なんだか、普通の女子高生ってこんななのかな、なんて思うような放課後だった。
 まりんちゃんはあたしの行動や表情に対して、気にしたり問いかけてはくれるけど、深くまでは聞いてこないし、すぐに別の話題や目の前のことに興味が逸れて話が次々展開していって尽きることがない。
 色んなことに興味を持っているから、きっと一つのことにとどまってなんていられないのかもしれない。

 隆大くんの部活が終わるのを待って、学校へ引き返していくまりんちゃんと「またね」と言って手を振り別れた。
 直後、まりんちゃんが道路の反対側を歩く人に「おーい」と声をかけているから、つい、向こう側に誰がいるのか気になって視線を向けた。

「なーなみー!!」

 あたしの視線がその人を捉えるのとほぼ同時に、まりんちゃんが相手の名前を呼ぶ。
 制服はうちの学校のものではなくて、セーラー服だ。膝下のスカートにきっちりしたリボン。長めの黒い髪は後ろで一つ結びにしていて、眼鏡にかかるくらいの長さがある前髪が揺れたと思えば、まりんちゃんの方を向いて顔を上げた。
 照れているのか、大きく全身で呼び止めるまりんちゃんとは対照的に、控えめに小さく手を振っている。

「……あの子……」

 七美……?
 記憶の中の古賀くんの隣を歩く七美の姿を思い出す。そして、まりんちゃんに視線を戻してみると、なにやら親しげに話しかけている。
 どう言うこと?
 まりんちゃんと七美は知り合いなの?
 ものすごく気になるけれど、人の交友関係にあまり関わったりはしたくなくて、気が付かないふりをしたままゆっくり歩き出す。
 だけど、どうしたって気になる気持ちの方が上回ってしまって、あたしは踵を返した。七美に「またねー」と言ってまた学校へ向かい出すまりんちゃんを慌てて追いかけた。

「……ね、ねぇ、今の子、知り合い?」

 普段走ったり急いだりなんてしないから、突然誰かを追いかけるなんて自分でも驚いているし、運動なんてしないからほんの少し走っただけで息が思ったよりも上がってしまった。振り返ったまりんちゃんも驚いたように目を見開く。

「涼風ちゃん?」
「今、話しかけてた子って、七美って言うんだよね?」
「うん、そうだよ。小学校の時仲良かったの。すっごい久しぶりで思わず声かけちゃった」

 あははと笑うまりんちゃんは、きっとあの七美って子が古賀くんの元カノだと言うことは知らないのかもしれない。

「あの子、古賀くんの元カノだと思うんだけど」
「…………え?」

 うん、いい反応だと思う。
 まさかと苦笑いするまりんちゃんに、あたしまで苦笑いするしかない。
 それはそうだ。古賀くんは誰がどう見たってイケメンで、背が高くて顔面良すぎて、モテるけど近寄りがたくて、美人な先輩すらなかなか告白するのを躊躇うくらいに手が届かないで有名なんだ。
 あたしがそんな古賀くんと付き合えたのは、本当に今考えればタイミングや運が良かったとしか言えないかもしれない。

「そうなのー!?」
「うん……」
「あの古賀くんの、元カノが、七美?」
「うん」

 ぱっちりと開いた目元がまん丸くなる。そして、嬉しそうに細く弧を描いていく。

「へぇ、古賀くんって見る目あるね。七美に涼風ちゃんでしょ? なにそれ、やっぱり古賀くんって中身までイケメンなんじゃん! マジすごい!」
「……は?」

 まりんちゃんが興奮気味に古賀くんのことを褒め始めるから、あたしは何が何だかわからなくなる。
 だって、葉ちゃんと同じ反応をまりんちゃんもするんだと思ったから。
 それなのに、なんでこんなに嬉しそうなの?

「七美、めっちゃ良い子だよ。小学校の時の見た目からほぼ変わらないからすぐわかったし」
「よく、向こうはまりんちゃんのことが分かったよね?」
「え、ああ……だってあたしだって基本変わらないし」

 あははと笑うまりんちゃんに、充分変わったと思うんだけどと、あたしは首を傾げる。

「小学校の時はね、髪型もお母さんがツインテールとかお団子とか可愛くしてくれてたんだよ。けっこう目立つ子だったんだ実は。けどさ、中学では髪型も決まってたしみんなと同じようにしてたけど、やっぱり可愛くしてたいなって思ったから変わっただけ。だから、たぶん中学の頃のあたしを知らない七美にはすぐ受け入れられたのかも」

 嬉しそうに笑うまりんちゃんに、あたしはそうなのかと妙に納得してしまう。あたしは小学校の頃のまりんちゃんも七美も知らないから。

「でも七美が古賀くんとねー、どうやって付き合ったんだろ。で、もう別れてるってこと? 元カノだもんね、今度色々聞いてみようかな」

 楽しそうにスマホを弄りながらまりんちゃんが話すから、古賀くんがまだ七美に未練があることを話してしまってもいいだろうかと思って、口をついて出そうになってしまう。
 だけど、まりんちゃんはもちろん七美の応援をするんだろうな。あたしも古賀くんのことを応援するって言っちゃったし。言葉は萎んでしまって、また小さくため息が漏れた。

「あ、リュウちゃん部活終わったって。あたし、ちゃんと言ってくるね。涼風ちゃんまた明日ね」
「あ、うん」

 スマホの画面を見てから、まりんちゃんが嬉しそうに手を振るから、あたしも手を振り見送った。
 帰ろう。古賀くんのことはいい加減もう諦めなきゃ。
 七美が向かった方向とは逆に歩き出す。七美のことはあたしは知らなくてもいい。古賀くんの好きな子って情報だけでもう胸がいっぱいだ。
 やっぱりあたしは、どうしたってひとりぼっちなんだ。
 立ち止まって、スマホを手にする。メッセージの送信相手に古賀くんを表示した。

》さっきはありがとう。七美は良い子らしいね。古賀くん見る目あるよ。自信持って。古賀くんなら大丈夫だよ。

『見た目なんて関係なくない? 好きなら中身を見ればいいのに……』

 まりんちゃんに言っていた古賀くんの言葉に、七美の姿を思い出す。嘘偽りのない七美の中身が、きっと古賀くんは好きなんだろう。嘘や偽りだらけのあたしじゃ、空っぽのあたしじゃ、好きになんてなってもらえるはずがなかった。なんだか、よくわかった気がする。

 誰かを励ますなんて、そんなことをする日が来るとは思わなかった。それが、まさか好きになった人だとは皮肉だ。
 だけど、ちゃんと人を見る目のある古賀くんのことを好きになれたことは、嬉しいことかもしれない。古賀くんはあたしの見た目も中身もなんの魅力もないことに、気がついていたんだろうな。
 見透かされていた。そりゃそうだ。完璧なんてないんだもん。どこかで必ず綻びが出る。自分じゃ気が付かない。だけど、泣いたって、くよくよしていたって、仕方がない。

 夕空が雲にブルーとピンクをこぼしたように滲んで広がる。帰宅時間と重なるこの時間帯は、交通量も多い。普段はこんなに遅く帰ることなんてなかったから、夕日を映し出す空の色がこんなに綺麗なんだと初めて知った気がする。
 だけど、上手く混ざり合わずに滲むように個々を強調して溶けていく空の色を見届けていると、やっぱり自分がこれからどうしたいのかとか、どうなりたいのかとか、考えてしまっては気持ちが落ち込む。

 事故に遭って目覚めたあの日から、少しだけ前向きになれている気がしていたけれど、あたしはやっぱりまだ不安定だ。
 誰かにそばにいて欲しい。誰かに支えていて欲しい。

 ギュッとしがみついた母の背中。父が怒鳴り、母も叫ぶ。怒っている顔は怖くて見れないから、目を瞑って一番そばにいて欲しい母の背中に泣きついた。
 もうやめてほしい。
 いつかみたいに、三人で手を繋いで笑い合えていた日に戻りたい。そう願いながら、あたしは母に縋る気持ちでそばを離れなかった。
 わんわんと泣き喚くあたしを見て、ため息が吐き出されたのを感じた。

『泣いたってしょうがないでしょ!』

 勢いのまま、あたしにも母は叫んだ。
 ……怖かった。
 それは、いつも母が言っている言葉だった。だけど、その時は本当に、怖かった。
 近寄らないでと、突き放されてしまったような気持ちになった。
 ひどく、落ち込んだ。
 あたしには誰も居ないんだと。
 この先も、きっとあたしのそばにずっといてくれる人なんて、現れないんだと。絶望した。

「待ってよー!」

 不意に、遠くから聞こえてきた子供の声に顔を上げた。
 立ち尽くしていた場所から数メートル先。公園から、子供たちが一斉に出てくるのが見えた。夕方五時のチャイムが鳴っている。みんな家へと帰っていくんだろうと思って、自然と出てくる子供達を視線だけで見送っていた。

「大海! 置いてくなよぉー!」

 ほとんどの子供達が帰っていってしまった後に、まだ声が聞こえてくる。

「どうするんだよ! なんで置いてくんだよ!」

 叫びながらも、声が震えていて、泣いているように感じる。それも気になったけれど、男の子が叫んでいた名前に、聞き覚えがあった。もしかしたら、この前会った西澤くんの弟かもしれない。
 そう思って公園に足を向けた瞬間、一人の女の人があたしよりも先に公園内に入って行った。
 そっと、様子を伺うようにあたしは木の陰に隠れて立ち止まる。

「また大海は大地のこと置いて先に行っちゃったのね?」
「ママー! お迎えきてくれたの!?」
「うん、たまたま仕事が早く終わったから、まだ大海と大地公園にいるかなぁって思って。それなのに、置いていかれちゃったのね?」
「うん……ボール、あそこに行って分かんなくなったの。なのに、大海一緒に探してくれないで先に帰ったんだよー!」

 泣きそうだった声は、もう完全に泣いてしまっているように感じた。
 泣いたって仕方ないのに。
 不意に頭の中で冷静に考えてしまう。

「泣いても仕方ないでしょう?」

 体に、電流が走ったんじゃないかと錯覚するくらいにビリビリと指先まで震えた。
 女の人が声に出したのは、何度も聞いていた言葉だった。
 だけど、あたしの知っている強いあの言葉よりも、とても柔らかくて優しい。
 同じ言葉なのに、あの子に向けられたのは、包み込むような優しさがあるような気がした。

「大丈夫だよ。ママも一緒に探してあげるからね」
「うん! ママと一緒なら僕も探せる!」
「どの辺り?」

 手を繋いで、親子は茂みの中を探し始めた。

 *
 気が付いたら、全力で走っていた。
 息が切れて、呼吸が苦しい。

 あたしの周りだけ、空気が薄くなってしまったんじゃないかと思うほどに、息苦しくなっていく。
 あたしの知っている母は、いつだって怒っていた。
 あんな風に「大丈夫だよ」なんて、優しい言葉は聞いたことがなかった。
 それに、西澤くんの弟がどうしてあの人のことを「ママ」って呼んでいるの?
 あの人は、あたしの母、だよね?
 遠目からだったけれど、病室で見えたあの人と同じような気がした。うちに来て、おばあちゃんと話している横顔が、似ているような気がした。
 何よりも、あの人の口癖を聞いてしまった。
 だけど、あたしの知っている言葉とは、まるで正反対のように聞こえた。
 玄関のドアを勢いのまま開けて閉めた。
 靴を揃えることなく無造作に脱ぎ捨て、階段を駆け上がる。部屋のドアを音を立てて閉めると、ようやく息が吸えるような気がしてきた。
 ずっと止めていた呼吸を整えるために、息を吸っては吐く。
 当たり前のように出来ていたことが、出来なくなっていて、苦しい。

 ドアにもたれ掛かり、脱力して座り込んだ。ひんやりとしたフローリングの床が素足に触れて、少しだけ気持ちが落ち着きを取り戻す。
 まだ乱れたままの呼吸を懸命に整えようとしていると、物音に驚いたんだろう、おばあちゃんの声が聞こえてきた。

「涼風ちゃん、何かあったの?」

 不安そうに、だけど大きな声で心配しているように聞かれて、唇を噛んだ。
 ようやく上手に呼吸ができるようになって、あたしはふらりと立ち上がると部屋のドアを開けて階段の下にいたおばあちゃんに手を振った。

「ごめん、おばあちゃん。推しがSNSでライブ始めたから嬉しくって。うるさくしてごめんなさい」

 笑顔を作ってスマホをわざとかざして見せた。安心したような表情をしたおばあちゃんに、あたしもホッとしてドアを静かに閉めた。
 おばあちゃんに嘘をついたことなんてなかった。あたしのことを大切にしてくれて、ずっとそばで見守ってきてくれたから。心配かけたくなかった。何かあればすぐに伝えたし、相談もした。

 だけど、おばあちゃんはあたしに隠し事をしていることを知ってしまった。
 あたしの知らない所で、母と会っていたんだ。もう、おばあちゃんのことだって信用出来ない。あたしのことをわかるのは、あたししかいない。
 母が西澤くんともなにか関係があるとすれば、西澤くんは、もしかして母に頼まれてあたしに近づいてきていたりするんじゃないだろうか? なんて、疑ってしまう。
 考えれば考えるほどに、あたしはひとりぼっちになっていく。みんな信じられない。
 あたしの味方なんて誰もいない。
 もう、どうしたらいいのか、分からない。

 握りしめていたスマホに通知が届いた。
 一度深呼吸をしてから、床に座った。
 膝に頭を乗せて、横向きでスマホの画面を見る。

 》隆大の彼女とフレーバフル行ったんだって? 今度俺とも行こうね! あそこのナポリタン激うまだよ!

 テンションの高いメッセージに、落胆していた気持ちが少しだけ上がる。
 だけど、すぐに公園でのことを思い出して気分は下がった。
 返信はしないでスマホをテーブルの上に置いた。

 ──西澤くんのお母さんって、もしかして再婚?

 なんて、簡単に聞けるならどんなに良いだろう。
 なんだか一気に色んなことがありすぎて、頭の中が破裂してしまいそうだ。
 もう、何も考えたくない。
 ベッドに倒れ込んで、そのまま目を閉じた。

 今までにないくらいに人と接している。
 もちろん、うわべだけの付き合いとして友達は多い方だとは思っているけれど、きっとあたしのことをよく知っているって胸を張って言える人なんて、一人もいないと思う。
 それくらい、あたしは本当の自分を表に出すことをしてきていなかった。

 古賀くんのことを好きになったことが、大きかったかもしれない。好きな人のことを知りたいのはもちろんだけど、あたしのことも知って欲しいと思ったのは事実だ。だけど、古賀くんはあたしには、全然興味がなかったんだと思う。
 だって、何かを聞かれて困ったことなんてなかったから。
「今日はいい天気だね」「昨日は何食べた?」「授業つまんなかったね」
 古賀くんとの会話はその場限りで終わるものばかりだった。だから、あたしは彼の隣にいるのが居心地が良かったのかもしれない。見た目のビジュアルがカッコいい彼氏と並んで歩いているだけで、優越感に浸っていただけだ。楽だったんだ。あたしのことを詮索もしないし、ただ一緒にいてくれることが、嬉しかった。
 だから、失うことは寂しかった。
 まさかフラれるなんて、思ってもみなかったから。

 そして、あの日事故に遭ってからだ。
 少し、自分の中の考え方や行動が変わってきてしまったのは。
 友達なんてAやBで良かった。それなのに、西澤くんやまりんちゃんはその他大勢とは違くて、容赦なくあたしに入り込んでくる。

 真夏の照りつける太陽。開いた窓から流れ来る風。カーテンが、ひらひらと揺れている。耳を塞ぎたくなるほどに響いてくるのは、蝉の聲。
 うるさい。うるさい、うるさい、うるさい。
 ちっとも鳴き止むことなく繰り返し、繰り返し大きくなっていくから、耳を塞いだ。
 覆った耳元に、カタンッと扉が開く音が聞こえた。

『杉崎さん』

 俯いていたあたしの瞳に、同じ学校の制服を着ている男子生徒の足元が見えた。誰なのか確かめるために視線をあげてみたけれど、顔が見える前にその姿は泡のように弾けたと思ったら、全部消えた。

 目が覚めたら、いつもの自分の部屋だった。
 だけど、最後に聞こえた声。あたしはあの声を、知っている。
 あれは──

「おはよう、杉崎さん」
「……西澤くん」

 教室に入る一歩手前で西澤くんに声をかけられた。廊下には登校してきたクラスメイトが何人も歩いている。

「なんか、元気ない?」

 心配するみたいに眉を下げてこちらの様子を伺うから、視線を床にそらした。
 そんなことないよ、大丈夫。
 いつもみたいに笑って交わせばいいんだ。
 そう思うんだけど、あたしは黙ったまま声も出せずに俯いた。
 これじゃあ、大丈夫じゃないみたいだ。だから、ちゃんと大丈夫って、こんなこと考えたって仕方ないって、笑って答えないと。

「ね、ちょっとだけ。悪いことしようか」
「……え?」

 ニヤリと笑う西澤くんの表情が悪巧みを考えている子供みたいだ。
 あたしが答える前に手を繋がれて、引っ張っていく。教室とは反対方向。今上がってきた階段を降りて、真っ直ぐに突き当たり目指して進む。途中ですれ違った他学年の先生や生徒に挨拶をしながら、繋がれた手を隠すみたいにして足は急ぐ。
 周りに人気が無くなって、たどり着いたのは図書室。特別急いだわけじゃないのに、なんだか突然のことに心臓が速くなっていた。

「開いてるかなぁ」

 ドアの真ん前に立って、西澤くんはボソリと呟く。そして、ドアに手を掛けると、鍵はかかっていなかったようで、軽くスライドしてドアが開いた。

「やった、開いた」

 繋がれたままの手。
 前に進む西澤くんに、あたしは当然のように引かれて中に入った。
 古賀くんと出逢った図書室。水曜日の放課後。それ以外の図書室は、あたしは一人で過ごす以外知らない。
 西澤くんと過ごした夏の日があったことを、あたしはなんにも、覚えていない。

 しっかりとドアを閉めて、図書室に誰もいないことを確認すると、西澤くんが繋いでいた手をようやく離した。
 あたしなのか、西澤くんなのか、滲んだ手のひらのお互いの湿度が解放されて、風をひんやり感じた。

「杉崎さんさ、授業サボったことある?」

 また、悪戯っ子みたいに笑う西澤くんは、公園でサッカーをしていた弟とどこか似ている気がした。

「ないよ」
「だよねー、俺もない。今頃教室の中は俺と杉崎さんの机だけ空席なんだろうね。皆勤賞の俺が珍しいって思われそうだなぁ」
「……皆勤賞なの?」
「え? うん。学校休んだことないよ」
「……あたしも」
「え?」
「あたしも、何気に皆勤かも……」

 おばあちゃんがバランスよく栄養を考えてご飯を作ってくれているし、少しでも体調が悪いと早めに病院に連れて行ってくれた。部活には特に入っていなかったけれど、運動が出来ないわけじゃないし、健康には自信があった。
 周りに合わせるのに疲れることはあっても、学校を休みたいとは思わなかった。たぶん、今のところあたしの人生で一番長い時間を過ごしているのが学校だから。もちろん一人になりたいと思うことはあっても、ひとりぼっちにだけはなりたくなかった。

 だから、学校に来れば葉ちゃんがいるし、声をかけてくれるクラスメイトがいるし、寂しくなかった。寂しく……

『もうずっと、このまま、ここにひとりぼっちなのかな?』

 ふいに、一ヶ所だけ開いていた窓際に、泣きそうに佇む自分の姿が一瞬見えた気がした。

「杉崎さん、ちょっと休憩。座って話そう?」

 夏の終わり。窓から入り込む風はすっかり秋の気配を連れてくる。
 冷房はついていないし、もうほとんど要らないほど体感的には涼しくなってきた。
 カーテンを引くと、柔らかいけれど、なんだか少しだけ寂しく感じる空気が体を掠めていった。

「杉崎さんとここで会った時、実は俺、サッカー諦めようとしてたんだ」
「……え?」

 椅子を引いて座ると、突然西澤くんが切り出してきた。
 あたしにも座って、と手を差し伸べるから、向かい側に向き合うように座った。
 西澤くんの言葉に、なぜか胸がぎゅっと絞られるみたいに苦しくなった。

「夏休み直前の練習試合で、体当たりに負けて怪我をしたんだ。三年の先輩が抜けて、これからだって時に」

 さっきまでの無邪気さなんて無くなってしまった西澤くんの表情は、徐々に固くなる。
 葉ちゃんが言っていた言葉を思い出す。

『西澤くん夏休み中の練習試合で足怪我しちゃったんだよー。だからね、もうサッカー出来ないらしい』

 本人から聞くと、本当だったことに確信を持てる。そして、サッカーの好きな西澤くんにとって、サッカーが出来なくなることが、どんなに辛いことなのか、目の前の彼の表情で痛いほどに伝わってきた。

「一応さ、夏休み中も練習には顔出したいなって思って学校に来てたんだ。だけど、部室に入ろうとして、チームメイトが俺のこと話してるの聞こえてきちゃって」

 はぁ、とため息を吐き出し、西澤くんは窓の外に視線を外した。

「ずっと一緒にやってきたのに、俺の抜けた穴をどうやって埋めるんだよって、言い争いになってて。仕方ないから、俺のいない体制に慣れるしかないだろって、揉めてて……小学生の時からお互いに信頼しあってたチームメイトだから、喧嘩なんてしたこと無かったんだ。なのに、俺のせいでこんなことになってしまうなんて、申し訳なくて……あの日、図書室に逃げてきたんだ」

 眉を下げて、西澤くんは小さくまた息を吐く。

「杉崎さんが突然現れた時は、めちゃくちゃビビったよ。俺、たぶんあん時腰抜かしてたと思う」

 泣きそうに眉を下げたかと思えば、今度はあたしに視線を戻して笑ってくれる。
 思い出すみたいに話す西澤くんの話は、あたしには身に覚えがなくて、やっぱり首を傾げたくなるけれど、西澤くんの話は最後まで聞いてあげたいと思った。

「杉崎さんとここで会えて、明日も来る? って聞いてくれてさ、俺、なんかすげぇ嬉しくなっちゃって。もちろん、落ち込んでく気持ちはあったんだけど、帰りに隆大と会って部室でのことを聞いたら、みんなが俺のこと慕ってくれてるし、頼ってくれてることを知ったんだ。きっと、杉崎さんとここで会えてなかったら、たぶん卑屈になって終わってたかもしれない。隆大とも口も聞かなかったかもしれない。サッカー部の奴らとも、距離置いてたかもしれない。そう思うと、杉崎さんがここにいてくれたのは、俺にとって奇跡だったんじゃないかなって、思うんだよね」
「……奇跡……」
「大袈裟? そんなことないよ。マジで奇跡だと思う。杉崎さんとのあの日々があったから、俺は今楽しいし、笑っていられるんだよ。だから、本当にありがとう」

 目を細めて満面の笑みを見せたあと、西澤くんが頭を下げる。

「忘れちゃってるならそれでも良いんだ。だって俺は覚えてるから。杉崎さんに救われて、杉崎さんのことが、好きになったんだよ」

 晴れやかに笑う西澤くんだけど、そんな西澤くんにとっての奇跡があったことを語られても、あたしの心までは晴れることはない。
 あたしが西澤くんのことを笑顔に出来たなら、それはそれで良いことだとは思う。
 だけど、あたしだって心から笑えたらいいのになって、思ってしまう。
 幸せが何なのかも、今はわからないけれど……

「杉崎さんはさ、なんかいっつも寂しそうな顔してるんだよね」

 目と目が合って、ジッと見つめられる。
 真っ直ぐな視線からは、逸らすことができなくて、困る。

「俺がそれをどうこう出来るなんて思ってないよ。だって、俺はまだ、杉崎さんのことなんにも知らないから。学校で見せている姿は、なんだか嘘くさいなぁとは思っていたんだ。ずっと」
「……え?」
「あ、ごめん。でもさ、ほんと。みんながみんな口を揃えて杉崎さんは可愛くて優しくて、勉強も出来て頼りになるって言ってたけど、確かにその通りなんだけどさ、俺にもよく分かんないんだけど、たまに寂しそうな顔してるのが、ずっと気になってたんだよね」
「……ずっと……って?」
「あー……入学した頃から? みんなに囲まれながらも、たまになんか暗い顔してるのが気になってた」

 あたし、顔には絶対に出していない自信があったのに。周りに合わせて笑顔を貼り付けるのが、もはや特技みたいになっていた。
 小さい頃から、自分が笑顔でいれば周りから寄って来てくれるんだということを、知っていた。
 楽しくなくたって笑って、嬉しくなくたって笑って、悲しみを誤魔化すために笑っていた。暗い顔なんて、一人の時くらいにしかしたことがなかったはずだ。
 それなのに……

「俺もさ、そんな感じの時期が、あったんだよな」

 躊躇いがちに、西澤くんがため息を吐き出すみたいに話し始める。

「親父が再婚相手を連れてきた時。全く知らない女の人を紹介されて、しかも、もうすぐ弟が産まれるって聞かされたんだ」

 ……再婚相手?
 すぐにその言葉に反応したあたしは、公園で見かけた母のことを「ママ」と呼ぶ西澤くんの弟を思い出した。

「母親がいないのは俺にとってはずっと当たり前だった。生まれてすぐに、両親は離婚。母親は俺を置いて出て行ったらしい。親父は優しくて頼りになって、だから、成長するにつれても、別に悲しいとかそういう感情にはならなかった。でもさ、突然知らない人が今日から母親ですって現れたら、誰だって戸惑うしよくわかんなくなるよね?」

 同意を求めて真剣な眼差しでこちらを見る西澤くんに、小さく頷いた。

「最初は、なんかすげぇ苦手な人だった。少しでも失敗すると泣いてさ、親父がその度に大丈夫だからって慰めるんだけど、頑なに泣いたってしょうがないのにごめんなさいって言いながらも泣くんだよ」

 はぁ、とまた大きなため息を吐き出した西澤くんに、あたしはやはり母のことを思い出す。
 泣いたってしょうがない。
 そうだよ。しょうがないんだよ。だから、泣かないように、笑顔で済ませようって、いつも思っていた。
 西澤くんだって、そんな母に呆れてしまったんでしょう? どうすることもできないなら、仕方がないって、諦めるしかないよね。
 
「でも、少しずつ母さん変わったんだ。泣きたいなら泣けば良いのにって」
「……え?」
「俺がサッカーで試合に負けて悔しくて帰って来ると、笑って言ってくれるんだ。悔しいなら泣きなさい! 思いっきり泣いて、そして前を向きなさいって」

 優しく、穏やかに西澤くんが真っ直ぐに言った言葉は、あたしの母が伝えた言葉なんかじゃないと思うくらいに前向きだった。

「だから、俺、あの日寂しそうにここにいた杉崎さんのことを救ってあげたくて、思いっきり泣けよって、自分の方が泣いちゃうくらいに叫んでた。杉崎さんのこと、失いたくなかった。消えてほしくなかった。夏の日差しに溶けるみたいに消えて行った君を見て、僕は一人で泣いたんだ。思いっきり泣いて、また前を向こうって決めて……」

 ふわりと、優しい風がカーテンを揺らす。

「だから、杉崎さんが目を覚ましたって聞いた時は、周りの目も気にしないでまた泣いちゃったんだよね。先生の涙につられたってことにしてたけど、本気で嬉しかった。また、杉崎さんに会えるんだって思ったら、本当に、嬉しかった」

 キラキラと、柔らかい日差しが窓の外から入り込んできて、西澤くんを照らす。

『泣けよ!!』

 頭の中に響いてきたのは、それまでは蝉の聲ばかりだった。
 うるさい、うるさいと、鬱陶しかった。
 きっと、あたしの心の中で堰き止めていた、我慢や悲しみが、限界を超えていたのかもしれない。ひとりぼっちが悲しくて泣いた。
 誰かにあたしという存在に気がついてほしくて泣いた。たくさんたくさん、今まで言えなかった気持ちを吐き出すことができた。

 でも、あたしは最後の最後で、仕方ないと諦めたんだ。
 諦めたから、西澤くんとの夏の日々を、忘れてしまっていたのかもしれない……

 徐々に、図書室の背景が動き出す。夜が来て、また朝が来て。
 あたしは一人図書室に閉じ込められたまま。このままひとりぼっちでいなきゃならないのかと思うと、寂しくてたまらなかった。
 だけど、そんなあたしを西澤くんが見つけてくれたんだ。
 いや、違う。
 あたしが、西澤くんに見つけて欲しかったんだ。
 一人で図書室に入ってきた西澤くんは、あたしのことなんて見えていないみたいにすぐ真横を通り過ぎたんだ。
 寂しかった。
 あたしのことを、見つけて欲しい。
 その一心で彼のことをジッと見つめて、彼の後ろ姿に祈った──あたしを見つけて

 世界が、ずっと薄暗い幕を纏って見えていたことに気が付けなかった。
 全てを思い出した瞬間に、眩しいほどに鮮明に明るさを感じ始める。

 西澤くんの笑顔が、驚いた顔が、真剣な顔が、冗談を言ったり悩んだりする顔が、次々と記憶の中から溢れ出てくる。
 寂しいのは、最初だけだった。
 あたしは、西澤くんに救われたんだ。
 西澤くんがあたしを見つけてくれたから。

「……西澤くんは、あたしの奇跡だよ」

 全部、思い出した。

 綺麗な星空も孤独な夜も、このままひとりぼっちで消えていくんじゃないかと怖くてたまらなかった時間を、西澤くんが埋めてくれたんだ。
 あたしのそばにいてくれたんだ。

 込み上げてくる涙が止められなくて、頬を伝っていくのも構わずに、あたしは西澤くんに微笑んだ。

「ありがとう、西澤くん。全部、思い出した」

 西澤くんは、あたしに言ってくれたんだ。

『泣けって!! 泣いて泣いて、うるさいくらいに泣き喚け! それしかないだろう? 気づいてもらえ! なんもしないで終わりを迎えるなんて、そんなの悲しすぎるだろ!』

 悲しみが、全部溢れ出ていく。
 もう、我慢なんてしなくて良い。
 泣いて、泣いて、泣き喚いて、そんなの虚しいだけだって思っていた。

「大丈夫だよ。杉崎さんの涙は、全部俺が受け止めるから、安心して」

 そっと、手を伸ばしてくれる西澤くん。
 涙で歪んでしまって、だけど、あたしも手をそっと伸ばして、繋いだ。
 安心する──
 ずっと、誰かに聞いてもらいたかった。こんなに我慢しているのに、どうしてあたしばっかりって。悪いことがあれば良いことがあるから、それまでは我慢しようって。悪いことばかりが気になって、ずっと気にして、良いことが何なのかも分からなかった。

 あたしの話を聞いてくれる西澤くんに出逢えた事が、最大の良いことなんだ。奇跡なんだ。
 それでも、この手の温もりは永遠なんかじゃないんだろうと、疑ってしまう。

「……西澤くん」
「ん?」
「……西澤くんのお母さんって、きっとあたしのことを捨てた人だよ」

 繋いだ手に視線を落としたまま、あたしはポツリとつぶやいた。一瞬、そっと握られていた西澤くんの手に力が入った気がした。

「…………え?」

 捨てた人。そんな言葉を放ってしまえば、きっと西澤くんじゃなくたって困惑するだろう。だけど、あたしはもうなにも隠したくなかった。
 全てを曝け出して、泣き喚いて、西澤くんに嫌われようが、なんと思われようが、もう今更、止められないと思った。

 太陽が雲に隠れて、図書室が薄暗くなる。
 外からの明かりで十分だった室内の蛍光灯はつけていない。もともと誰もいなかったから、つける必要もなかったし、秋の柔らかい日差しがちょうど良かったから。

 あたしが泣いて、全てを思い出して、それと同時にあたしの暗い過去も全部吐き出してしまいたくなる。西澤くんに知ってほしくなって、貪欲になる心と同じみたいに、空も翳りを増していく。
 入り込む風が、泣いたからかもしれない……体や頬に、ひんやりと感じた。