなの叫び声や笑い声が絶え間なく聞こえてきている。
 キッチンには食べやすく切られた野菜や串に刺さった肉、バーベキューの準備がテーブルの上にしっかりと整っていた。西澤くんが紙皿とコップを引き出しから取り出している。

「多分ね、火起こしで父さんがやらかしたから、まだ炭あったまってないと思うんだよね。お腹空いてない?」
「あ、まだ大丈夫」
「じゃあさ、先に花火やろうか」

 キッチンの窓から空を見上げて、西澤くんが笑う。夕空はもうすでに藍色に変わっていて、花火をするにはちょうどいい暗さだ。

「これだけ持ってくのお願いできる?」
「うん」

 紙皿とコップを渡されて、西澤くんは大量の花火セットと着火棒を持つ。

 外に出ると、汗を吹き出しながらタオルを頭に巻いた西澤くんのお父さんが一生懸命炭に火を起こしていた。
 隣ではテキパキと辺りを片付けたり、テーブルをセッティングしたりする母の姿。
 走り回っている弟たちに、寝転がる猫と戯れている花ちゃん。
 そんなみんなの前に花火を見せつけると、あっという間に西澤くんの周りに集まってきた。

「お、大空の彼女こんばんわー!」

 元気の良い声で西澤くんのお父さんがあたしに手を振る。

「え!? いや、彼女じゃなくって友達!」
「ええっ!? そうなのか? 彼女出来たお祝いのバーベキューじゃねーの?」
「は?! なにそれ、なんでそんなことになってんの?」
「なんだよー! 父さん嬉しくて高い肉買ってきたんだぞー! 友達だったら豚バラで良かったじゃねーかよ!」
「それ杉崎さんの前で言うのやめろよ!」

 腕を組んで、火おこしのやる気をなくしたように椅子に座り込んでしまったお父さんに、西澤くんが呆れたようにやりとりしている。

「だって豚の方がいっぱい食えるぞ? 食べ盛りに牛はたけぇんだよ」
「正直すぎんだろ。杉崎さん引いてるからマジでやめて?」

 弟たちに花火を開けて手渡しながら、西澤くんはあたしの前に立つ。

「あんな親父でごめん」

 頭を下げながら花火を差し出すから、あたしは笑って受け取った。
 火をつけた花火はシューっと勢いよく火花を散らす。大海くんと大地くんは両手に一本ずつ持って、きちんと誰もいない方向に向けてじっと終わるのを待って立っていた。終わるとすぐに先ほどみたいにはしゃぎ出してバケツの水に終わった花火を入れにくる。
 花ちゃんはまだ危ないからと、お母さんと一緒に小さめの花火を持ちながらたのしんでいた。

「これ、七色に変化するんだって!」

 さっき渡してくれた花火。持ち手の部分が虹の色をしている。

「付けるよ?」
「あ、うん」

 ぼぅとしていたあたしに、西澤くんが確認するように聞いてくれるから、あたしは花火を持つ手にしっかり力を入れる。
 シューっと白に近い金色が噴き出す。

「俺にも火わけて」

 すぐ隣に立って、西澤くんがあたしのと同じ虹色の花火を手にして火花に近づけた。
 すぐに同じ色が先端から放出される。赤、青、黄色と、どんどん彩りを変化させていく。

「綺麗」

 手持ち花火なんて、やったことあったかな。真剣に火花を見ていると、終わった瞬間に辺りが真っ暗になって、浮かぶ煙が寂しく見えた。

「涼風ちゃん……」

 顔を上げると、母が目の前に立っていた。

「少し、話をしない?」

 戸惑うように揺れている瞳。だけど、逸らすことなく真っ直ぐに向けてくれるから、あたしは隣にいる西澤くんに視線を送る。

「あいつらは俺が見てるから、ゆっくり話しておいでよ」

 微笑んでくれて、あたしの手元から終わった花火を取ると、「大丈夫。ちゃんとそばにいるから」と、小さく言ってくれた。
 キュッと握った手に力を入れて、あたしはもう一度母の方へと顔を上げた。
 優しく微笑む顔に、もうすでに泣きそうになる。グッと堪えて、並べられた椅子に座るように言われて、座った。

「はい、どうぞ」

 夜は少し肌寒い。渡されたのは、カップに入った暖かいスープ。

「ありがとう、ございます」
「もう、事故の怪我は大丈夫?」
「え……あ、はい」
「大したことなくて本当に良かった。涼風が交通事故に遭ったってお義母さんから連絡をもらった時は、気が動転しちゃって……」

 はぁ、とため息を吐き出して額に手を当てる姿に、本当に心配してくれていたんだと感じる。
 こんなに楽しそうな家庭を持って、母はきっと今、幸せなんだと思う。あたしの知っているあの頃みたいに、怒っている姿は全然見えないから。小さな子供たちと笑い合って、旦那さんとも呆れながらも楽しそうにしている。
 きっと、あの時あたしを捨ててここにいることを選んだのが正しかったんだ。だから、きっと今母は幸せでいるんだと思う。

 だけどさ、どうしても聞きたいことがある。
 お母さんは、なんで……

 カップを持つ手が震える。声も、震えているかもしれない。

「どうして、あたしのことを捨てたの?」

 コンソメスープの中の四角く揃って切られた野菜を見つめながら、あたしはゆっくり言葉を口にする。波紋を立てながら揺れる黄金色は透きとおるほどに綺麗だ。

「要らなかったから?」

 あたしが、泣いてばかりいたから?
 母の気持ちがなにも分からなかった。どうしたら、そばにいてくれたんだろうって、失ってからたくさんたくさん、考えた。
 でも、答えは見つからなかった。
 あたしが悪かったんだ。あたしなんて要らなかったんだ、だから捨てたんだ。
 そう思うしかなかった。

「ごめんなさい。ごめんね……ごめん。全部、あたしがちゃんと泣けなかったから……」

 隣で、母も震えた声を出す。
 もしかして、泣いているのかな? そんなことを思ったけれど、確かめるのが怖い。
 すでに目尻に涙を溜めて泣きそうになっているあたしに、またいつものようにあの言葉を吐き出されたらと思うと、怖くなる。

「なーにお通夜みたいに暗くなってんのー?肝試しでもやる気? 俺おばけ無理だからそれだけはやめてーっ!!」

 ケラケラと笑いながら、いきなり現れたのは西澤くんのお父さん。
 片手に缶ビールを持って、虚ろな目をしている。完全に酔っ払っているようだ。
 驚きすぎて、涙なんかなかったみたいに一瞬にしてどこかへ引っ込んでいってしまった。

「ママどうしたー? また泣きたくなってんじゃない? ほら、おいでー、泣きたくなったら泣いていいんだよ。俺がぜーんぶ、受け止めてあげるからね」

 両手を大きく広げて母の前に立つ姿は、本当に全てを受け止めてくれそうに大きくて広く見えた。そっと、隣に見上げた母の横顔は、困ったように眉を顰めつつも優しく微笑んでいる。
 西澤くんのお父さんは、なんだか、西澤くんみたいだ。親子なんだから似ていて当たり前なのかもしれないけれど……

「パパーっ」 

 後ろから聞こえて来た声に振り返ると、一気に走ってきて、ぽふんっと西澤くんのお父さんの足元に抱きつく花ちゃん。しゃがんで花ちゃんのことを抱きしめている。

 母は、バーベキューの準備を始めるようにと、みんなを促し始めた。
 座ったままでいたあたしのところへ戻って来ると、少しの沈黙の後に口を開いた。

「涼風のお父さんはね、どうしようもない男だったの。泣いたって許してくれないし、怒ったって悪いことを認めようとしなかった。離れるしか、なかったの……」 

 西澤くんたちを遠目に見守りながら、ゆっくり話す母の言葉に耳を傾けた。

* * *
 涼風の父は、浮気を繰り返すクズでダメな男だった。

 妊娠がわかって涼風がお腹にいた頃には、すでに他にも関係を持つ女がいた。
 浮気をしていることは気が付いていたけれど、どうすることも出来なくて、だけど、この子のためにもあの人のためにも、父親になってくれるように説得した。もしかしたら、我が子が産まれれば変わってくれるんじゃないかと一縷の望みをかけて。結婚を懇願した。

 だけど、あの人は子供が産まれても何も変わらなかった。

 お義母さんは「こんな息子と結婚させてしまってすみません」と何度も謝ってくれた。
 結婚後は、機嫌のいい時は一緒にいてくれたけれど、あの人が家にいることはほとんどなかった。

 泣きたくても泣けない。
 そんな状況が続いて、正直もう、耐えられなかった。苛立ちが募って、涼風にまでキツく当たるようになっていたのは、私自身がよく分かっていた。

『泣いたってしょうがないでしょ!?』

 その言葉は、自分への戒めみたいなものだった。
 もうずっと、こんなに我慢してる。なのにどうして?
 どうしようも出来ない感情の吐き口が、抜け出す場所がどこにもなくて、涼風が泣くと、苛立ちと共につい、口をついて出てしまっていた。
 またやってしまったと、何度も後悔に苦しんだ。
 震える体で、目にたっぷりと涙を溜めて、それでも「お母さん……」と言って縋りついてくる涼風のことを、抱きしめてあげる余裕すらなかった。もう、自分が母親である事にすら、自信を無くしていた。
 このままの感情で、ここから離れて一緒に涼風を連れて行ったとしても、きっとまた怖い思いをさせてしまうと思った。

 だから、一人で離れることを決めた。
* * *

 話し終えて、見上げた母は泣いていた。
 月明かりが照らす横顔は、悲しいほどに苦しそうに見える。
 そして、あたしの方を見て、まゆを精一杯に下げた。

「本当に、本当に、ごめんなさい……私は、あなたの母親失格だから……ずっと影から成長を見ていることしかできない、ズルい母親だった……」

 嗚咽が混じるほどに泣く母。
 もう、あの言葉は言わないんだろう。
 だけど、あたしは「ごめんなさい」がほしかったわけじゃない。
 あたしが一番欲しかったのは……

 椅子から立ち上がって、あたしはさっきの西澤くんのお父さんみたいに両手を広げた。

「あたし、ずっとお母さんに抱きしめて欲しかった。そばにいるからねって、言って欲しかったんだよ……」

 込み上げてきた涙が頬を伝う。
 もう、泣いていいんだ。泣くのは悪いことじゃない。西澤くんが教えてくれた。
 目の前が歪んで見えなくなっていく。と、同時に、体全体が柔らかく温かい体温に包まれた。

「涼風、たくさんたくさん、泣いていいんだよね。しょうがなくなんてない。泣きたいなら、泣きたい分だけ泣こう。そしたら、また、前を向いて歩けるから」

 ぎゅうぎゅうに抱き締めてくる母の力は、思ったより強くて。だけど、嬉しくて。あたしは声をあげて泣いた。

 秋の空に、花火の音とバーベキューの煙。そして、虫の鳴く声に混じって、あたしと母の泣き声が舞い上がり、溶けていく。

 花ちゃんや大海くん、大地くんが、「何してんのー?」と、あたしと母に同じように抱きついてくる。みんなでワーワー騒いでいるのを見兼ねた西澤くんとお父さんが、最後にみんなを包み込んだ。

「たくさん泣いたら、次はたくさん笑おうね」

 優しいのは、西澤くんだけじゃなかった。
きっと、母は西澤くんのお父さんに出逢えて、笑顔になれたんだ。
 幸せに、なれたんだ。

 夜空に星が煌めいていく。

 泣き顔なんて、暗がりではもう見えないし、あたしも母も泣いたからお腹が空いたと、みんなで高いお肉や野菜、焼きそばにフランクフルトと、お腹いっぱいになるまでたくさん食べた。

 時刻はあっという間に二十一時を過ぎていて、玄関のチャイムが鳴ったのが聞こえて、西澤くんのお父さんがそちらに向かって行った。
 しばらくして庭に入ってきたのは、おばあちゃんだった。
 嬉しそうな笑顔をしていて、あたしもその笑顔に笑って応えた。きっと、心配させてしまっていたのかもしれない。

「ごめんね、おばあちゃん一人にさせちゃって」
「良いんだよ。涼風ちゃんが楽しそうで安心したよ」
「……うん、みんないい人達だから」

 庭を駆け回っていた花ちゃんは、リビングに敷かれた布団の上で先ほど電池が切れたみたいにこてんっと眠りについてしまった。
 大海くんと大地くんも、そろそろ限界に近い。箸を持ちながら口に食べ物を運ぶけれど、何度もウトウトしては動きが止まっていた。

「じゃあ、そろそろお開きにしようか」

 西澤くんのお父さんが、あたしと西澤くんの前に来て微笑んだ。

「またいつでもおいでね、涼風ちゃん」
「……はい」
「杉崎さん、また明日学校でね」
「……うん」

 おばあちゃんの隣に並んで、あたしは二人に頭を下げた。片付けをしている母に視線を向けて、あたしは一歩を踏み出す。

「お母さん! また来るね!」

 精一杯の大声で伝えると、あたしは返事が返って来る前にと、急いでおばあちゃんの服の裾を引っ張った。

「行こう、おばあちゃん。ごちそうさまでした、おじゃましました!」

 早口で言って、あたしはくるりと踵を返す。
 ククッと後ろで笑う声がしたけれど、構わず歩き出した。

「あはは、涼風ちゃんって、涼花そっくり。さすが親子だわ」

 西澤くんのお父さんの声が聞こえて、立ち止まりそうになったけれど、あたしは足を止めなかった。
 だって、嬉しいと思ったから。あたしは、母の娘なんだ。だから、親子だと言われたことが、嬉しくて、たまらなかったんだ。


 あれから、あたしは大空くんの家に遊びに行くことが多くなった。

「ねぇ! 涼風、俺らのねぇちゃんなの本当!?」

 大海くんと大地くんが、パパに説明を受けたとあたしに詰め寄ってきた。

「大空兄の彼女じゃないの!?」
「え! 結婚するんでしょ!? ねぇ!」

 なんだか、西澤家では色々な誤解が広がっているらしい。大空くんは面倒くさがって「そうそう」としか言わないから、二人はどれが本当なのか混乱しているようだ。

「うるさいから今日は図書館でも行って静かに過ごそう」

 そう言って立ちあがると、大空くんが玄関に向かった。
 外に出ると、大きく伸びをして解放されたみたいに肩の力を抜く姿に、笑ってしまう。
 そして、くるりとこちらを向いてなにやら言いたげな表情をしている。

「本当に、……涼風って呼んでいいの?」
「え? うん、あたしも大空くんって呼ぶし」

 苗字呼びもなんだか友達なのに距離感あったし。あたしは全然構わない。大海くんや大地くんなんか、普通に「涼風」って呼び捨てだ。かわいいから許すけど。

 あの日、あたしが帰った後に、大空くんはお父さんに「なーんで大空だけ苗字呼びなんだよー? 距離感感じるぅ」と、いつものノリで言われたらしい。それを聞いたから、名前で呼び合おうってなったんだけど。

「……涼風……ちゃん」
「いや、《《ちゃん》》は要らないよ?」
「え、だってそっちだって大空くんって、《《くん》》付いてんじゃん」
「……あ、そっか。じゃあ、大空?」
「っ!!……い、いや、やっぱ……無……」

 秋の青空に、ふいっと背けた赤い顔がやけに目立つ。

「涼風ーっ!!」

 後ろから名前を呼ばれて振り返ると、古賀くんが女の子と一緒に歩いてくるのが見えた。
 あれは、間違いなく七美だ。古賀くんの一歩後ろをオーラ全消しで歩いてくるけど、あたしには分かる。

「あれ? やっぱ付き合ってんの? 二人」

 目の前まで来ると、大空とあたしを交互に見て首を傾げるから、あたしは返答に困って笑った。たぶん、今は微妙なラインだから。どちらとも言えない。

「そうだよっ! わりぃか。いくぞ、涼風!」
「え!?」

 いきなり、大空があたしの前に出て、古賀くんに噛み付く勢いで反応するから驚いてしまう。先に行ってしまうから慌てて追いかけた。

「あ、う、うん。じゃあね、古賀くん」

 手を振り、チラリと七美の表情を見ると、安心したようにホッとしているのが見えた。
 モテる人を好きになるって大変だよなぁ。なんて、他人事に感じる。
 でも、古賀くんは思っているより、きっと七美には好かれていると思う。
 だって、古賀くん。本はそれほど好きではないし、読んでると眠くなるって言っていた。それでも、七美が楽しそうに物語の内容を教えてくれる時間はすごく楽しいって言っていた。だから、毎回デートは図書館なんだと思う。
 古賀くんは七美の好きなことを尊重しているんだと思うし、なにより、はっきり好きだって気持ち聞いたしな、あたし。
 思い出して、少しだけ虚しくなる。

「ねぇ、俺今けっこう勇気出したんだけど。ちゃんと聞いてた?」
「……え?」

 先を進んでいた大空がくるりと向きを変えてあたしを覗き込む。
 勇気? ん? なんのこと?
 質問の意味がわからずに考え込んでいると、目の前の大空の顔がどんどん歪んでいく。

「まだ古賀のこと好きなの?」
「……え?」
「俺は、涼風の兄弟とか、なる気ないからな。母さんが同じでも血は繋がってないし! それに、俺は涼風の彼氏になりたいの。そこは覚えてろよ」

 言いながら、どんどん真っ赤になっていく大空の顔。
 あたしが驚いて目を見開くと、大空はくるりと踵を返しまた歩き出す。

「あ! 今、涼風って言ってくれた!?」

 名前で呼んでくれた! しかも何回も。

「いや、それもそうだけどさぁ!」

 隣に駆け寄るあたしに、肩を落とす大空に笑ってしまう。
 だけどね、さっきの言葉、ちゃんと聞こえていたし、伝わっているんだよ。そしてね、なんだかさっきからドキドキが止まらなくなっていて。今度はあたしの方が応える勇気が出ないんだよ。

 帰りまでには、ちゃんと答えるから。あたしも、大空の彼女になりたいって。だから、少しだけ、気が付かないフリをさせてね。