晩夏光、忘却の日々

 規則正しい機械音と、なにやら慌ただしそうな雰囲気を感じて目が覚めた。
 まだ重たい瞼を、うっすらと開けてみる。ぼやける視界に映るのは白い天井。どうやら、眠っていたらしい。

「……か……うかちゃん……」

 重苦しい体はぴくりとも言わないけれど、ようやく視界が見えてきて、耳元の声が聞こえる方へ視線を動かした。

「涼風ちゃん!!」

 あたしの名前を叫ぶように呼ぶこの声は、おばあちゃんだ。

「涼風ちゃん! 先生、涼風ちゃんが目を覚ましました!」

 しきりにあたしの名前と先生を呼ぶ声に、ここが病院であることがなんとなく分かった。
 嗅覚が家とは違う匂いを感じる。視界に入ってきた長い管と、それを辿っていくと点滴のようなものを見つけた。
 あたしは、どうしたんだっけ?
 おばあちゃんの呼びかけには、まだ反応する気力がない。だけど、思考は徐々に戻ってくる。

『なぁ、涼風、俺ら別れよう?』

 夏休み直前の帰り道、あたしは古賀くんにフラれたんだ。鮮明に、あの時の記憶が蘇ってくる。
 自分から勇気を出して告白して、初めて出来た彼氏。夏休みにはたくさんやりたいこともあった。それなのに。
 つんざくようなクラクションと車のタイヤが擦れる音が頭の中に響いてきて、真っ暗になる。

 それ以降は、何も思い出せない。
 今、目覚めてここにいるのは、きっとあたしが事故に遭って病院に運ばれたからなんだろう。

 だけど、なんでだろう。
 なんだか気持ちは、軽いような気がする。
 事故に遭って、いろんな蟠りが吹き飛んでいってしまったのだろうか?

 おばあちゃんの呼びかけに出来る限りの笑顔で応えると、ぼやけた視界がゆっくりと見え始めた。泣きながら、おばあちゃんは安心したようにあたしの手を握って、「生きていてくれてありがとう」と笑ってくれた。

「……涼風」

 ふいに、聞きなれない女性の声があたしの名前を呼んだ。おばあちゃんから視線をずらして、後ろを伺う。思うように体が動かせないから、声の主が誰なのかなかなか姿を捉えることができなかった。だけど、おばあちゃんがあたしの手をそっと離すと、入れ替わるように誰かと交代した。
 まだ鮮明ではない視界に、四十代くらいだろうか。目元が赤く涙を拭うような仕草をする女性が映り込む。

「良かった涼風、無事で……」

 小さな声で呟いて鼻を啜ると、女性はすぐにあたしから顔を背けた。

『泣いたってなんにもならない』

 顔を背けて涙を拭うように目元を擦る女性を見て、あたしは母のことを思い出した。
 もしかしたら、この人。
 頭がようやく働くようになって、一瞬だけ見えた顔。歳をとってしまっているけれど、幼い頃にあたしを置いていなくなった母じゃないかと感じた。すぐにおばあちゃんに頭を下げて、女性は行ってしまった。
 泣き顔を、見られたくなかったのかもしれない。だって、もしあの人が母だとしたら、「泣いたってなんにもならない」って思っているはずだから。だけど、一瞬だけ見えてしまった赤く潤んだ瞳。あたしのことを心配して泣いてくれたのかな? なんて、そんなことあるはずないのに、勝手にいいように解釈してしまう。あたしは、とっくに見捨てられたんだもん。今更心配だなんて。おかしいよね。

 意識が戻った次の日、あたしは順調に回復していて、二、三日様子を見て問題がなさそうだったら退院できると言われた。
 幸い、事故の怪我も頭を打ったことによる軽い脳震盪と、まだ痛むけれど手足の擦り傷程度の軽傷だった。ただ、一ヶ月も眠り続けたことが心配された。先生との話し合いで、今後も定期的に病院へ通うことになって、退院の運びとなった。
 まだ大きな絆創膏を貼った手足は周りから見たら痛々しいかもしれないけれど、あたしとしてはもうほとんど痛みも感じないし、傷を隠すために貼っているようなものだった。


「涼風ぁ~!!」

 久しぶりの教室に入ると、真っ先に駆け寄ってくれたのは友達の葉ちゃんだ。

「大丈夫だった!? 涼風が事故に遭ったって聞いて、あたし心配で心配で……」

 うるうると涙を溜め込んだ葉ちゃんの瞳が、あたしの全身を隈なく見る。

「わーん! 痛いよね、怖かったよね! でも無事で良かったー!」

 ついには泣き出してしまって、あたしに抱きついてくる。よしよしとあたしよりも背の高い葉ちゃんの頭を子供みたいに撫でると、他にも周りで見ていたクラスメイトが「良かった」「大丈夫?」と話しかけてくれた。
 みんなが優しいのは知っているけど、今はもう少しそっとしておいてほしい。とは言えずに、あたしは今日もみんなに愛想を振り撒く。

 先生が入ってきてようやく解放されると、ふと視線を感じて、あたしは机の列の一番前を見た。
 そこにいるのは、サッカー部の西澤くん。泣きそうに眉を下げながら、あたしに微笑んでくれる。だから、つられてあたしもぎこちなく微笑んだ。
 西澤くんも、もしかして心配してくれていたのかな?
 そのまま席に座った彼の後ろ姿を視界に入れたまま、あたしも自分の席に着いた。
 西澤くんとは、あまり……と言うか、全然話したことがない。きっと、クラスメイトが事故に遭ったからだよね、心配してくれているのは。きっと、優しい人なんだろうな。
 そう思いながらも、あたしは先生の見えないところでスマホを取り出してメッセージアプリを開く。
退院して家に帰ってから、気になっていたことがあった。

 スマホには、一ヶ月前から着信や未読のメッセージがたくさん溜まっていた。
 葉ちゃんや先生。おばあちゃん。他にも友達や先輩だったり後輩だったり。一番ほしいはずの古賀くんからのメッセージは一つもなくて落ち込んでいると、一番新しいメッセージの履歴に西澤くんの名前を見つけた。
 そして、西澤くんが送ってきたメッセージに、どうしてこんなことを送ってきたんだろうと、あたしは不思議に思った。
 唐突なメッセージ。クラスのメッセージグループには西澤くんも入っていたことは知っている。だけど、個人でのやり取りはしたことがなかった。と、言うか、本当に教室でも西澤くんはサッカー部の男子と常に一緒にいて、あたしがそこに交わることなんてなかったし、だから、話をすることだって思い返してみても挨拶とか授業の連絡とか、それくらいしかない。だから、こんなメッセージが送られてくることが、なんだか、不思議と言うか……怖いと思った。

「え? 西澤くん?」

 お昼休みに、葉ちゃんと一緒に机をくっつけてお弁当を食べながら聞いてみた。

「葉ちゃん、前に西澤くんのことかっこいいって言ってたよね」
「うん。サッカー命ですって堂々と言っちゃうくらい、真っ直ぐで真面目な感じがカッコいいよね。絶対浮気とかしなそう!」

 力強く頷きながら葉ちゃんは答えてくれる。かと思えば、しゅんと落ち込むみたいに視線を下げて手にしていた箸をお弁当箱の中に下ろした。

「でもねー、西澤くん夏休み中の練習試合で足怪我しちゃったんだよー。だからね、もうサッカー出来ないらしい。辛いよね……なんか気の利いた言葉でもかけてあげたいけど、普段からあまり話したことないし、こんな時だけ優しい言葉かけても響かないよなって、諦めてる」

 綺麗に何層も円を描いた卵焼きを箸で掴むと、葉ちゃんはパクりと口にした。

「……そう、なんだ」

 西澤くんも夏休み中にそんなことがあったんだ。
 確かに、サッカー大好きな西澤くんにとっては重大事件だろうな。あたしの彼氏にフラれる、なんて事件とは訳が違う。まぁ、そのあとの事故に遭ったことの方が大事件だったけれど。
 西澤くんから届いていたメッセージは、夏休み最終日には『生きていてほしい。頼むから』と、その二日前には『古賀と気まずくなったら何でも言って。力になりたい』と二回だった。
 西澤くんとメッセージIDのやりとりをした覚えがない。むしろ、するタイミングさえなかった。だって、まともに話したことがないのだから。それなのに、どうして? あたしが古賀くんと付き合っていることは噂で聞いたとしても、気まずくなったらって、それって、どう言うことなんだろう。あたしが古賀くんにフラれたことを、知っているってこと?
 考えすぎて頭が痛くなってくる。

「涼風大丈夫? 頭痛いの?」

 頭を抱え込むように俯いたあたしに、葉ちゃんが心配する声をかけてくれるから、ハッとして首を振った。

「あ、ごめん。大丈夫だよ」
「辛いならすぐ言ってね、無理しないで保健室で休ませてもらっても良いんだから」
「うん、ありがとう」

 葉ちゃんは高校に入ってからの友達。背が高くて美人で、最初は近寄りがたいクールな印象を持っていた。だけど、同じクラスで近い席になると、周りを巻き込んで次から次へと話題を持ち出し笑わせているし、美人なんて言葉はどこへ行ってしまったのかと思うくらいに、大口を開けて笑ったり、大袈裟な身振り手振りで話す姿は誰もの第一印象を覆した。

「葉ちゃんー、数学わかんないとこあったんだけどあとでノート貸してー」
「オッケーまかしとけぃ」
「葉ちゃん、俺の彼女なんか浮気してるっぽいんだけど」
「は!? まじ? ってかさ、ちゃんと彼女と話してる? 勝手に色々悪いこと考える前に本人と話し合いなよー」

 わいわいと、いつの間にかあたし達の周りには数人のクラスメイトが集まりだす。葉ちゃんはとても人気者だ。その影響で、みんなはあたしにまで優しくしてくれる。でもね、あたしは葉ちゃんと二人きりが良いんだ、本当は。
 同じ様にみんなに当たり障りなく相槌打って、話に合わせて。すっごく疲れるけど、そうしているほうが、みんなが近くなってくれて寂しくないから。あたしにはこんなに親しくしてくれる友達がたくさんいるんだって、安心出来るから。だから、あたしも葉ちゃんみたいに「明るくて親しみやすい」をどこか演じている。特別扱いする様な友達は作りたくないし、葉ちゃんだって、一緒にいる時間は他の子と比べたら多いけど、あたしはまだ心を開いている訳じゃない。
 だって、父や母みたいに、いつかあたしのことを置き去りにして、どこかへ行ってしまうんじゃないかと、たまに怖くなるから。
 こんなに優しくて、たくさん話してくれるのに、突然、あたしの前から消えていなくなってしまうかもしれないんじゃないかと思うと、怖いから。だったら、最初から期待しないほうがいい。最初から、特別だなんて思わないで、みんなと平等に、話もなるべく合わせて、平穏に暮らしていきたい。来るものは拒まず、去るものも追わず。ここに今いてくれる人に、合わせておけばそれでいい。
 結局、古賀くんだってあたしの前からいなくなった。もう、誰のこともあたしは一番にしたくない。

「帰りは古賀くんと帰るの?」
「……え」

 お昼休みを終えてみんながそれぞれ席に戻っていくと、葉ちゃんが当たり前の様に聞いてきた。だから、なんだか言い出せなくなった。古賀くんのことも、西澤くんのことも。
 小さくため息を吐き出す。窓から流れ行く雲を眺めた。夏はまだまだ終わらないぞと、今日も太陽はギラギラと地上を焼くように照らしている。眠っていた一ヶ月間。みんなが夏休みを満喫していた間、あたしはただひたすらに眠り続けていたのかと思うと、なんだかもったいないと同時に、寂しく思った。

「でもさ、なんで急に西澤くんのこと聞いてきたの?」
「え……なんで、だろ?」
「えー、なにそれ」

 あたしがとぼけた様に首を傾げると、葉ちゃんは、あははと笑った。

「あ、でもさ古賀くんの方が断然カッコいいと思うよ? めっちゃ優しいし気が利くし。最高の彼氏じゃん」

 西澤くんのことをカッコいいと葉ちゃんが思っているのは前から知っていたから、だから話を振っただけだった。それなのに、何故か古賀くんのフォローをする葉ちゃんに、まだフラれたことを伝えていないあたしは、なんと返したらいいのか言葉に詰まる。
 そもそも、あたしは本当にフラれちゃったのかな? なんだかそれすら記憶が怪しい。だけど、本人にあたしのことフッたよね? なんて、自爆するようなことは聞きたくないし。いくら優しい古賀くんでも、フッたことが事実なら、素直に「うん」と答えるだろう。
 それに、なんであたし、フラれたのかな。それすらも分からない。

「ねぇ、涼風」
「ん?」
「古賀くんってさ、涼風と付き合ってるんだよね?」
「……え?」

 声のトーンを落として、確かめる様に聞いてくるから、あたしは葉ちゃんをじっと見つめた。

「あの、ね。あたしの勘違いとか見間違いだったら申し訳ないんだけど、花火大会の日、古賀くんが涼風じゃない女の子と二人で歩いてるの見たんだよね……まさか、涼風が大変な時に浮気とかじゃないよなぁって思ったんだけど、確かめることもできなくて。だから、涼風が元気になったら聞こうと思っていたんだけど」

 周りに聞こえない様に注意を払って、葉ちゃんが眉を顰めて聞いてくる。
 それって、やっぱり、あたしフラれてる。
 古賀くんがあたしをフル理由は、一つしかない。
 告白をした日、『傷心中だけどいい?』そう聞かれて、『うん』と答えたんだ。古賀くんは彼女と別れたばかりで傷心中だった。そこに、あたしが付け込んだんだ。
 もしかしたら、元カノとよりを戻したのかもしれない。

「誰といたのかは、あたしにも分からないけど。もしかしたら元カノ……かなぁ?」
「え!? なにそれ! だったら最低じゃん!」

 急に立ち上がって大きな声を出す葉ちゃんに、あたしも周りのクラスメイトも驚いて一気に注目が集まった。
 葉ちゃんはハッとしてすぐに周りのみんなの視線に、乾いた笑いで明るく誤魔化している。

「どう言うこと?」

 かと思えば、あたしに向き直ってちゃんと説明してと真面目な顔をするから、思わずため息が漏れた。

「あたしね、事故に遭った日に古賀くんにフラれたの」
「え?」

 真顔になる葉ちゃんに、あたしはそれ以上話すことはない。
 だって、フラれて事故に遭って、今ここにいる。それだけから。
 葉ちゃんはあたしを見て、言葉を探しているみたいに瞳をウロウロさせる。

「たぶん、元カノのことが忘れられなかったんじゃないかな」

 きっとそうだと思う。古賀くんに告白したあの日、悲しそうに歪んだ表情であたしにそばにいてほしいって言ったのは、元カノのことを忘れるためだったのかもしれない。あたしの告白を受け入れたのは、決して前向きなんかじゃなく、ただ、悲しみを埋め合わせるのにちょうどいいと思ったからなんじゃないかなって、今なら感じる。

「なんか、やっぱり涼風って大人だよね」

 感心する様に頷きながら、葉ちゃんが深いため息を吐き出すみたいに言った。

「……え?」
「いっつも思う。何事にも落ち着いてて、あたしが騒いでいても一歩引いて見ていてくれるし、現実をしっかり受け止めてるよね。偉いなぁ、涼風は」

 優しく葉ちゃんが言ってくれるけど、あたしは偉いなんて思ってもいないし、大人なんかじゃない。
 どうしようもないことだと、諦めているからだ。仕方がないって、自分に言い聞かせているから。泣き喚いたところで、古賀くんは戻ってこないし、それが原因であたしのことを嫌いになってしまったらと思うと、怖いから。臆病なだけ。

『泣いたってどうしようもない』

 その通りだから。

「古賀くんとは、ちゃんと話したの?」

 葉ちゃんが心配そうに聞くから、あたしは首を横に振る。

「入院中もなんのメッセージもなかったし、きっともう、あたしとは話したくないのかも」

 あたしだって、悲しいけど、今更古賀くんと会って何を話したら良いのかわからない。
 どうしてあたしはフラれたの? 元カノの方が良かった? あたしの何がいけなかった? きっと、あたしが思う疑問は、古賀くんにとったら面倒なだけだ。だから、どんなに聞きたいことがあったとしても、聞いたりしたくない。だって、これ以上嫌われたくない。

「もう、いいんだ。忘れるから」
「……涼風ぁ。うん、古賀くんだけが男じゃないし! きっと運命の人は他にいるんだよ! きっとすぐに現れるはず!」

 意気込んで立ち上がる葉ちゃんにあたしは笑った。

「葉子ー、部活行くよー」
「あ! オッケー、今行くっ!」

 葉ちゃんが隣のクラスのバスケ部仲間に呼ばれると、すぐに手を振ってあたしに「また明日ね」と行ってしまった。
 あたしも帰ろうとカバンの中にしまっておいたスマホを取り出してみると、メッセージが届いている。

『図書室で待ってます』

 一言だけ。差出人は、西澤くんだ。
 なんで? 頭の中でまず先に浮かんだ疑問。西澤くんに呼び出される理由が分からない。どうしようかと悩んでいると、誰もいなくなった教室に先生が入ってきた。

「お、杉崎。体調は大丈夫か?」
「はい」

 何かを取りに戻って来たのか、先生は教卓の辺りを探りながら声をかけてくれた。

「それにしても、杉崎は友達関係幅広いよな。親しみやすい性格は男女問わず仲良くて先生も安心するよ」

 ようやく探し物を見つけて顔を上げると、先生は笑ってくれる。

「西澤なんか、俺と一緒に杉崎が目を覚ましたこと泣いて喜んでくれてさ。あんまり西澤が女子と接してるの見たことなかったから、杉崎は凄いなって驚いたよ」

 はははと、笑いながら話す先生に、西澤くんが泣いていたと聞いてあたしの方が驚いてしまう。

「まぁ、無理はするなよ、少しでも体調変だなと思ったら周りのみんなを頼るんだぞ。じゃ、また明日な」
「あ、はい。さようなら」

 先生が教室を出ていくと、シンとした空気に閉まっている窓の隙間からわずかに蝉の鳴く聲が聞こえた気がした。
 残暑残る夏の終わり。命短い蝉は、なおも鳴き続けている。きっと、蝉には「諦める」なんて言葉も、「仕方がない」なんて言葉も通用しないのかな。だって、限られた時間しかないんだもん。ひたすらに、鳴くしかない。それしかないんだもんな。
 つい、ため息を吐き出してしまう。

 図書室、か。今は、行きたくないな。だって、図書室は、古賀くんとの思い出がたくさんあるから。きっと、色々思い出すと辛くなりそうだ。だからと言って、無視をするわけにもいかないから、あたしは西澤くんからのメッセージに『ごめんね、今日はもう帰らないといけないから』と、嘘をつく。
 スマホを制服のスカートのポケットに突っ込むと、鞄を肩にかけて教室を出た。


 事故に遭った交差点は、なるべく通らない様にしたいから、あたしは遠回りをして家までの道を歩いた。いつもと違う風景は、なんだか新鮮な気がして、嫌なことも考えずに済む様な気がした。
 茶色の猫が気だるそうに歩いている。暑さに参っているんだろうなと思うと、可哀想にも感じる。住宅が続いて、しばらく歩くと並木通りに公園が見えてきた。
 こんなところに公園なんてあったんだ。そんなことを思って、立ち止まる。小学生くらいの小さな子供たちが、集まって遊んでいるのが見えたから、その子たちの動きを目で追っていた。
 小さなサッカーゴールが置かれている広場で、サッカーをしている。ボールを取り合って喧嘩するみたいに男の子たちが騒いでいると、ボールがあたしの方に転がってきた。

「へたくそ大地(だいち)ー! 早く取ってこいよー!」
「うるせえっ、大海(たいかい)が下手なんだろ!」

 文句を叫びながら、真っ黒に日焼けした男の子があたしの足元に転がってくるサッカーボールを追いかけてこちらに走ってきた。
 これ以上転がってしまったら道路に出てしまうと思って、あたしはしゃがんでボールを両手で止めた。

「あ! 大空(たいく)兄!」

 目の前まで来た男の子は、ボールを持っているあたしじゃなくて、嬉しそうに瞳を輝かせてあたしの後ろに視線を送っているから、つられて振り返った。

「また喧嘩しながらやってるのか?」
「むーっ! だって俺の方にボール寄越さない大海が悪いんだよ!」

 怒りながら、男の子はあたしからボールを奪う様に取るから、呆気に取られる。

「こら! 大地。ボール、拾ってくれたんだから、お姉さんに言うことあるだろ?」

 男の子の頭をポンっと撫でると、怒った顔で言うのは、西澤くんだ。
 頬を一瞬膨らませて眉を顰めてから、男の子はあたしに向き合う。

「ありがとう……でもこれは大海が下手だからだよ……」

 ぶつぶつと腑に落ちない様に言い訳をする男の子に、西澤くんがしゃがんで目線を合わせると、微笑んだ。

「いつも言ってるだろ? サッカーはチームワークなんだから。自分ばっかり上手くなっても意味がないんだよ。喧嘩するならサッカーはやるな。そんなのやってる意味がない。ちゃんと、みんなのこと考えてボールを運ばないと」

 真剣な目で真っ直ぐに伝える西澤くんの言葉に、あたしまでなんだか胸がギュッとなる。
 ただ怒るわけじゃなくて、ちゃんとどうしたら良いのか考える様に伝える西澤くんの言葉に、男の子は小さく頷いた。

「よし、じゃあ俺もまぜて」
「え! だって! 大空兄、足怪我してるでしょ?」
「まぁ、少しくらい平気だよ」
「ダメ!」
「……お?」

 今度は、男の子が西澤くんのことを怒り出した。

「病院の先生に、今サッカーしたらもう一生サッカーできないって言われたんだから! ダメだよ! 絶対!」

 小さな手で来ない様に押し返しているから、思わず西澤くんもよろめいている。

「仲良くやるから! 兄ちゃんは足を労って!」

 ボールを脇に抱えて、男の子は走って戻って行ってしまった。

「……労ってって、どっからそんな言葉覚えたんだろ」

 立ち尽くす西澤くんの後ろ姿に、しゃがんだままだったあたしはそっと立ち上がった。
 このまま黙って立ち去るわけにもいかずにどうしようかと思っていると、西澤くんが振り返った。

「ごめんね、杉崎さん。今の俺の弟」
「……え、あ、そう、なんだ」

 前から親しかったように近づいて来て言われるから、あたしは驚きつつも歯切れ悪く笑顔を作る。

「ほら、この前話したじゃん? あのちょっと髪の長めなヒョロイ奴が、小ニの大海で、さっきの短髪でちびっ子なのが小一の大地」

 サッカーをしに戻ったさっきの男の子たちのいる方を指さして、西澤くんが当たり前のように教えてくれる。
 だけど、あたしはそんな西澤くんの弟たちのことよりも、その前の言葉の方が気になった。

『この前話したじゃん?』

 この前……? って、いつ?
 楽しそうに向こうを眺めている西澤くんには、疑問しか感じない。

「それにしても、ほんと良かった。杉崎さんがちゃんと生きていてくれて」

 こちらを向いた西澤くんの瞳は、穏やかに細くなるけれど、なんだか今にも泣き出しそうだ。
 潤んでいく目に、きっと西澤くんも気がついて、こぼれ落ちないように空を見上げる。

 ようやく傾き始めた太陽は、優しく光を降り注ぐ。澄み渡る空の青は清々しくて、汗ばむ肌に感じる風が心地いい。
 西澤くんは、本当に心からそう思ってあたしに接してくれている気がした。
 だからよけいに、分からない。
 だけど、ここであたしが知らないと、冷たい態度を取ってしまったら、きっと西澤くんは悲しむのかもしれない。だから。

「……あの、古賀くんとのことって……」

 何を知っているの? とまでは聞けなくて、探る様に言葉を濁す。

「え? ああ、今日は大丈夫だった? 古賀がうちのクラス来ることもなかったし、移動の時とか嫌な思い、してない?」
「……え、ああ、うん。なにも」
「そっか、なら良かった。いつでも言ってよ。俺で出来ることなら助けになりたいし。あ、今日はメッセージに返信ありがと。なんか、返信が来てめちゃくちゃ嬉しかった。しかもここで会えちゃったし。また、送ってもいい?」
「え?」
「……迷惑、なら、やめるけど」

 目を伏せた西澤くんが寂しそうに笑うから、あたしは小さく頷く。

「大丈夫、送っても」
「まじ? 良かった! じゃあ、俺妹迎えにいかなきゃないからまた!」

 笑顔で手を振って、西澤くんは弟たちにも「ちゃんと時間なったら帰ってこいよー」と声をかけて、行ってしまった。
 妹も、いるんだ。
 何故かそこだけが頭の中に残って、あんなに親しく西澤くんと話したことが信じられなくて、よく分からない気持ちのままあたしは家に帰った。

 「ただいま」と玄関を開けると、おばあちゃんが夕飯の支度をしてくれているんだろう。香ばしい肉の焼ける匂いが漂って来た。

「涼風ちゃんおかえりなさい。体は大丈夫? 痛いとこや苦しいとこない?」
「うん、全然平気」

 痛みはないし、苦しいのは古賀くんとのことを思い出したことくらい。だけど、さっき西澤くんと話したことで、少しだけ気分は前を向いている。

 夕飯を済ませて部屋に戻ると、置きっぱなしにしていたスマホの通知音が鳴った。
 メッセージが届いている。
 古賀くんからかもしれないと、少しだけ期待をしながら画面を見ると、メッセージを送って来たのは西澤くんだった。
 落胆、とまではいかないけれど、期待した分少しだけガッカリしてメッセージの内容を確認する。

『明日の放課後は図書室来れる?』

 西澤くんは図書室が好きなのかな?
 率直に感じた疑問。そして、あたしには図書室は古賀くんとの思い出がありすぎるから、やっぱり行きたいとは思わない。
 西澤くんは足を怪我して部活は引退したと葉ちゃんが言っていた。弟くんも、怒るくらいに足のことを心配していたから、きっと大きな怪我なんだろう。
 もしかしたら、部活が出来ないから、放課後は図書室にいるのかな。西澤くんって、どんな人なんだろう。
 いつも自己紹介の時は決まって「サッカー命です」って言うくらいにサッカーが好きってことくらいしか知らない。あ、弟が二人いるって言うのはさっき知ったけど……あと、妹。

『うん、めっちゃ小さい。手とかぷにぷにしてて繋ぐと離してくれないし』

 ふいに、西澤くんのデレた笑顔が脳裏に浮かぶ。

「……二歳の、妹?」

 ポツリと言葉に出たから、自分で驚いてしまう。
 それ以上は思い出せないけれど、何故だろう。西澤くんには二歳の妹がいることをどこかで聞いたことがあった様な気がしてくる。
 いつ話したんだろう?
 一年生の時も同じクラスだったから、もしかしたら話の流れで聞いて知っていたのかもしれない。じゃなきゃ、やっぱりあたしは西澤くんとは話したこともないし、西澤くんも、あんな風に親しみやすく話す様な雰囲気の人ではないと思っていたから。
 メッセージの返信には、『行けるよ』とだけ送った。なんだか少し怖いけれど、あたしは何か忘れている様な気がする。


 次の日、葉ちゃんに西澤くんのことをまた聞いてみることにした。

「……また西澤くん? どうしたの、何度も」
「いや、昨日帰りに公園で偶然会ってね、その時にやけに親しく話しかけてきたから、驚いて」
「え、あの西澤くんが?」

 葉ちゃんも驚いたように目を見開いて聞いてくるから、頷いた。

「あたし、事故に遭う前、西澤くんと仲よかった……とかってことは、なかった、よね?」

 自分で言っておいて自信がなさ過ぎて、だんだんと声が小さくなっていってしまった。

「それはないんじゃないかなー、だって涼風、古賀くん古賀くんって、そればっかりだったよ? ようやく彼女になれたって教えてくれた時二人でめっちゃ喜んだじゃん」

 確かに。葉ちゃんの言うように、図書室に現れる古賀くんに毎日想いを募らせていたあたしは、葉ちゃんに「古賀くんのことが好きなんでしょ?」と言われて想いを自覚した。彼女と別れた情報を仕入れた周りの友達と、葉ちゃんからの後押しで、今しかないと想いを伝えたんだ。
 すぐに行動できたのは、本気で古賀くんの彼女になりたかったから。好きな人が欲しかった。自分が大好きだと思える人が。そして、あたしのことも好きだと言ってくれる人に、そばにいて欲しかった。いろんなことを共有して、気持ちをわかり合って、そばにいていいんだよって、安心できる場所が欲しかった。
 だけど、傷心中の古賀くんじゃ、最初からそんなあたしの願いは叶うはずがなかったのかもしれない。なのに、告白の返事をもらえた時、もう色々考えることを辞めちゃったんだ。
 今が幸せならそれでいいって。後からのことなんて、後回しにしてしまった。
 考えればすぐに分かったことだったかもしれないのに。あの時はただ嬉しくて、舞い上がっていたんだ。
 そうやって、あたしは後悔を重ねていく。だけど、仕方ないんだ。うん、しょうがない。

「ねぇ、涼風。昨日ね、男バスが話しているの聞いちゃったんだけどさ」

 なんとなく、言いずらそうな雰囲気で話し出す葉ちゃんに、あたしは息を呑む。

「古賀くん、涼風が事故に遭ったの知ってて逃げたって。噂になってる」
「……え?」
「その上、涼風が入院してるのをいいことに、元カノとも遊んでるって。三年の先輩がやっかみみたいに噂してた」
「……古賀くんは?」
「ああ、なんか、全然気にしてない感じ。あたしさ、そっちの方がはぁ? って感じで。古賀くんのことなんか軽蔑しちゃった」
「え……」
「だってひどくない? いくらフったとは言え、全然涼風のこと気にしてなさすぎる。お見舞いにも行かなかったみたいだし、人としてどうなのって思ったんだけど」

 腕を組んで、怒っている葉ちゃんに、あたしは言葉が出てこない。

『全然涼風のこと気にしてなさすぎる』

 きっと、葉ちゃんは話の流れであたしのために思ったことを言っただけなんだと思うけど、なんだかその言葉は、あたしの存在なんてないみたいに聞こえて、悲しくなる。

「……古賀くんは、悪くないよ」
「もぉー、どうして涼風はそうやって優しいの! 悪いってば! 絶対!」
「葉ちゃんが怒ってくれるのは嬉しいんだよ」

 だけどね、そうだとしても、しょうがないでしょ? どうしようもないよね?
 胸の中に悲しみがまどろむ渦が出来始める。渦巻いて濃くなっていくのを感じて、あたしは大きく息を吸い込んだ。たっぷりの新しい空気と渦を誤魔化すみたいに中和する。

「古賀くんのこと、悪く言わないであげてね」

 精一杯の笑顔を作って、平気なフリをする。胸のまどろみがゆっくりと体の底に沈んでいく気がした。いや、沈めておきたかった。

「もうー! 悲しそうに笑わないで、涼風ぁ。あたしは絶対涼風の味方だからね!」

 ギュッと抱きしめてくれる葉ちゃんに、沈んだはずのまどろみが湧き上がってきそうになるのを必死に我慢して、あたしは何度も頷いた。

 部活に行った葉ちゃんと別れると、あたしは図書室に向かった。
 教室にはもう西澤くんの姿はなかったから、きっともう図書室にいるんだろうと思った。何度か立ち止まっては気持ちを落ち着かせて、ようやく辿り着く。
 部活動の盛んなうちの学校では、テスト前とかじゃない限り、放課後はほとんど図書室には人がいない。部活に所属していない人はすぐに帰ってしまうし、一人になりたい時にはもってこいの場所だった。
 カラリと引き戸を開ける。ひんやりとした空気と一緒に、まだ生ぬるい外からの青い空気が体に絡み付いてきた。小さく深呼吸をして、中に踏み入る。
 一箇所だけ窓が開いていて、カーテンが揺れている。そこに、西澤くんの姿を見つけた。

「……あ、杉崎さん。良かった、来てくれて」

 こちらに気がついた西澤くんが嬉しそうに微笑むから、なんだか胸がぎゅっと詰まる。

「立ち位置がなんか前と逆だね。変な感じ」

 ははっと笑った西澤くんの言葉には、やっぱり引っかかるものがある。
 西澤くんの言う、《《前》》とは、いつの事なのか。あたしにはなにも身に覚えがないから、合わせる様に笑うしかない。
 ぎこちなく距離を詰めて、西澤くんから少し離れた椅子に手をかけて座る。すると、窓を閉めてカーテンをタッセルで纏めた西澤くんが、ゆっくりあたしの前の席に座った。
 スローモーションのように見える動きの一つ一つに、なんだか見たことがある様な気がして、あたしの胸がざわめく。

「杉崎さんさ、もしかして忘れちゃった?」

 悲しそうに眉を下げて、西澤くんが泣きそうにこちらを見るから、あたしまでつられて泣きそうになってしまう。

「……え?」
「杉崎さんが学校に来る様になって、もしかしたらまた話しかけてもらえるかなって、期待していたんだけど……そんなことなくて。自分からメッセージ送ったりして、昨日は嫌な思いさせちゃったんじゃないかなって、ちょっと反省してた」

 ごめん。と、頭を下げる西澤くんに、あたしは驚いてしまう。
 あたしには、西澤くんに呼び出される理由も、親しく話す理由も、謝られる理由も全部わからない。

「……本当に全然、覚えてない?」

 少しの希望を抱くみたいに、確かめるように聞いてくるけど、あたしには本当に西澤くんの言いたいことが、分からない。悲しませたくないのに、言葉が見つからなくて視線を下げたまま黙っていると、また、西澤くんが小さく謝った。

「ごめん、困らせるつもりはないんだ……ただ、やっぱり俺だけなんだなって思ったらちょっと、悔しいなって。はは、何言ってんだコイツって感じでしょ? 杉崎さんと会えていたあの日々は、俺は忘れたくないんだけど……」

 ついに、シンっとしてしまった図書室には、空調の音だけが静かに聞こえる。窓から差し込む陽射しが、木の葉に揺られて不器用にあたし達を照らす。

「でも、俺はしょうがないとか思って、諦めたくないんだよね」
「……え?」
「足怪我してサッカーは出来なくなっちゃったけど、俺はサッカー諦めてないし、だから、杉崎さんのことも諦めたくない」

 真っ直ぐにあたしに向き合って、西澤くんが真剣な顔をしている。
 いつもの西澤くんなら、もっともっと陽に焼けて、焦げたみたいに真っ黒なはずなのに、今年の夏は、きっと怪我でサッカーが出来なくて外に出ている時間も短かったからだろう。元々きっと色白な西澤くんの肌は、うっすらと日に焼けて色づいているだけな気がする。そんな表情が、今は日焼けとは違うけど、頬と鼻が赤く色付いている。

「杉崎さんに、思い出してもらいたい。だから、俺、杉崎さんのこと、好きになっても良い?」
「……え?」

 真っ直ぐに揺るがない視線に捉われると、逸らせなくなった。
 陽射しを受けた瞳が煌めいている様で、吸い込まれそうで、徐々に、あたしの胸が高鳴っていくのを感じる。

「古賀のことまだ好きでも良い。杉崎さんが古賀のこと諦められないって言うなら協力もする。だから、俺が杉崎さんのことを想っててもいいかだけ、聞いておきたかったんだ」

 ──どうして?
 なんで、初めから想いが叶わないようなことを言うんだろう。あたしが古賀くんのことを好きなのは本当だけど。
 フラれてしまってもどうして? と諦めきれずにいるのも事実だ。だけど、あたしはこれ以上古賀くんには近寄る気はない。突き放されるのが怖いから。だから、好きだけど、仕方ないって、諦めるんだ。
 西澤くんだって、ここであたしが無理ですって断ったら、すぐに諦めるんでしょ。
 なんだか今のあたしは、中途半端だ。

 古賀くんのことは好きだけど追いかけない。西澤くんの気持ちにはよく分からなすぎて答えられない。中途半端にするくらいなら、初めから要らない。
 後で後悔するなら、初めから関わったりしたくない。

「……あたしは、もう誰とも付き合う気、ないかな」

 苦しいのを押し込んで唇を噛んだ。精一杯に笑顔を向けて、西澤くんの気持ちに断りを入れる。

「仕方ないって、思ってない?」
「……え?」
「泣いても仕方ないって、思ってない?」

 どうして、西澤くんがそれを言うんだろう。

「良いんだよ、泣いたって。辛いこと溜め込まなくたって。諦めなくてもいいんだよ」

 なんで? どうして、西澤くんはあたしのほしい言葉をそんなふうに真っ直ぐに並べるの?
 そんなこと言われたら、ずっと蓋をしてきた気持ちが、また溢れてしまう。溢れないように気をつけながら、そっとそっと抱えてきた気持ちが。

「……ほんと、ごめん」

 震える声と、涙がこぼれ落ちる寸前の瞳を西澤くんから背けて、あたしは図書室から飛び出した。
 誰にも打ち明けたくなかった。
 あたしが諦めれば、仕方がないって思いとどまれば、物事はうまく行っていた。
 なのに、西澤くんの言葉に、全部吐き出してしまいそうになった。
 仕舞い込んでいたこれまでのことが、溢れ出てしまうところだった。

 誰もいない薄暗い廊下の壁に、あたしは寄りかかってようやく、止めていた息を吐き出す。
 「はぁ」と、たっぷりのため息と感情が外に吐き出るのと同時に、ボロボロと涙が頬を伝った。

 病院で目が覚めた時、今更心配そうにあたしの名前を呼ぶ母がいた。何の未練もなく別れを告げて元カノと花火大会を楽しむ古賀くんがいた。慰めてくれる葉ちゃんがいた。あたしのそばにいて欲しい人が放つ言葉全部に、あたしは泣き叫びたいくらい苦しかった。
 なんにも知らないはずの西澤くんの告白が、あたしの地雷を思い切り踏んだ。

 声を殺して必死に泣くのを堪えた。溢れてしまった分は仕方がない。グッと手の甲で拭い去って、残りの悲しみにはしっかりと蓋を閉めた。そして、心の奥底にまたしまい込んだ。

 腫れてしまった目を、道ゆく人に見られないように視線を地面に落としながら家路を歩く。きっと、誰もあたしのことなんて気にも留めないだろうに。それでも、あんなに涙をこぼしたのは久しぶりだったから、まだ堪えていた小さなしゃっくりが止まらないでいる。続け様に二回しゃっくりが出て顔を上げた瞬間、道の向こう側に、古賀くんの姿を見つけた。
 あたしの胸は、素直にトクンと温かく脈打つ。
 遠目にしか見ていることができずに立ち止まっていると、「あきくんっ」と言って走ってくる女の子が視界に入った。
 小柄で髪の毛を後ろで低い位置に一つに結んだだけの、眼鏡をかけたどこか垢抜けないような女の子。転びそうになった所を、古賀くんが駆け寄って支えていた。
 二人の笑顔がすごく幸せそうに見えて、ズキリと胸が痛む。
 少しだけ距離をとりながら歩いていく二人の後ろ姿に、あたしはため息をついた。

 古賀くんに好かれたくて、毎朝艶々にアイロンで髪の毛を伸ばした。メイクもナチュラルに、校則に引っかからない程度に覚えた。毎日毎日、どうやったら古賀くんに振り向いてもらえるんだろうって、考えるのが楽しかった。
 そっか、古賀くんのタイプって、あんな感じの守ってあげたくなるような、普通の子だったんだ。気がついたら、ふふっと声を出して笑っていた。
 もう居なくなっただろうと思っていたひぐらしが、カナカナと遠くに鳴いているのが聞こえた気がした。学校の裏の山で、まだ蝉が短い命に抗って最後の聲を振り絞っているのかもしれない。
 どうして、そんなに苦しそうなんだろう。
 なんだか、今のあたしみたいだ。
 そんなに苦しいなら、しょうがないって、もう、諦めたら良いんだよ。

 おばあちゃんに泣いた顔を見られるのが心配になったあたしは「ただいま」といつもよりも小さな声で、そっと玄関の扉を開けた。
 見慣れないスニーカーが綺麗に揃えて置いてあるのが目に入った。おばあちゃんはまだあたしが帰ってきたことに気が付いていない。静かに扉を閉めて、ゆっくり中に入る。
 居間から話し声が聞こえてきて、声の感じから、そこに居るのが女の人であることが分かった。そして、なんとなく弱々しく泣いているような気もする震える声には、聞き覚えがある気がした。

「大事に至らなくて、本当に良かった……」
「そうだねぇ。学校もちゃんと行けているから、何も心配することはないですよ」
「……はい。本当に、お義母さんには何もかも任せてしまって、申し訳ないと思っています。だけど、私にはまだあの子と向き合う自信がないので、もうしばらく様子を見させてください」
「……そうかい。うん、うん、大丈夫だよ。私もまだこの通り元気だし、気持ちの整理をつけてからで構わないからね。雄介は帰ってくる気はないだろうし、来たところで涼風ちゃんのことは任せられない。だから、ゆっくり、考えておいてほしいの。いつかは、あなたに涼風ちゃんのことをきちんと親として迎え入れてほしいから」
「…………はい」

 聞こえてきた二人の会話に、あたしはよろめいた体を起こし、必死に保った。もう一度玄関へ向かう。脱いで置いていたローファーを手に取り、気が付かれないように静かに二階の部屋の階段を上がった。
 荷物をテーブルの上に無造作に置く。ローファーも床が汚れないように、要らない紙袋の上に置いた。
 スウっと小さく息を吸い込んでから、ベッドに寝転んで天井を仰ぎ見る。
 おばあちゃんと話していた人は、きっと病院で見たあたしの母だ。

 どうして?
 おばあちゃんは、あたしのことを、あの人に渡すのだろうか? あたしを捨てていなくなったのに。今更出てきて、あたしとおばあちゃんを引き離すんだろうか。
 そんなの、嫌だ。
 あたしは、おばあちゃんが居たからここまで来れたんだ。ずっとそばにいてくれるって、小さい頃に言ってくれたのに。

 苦しくなる胸に手を当てて、あたしはベットの上で膝を抱えるみたいに小さくうずくまった。
 ピコン。スマホが鳴る。
 なぜか、あたしの頭の中には西澤くんの顔が浮かんだ。スカートのポケットに入っていたスマホを取り出すと、そっと画面を見つめた。
 メッセージは、やっぱり西澤くんからだった。
 潤んでいた視界をクリアにするために手の甲で一度だけ拭う。流れるまでじゃなかった涙は容易に無くなった。

》明日、デートしよう
「……は!?」

 思わず出てしまった声に、手で口元を塞いだ。

 え? なに? どういうこと?

 一気に頭の中が混乱し始める。さっきまで悲しみに暮れていた気持ちもすっ飛んで、あたしは体を起き上がらせてスマホを食い入るように見つめた。どう読んだとしても、西澤くんからのメッセージの内容は変わらない。
 西澤くんが……分からなすぎる。
 小さくため息を吐き出すと、なんだかもうおかしくって笑ってしまった。もう、色々考えるのは一旦やめよう。
 玄関のドアが開いて閉まる音が聞こえてきたから、あたしは制服を脱いで部屋着に着替えた。

 西澤くんにはまだ、返事を送っていない。メッセージの内容は見たから、既読が通知されているはずだし、あたしがメッセージを確認したことはきっと伝わっている。だけど、なんて返信したら良いの? これは、行くか、行かないかの二択しかない気がする。

 階段を降りて、おばあちゃんに「ただいま」と声をかけた。

「涼風ちゃんおかえりなさい。今日は夕飯まだなの、ちょっと待っててね」

 さっきまでいた母のことには何も触れずに、慌ててエプロンを巻いてキッチンに入っていくおばあちゃんに、あたしも「手伝うよ」とついていった。

 「大根をおろしてくれる?」と、おろし器と大根の首の方を切って皮を剥くと、テーブルの上に置いてくれた。
 おばあちゃんは何も言わない。さっきのことを立ち聞きしてしまったのは悪かったけれど、もしかしたら、おばあちゃんは今までも母と会ったりしていたのかもしれない。知らないところで、あたしのことを話していたのかなって思うと、なんだか、一番近い存在だったおばあちゃんのことまで、信用できなくなりそうだ。
 思わず深いため息が出る。

「疲れた? 向こうで座ってて。後はおばあちゃんがやるから」
「……あ、うん」

 微笑んでくれるおばあちゃんに、あたしは半分おろした大根をそのままおろし器の上に置いて、リビングに座った。
 ポケットの中のスマホを何の気無く眺めていると、また、通知が届く。

『かき氷と花火、どっちが良い?』

 また、西澤くんだ。
 さっきのメッセージにはまだ返信していなかったのに。かき氷……と、花火?
 どちらも夏の風物詩だ。もう九月を過ぎて夜は秋の虫の鳴く声が増えたと言うのに、夏の思い出でも作るみたいな質問に、あたしは思わずまた笑ってしまう。
 しかも、どっちもあたしが古賀くんと夏休み中にやりたかったことだ。
 学校帰りにかき氷を食べたり、夏休みにはプール行ったり、花火したり、花火大会に行ったり……
 これから始まる彼氏との楽しい夏休みが全て打ち砕かれたことを思い出して、ガッカリしてしまう。元カノとの花火大会、楽しかっただろうな、古賀くん。
 一度だけ、古賀くんが元カノの話をしたことがあった。付き合いをオッケーしてくれてすぐに。

『杉崎も本好きなの?』
『え?』

 《《杉崎も》》って、聞き方が、なんだか腑に落ちなかった。

『あ、あたしは、本が好きっていうよりも、図書室が好きで』
『え? そうなの? へぇ。てっきり本が好きだからここにいるんだと思ったけど。違うんだ』
『……あ、うん。ごめん』
『はは、なんで謝んの? 全然だよ。俺も本のことはよく分かんないけどさ、でも、図書室は好きだよ』

 真っ直ぐに、手元の本を見つめながら話す古賀くんが穏やかに愛おしそうに笑うから、そんな笑顔も含めて好きだなぁって、その時は感じた。

『……本が、好きな子だったんだ』
『……え?』
『元カノ。本が好きで、真面目でさ。俺とは正反対。だからかな、フラれたの』
『え、フラれた?』
『あ……、これも内緒な。杉崎だから話すんだよ』

 人差し指を立てて、また困ったように笑うから、その笑顔だけはあたしに向けてくれてるって、二人だけの秘密だよって、なんだかすごいことみたいに感じてしまって。嬉しかったのに。
 あの時も、今も、古賀くんの中には元カノへの気持ちがあり続けたんだろうなって思うと、あたしは本当に古賀くんと付き合っていたと言えるのかどうかも、分からなくなる。

 帰りに見た、あの子が古賀くんの元カノだってことは、間違いないかもしれない。
 もう、どう足掻いたって無理な片想いだ。諦めるしかない。膝を抱えて顔を埋めた瞬間に、また、ピコンと通知が鳴る。
 忙しいスマホだなと、顔を膝に乗せたまま横向きに画面を確認した。

》弟たちも花火したいって言うから、良かったらうちの庭でやらない?

 え? 西澤くんの家?

》家は無理です

 思わず、あたしは無意識に素早く返信を打ってしまった。ハッとして取り消そうにも、送ったメッセージにはすでに既読の文字がついている。

》じゃあ、かき氷で決まりね!

 今までは割と淡白な文字だけのやり取りだったのが、初めてにこちゃんマークの絵文字が添えられてくる。だからかな、西澤くんのニヤリとした笑顔が浮かんでしまったのは。

「は? なぜそうなる……」

 言葉に出てしまったけど、何でだろう。
 古賀くんのことを考えて澱んでしまっていた気持ちが、少しだけ、晴れていく。

》また明日! おやすみ

 イメージとしては、友達以外には無口な西澤くん。だけど、公園で話した時とか、図書室で話した時と、メッセージの感じは似ている気がする。気さくで、実は親しみやすい人なのかもしれない。西澤くんと関わったとしても、今までの友達みたいに一線を引いて接することにすれば、そこまで深く考えることもないかもしれない。

 だけど、一つだけ問題がある。
 西澤くんが、あたしのことを好きだと言うこと。そんな感情、もしかしたら一時的だけなのかもしれないし、そこにはまだ、こたえられない。
 悩み始めると頭が痛みだす。
 焼き魚のいい匂いがしてきて、テーブルの上には夕飯が出揃った。
 おばあちゃんには落ち込んでしまっていることを見せたくなくて、きつね色に焼き目のついた秋刀魚に大根おろしを添えて、「美味しい」と笑顔で頬張った。


 いつも通りに教室に入って席に着いた。

「おはよう、杉崎さん」

 あたしに挨拶をしてくれるのは、決まって葉ちゃんが一番だった。それなのに、今日は目の前に西澤くんがいる。

「……あ、お、おはよう」

 驚きながらも返事を返すと、前の席の葉ちゃんが目を見開いて驚いた表情を全面的に出してしまっている。どうしようかとこの状況に困ってしまう。

「これ、杉崎さんが休んでた分の夏休みの課題。これだけやっておけば良いからって、さっき担任に渡すように頼まれたんだ」

 あ、なんだ。そう言うことか。
 差し出されたプリント数枚に、あたしがホッとしていると、葉ちゃんも苦笑いして笑っている。

「じゃあ、またね」
「あ、うん。ありがとう」

 すんなりと自分の席に戻って行った西澤くんの後ろ姿を見届けて、受け取ったプリントに視線を落とした。

『放課後楽しみにしてる』
 ふせんに書かれた文字に気が付いて、慌ててプリントをカバンの中にしまった。

「涼風? 急に慌ててどうしたの?」
「な、なんでもない」

 椅子に座って、深呼吸を一つした。

「西澤くんってさ、涼風のこと好きなのかな?」
「は!?」

 いきなり葉ちゃんがそんなことを言い出すから、あたしは思わず大きな声を出してしまう。

「だってさ、最近涼風、西澤くんの話ばっかりするじゃん?」

 それは、西澤くんがよく分からないことを言ってくるから、それで気になっているだけで。

「もしかして、告白とかされた? もしかして西澤くん、涼風が古賀くんと別れたの知って狙ってきたとか?」
「いやいやいや、そんなわけない」
「本当にぃー?」

 ジトーっと目を細めて疑ってくる葉ちゃんに、困ってしまう。
 西澤くんから告白された、なんて本当のことを言ったら、きっと葉ちゃんを悲しませてしまう。だから、これは葉ちゃんには内緒だ。言わなくてもいいことだって、知らなくてもいいことだって、あるんだし。
 だって、葉ちゃんは西澤くんのことが、好きなんだよね?

 ジッと葉ちゃんの横顔を見つめて、その視線の先を辿ってみる。やっぱり、サッカー部の仲間に囲まれている西澤くんの方を見ているから、思わず窓の外に視線を外して、小さなため息が溢れた。
 葉ちゃんとは気まずくなりたくない。

 放課後が近づくにつれて、憂鬱になる。
 鞄の中にしまったプリントに書かれていた文字を思い出して、あたしはもう一度深いため息をついた。

「ため息って、幸せ逃げるんだよ?」
「……え?」

 きっと、もう無意識のうちに今日は何度も出てしまっていたんだろう。
 何度目かもわからないため息を吐き出したあたしに、突然目の前にくるんっと綺麗に内側に巻かれた明るめの長い髪が揺れるのが視界に映り込んだ。

「あ! まりん! 今日こそ部活に顔出しなよー!」
「ごめぇん! これからデートなのっ♪」

 葉ちゃんが教室に入ってきたと思ったら、陽気な猫撫で声ですぐに返事をして、走り去っていく女の子の後ろ姿を見送った。

「もぉー、あの子全然部活する気ないでしょ。もうやめたらいいのに」

 怒り気味であたしの目の前まで来た葉ちゃん。

「今のって……」
「三組の高橋まりんだよ。一応バスケ部」
「だよ、ね」

 ちょっと混乱しているのは、あたしの知っている高橋まりんちゃんとは少しだけ……いや、だいぶ違うような気がしたから。

 喋り方は元々あんな感じでおっとりとしていたけれど、髪も真っ直ぐで黒かったし、眼鏡をかけていて真面目な、どちらかと言うとあまり目立たないような雰囲気の子だった気がする。だから、今目の前にいたのは一瞬、誰だろうかと疑問に思ってしまった。

「あー! そっか!」

 思い出したように、葉ちゃんが頷く。

「あの子、夏休み中に彼氏出来て変わっちゃったんだよ! そのせいで部活はまったく来なくなっちゃうし」

 はぁ、と呆れるようにため息を吐き出して、葉ちゃんは椅子に座った。
 やっぱり。あたしの知っているまりんちゃんとはイメージが違いすぎたから、さっきは混乱したんだ。
 だけど、たまにあたしを気にかけてくれる優しさは前から変わらない気がする。

『ため息って、幸せ逃げるんだよ』

 幸せなんて、あいにく持ち合わせていない。だから、逃げる幸せなんてものはない。あたしのため息は空っぽだ。失うものなんて何もないんだよ。

「彼氏出来て変わっちゃう典型だよ。友達付き合いも悪くなったし」
「……そう、なんだ」
「涼風は彼氏出来ても変わらずにあたしといつも通りに接してくれてたし、嬉しかったんだよー。こんな良い子フルとか、古賀くん見る目なさすぎ」

 何故か古賀くんへの暴言に変わって、葉ちゃんは「また明日ね」と教室を出て行った。
葉ちゃんの古賀くんへの評価が日に日に下がりすぎている気がする。まぁ、仕方ないのかもしれないけれど。

「あ! まーりーんっ! わりぃ、これから部活のミーティングだって! 待ってられる?」

 突然、廊下から男の子の大きな声が聞こえてきた。

「うん、大丈夫だよ。リュウくんのことなら、まりんいくらでも待てちゃうから」
「ぐはぁ! なにそれ! やば、可愛すぎるでしょ。抱きしめていい?」
「えっと、後でね。ミーティング頑張って!」
「うん! 頑張るー! 待っててー」

 なんとも甘いやり取りの一部始終が聞こえてきて、あたしは開いた口が塞がらないでいた。
 すると、教室にまりんちゃんがまた戻ってきた。

「あ、涼風ちゃん。今の聞かれちゃったね」

 恥ずかしそうに頬を染めて、まりんちゃんは可愛らしく笑った。

「……彼氏?」
「うん。サッカー部の隆大くん」
「……サッカー部?」
「うん。涼風ちゃん同じクラスだよ?」
「あ、うん」

 それは知ってる。来須(くるす)隆大(りゅうだい)くんが同じクラスでサッカー部なことは、もちろん知っている。
 あたしが気になったのは、サッカー部がミーティングをするってこと。たぶん、西澤くんもそこに参加するよね?これは、今日の放課後のかき氷はなしになるんじゃないかな? 
 そんな期待を持ち始めたあたしに、まりんちゃんが近づいてきて葉ちゃんの席に座った。

「ね、ね、涼風ちゃんって、古賀くんと別れたって本当?」
「……え」

 もともと下がり気味の眉をますます下げて、まりんちゃんは上目遣いをしてあたしのことを見る。本当にこの子はあのまりんちゃんなのだろうか、と思うくらいにぱっちりした目元のメイクに、固定されているみたいにパラリと揺れる前髪。女のあたしが見ても可愛いと思うから、彼氏の隆大くんには天使に見えてるんじゃないかなとか、思ってしまう。

「ごめんね、こんなこと聞いて。でも、あの時は古賀くんと付き合える涼風ちゃんがすごいなって羨ましく思ったんだよ。なのに、最近別れたって噂を聞いて、びっくりしちゃって……」
「あー……うん、そうだよ。別れた」

 隠していたって仕方ないし、ここで嘘をついたところで何にもならない。

「……そっかぁ」

 あからさまにガッカリとした顔をするから、困ってしまう。

「涼風ちゃんが古賀くんに想いを伝えるって聞いた時ね、あたしも好きな人に頑張って告白しようって思えたんだよ。だから、ありがとう」
「……え?」
「勇気を出せたのは、涼風ちゃんの勇気を見せてもらったからなんだ。可愛くなりたいって思ったのも、涼風ちゃんみたいになりたくて。あたしの憧れなの。涼風ちゃんは」
「……憧れ?」
「うん。きっと、今は次の恋とか考えられないかもしれないけど、あたし、涼風ちゃんの次の恋は全力で応援するからねっ!」
「……え?」
「あ! リュウちゃんのミーティング終わる前に課題やっちゃお。その前に何か飲み物買ってこよ。涼風ちゃんも何か飲む?」
「え? あたし?」
「うん。待ってるんでしょ? 大空くんのこと……っ!」

 立ち上がって、廊下へ駆け出そうとして振り向いたまりんちゃんの顔が、しまったと思い切りゆがんでいく。

「あー、いや、えっと、違う違う。忘れて、今のは」

 両手を大袈裟に体の前で振って誤魔化そうと笑うから、一気にあたしはまりんちゃんに対して不信感を募らせ始めた。

「……どう言うこと? 今の」

 どうしてまりんちゃんが西澤くんと約束していることを知っているの?
 眉間に力が入っているのを感じて、目の前のまりんちゃんが怯えるような目をしているから、あたしは肩の力を抜いた。
 一度ため息を吐き出す。

「あ! ほら、また!」
「……え?」
「ため息は良くないんだってば。ほらほら、吐き出したため息取り戻して! 早く吸い込めば戻ってくるよ! ほらほら」

 目の前に戻ってきたまりんちゃんがあたしの周りの空気を顔の近くにかき集めるみたいに手を動かすから、なんだか呆れてしまって、笑った。

「なんか、まりんちゃんって前から真面目だけど天然だよなーって思ってたけど、もうなんか、本物の天然だわ」
「……ん?」

 見た目が変わってしまったのに、中身は変わらない。

「あたし、幸せ持ち合わせてないからため息吐き出したって、なにも失うものないし大丈夫だよ」

 首を傾げられるから、はははと、笑いながら答えると、一気にまりんちゃんが真顔になった。

「何言ってるの? 幸せじゃない人間なんか居ないんだよ」
「……ん?」

 今度はあたしが首を傾げる。

「あ、ちょっと待ってて。今ね、幸せ運んでくるから」
「……え?」

 良いことを閃いたと、まりんちゃんは明るい笑顔を向けてくれると教室を出て行ってしまった。
 一人取り残された教室の中で、あたしはまりんちゃんが出て行った廊下を見つめていた。

 一息つくと、カバンの中からスマホを取り出して、届いていた通知を見てはまた落ち込む。
 古賀くんからは、やっぱりなんの連絡も来ていない。
 当たり前だよね。あたしからだって何も行動を起こしてないんだから。
 小さくため息を吐きかけて、まりんちゃんの言葉を思い出してそれ以上は吐き出さないように、唇をキュッと閉じた。
 机の上に置いたスマホに、通知が届く。

》ごめん、部活のミーティングあるみたいで少し顔出してかなきゃない。俺から約束したのにごめん。

 ごめんから始まって、ごめんで終わっている。そんなに謝ることなんてない。あたしが行きたくて誘ったわけでもないのに、西澤くんの都合が悪くなったことを、むしろあたしはラッキーだと思ってしまったんだ。だから、謝ってなんか欲しくないのに。

「たっだいまーっ!」

 元気よく大きな声が聞こえたかと思えば、まりんちゃんが教室に戻ってきた。スマホと睨めっこしていたあたしが驚いて振り返ると、「はいっ!」とペットボトルを差し出してくれる。

「幸せ、運んできたよ」

 ニコッと笑うから、つられてあたしまで口角が上がる。素直に目の前のペットボトルを受け取って視線を落として、驚いた。
 ?ラムネサイダー?と書かれたラベル。
まりんちゃんには、あたしの好きなものの話とか、したことあったかな。
 学校では基本、お茶しか飲まないから。たぶんこれを買ってきてくれたのは、単なる偶然だと思う。

「……あたし、炭酸苦手……」
「えええっ!!」
「……驚きすぎでは?」

 あまりにもガッカリするまりんちゃんの反応に、いちいちおかしくって笑ってしまう。
 そして、ごめん。あたし今嘘ついてる。本当はすごく嬉しい。だけど、知られたくないことだから。

「おかしいなぁ……大空くんにちゃんと聞いたのに」
「……え?」
「あ、いや、ごめんね! じゃあ、あたしのあげる」

 慌てて、まりんちゃんはもう片方の手に持っていたミルクティーのペットボトルを差し出してくるから、あたしはまたしても困ってしまう。
 今度は本当に苦手なんだ。
 暑い時に甘ったるい飲み物は、逆に喉が渇く気がして。でも、また嫌だなんてわがままも言えないから、仕方ない。

「あー……じゃあ、ラムネサイダーの方もらうね」
「え! いいの? 炭酸、大丈夫?」
「うん、たまには、大丈夫。全く飲めないわけじゃないから」

 決して、嫌いなわけじゃない。ラムネサイダーはあたしの数少ない思い出を思い出しちゃうから、苦手なだけ。
 ずっと、記憶の底に封印していた。
 お祭りで見かけるたびに、あのビー玉を弾いてしまったら、堰き止めていた悲しみが泡と一緒に溢れ出てしまうんじゃないかって、怖かった。
 これは大丈夫。堰き止めているものがないから。
 大丈夫。
 ゆっくりゆっくり、蓋を回す。
 炭酸が少しずつ抜けていく音を聞きながら、最後に慎重に蓋を緩めた。
 ホッとしてまりんちゃんに振り返ると、目を見開いているから驚く。

「もしかして! 開ける時のプシュッ! てやつが怖かったの!? 言ってよ! あたし全然開けられるから。一応バスケしてるから握力もあるし」

 全然的外れな心配をされて、あたしはおかしくてまた笑った。

「え? なんで? 違った?」
「違くないよ。開けるのめちゃくちゃ怖かった」

 うん、溢れ出てしまったらどうしようって怖かったのに、なんだか本気で心配してくれてるまりんちゃんの顔を見たら、安心してしまった。
 一口、飲んでみる。弾ける炭酸が喉を潤していく。うん、あの時の味とは少し違う気がするけれど、美味しい。

「……わぁ、やっぱり幸せ当たってた!」

 両手を万歳するみたいにあげて、まりんちゃんが喜んでいる。

「さっきね、こっそり大空くんに聞いたの」
「え?」
「涼風ちゃんの好きな飲み物ってなに? って」

 まりんちゃんもミルクティーの蓋を開けながら楽しそうに話してくれるのを聞いて、あたしは驚くしかない。

「ラムネが好きなんじゃないかなって教えてもらったんだー。だからあたし、これを渡したら少しだけ幸せになれるんじゃないかなぁって思ったんだよ。涼風ちゃんめちゃくちゃ美味しそうに飲んでくれたから、今きっと幸せゲージ上がってるよっ」

 クルクルと話すたびに表情が変わる。よく見ればまだまだ不慣れなメイクが施された表情は、幼顔のまりんちゃんには少し濃い気がする。長いまつ毛が上下に瞬きして、頬のチークが弾むように揺れる。それなのに、すごく幸せそうに笑うから可愛い。

「西澤くんに、聞いたの?」
「うん。あ、ここだけの話ね、大空くんとリュウちゃん仲良しだから、情報筒抜けなの。リュウちゃんなんでも教えてくれるし」

 誰もいない教室なのに、小声で慎重にまりんちゃんが話すから、あたしまで聞き耳を立ててしまう。

「……西澤くんが、あたしがラムネが好きって知ってたの?」
「うん。あれ? 大空くんと夏休み中に仲良くなったんだよね? 涼風ちゃん」
「……え、あー」

 そのことに、あたしは全く身に覚えがないから、なんと答えて良いのか分からない。

 夏休み中、あたしはずっと病院にいたから、西澤くんと仲良くなることなんて不可能だし、西澤くんどころか、誰とも接することなくあたしの高校二年の夏は終わってしまったんだ。

「ねぇ、涼風ちゃん!」
「え! な、なに?」

 急に大きな声をあげるまりんちゃんに驚いていると、スマホをこちらに見せてくる。

「見てみてー! これ、めちゃくちゃ美味しそうっ」

 画面の中には誰かがSNSにあげたかき氷が写っている。

「おしゃれなかき氷ー、食べたいー、でも今お金ない。バイトしたいー、あ、このコスメもかわいいー!」

 スマホを操作しながら、まりんちゃんは次々情報を眺めては声にしている。
 自由だな。そんな風に思ってしまう。
 でも、自分のやりたいようにやっているのは、少しだけ羨ましくも感じる。周りになんと言われても、この子は自分のやりたいことを貫くんだろうなって。

「決めた!あたしバイトする」
「え!?」
「テスト終わったらもう暇じゃん?」
「え、あ、まぁ」
「夏休み中に遊びすぎてもうお金ないし、親からはもらえないし。よし、バイト探そう」

 真面目にスマホ操作をし始めるまりんちゃんに、あたしはそろそろ帰ろうと、席を立った。

「先、帰るね」
「え! かき氷行かないの?」
「……え?」
「大空くんのこと、待ってるんじゃなかったの?」

 あ、そっか。まりんちゃんはあたしが西澤くんからかき氷に誘われているのも知っているんだ。
 どうしよう。なんて言おう。なんだか、面倒くさい。顔には出さずに言葉に詰まる。

「あ! ミーティング終わったって! 行こう、涼風ちゃん」
「え!?」
「ほらほら、早くー」

 なんで?
 断る間もなく、完全にまりんちゃんのペースに飲み込まれてしまっている自分に、またため息をついた。


 結局、あたしたちは今四人で学校の近くの昔ながらのかき氷屋さんの外ベンチに並んで座って、かき氷を食べている。

 まりんちゃんと隆大くんは二人で違う味を食べ比べっこしていて、その隣に西澤くんとあたしが並んで無言のままかき氷を食べる。
 きっと、西澤くんもこうなるとは思っていなかったのかもしれない。まりんちゃんと一緒に現れたあたしに、明らかに落胆したように肩を落としていた。
 二人きりよりは他にも誰かがいた方が気が紛れて良いかも、なんて思ったけど、完全に二人だけの世界を作っている右隣には、もう視線も向けたくなくて、ひたすら走りゆく車を眺めていた。

「……なんか、ごめん」

 ポツリと、西澤くんが謝るから、あたしはかき氷を食べるのをやめた。
 あんまり謝られると、なんだかあたしが悪いことをしたみたいで、少しだけ嫌な気分になる気がする。

「あたしはやっぱり、西澤くんの気持ちにはこたえれないよ。だから、ごめんはあたしの方」

 今は、誰かと恋なんてしたいと思わない。

 久しぶりに食べたいちご味のかき氷は、なんだか甘酸っぱかった。ブルーハワイのかき氷を食べていた西澤くんが、あたしの言葉に動きを止めた。

「ねぇねぇ! 見てー!」
「リュウくんの舌ヤバくない?」

 まりんちゃんのきゃははと弾けるような笑い声と一緒に、振り向いた隆大くんがべぇっと舌を出す。

「いちごとブルーハワイ食べたらやべぇ悪魔みたいな舌になった!!」
「あはは! あたしのまで食べて欲張るからだよぉ」
「まりんだってブルーハワイ食べたじゃん、舌見せろよ」
「え! 嫌だよぉ」
「いいから、ほら、こっち向いて」

 まりんちゃんのほっぺを両手で挟み込んで、顔を近づけてじゃれ始める二人のやり取りに、思わずため息が出てしまう。
 あたしは一体何を見せられているんだろう。勝手に二人きりでやってくれ、そう言うのは。

「あ! またため息!」

 すぐ様、まりんちゃんに突っ込まれるけど、あたしは苦笑いして立ち上がった。

「じゃあ、あたし、帰るね」
「え! じゃあ、俺も……」

 慌てて西澤くんが後ろからついてくる。
 溶けてしまったかき氷をストローで吸った。もう甘酸っぱさは感じない。ただの甘いシロップを飲み込んで、後ろを歩く西澤くんに歩く勢いのまま振り返った。

「わ!」

 急に振り向いたあたしに驚いて、かき氷のカップを落っことしそうになりながら、西澤くんは立ち止まった。

 西澤くんは、どうしてあたしの触れられたくない記憶の中の思い出を、心の奥に仕舞い込んでいる悲しみを、知っているの?

 声には出さずに、ジッと不信感を持って彼のことを見つめた。

「隆大と彼女には、杉崎さんと初めて図書室で会った日の帰りにたまたま会って、杉崎さんに勉強教えてもらうって話をしてたんだよ」

 首筋を掻きながら、西澤くんが俯きつつ、話してくれる。

「杉崎さんが事故に遭ったって話もその時はみんな知らなくて、学校が始まってからなんで杉崎さんと図書室で会えてたんだ? って聞かれてさ、隆大にだけは全部話したんだ。信用してたから。そしたらいつの間にか彼女にまで聞かれててさ、仕方ないから全部教えたんだよ。不思議な話だからバカにされるかと思ったけど、意外と二人とも真剣に聞いてくれて」

 また、西澤くんがあたしの知らない夏休みの間の出来事を話す。

「どうして、あたしがラムネが好きだって知ってたの?」
「え?」

 誰にも話したことなんてなかったのに。
 お父さんとお母さんの真ん中で手を繋いで、初めて夏まつりに行った記憶。人がたくさんいて、前が見えなくて。お父さんがラムネを買ってくれた。

『ほら、涼風。見てろよ』

 道の端っこで、お父さんがしゃがみ込むから、あたしも小さくしゃがんでラムネの瓶を覗き込んだ。
 グッと力を込めて上から瓶を押すと、プシュッ! と勢いのいい音がして、シュアシュアと泡が溢れて来た。
 驚いて尻餅をついてしまったあたしを、お母さんが慌てて抱っこしてくれて、『びっくりしたねー』って笑っていた。
 あの時だけだ、あたしが今思い返して家族で幸せだったって感じた瞬間は。

 だから、ラムネは好きだけど、苦手。どうしてあの時みたいに、三人でずっと一緒に居れなかったんだろうって思うと、悲しくなるから。
 久しぶりに心のずっと底の方に沈めていた数少ない良い記憶を思い出すと、西澤くんの表情に視線を戻した。

 なぜか、彼はきょとんとしている。

「……あー、なんとなく?」
「え?」
「なんとなくだよ。杉崎さん夏にやりたいことたくさんあるって言ってたから、夏が好きなのかなって。そしたら、夏といえばラムネだよなって。え? ってか、なんの話? 隆大の彼女に杉崎さんの好きな飲み物教えてって言われて、なんとなく答えただけだったんだけど」

 眉間に皺を寄せ、悩むように聞いてくるから、また、心の中の蟠りがシュワッと炭酸みたいに弾けて消えていく。

「……なんとなく? って、なにそれ、」

 別にあたしの知られたくない過去を知っているわけじゃないの? 西澤くんは、どこまであたしのことを知っているの? よくわからないけど、なんとなくであたしの良い思い出を分かってくれるって、なんか、少しだけ、嬉しいって思った。

「あ……杉崎さん笑ってる」
「……え」
「良かった。さっきまでずっとつまらなそうにして居たから、最後に笑顔見れて、良かった」

 安心したみたいに胸を撫で下ろす西澤くん。
 あたし、つまらなそうな顔、してたんだ。
 表情にはなるべく気持ちを出したりしたくないのに、気をつけていたはずなのに。気付かれてたんだ。

「ごめんね、せっかく誘ってくれたのに」

 もっと、まりんちゃんみたいに楽しそうにはしゃいであげられたら良かったのに。そんなことを今更思っても、仕方がない。
 それに、西澤くんとは、もう関わらない。
 さっきはっきり気持ちにはこたえられないって断ったし、きっとこうやって放課後に会うのも今日で終わりだ。

「ううん、来てくれて嬉しかった。ありがとう」

 素直に笑顔になる西澤くんに、なんだか安心する。夕陽が傾き始めて、風が冷たくなった。かき氷を食べるには、やっぱり少し季節がずれている。かと言って、そこまで寒いわけではないけれど。

「杉崎さんっ」

 当たり前のように帰ろうと踵を返したあたしに、西澤くんが引き止めるから、振り返った。

「また誘ってもいい?」
「……え?」
「まだまだ、杉崎さんとこうやって話したいんだ。だから、気持ちに答えられないならそれでもいいから……」

 西澤くんの声が徐々に小さくなる。
 眉間によった皺は、不安な表情を作り出す。なんだか、必死なその顔にあたしまで胸がギュッと苦しくなった。

 付き合うとか、彼氏になるとか、特別にそばにいてほしいとか、そんなわがままは言いたくない。
 だって、古賀くんみたいにいつか別れようって、言われるかもしれないから。「そばにいてほしい」なんて、嘘だった。
 いや、あの時だけは本当だったのかもしれないけど、結局はその時の一瞬を埋めるためだけに、あたしにそばにいて欲しかったんだと思うと、なんだか悲しくなる。

 きっと、西澤くんだって同じだ。
 サッカーが出来なくなって、放課後もやる事がなくて、これを機に誰かと付き合ったら良いんじゃないかとか思っているんじゃないのかな。あたしだったら、絶対にそうするし。
 たまたまよく分からない関わり合いがあったから、あたしに構ってくるだけだ。
 そんな、いつ終わるかも分からない恋愛は本物じゃないし、終わりだってきっとすぐ来る。
 その前に、本物の恋愛って、なんだろうな。また、小さくため息が仕方なく出た。

「……友達としてなら」

 不安が晴れるみたいに、西澤くんの顔が明るくなる。

「じゃあ、とりあえず友達として、よろしくっ」

 一歩近付き、スッと手を差し出されて西澤くんの顔を見上げると、照れ笑いしながら嬉しそうにあたしを見ている。

 恋に終わりはあっても、友情には終わりはないのかな。そうだったらすごく良いのに。そう思いながら、あたしはそっと西澤くんと握手をする。
 思ったよりも大きくて骨ばった指が、あたしの手を包み込むから、自分の手がこんなに小さかったんだ、なんて思ってしまった。

「……っうわ、やばい」

 頭上で焦り出す西澤くんの声に、あたしは繋がれた手から視線をあげた。

「めちゃくちゃ手汗かいてきたかも。ごめん。杉崎さんの手、意外とちっちゃくて細っ……」

 真っ赤になっている西澤くんの姿に、あたしまで恥ずかしくなってくる。

「あー、友達かぁ。でも、前進だよな。よし、じゃあこれからもよろしくお願いします。また明日ね」
「え、あ、」

 手を離すと、さっきまで繋いでいた手のひらを顔の前で開いたり閉じたりして嬉しそうに西澤くんは呟いた後で、笑顔を向けて手を振ってくれた。
 くるりとすぐに踵を返すから、「またね」が言えないまま後ろ姿を見送る。何度も振り返っては手を振ってくれるから、その度にあたしも小さく手を振った。
 曲がり角を曲がっていくのを見届けると、空を見上げた。
 秋の雲が、薄水色の空いっぱいに広がっている。沈んでいた心の波に、穏やかな風が吹き抜けていった。


 帰り道、この前と同じ交差点で古賀くんの姿を見つけた。
 すぐに目についてしまうのは、彼の背が高くて目立つことはもちろんだけど、周りにキラキラとオーラが出ているようにあたしの目には見えてしまうからなんだと思う。
 それって、やっぱりまだあたしは古賀くんのことが好きなんだろうなって実感してしまうから、なんだか切ない。

 向こうに渡らずに通り過ぎようと、古賀くんから目を逸らして歩き出すと、「涼風!」と名前を呼ばれて、全身が大きく飛び跳ねるみたいに揺れて立ち止まった。
 聞き間違えるはずもない、古賀くんの声。
 古賀くんが、あたしの名前を呼んでくれている。
 嬉しくてすぐに振り返ると、息を切らせて古賀くんが走ってきてくれた。

「……ごめん、涼風。俺、涼風が事故った時、怖くなって戻らないで逃げだしたんだ。本当に、ごめん」
「……古賀くん……」
「怪我、大丈夫か?」

 あたしの足と腕の絆創膏を見ながら心配そうに顔を歪めてくれるから、なんだかそれだけで嬉しくなってしまう。

「大丈夫だよ! もう痛みもないし」
「……そっか」

 どうして、別れようって言ったの? 元カノとよりを戻したから? あたしといても楽しくなかったから?
 喉の奥から、今にも出てきそうな言葉。

「……涼風、ちょっと今話せる?」
「……え? あ、うん」
「そこ、座ってて。飲み物買ってくる」

 公園のベンチを指差して、古賀くんは自販機に走っていってしまった。思わず頷いてしまったけど、今更、古賀くんが何を話すのかが怖くなる。
 やっぱり別れるなんて嘘だよ。なんて、そんな都合のいい話はしないだろうし、一体あたしになにを話したいんだろう。
 小さなため息を吐き出した後で、ハッとしてあたしはため息を取り戻すように、すうっと息を吸い込んだ。

「はいっ」

 戻ってきた古賀くんが差し出してくれたのは、あたしがいつも決まって飲んでいる緑茶のペットボトル。見ていてくれたんだなって思うと、やっぱり胸の中がじんわりとあったかくなる。

「ありがとう」

 お礼を言って受け取った。古賀くんがベンチの隣に座る。同じ緑茶のペットボトルの蓋を開けて、古賀くんが飲むのを見ていた。

「…… 涼風にはさ、話したことあったじゃん? 俺の元カノのこと」
「……うん」
「こんなこと話して、嫌な思いさせないかなってちょっと申し訳ないんだけど、色々考えてもやっぱり元カノのこと話せるのは涼風しかいないなって思ってさ」

 眉を下げて、困ったように笑うから、あたしだって困ってしまうのに、つられて笑ってしまう。
 元カノの話なんて、聞きたくない。
 だけど、そんな本音は言えない。

「……あたしね、事故に遭ったからか記憶がなんか曖昧なんだよね。古賀くんに別れ話をされたことが最後に鮮明に残っていて、それはやっぱり、本当なんだよね……?」

 ちゃんと確かめなきゃって、ずっと思っていた。古賀くんからなにか連絡があれば、聞こうと思っていた。だけど、待てども待てども、メッセージは届かないし、あたしから聞くのも怖かったから、確かめられずにいた。
 今、元カノの話をされている時点で、きっと別れは事実なんだろうけれど、ちゃんともう一度古賀くんの口から聞いて確かめたかった。

「あ、うん。ごめん、別れようって言ったのは本当だよ」

 やっぱり、デジャブでも無く夢でも無く、申し訳なさそうに笑う古賀くんの顔と別れ話は本当のことだった。
 聞かなきゃ良かった。一瞬だけそんなふうに感じて、あたしは視線を手元のお茶に落とした。

「……そっか」
「でさ、涼風ってけっこう男女関係なく人気あるし可愛いし、俺と付き合ってるって噂出た時もみんな案外すんなり受け入れてくれてたじゃん?」
「……うん」
「だからさ、俺とは元々友達だったってことにしといてくれない?」
「……え?」
「ちょっと訳あって付き合ってるフリしてたってことに、出来ないかな?」

 頼む、と手を顔の前で合わせて懇願してくるから、古賀くんが何を言っているのか分からなくなる。

「……え、なんで?」

 別れたなら別れたでもう諦めるから、あたしはそれで良いのに。なんで付き合っていたことを偽らなきゃならないの?

七美(ななみ)がさ……」
「……七美?」

 急に出てきた女の子の名前に、あたしはすぐに聞き返す。

「あ、俺の元カノ……人見知りでさ、あんまり友達多くなくて。俺と付き合うの自信ないとか言って、一度付き合いオッケーしてくれたのにやっぱり無理とか言われてフラれたんだ。でも、諦めたくなくて花火大会誘ったら来てくれたし、なのにまだ付き合うのはって一線引かれるから、なんか、どうしたらいいのか分かんなくなってさ」

 どんどん隣で落ち込んでいく古賀くんの姿に、あたしは困惑する。
 何言ってんの? この人。
 あたしだって今となっては元カノのポジションなのに。あたしの気持ちは無視なの? それどころか、恋愛相談? いや、意味がわからない。そんなん知らないよ、自分でどうにかしたらいいじゃん!
 心の中では思いっきり叫ぶけれど、口には出せずにまたため息に変える。

「あたしと友達だってことにして、その七美って子は救われるの?」
「え、あー……ちょっとでも別な子と付き合ったとかって知ったら、七美のこと傷つけちゃうなって思って。ますます俺の気持ち届かないよなって」

 古賀くんまでため息を吐き出すから、あたしは呆れてしまう。
 七美のことは傷つけたく無くても、あたしのことは傷つけてもいいんだ。
 自分勝手な考えに呆れてしまう。
 古賀くんって、こんな人だった?
 好きになる前や、想いを伝えた時の彼のことを思い出してみるけど、今隣で落ち込んで肩を落とす姿は想像もしなかった。もしかしたら、図書室で七美にフラれて落ち込んでいた姿も、今みたいにどんよりとしていたのかもしれない。
 どうして、あの時はあんなにも儚げでキラキラして見えていたんだろうと、自分の目を疑う。

「あたしが古賀くんの友達になったとして、七美って子は安心するの?」
「まぁ、友達だし? 彼女じゃないから大丈夫じゃないのかな」

 なんだか、その根拠もよく、分からない。
 きっと今までのあたしなら、古賀くんとだったら友達でも嬉しいと思って、すぐに良いよと返事をしたのかもしれない。
 だけど、なんかこの《《友達》》は違う。
 さっき、西澤くんと交わした友情こそが本物だと思う。
 誰彼構わず仲良くするのが一番楽だし、一人ぼっちにならないための予防線だとは思っているけれど、だけど、やっぱり古賀くんとのこの友達の在り方は偽りすぎてそんなの受け入れたくない。

「ごめん、あたしはもう古賀くんとは別れたんだから友達にもならないよ。元カノと頑張ってね。お茶、ごちそうさま」

 立ち上がって、笑顔も見せずにあたしは立ち去る。

 後味を悪くしないために、なるべく相手を不快にしないようにと、今までなら笑って頷いて話を済ませてきていたけど、なんでだろう。
 もう別に、相手に良く見られたいとかそんなこと考えなくても、言いたいこと言って生きてやるって頭の中で考えが働いてしまって、気が付いたら言葉も冷たく言い放っていた。


 しばらく歩いて、公園からだいぶ離れたところで今更心臓がドクドクと波打ち始めた。
 古賀くんに、ますます嫌われてしまったかもしれない。そう思うと、胸が苦しくなった。あんな態度をとって、良かっただろうか、もっと上手く笑えば良かったんじゃないか、もう過ぎたことにどんどん後悔し始める。

 どうしちゃったんだろう、あたしは。

 今までは当たり障りなく、相手に合わせて相槌を打ってきたはずなのに。どうして、古賀くんの思いを受け入れてあげなかったんだろう。
 別れたとしても、古賀くんとこれからも友達でいられるなら、嬉しいことだったんじゃないのかな。また、そばにいられたかもしれないのに。

 赤信号で立ち止まる。夕陽が沈みかけて薄暗くなってきた空を見上げた。柔らかい風が吹きつけて、走り去る車の排気ガスを巻き上げる。
 鬱陶しい暑さはないけれど、まだ気温の高い夕方の空気が体全体に絡みつく。
 何かが、あたしの中で変わっている気がする。かすり傷のある右腕の絆創膏にそっと触れて、目を閉じた。

 うるさい蝉の聲。
 何も感じない真夏の図書室。
 西澤くんの、笑い声……

 ハッとして、あたしは目を開けた。
 信号は青を示していて、周りの人並みが流れていく。その先で、西澤くんが笑っている姿を見つけた。

「……あれ? 杉崎さん!」

 横断歩道を渡りきったあたしに気がついて、西澤くんが笑顔で手を振ってくれる。
 その隣には、小さな女の子がしっかりと西澤くんと手を繋いでこちらをジッと見ていた。

「また会えたねー! 杉崎さんってここの道帰ることもあるんだ」
「あ、うん……」

 本当なら、ここが一番近道。
 この前はこの交差点を通りたくなくて遠回りしたら西澤くんと会ったんだ。
 まさか、ここでも会うなんて思わなかった。しかも、さっきまで会っていたのに。

「あ、(はな)。ご挨拶して。兄ちゃんのお友達の杉崎涼風さんだよ」

 西澤くんが女の子をふわりと抱き上げて、あたしと向き合うように紹介してくれる。

「こんにちは、にしじゃわはなでしゅ!」

 まだ辿々しい言葉で一生懸命に瞳を輝かせて挨拶してくれるから、一気に心臓をきゅんっと鷲掴みにされた。

「花ちゃん、こんにちは」
「りょーちゃ?」
「うん、涼風です。よろしくね」

 首を傾げてきいてくる花ちゃんに、あたしは微笑んだ。

「はな、りょーちゃ、スキ!」
「え! あ、ありがとう」

 小さな両手を大きく広げて伸ばして来るから、あたしはそっと手を握ってあげた。
 小さくてぷにぷにしている。

「ほんとうだぁ、西澤くんの言った通りぷにぷにしてるね」

 柔らかくて可愛らしい手の感触に喜んでいると、西澤くんが目を見開いてこちらを見ているのに気が付いた。

「……杉崎さん、もしかして」
「え?」
「思い出した!?」

 勢いよく近づく西澤くんの表情はよく見れば嬉しそうな顔をしている。

「思い出した……って?」

 なんのことだろう?

「花のこと話したの、夏休み中の図書室でなんだ。それ以外では話した事ないし、だから、きっと杉崎さんの記憶に残ってるんだよ! 俺が言った、花のこと!」

 興奮気味に熱弁されるけれど、無意識に出ていた言葉だったから、記憶を辿ってみてもやっぱり何も思い出せない。
 きっと、歓喜する西澤くんに対して何も言わずに難しい表情をしていたからだろう。

「ごめん、ちょっと嬉しくなってはしゃいだ」

 西澤くんが謝るから、小さく首を振る。

「ケンカ、なの?」

 あたしと西澤くんの真ん中で、不安そうな小さな声が聞こえてきた。
 花ちゃんが泣きそうにあたし達を見ている。

「あ、違うよ」
「ごめんな、花。ケンカじゃないんだ。兄ちゃんと杉崎さんはお友達だから」
「なかよし?」
「うん、仲良しだよ」
「よかった」

 安心したみたいににっこり笑う花ちゃん。西澤くんがほっぺたの横からピョンとはみ出す二つ結びをした花ちゃんの頭を優しく撫でた。

「杉崎さんの家ってどっち?」
「え」
「ちょっと散歩。今日は母さんも帰り早いって言ってたから急ぐことないし。花も探検して行こうか?」
「たんけん!? いくー!」

 しゃがんで抱っこしていた花ちゃんを下ろすと、西澤くんがまたその手をしっかりと繋いだ。あたしを見上げる花ちゃんのパッチリとした大きな瞳がくるりと揺れた。

「いこ! りょーちゃ」

 にっこりと微笑んで、花ちゃんがもう片方の空いている手を差し出す。
 驚いたけれど、戸惑いながらもあたしはその手を優しく繋いだ。
 小さくて可愛い。
 斜め下で嬉しそうに歩き始める花ちゃんに、あたしも心が晴れていく。
 さっきの古賀くんとのことでモヤモヤしていた不安が少しだけ、薄くなった。
 こんな風だったのかなって、あたしは父と母と三人で歩いた夏祭りのことを、また少しだけ思い出した。幸せな思い出だから、嫌な気持ちにはならないけれど、ほんの少しだけ寂しい気はする。

 ご機嫌に鼻歌を歌う花ちゃんが可愛くて、西澤くんとも自然と話が出来た。
 学校の小テストの話や、サッカーのミーティングでの話。他愛無い会話だけど、なんだか話していて居心地がいい。
 だからかな、あたしも西澤くんに慣れてきてしまって、ついさっき握手したことを思い出したから聞いていた。

「花ちゃんとなら、手汗はかかない?」
「……は!?」

 急に驚いた反応を見せるから、あたしと花ちゃんは立ち止まって西澤くんをじっと見てしまう。

「か、かかないって。花の方がなんかしっとりしてるし」

 なんとなく、耳が赤くなってる気がして、照れているのが分かる。古賀くんみたいに女の子慣れはしていないんだろうけど、西澤くんだってサッカー部でけっこうモテているし、これまで彼女とかいなかったのかな。なんて考えていたら、あたしの心を読んだみたいに投げやりに言葉が返ってきた。

「彼女はいたことないからな」
「……え?」
「面倒くさいって言ったけど、それは本当。でもそれもこの前まで。今は面倒くさいとか、思ってないから」
「……ん?」

 花ちゃんと顔を合わせて、西澤くんが何を言いたいのか分からずに二人で首を傾げた。

「……あー、もう。ほんと早く思い出せって」

 落ち込むようにため息を吐き出す西澤くんに、あたしは「幸せにげてくよ!」とため息を取り戻すように空気を手で掬って西澤くんの方へ戻す。

「なにそれ!」

 ぶはっ、と吹き出して西澤くんが笑うから、あたしは途端に恥ずかしくなった。
 つい、まりんちゃんのあのノリを思い出してやってしまった。これは、まりんちゃんがやるからかわいいんだし、許されるんだ。あたしみたいなのがやっても、おかしいだけなのに。

「幸せになりたいって思ってる? 杉崎さん」
「……え?」
「ため息一つでも幸せ逃したく無いってことでしょ? 良いよね、その発想。俺も幸せでいたいから、ため息吐き出したら今度から吸い戻すよ」

 あははと、まだ笑いを堪えきれなくなって笑う西澤くんが、とても楽しそうで、花ちゃんまでため息を吐き出していないのに空気をほっぺたいっぱいに吸い込み出した。

「はなもすりゅーっ」

 パンパンに膨れてフグみたいになった顔でこちらを向くから、堪えきれずにあたしまで笑ってしまった。

「あははは! かわいいー、もう」

 お腹が痛くなるほどに楽しい。
 なんだろう、こんな感覚今まで感じたことがなかった。
 お腹の底から笑うなんて、今まで生きてきて、一度でもあっただろうか?
 思い返してみても、そんな記憶はないと思う。

 西澤くんとの夏休みみたいに、忘れているだけなのかな。そうだとしたら、楽しいことは思い出したい。そんな風に、なんだか気持ちが前向きになるような気がした帰り道だった。

「今度は、二人でかき氷行こうね」
「え……」

 家のすぐ手前まで西澤くんは送ってくれて、そっと照れた顔をしながらそんなことを言うから、あたしまで照れてしまった。

「じゃあまた明日」
「りょーちゃ、バイバイ」

 来た道を引き返していく二人に手を振った。

「バイバイ」

 見えなくなるまで見送ると、足取り軽く玄関のドアを開けた。

「ただいまー!」

 いつもよりもワントーン明るい声に、おばあちゃんが優しく「おかえりなさい」と微笑んでくれた。

 ご飯を食べて部屋に戻ると、置きっぱなしにしていたスマホを手に取った。
 通知が何件か来ている。その中に、古賀くんの名前を見つけた。
 心臓がドキリと鳴る。
 ずっと、ここに古賀くんの名前が表示されたら良いのにと思っていたはずなのに、今はこのメッセージになにが書かれているのか、見るのが少し怖くなる。

 今日、古賀くんと話して、古賀くんのお願いを受け入れなかったことを思い返すと、胃が痛む。
 今までみたいに良いよって言えなかった自分に、今更後悔している。
 ほらね、こうやって後悔するんだから、いつもみたいに相手に合わせておけば良かったんだ。
 メッセージを表示して、あたしは驚いた。

》さっきは変な頼み事してごめん。よく考えたら涼風のことなんも考えてなかった

 画面を閉じることなくスマホをそっとテーブルの上に置いた。
 しゃがみ込んで、ベッドサイドに寄りかかる様に小さくなって膝に顔を埋める。

 泣いちゃダメだ。
 だけど、なんか寂しい。

 葉ちゃんに言われた時も思ったけど、やっぱり古賀くんは、あたしのことなんてなにも考えてなかったんだ。
 本人の言葉を見て、実感が湧く。
 溢れてきそうな涙を必死に心の奥底に押し込んだ。
 泣かない。泣いたって仕方ない。
 腕を伸ばしてスマホを取ると、文字を打つ。

《気にしてないよ

 一言だけが限界だ。あとはもう知らない。古賀くんとはこれで終わりだ。そう思ったのに、画面にはすぐに返信が返ってくる。

》良かった! また七美となんかあったら相談しても良いか?

「はぁ?」

 思わず、切なくなっていた涙の波が引き潮の様にさぁっと引いていった。

 相談? あたしに? なんで?

《いや、相談されても困るし

 冷静に、無心でスマホに文字を打ち込む。

》涼風にしか七美のこと話してないし、聞いてくれると嬉しいんだけど

「いや、待て待て待て。なんかおかしいよね? 絶対おかしいよね?」

 ついに、スマホに向かって突っ込んでしまった。
 さっき、後悔するくらいにしっかり断ったはずなんだけどな。全然響いてないってこと? 古賀くんって、儚げ王子に見えていたのに、実は神経図太い?

 人と深く接してこなかったから、もちろん古賀くんのことも彼氏ではあったけれど、何一つ分からない。本当に好きだったのかなとまで、自分のことを疑ってしまいたくなる。
何に対しても、上辺だけしか見ていないからかもしれない。
 もう、これは古賀くんの恋の応援をするしか道はない様な気もしてくるのだが。

《古賀くんって、友達いる?

 失礼覚悟で聞いてみる。
 だって、あたしにしか頼めないとか、選択肢無さすぎるでしょ。モテるんだからもっと良い相談相手の女の子とかいるんじゃないのかな? 男友達だってきっとたくさんいるだろうし。彼女の話くらいしても良いと思うんだけどな。

》えー、友達? 七美よりはいると思うけど

 古賀くんからの返信に、もはや呆れてしまって、あたしはポッカリと開いてしまった口を数秒経ってからハッとして閉じた。
 いや、なんで七美基準?
 なんでも七美、七美って。どんだけ七美のこと考えてんの?

《七美のこと、好きすぎじゃない?
》うん、めっちゃ好き

 なにそれ。
 スマホの画面には、あたしが古賀くんから欲しかった言葉が表示されている。
 だけど、それはあたしに送られた文字であっても、言っているのは七美に対してだ。
 なんだろう、このやりきれない気持ちは。
 もうなんか、あたし古賀くんのことちょっと嫌いになりかけてるかもしれない。

 胸の中で、ズキズキと切り刻まれるような痛みをしていた心臓は、すっかり元通りになってむしろ平常心を保っている。ドキドキもなければウキウキもない。ただ、生きるためだけに動いている。
 自分勝手。ああ、そうだ。この言葉が今の古賀くんにはぴったりかもしれない。

 あたしの気持ちなんてお構いなしに自分の気持ちだけを満たそうとしている。自分勝手だよ。身勝手。
 でも、まりんちゃんを見ていても思ったけど、あんな風に自分のことに一生懸命になれるって、羨ましいかもしれない。
 どうしてこんな風に思う様になってしまったのか。

 なんだか、他にも自分の好きなことを貫く誰かの言葉に影響された様な気もするけれど、それが誰だったのか、何だったのかは思い出せない。
 ただ一つ。自分のやりたい様にやるって、大事なことなのかもしれない。

《分かった。古賀くんの恋、応援する
》え! まじ? 嬉しい!

 やけにテンションの高い古賀くんの返信に、思わず笑ってしまう。
 ほんと、古賀くんって、こんな人だった? あたし、何も知らないで古賀くんのこと好きになってたんだな。付き合ってたんだな。そう思うと、なんか、フラれたことが腑に落ちるし、フラれて良かったとまで思えてきてしまった。

》今度七美とも会ってやって
「……それは……ちょっと考えるなぁ」

 返信に困ってしまって、あたしはその後なにも送らずにスマホを手放した。


 次の日、学校の手前のコンビニ前で古賀くんの姿を見つけた。目が合うなり手を振ってくるから、あたしは辺りを見回してから自分に振っているんだと気が付いて、足取りがゆっくりになる。

「おはよう、涼風」
「……おはよう」
「昨日はありがとな。嬉しかった!」

 満面の笑みで話しかけられて、古賀くんが学校へと歩き出す。
 これは、付き合っていた時の朝の登校と同じパターンだけど、今は付き合っていないし、友達でもないし、フラれてるし、なのに一緒に登校するってよく分からないよね?
 一度立ち止まって、古賀くんから距離を取る。
 あたしが着いてきていないことに気がついたのか、古賀くんが振り返った。

「どうした?」

 いや、どうした?、じゃないよね?
 あたし、もうフラれて彼女じゃないし、古賀くんと一緒に歩く権利ないし、恋の応援はするとは言ったけど、友達になるとは言ってないし。
 頭の中で色々と考えて返答に困ってしまうと、隣に誰かの気配を感じた。目の前にラムネサイダーのペットボトルが差し出されて驚く。

「おはよ。なんか、揉めてる?」

 ラムネサイダーを持つ腕を辿って顔を上げると、西澤くんが困った様な顔であたしを見ていた。

「……あ、西澤くん」
「古賀、俺杉崎さんに課題教えてもらわなきゃないから、連れてくねー」
「え、」

 ラムネサイダーをもう片方の手に持ち替えて、あたしの手を取る西澤くんの手のひらは冷えたペットボトルのせいかひんやりと冷たくて少し湿っていた。
 古賀くんの横を手を繋がれて通り過ぎる。驚いた様に目を見開く古賀くんの顔が、一瞬だけ視界に入った。
 昇降口まで来ると、思い出した様に西澤くんがあたしから手を離した。

「あ、ごめん、つい」
「ううん」

 そのまま靴を脱いで、上履きに履き替えている西澤くんの顔が赤く見える。
 ひんやり感じたのは一瞬で、強くて暖かい手のひらの感触がまだ右手に残っていて、ドキドキする。

「……古賀と、なんかあった?」

 心配そうに聞かれて、あたしはどう説明したら良いのか分からずに黙ってしまった。

「ごめん、なんか杉崎さんが困ってる様な顔してたから、強引に連れてきちゃったけど、古賀に勘違いされたらまずいよな。後で俺からフォローしとくから。ごめん」

 謝る西澤くんに、あたしはようやく靴を脱いで上靴に履き替えた。

「謝らなくていいよ」
「……でも」

 困っていたのは本当だから、西澤くんがきてくれて安心したのは本当だ。悪いことなんて何もないから、謝ってほしくない。

「とりあえず、まだ大丈夫だから。心配しないで」

 西澤くんより先に教室を目指して歩き出す。
 何かはあったけど、べつに何もない。
 だから、まだ大丈夫。西澤くんに心配されるようなことはない。
 教室に入れば、前の席で振り返った葉ちゃんがジトっとした目であたしを見ている。
 何が言いたいのかは分からないけど、たぶん怒っているような、気がする。

「お、おはよう、葉ちゃん」
「おはよう……」

 カバンを置いて椅子に座るあたしに、何か言いたげにいるけど、挨拶の後の言葉は続かない。
 あたしが何かを伝えなければならないのだろうかと思って、とりあえず笑ってみる。

「……涼風さ、昨日古賀くんといた?」
「……え?」

 ようやく視線を合わせた葉ちゃんが話し出す。

「帰りにたまたま通った公園のベンチに、二人が座って話してるのが見えたんだよね」

 葉ちゃんは洞察力が高い。前にも花火大会で古賀くんと七美が一緒のところを見たと言っていたけど、よく人を見ている。確かめるように聞いてくるけど、確信を持ってあたしと古賀くんだったと言って聞いてきている気がする。
 確かに昨日、公園のベンチであたしは古賀くんと話していたから。

「……偶然、古賀くんと会って、それで、呼び止められて」
「謝られたの?」
「……うん、謝ってた」

 ごめんって、言われた。でも、なんだかあたしの全部を否定されたみたいで悲しかった。
 元カノと友達になってほしいとか、付き合っていたことを無かったことにしてとか、よく分からないことを言い出す古賀くんに困惑した。だけど、結局は。

「古賀くんの恋の応援をすることになった」
「……は!?」

 ポツリと漏らしたあたしの言葉に、葉ちゃんが勢いよく立ち上がった。教室が一瞬だけシンッと静まって、またすぐにザワザワと元に戻る。

「なにそれ? どう言うこと?」
「……あたしもよくわかんないんだけどさ、古賀くんから頼まれたの」
「頼まれた……? って言っても意味わからんくない?」

 首を傾げる葉ちゃんに、あたしまで困ってしまう。

「なんかね、古賀くんのことあたし本当に好きだったのかなぁって。今になって考えちゃうんだ」
「えー、だって、あんなイケメンなかなかいないよ? 好きにならない理由なんてないじゃん? めっちゃモテるし、彼氏としては完璧じゃん」
「……葉ちゃん、さ、古賀くんのことめちゃくちゃ推してくるよね?」

 ずっと思ってた。あたしが古賀くんのこと好きかもしれないって葉ちゃんに言った時も、めちゃくちゃ応援してくれた。それは友達だから、当たり前のことなのかなと思っていたけど、古賀くんのことを貶す割にあたしとは付き合っていて欲しいような感じでいる。

「だって! めちゃくちゃお似合いなんだもん、二人! 美男美女とは古賀くんと涼風のことを言うんだよ? 目の保養だよ。並んで歩いてるとほんとうっとりする」

 手を顔の前で組んで頬を赤らめる葉ちゃんに、あたしは何も言葉が出てこない。
 観賞用でなんて、付き合えないよ。

「古賀くんの彼女、あたしとは真逆な子だよ」

 あの時見た七美の姿を思い出して、つい口をついて出てしまう。
 華やかな古賀くんに対して、自信がなさそうに肩を丸めて後ろを歩く姿は、とても彼氏彼女には見えなかった。だけど、古賀くんの顔はすごく幸せそうに見えた。
 あんな風な笑顔をさせられる七美って、凄いと思う。

「ああ、元カノってあの花火大会の時の子なの? めちゃくちゃ普通……よりもなんか暗い感じの子だったなぁ」
「葉ちゃんはよく見てるよね」
「視界に入ってきちゃうんだもん。仕方なくない?」
「……まぁ、それは仕方ないね」

 美男美女とか言っているのはとりあえずスルーしておいて、あたしだって普通だなって思ったくらいだから、きっと葉ちゃんからみた七美はさらに印象の薄い子なんだろう。

「よっぽどなにか魅力があるんだろうねぇ」

 うーん、と考え込みながら、担任が教室に入ってくると、葉ちゃんは前を向いた。

『よっぽどなにか魅力があるんだろうねぇ』

 葉ちゃんの呟いた言葉が耳に残る。
 七美には古賀くんに好きになってもらえる魅力がある。あたしには、きっとそれがない。
 魅力ってなんだろう。
 あたしにはきっと誰から見ても魅力なんてないんだろうな。七美の魅力かぁ……

 授業が始まってからも、勉強になんて集中出来なかった。
 一度見ただけの姿ではどこにその魅力があるのかなんて、全然分からない。
 芸能人みたいに近づきがたいオーラがあるとか、誰が見ても可愛いとか、おしゃれだとか、そんな雰囲気も感じない。その辺を歩いていてもきっと気が付かずに通り過ぎてしまうくらい印象の薄い子だ。
 今顔をよく思い出そうとしても、まったく思い浮かばない。
 そもそも、他人になんてそこまで関わりたくないあたしが、なんでこんなに会ったことも話したこともない七美のことを気にしなくちゃいけないのか。そんなのどうだっていいはずなのに。
 また、ため息が出てきそうになって、寸前で堪えた。

「涼風ちゃーん、一緒に帰ろーっ」

 放課後になると、ふにゃりとした声で名前を呼ばれて顔を上げた。廊下側に視線を向けると、入り口でまりんちゃんが大きく手を振っている。

「あ、葉ちゃーん、あたし今日も部活お休みしまーすっ」

 前の席で部活へ行く準備をしていた葉ちゃんにも手を振りながら、まりんちゃんは笑顔で堂々とサボり宣言をしているから、あたしは葉ちゃんが怒り出すんじゃないかと内心冷や冷やしてしまう。
 チラリと葉ちゃんの横顔を見れば、呆れたように無言で頷いていた。

「下で待ってるねーっ」

 あたしの返答も聞かずに、まりんちゃんは笑顔で手を振って行ってしまった。
 別に誰かと帰る約束とかはしていないけど、あたしと一緒に帰ることが、まりんちゃんの中では決まってしまったようだ。

「え、まりんともいつの間に仲良くなったの?」
「あー、ははは」

 驚いて振り返った葉ちゃんに、あたしは笑うしかない。
 あたしだってそこまで仲良くなったつもりはないんだけど、なんだかぐいぐいくる子らしい。

「気をつけなねー、なんか見た目変わってから変な噂もあるみたいだし、調子にのってるのかもしれないから」

 変な噂? 心配しているような雰囲気を出しながらも、きっと葉ちゃんはまりんちゃんに対して呆れている感じだ。
 人気者で真面目な葉ちゃんから見たら、まりんちゃんは不真面目に見えるんだろう。
 現に、部活は行っていないし、この前は校則違反のバイトもしようかなとか言っていたし。きっと、葉ちゃんには合わないタイプなのかもしれない。
 こうやって、関わっていくと色んなところで合う合わないが生じてくるから、あたしはどちらにも極力合わせて穏やかに過ごしたい。
 波風は立てたくないんだ。
 あっちがいいとか、こっちがいいとか。
 そんなの面倒なだけ。

「じゃあ、またね、涼風」
「うん、部活頑張ってね」

 笑顔で葉ちゃんを見送ると、あたしも教室から出た。

 まりんちゃんが下で待っているって言っていたけど、帰る方向は一緒なのかな。
 昨日はかき氷を食べた後に先に帰ってきちゃったし、まりんちゃんと隆大くんがどっちに帰ったのかなんて分からないから、なんとなく気になった。

 昇降口にまりんちゃんの姿は見当たらない。とりあえず端から端まで確かめてから帰ろうと思って一番奥の階段下、壁に寄りかかりながらスマホに視線を落としているまりんちゃんの姿が半分見えているのを見つけた。
 なんであんな人気のない場所にいるんだろうと不思議に思いつつも、見つけておいて黙って帰るわけにもいかない。
 悩みながらもゆっくり近づいて行くと、あたしより先に一人の男子生徒がまりんちゃんに声をかけた。
 だから、それ以上は進めなくなった。何かを話し始めてしまって、そこに入っていくのも気が引ける。
 仕方ない、と踵を返そうとした瞬間。一瞬だけまりんちゃんと目が合った。
 なんだか、怯えているような気がして、不安に思う。

 声をかけていた男子生徒には、なんとなく見覚えがある気がする。誰だったか、名前までは分からない。同級生ではないから先輩かもしれない。
 なんだろう。関わりたくないのに、胸騒ぎがする。
 昇降口の自分の靴の列まで戻ってから辺りを見回すと、視界に入ってきたのはどこにいても目立つ背丈の古賀くんの姿。

「古賀くん!」

 自分でもよく分からないけれど、気が付いたら呼び止めていて、振り向いた古賀くんはすぐにこちらにきてくれた。

「涼風? どうした?」
「あ、えっと……」

 どうしよう。なんであたし、古賀くんのこと呼んじゃったんだろう。
 それに、状況もよく分からないのに、なんて説明したらいい?
 戸惑いながら振り向いて、まりんちゃんがいる階段下に視線を送ることしかできない。

「なんかあった?」

 あたしの顔を不思議そうに見て、古賀くんがゆっくり階段下に向かっていく。
 さっきまで見えていた二人の姿は、今はもうここからは完全に見えない。
 古賀くんは躊躇なく奥まで進んで、立ち止まった。

「なーにやってんのかなー?」

 階段下を覗くように見て、突然呆れたように大きな声を出した。

「せーんぱーい、無理やりは良くないと思いますけど? その子、泣いてるじゃないすか」

 こちら側からは古賀くんの姿しか見えなくて、階段下で何が起きているのかはよく分からない。だけど、泣いているって言うのは、きっとまりんちゃんのことだ。
 辺りはほとんど人がいなくて、だけど、古賀くんの声に足を止める人もいる。

「良いんですか? 三年の大事な時期にこんなことして。将来有望な先輩が勿体無い」
「うるせぇ! 古賀に何が分かる!」

 古賀くんよりも大きな声で飛び出してきた男子生徒が、走ってあたしの横を通り過ぎていった。
 見たことがあるのは当たり前だった。近くで見てすぐに分かった。生徒会長だ。

「なーんもわかんねーんだけど」

 先輩の走って行った方を向いて、呆れたように古賀くんが睨む。

「ねぇ、涼風、早くこっち来てよ」
「……あ」

 頷いて、あたしは階段下まで急ぐ。
 ぺたりと座り込んで小さく震えるまりんちゃんの姿に、愕然とした。

「まりんちゃん……?」
「涼風ちゃんっ! 怖かったよぉ……」

 震える手であたしに抱きついてくるから、まりんちゃんをしっかり包み込んであげた。

「あれさ、彼氏かなんかなの?」

 古賀くんが確認するみたいに聞いてくる。
 まだ答える余裕のないまりんちゃんに変わって、あたしが顔を上げて代わりに答えた。

「違う。まりんちゃんの彼氏は別の人だよ」
「は? ならちゃんとそいつに言っとけ。こんな簡単に襲われるような見た目と格好させんじゃねぇって」
「……え?」
「噂立ってんだよ。二年の高橋まりんは誰とでもヤラせてくれるって。生徒会長までそんな噂間に受けて。バカだよな」

 そんな噂、あたしは知らない。

「……え、そう、なの?」

 俯いたままのまりんちゃんに聞くと、小さく首を振った。

「リュウくんは悪くない。あたしが変わりたかったからこんな格好してるんだよ。良いじゃん、可愛くなったって。周りがおかしいんだよ。なんでそんな目で見るの? あたしはリュウちゃんだけに可愛いって思ってもらえたらそれで良いのに」
「リュウちゃんって彼氏はさ、あんたの見た目だけが好きなの? ってか、見た目だけ好きになってほしいの? それっておかしくない?」
「そんなこと、言ってない」
「見た目なんて関係なくない? 好きなら中身を見ればいいのに……まぁ、別に俺には関係ないし。とりあえず気をつけなよ。今度はリュウちゃんって彼氏にちゃんと守ってもらいなー」

 腑に落ちない顔を一瞬だけしてから、古賀くんは行ってしまった。
 あたしが呼び止めて助けてもらったのに、お礼も言えなかった。そして、あたしはただ、まりんちゃんの肩をさすってあげることしか出来ない。

「……ごめんね、涼風ちゃん」

 落ち着きを取り戻したまりんちゃんは小さくため息をついてから謝る。

「幸せ、逃げちゃうよ?」
「……あ、そっか、はは」

 あんなに元気いっぱいなまりんちゃんが、今は落ち込んでいる。

「キャラ、作りすぎてたかも。可愛くメイクして、格好も派手にして、彼氏作って楽しくいようって、毎日頑張りすぎてたかも。まさか、生徒会長にまで襲われるとか、ないよね?」

 また、小さく笑うから、あたしはまりんちゃんの隣に腰を下ろして座った。

「休み明けのテストで点数が思うように取れなかったって。ずっと勉強ばっかりで嫌になったからヤらせろって。意味わかんない」

 ぎゅっと両腕で包み込むみたいに小さくなるまりんちゃんに、胸がギュッとなった。
 やっぱり、自分を変えるってことは、今までの自分とは違うものを作り出すことなんだ。まりんちゃんが初めからこんな感じの子じゃなかったのを、あたしは知っている。きっと、自分を変えるって、相当勇気がいることだと思う。だって、絶対に疲れる。自分じゃない自分を作り出すなんて、そんなのあたしだったら絶対に……
 そこまで考えて、あたしはふと、自分じゃない自分って言葉に違和感を感じた。
 本当の自分ってものが、よく、分からない。

「疲れない? 自分じゃない自分でいるのって」

 あたしはずっと我慢してきた。今だってしてる。正直しんどい。だから、誰とも深くは関わりたくないし、自分のことも話したくない。

「そりゃ、疲れるよー」
「でしょ?」

 だったらそんなのやめたら良いのに。

「でもね……楽しいんだもん」
「え?」
「可愛くなれるのが楽しいし、リュウちゃんにかわいいって言ってもらえるのも嬉しい。たまにメイクが下手すぎとか、髪型かっこわるとか、酷いこと言われたりはするけど、あたしはかわいいって思ってやってるし、リュウちゃんがかわいいって言ってくれるのが嬉しいから、だから、やめられない」

 真っ直ぐに、まりんちゃんの思いの強さを感じる。
 なんだろう、こうやって、前にも誰かの強い思いを聞いたことがあったような気がしてくる。

「あはは、あたしだいぶリュウちゃん大好きだよね」

 すっかり震えもおさまって、まりんちゃんは笑っている。

「ありがとう、涼風ちゃん。助けてくれて」
「え……あ、いや、助けたのは古賀くんで」

 あたしじゃない。

「でも、古賀くんのこと呼んでくれたのは、涼風ちゃんでしょ? あたしが助けてって目で合図したの、ちゃんと分かってくれた。ありがとう」

 あ、やっぱり、あの目は助けを求める目で間違いじゃなかったんだ。
 勘で動いてしまったことを後悔していたけれど、お礼を言われると良かったと安心する。

『合図して』

 また、頭の中で声がする。なんとなく、それが西澤くんの声に聞こえるのは何故だろう。
 やっぱり、あたしの知らない西澤くんとの時間があったのかもしれない。

 制服のリボンを結び直して、まりんちゃんはスッと立ち上がった。

「あと……、この事はリュウちゃんには言わないで」
「え……」
「心配かけたくないから。リュウちゃん今、サッカーの試合にめちゃくちゃ集中してて、こんな事で心配、かけたくないから」
「……こんなことって」

 そんな簡単に隠してしまうような事じゃない気がする。今回はたまたまあたしや古賀くんが気がついたから良かったけど、ここの階段下は、ほとんど使われていない教室に上がっていく階段で、普段から生徒はもちろん先生もあまり通らない場所だ。
 なんでそんなところにまりんちゃんがいたのかは分からないけど、もしかしたら誰も助けに来なくて嫌な思いをしてしまったかもしれないんだよ。古賀くんの言う通りに、ちゃんと隆大くんに話して守ってもらわないと。

「大丈夫、今回は生徒会長って肩書きを信用しちゃっただけ。そもそもこんなとこに呼び出すのがおかしかったよね。あたしももっと気をつけるから」

 また大きなため息を吐き出したまりんちゃんは、ハッとしてから両手でため息を取り戻すようにかき集めている。

「じゃあ、幸せになるためにパフェ食べ行こっ!」

 立ち上がると、まりんちゃんはあたしの手を引っぱる。意外と力があるまりんちゃんに驚きつつも、そのまま誘いにのることにした。

 いつも学校が終われば家に直帰していた。
 教室の中では愛想よく笑っているだけでも疲れるのに、学校の外でも誰かといるなんて、考えられなかったから。
 葉ちゃんとだって学校帰りに遊んだりすることなんてなかったのに、やっぱりまりんちゃんは押しが強い気がする。あたしが嫌な顔を見せずにいるのにも、限界は来るかもしれないのに。

 学校から歩いて五分くらいのところに、カフェ・フレーバフルがある。
 店長さんがイケメンなお兄さんで、学校内でも特に女子に人気のあるカフェだ。情報くらいは知っている。でも、実際に来た事はなかったから、店内に入ると木目の床に古民家のような趣のある雰囲気になんだかとても落ち着く気がした。

「いらっしゃいませ」

 噂通りの涼しげな目元に優しい笑顔の店長さんがあたし達を案内してくれた。
 迷うことなくおススメのパフェを二人とも注文して待っていると、テーブルに置いているまりんちゃんの手が、まだ小さく震えているような気がした。

「……大丈夫?」

 確かめるように聞くあたしに、まりんちゃんは不安そうな目をしてから笑う。

「大丈夫、大丈夫っ。なんか、ここにきたらホッとして、急にさっきのこと思い出しちゃって……」

 無理に笑っているみたいに見えるから、やっぱりあんなことがあって平気でなんて居られるわけがないと思った。

「ねぇ、隆大くんって部活何時まで? やっぱりちゃんと話そう?」
「……い、いいよ」
「じゃあ西澤くんにでもいいから」
「え! 大空くんにはもっと、言いたくないよ」
「あ、そっか、そうだよね」

 西澤くんに言っても仕方ないし、知られたくないよね。何言ってんだあたし。言ってしまってから後悔してしまう。
 目の前にパフェが運ばれてくると、クリームたっぷりにイチゴとバナナ、メロンまで綺麗に飾られているから気分が上がってくる。

「かわいいーでしょっ、涼風ちゃん嬉しそうでよかった」

 パフェの向こうのまりんちゃんに視線をあげると、にこやかに笑っている。
 嬉しさが表情に出ていたのかと、あたしは思わず顔に手を当てて俯いた。

「大空くんがね、涼風ちゃんが寂しそうにしているんだって、ずっと気にしていたよ」
「……え?」
「夏休みに図書室で会っていた時のこと」

 長いスプーンを手に取って、クリームを掬って口に運びながら、まりんちゃんが言った。
 まりんちゃんは、西澤くんとあたしが夏休み中に何かあったことを、聞いているんだと思う。それが少し、気になる。
 だって、あたしは何一つ覚えていない。

 事故に遭って、目が覚めたら病院にいて、その間に一ヶ月以上の月日が経過していたというのは、本当に信じられなかった。
 それに、話したこともなかった西澤くんといつの間にか仲良くなっていたことには、もっと驚いた。

「……正直に言うとね、全然覚えてないの」

 まりんちゃんに言ってしまっても大丈夫だろうかと、不安はある。
 一番近くにいる葉ちゃんにすら、あたし自身のことを話した事はなかった。
 だけど、西澤くんと繋がりのあるまりんちゃんなら、西澤くんがあたしを好きになってくれた理由にも、もしかしたら繋がっていくのかもしれない。そう思ったから、少しだけ、話してみたくなった。
 まりんちゃんの弱みじゃないけれど、さっきの事件を考えると、それを知っているのはあたしと古賀くんだけだし、きっとバラされたくはないだろうし、あんまり深くまで入り込んでくるようなら、なにも話さなければいいんだ。

「涼風ちゃん……、もしかして、なんか悩み事でもある?」
「……え?」
「なんか、すっごく、辛そうな顔してるよ?」

 眉を目一杯下げて、まりんちゃんがあたしを覗き込むようにただただ心配してくれるから、一気に色んなことを考えすぎていた自分がなんだか馬鹿馬鹿しくなる。最低だ。ただ純粋にあたしを心配してくれているのに、あたしはいざとなれば弱みをって、考えてしまっていた。
 どうにか嫌われないように、離れて行かないように、繋ぎ止めておく何かがあることに安心しているだけだ。
 だからいつも苦しいのかな。
 でも、不安なことなんて簡単には吐き出せない。

「悩み事はあるけど大したことじゃないし、大丈夫」

 あたしもスプーンを手にとって、生クリームとイチゴを一緒に掬って食べた。甘くてまったりとした濃いクリームの中のイチゴを噛み締めると、じゅわぁと甘酸っぱさが口の中に広がった。

「涼風ちゃんは、大空くんのことどう思ってるの?」
「……え?」

 唐突に聞かれて驚いてしまう。

「大空くんは確実に涼風ちゃんのこと好きだよね? 今朝、古賀くんから涼風ちゃんのこと連れ去っていくのあたし見たよー」

 言い逃れはできないといわんばかりに、まりんちゃんは笑顔を向けてくる。
 校門前から昇降口まで手を繋がれて歩いていれば、確かに誰かしらには見られていてもおかしくなかった。葉ちゃんには見られていなくてよかったなと、少しだけホッとしていたのに。

「見てたんだ」
「うん、なんかね、大空くん頑張ってるーって廊下の窓から応援してたの」
「……応援」
「さっき、涼風ちゃん何も覚えていないって言ってたけど、大空くんは全部覚えているみたいだよ。涼風ちゃんと過ごした夏休み期間」

 話しながらもパフェを食べる手は止まらないから、あっという間にメインの果物もアイスクリームもほとんどなくなった。

「それって、思い出さなきゃいけないのかな」

 あたしが花ちゃんのことを覚えているような接し方をした時、西澤くんはすごく嬉しそうに笑ってくれた。思い出してあげたいけど、忘れていることを無理に思い出そうとして、やっぱり思い出さなきゃよかったってなったら、その方が嫌だ。

「無理にとは言わないよ。でも、大空くんとはこれからも仲良くしていてほしいなって思っただけだよ」
「友達になったから、仲良くはするつもりだけど」
「え! そうなのっ?」

 さらりと流すように言ったあたしの言葉に、弾むような笑顔で食いついてきたまりんちゃんに、驚いてしまう。

「じゃあ、また四人でデートしようねっ」

 また? デート?
 思わず考え込んでしまう。

「よかった、なんか涼風ちゃんと話してたら落ち着いてきた」

 ずっと、楽しそうだけど強張ったような笑顔に感じてはいたのは、やっぱり間違いなかった。

「西澤くんと仲良くするから、隆大くんにちゃんと今日のこと話してね」
「むぅー、分かった」

 ようやく観念したのか、まりんちゃんが頷くからあたしもホッとする。

 なんだか、普通の女子高生ってこんななのかな、なんて思うような放課後だった。
 まりんちゃんはあたしの行動や表情に対して、気にしたり問いかけてはくれるけど、深くまでは聞いてこないし、すぐに別の話題や目の前のことに興味が逸れて話が次々展開していって尽きることがない。
 色んなことに興味を持っているから、きっと一つのことにとどまってなんていられないのかもしれない。

 隆大くんの部活が終わるのを待って、学校へ引き返していくまりんちゃんと「またね」と言って手を振り別れた。
 直後、まりんちゃんが道路の反対側を歩く人に「おーい」と声をかけているから、つい、向こう側に誰がいるのか気になって視線を向けた。

「なーなみー!!」

 あたしの視線がその人を捉えるのとほぼ同時に、まりんちゃんが相手の名前を呼ぶ。
 制服はうちの学校のものではなくて、セーラー服だ。膝下のスカートにきっちりしたリボン。長めの黒い髪は後ろで一つ結びにしていて、眼鏡にかかるくらいの長さがある前髪が揺れたと思えば、まりんちゃんの方を向いて顔を上げた。
 照れているのか、大きく全身で呼び止めるまりんちゃんとは対照的に、控えめに小さく手を振っている。

「……あの子……」

 七美……?
 記憶の中の古賀くんの隣を歩く七美の姿を思い出す。そして、まりんちゃんに視線を戻してみると、なにやら親しげに話しかけている。
 どう言うこと?
 まりんちゃんと七美は知り合いなの?
 ものすごく気になるけれど、人の交友関係にあまり関わったりはしたくなくて、気が付かないふりをしたままゆっくり歩き出す。
 だけど、どうしたって気になる気持ちの方が上回ってしまって、あたしは踵を返した。七美に「またねー」と言ってまた学校へ向かい出すまりんちゃんを慌てて追いかけた。

「……ね、ねぇ、今の子、知り合い?」

 普段走ったり急いだりなんてしないから、突然誰かを追いかけるなんて自分でも驚いているし、運動なんてしないからほんの少し走っただけで息が思ったよりも上がってしまった。振り返ったまりんちゃんも驚いたように目を見開く。

「涼風ちゃん?」
「今、話しかけてた子って、七美って言うんだよね?」
「うん、そうだよ。小学校の時仲良かったの。すっごい久しぶりで思わず声かけちゃった」

 あははと笑うまりんちゃんは、きっとあの七美って子が古賀くんの元カノだと言うことは知らないのかもしれない。

「あの子、古賀くんの元カノだと思うんだけど」
「…………え?」

 うん、いい反応だと思う。
 まさかと苦笑いするまりんちゃんに、あたしまで苦笑いするしかない。
 それはそうだ。古賀くんは誰がどう見たってイケメンで、背が高くて顔面良すぎて、モテるけど近寄りがたくて、美人な先輩すらなかなか告白するのを躊躇うくらいに手が届かないで有名なんだ。
 あたしがそんな古賀くんと付き合えたのは、本当に今考えればタイミングや運が良かったとしか言えないかもしれない。

「そうなのー!?」
「うん……」
「あの古賀くんの、元カノが、七美?」
「うん」

 ぱっちりと開いた目元がまん丸くなる。そして、嬉しそうに細く弧を描いていく。

「へぇ、古賀くんって見る目あるね。七美に涼風ちゃんでしょ? なにそれ、やっぱり古賀くんって中身までイケメンなんじゃん! マジすごい!」
「……は?」

 まりんちゃんが興奮気味に古賀くんのことを褒め始めるから、あたしは何が何だかわからなくなる。
 だって、葉ちゃんと同じ反応をまりんちゃんもするんだと思ったから。
 それなのに、なんでこんなに嬉しそうなの?

「七美、めっちゃ良い子だよ。小学校の時の見た目からほぼ変わらないからすぐわかったし」
「よく、向こうはまりんちゃんのことが分かったよね?」
「え、ああ……だってあたしだって基本変わらないし」

 あははと笑うまりんちゃんに、充分変わったと思うんだけどと、あたしは首を傾げる。

「小学校の時はね、髪型もお母さんがツインテールとかお団子とか可愛くしてくれてたんだよ。けっこう目立つ子だったんだ実は。けどさ、中学では髪型も決まってたしみんなと同じようにしてたけど、やっぱり可愛くしてたいなって思ったから変わっただけ。だから、たぶん中学の頃のあたしを知らない七美にはすぐ受け入れられたのかも」

 嬉しそうに笑うまりんちゃんに、あたしはそうなのかと妙に納得してしまう。あたしは小学校の頃のまりんちゃんも七美も知らないから。

「でも七美が古賀くんとねー、どうやって付き合ったんだろ。で、もう別れてるってこと? 元カノだもんね、今度色々聞いてみようかな」

 楽しそうにスマホを弄りながらまりんちゃんが話すから、古賀くんがまだ七美に未練があることを話してしまってもいいだろうかと思って、口をついて出そうになってしまう。
 だけど、まりんちゃんはもちろん七美の応援をするんだろうな。あたしも古賀くんのことを応援するって言っちゃったし。言葉は萎んでしまって、また小さくため息が漏れた。

「あ、リュウちゃん部活終わったって。あたし、ちゃんと言ってくるね。涼風ちゃんまた明日ね」
「あ、うん」

 スマホの画面を見てから、まりんちゃんが嬉しそうに手を振るから、あたしも手を振り見送った。
 帰ろう。古賀くんのことはいい加減もう諦めなきゃ。
 七美が向かった方向とは逆に歩き出す。七美のことはあたしは知らなくてもいい。古賀くんの好きな子って情報だけでもう胸がいっぱいだ。
 やっぱりあたしは、どうしたってひとりぼっちなんだ。
 立ち止まって、スマホを手にする。メッセージの送信相手に古賀くんを表示した。

》さっきはありがとう。七美は良い子らしいね。古賀くん見る目あるよ。自信持って。古賀くんなら大丈夫だよ。

『見た目なんて関係なくない? 好きなら中身を見ればいいのに……』

 まりんちゃんに言っていた古賀くんの言葉に、七美の姿を思い出す。嘘偽りのない七美の中身が、きっと古賀くんは好きなんだろう。嘘や偽りだらけのあたしじゃ、空っぽのあたしじゃ、好きになんてなってもらえるはずがなかった。なんだか、よくわかった気がする。

 誰かを励ますなんて、そんなことをする日が来るとは思わなかった。それが、まさか好きになった人だとは皮肉だ。
 だけど、ちゃんと人を見る目のある古賀くんのことを好きになれたことは、嬉しいことかもしれない。古賀くんはあたしの見た目も中身もなんの魅力もないことに、気がついていたんだろうな。
 見透かされていた。そりゃそうだ。完璧なんてないんだもん。どこかで必ず綻びが出る。自分じゃ気が付かない。だけど、泣いたって、くよくよしていたって、仕方がない。

 夕空が雲にブルーとピンクをこぼしたように滲んで広がる。帰宅時間と重なるこの時間帯は、交通量も多い。普段はこんなに遅く帰ることなんてなかったから、夕日を映し出す空の色がこんなに綺麗なんだと初めて知った気がする。
 だけど、上手く混ざり合わずに滲むように個々を強調して溶けていく空の色を見届けていると、やっぱり自分がこれからどうしたいのかとか、どうなりたいのかとか、考えてしまっては気持ちが落ち込む。

 事故に遭って目覚めたあの日から、少しだけ前向きになれている気がしていたけれど、あたしはやっぱりまだ不安定だ。
 誰かにそばにいて欲しい。誰かに支えていて欲しい。

 ギュッとしがみついた母の背中。父が怒鳴り、母も叫ぶ。怒っている顔は怖くて見れないから、目を瞑って一番そばにいて欲しい母の背中に泣きついた。
 もうやめてほしい。
 いつかみたいに、三人で手を繋いで笑い合えていた日に戻りたい。そう願いながら、あたしは母に縋る気持ちでそばを離れなかった。
 わんわんと泣き喚くあたしを見て、ため息が吐き出されたのを感じた。

『泣いたってしょうがないでしょ!』

 勢いのまま、あたしにも母は叫んだ。
 ……怖かった。
 それは、いつも母が言っている言葉だった。だけど、その時は本当に、怖かった。
 近寄らないでと、突き放されてしまったような気持ちになった。
 ひどく、落ち込んだ。
 あたしには誰も居ないんだと。
 この先も、きっとあたしのそばにずっといてくれる人なんて、現れないんだと。絶望した。

「待ってよー!」

 不意に、遠くから聞こえてきた子供の声に顔を上げた。
 立ち尽くしていた場所から数メートル先。公園から、子供たちが一斉に出てくるのが見えた。夕方五時のチャイムが鳴っている。みんな家へと帰っていくんだろうと思って、自然と出てくる子供達を視線だけで見送っていた。

「大海! 置いてくなよぉー!」

 ほとんどの子供達が帰っていってしまった後に、まだ声が聞こえてくる。

「どうするんだよ! なんで置いてくんだよ!」

 叫びながらも、声が震えていて、泣いているように感じる。それも気になったけれど、男の子が叫んでいた名前に、聞き覚えがあった。もしかしたら、この前会った西澤くんの弟かもしれない。
 そう思って公園に足を向けた瞬間、一人の女の人があたしよりも先に公園内に入って行った。
 そっと、様子を伺うようにあたしは木の陰に隠れて立ち止まる。

「また大海は大地のこと置いて先に行っちゃったのね?」
「ママー! お迎えきてくれたの!?」
「うん、たまたま仕事が早く終わったから、まだ大海と大地公園にいるかなぁって思って。それなのに、置いていかれちゃったのね?」
「うん……ボール、あそこに行って分かんなくなったの。なのに、大海一緒に探してくれないで先に帰ったんだよー!」

 泣きそうだった声は、もう完全に泣いてしまっているように感じた。
 泣いたって仕方ないのに。
 不意に頭の中で冷静に考えてしまう。

「泣いても仕方ないでしょう?」

 体に、電流が走ったんじゃないかと錯覚するくらいにビリビリと指先まで震えた。
 女の人が声に出したのは、何度も聞いていた言葉だった。
 だけど、あたしの知っている強いあの言葉よりも、とても柔らかくて優しい。
 同じ言葉なのに、あの子に向けられたのは、包み込むような優しさがあるような気がした。

「大丈夫だよ。ママも一緒に探してあげるからね」
「うん! ママと一緒なら僕も探せる!」
「どの辺り?」

 手を繋いで、親子は茂みの中を探し始めた。

 *
 気が付いたら、全力で走っていた。
 息が切れて、呼吸が苦しい。

 あたしの周りだけ、空気が薄くなってしまったんじゃないかと思うほどに、息苦しくなっていく。
 あたしの知っている母は、いつだって怒っていた。
 あんな風に「大丈夫だよ」なんて、優しい言葉は聞いたことがなかった。
 それに、西澤くんの弟がどうしてあの人のことを「ママ」って呼んでいるの?
 あの人は、あたしの母、だよね?
 遠目からだったけれど、病室で見えたあの人と同じような気がした。うちに来て、おばあちゃんと話している横顔が、似ているような気がした。
 何よりも、あの人の口癖を聞いてしまった。
 だけど、あたしの知っている言葉とは、まるで正反対のように聞こえた。
 玄関のドアを勢いのまま開けて閉めた。
 靴を揃えることなく無造作に脱ぎ捨て、階段を駆け上がる。部屋のドアを音を立てて閉めると、ようやく息が吸えるような気がしてきた。
 ずっと止めていた呼吸を整えるために、息を吸っては吐く。
 当たり前のように出来ていたことが、出来なくなっていて、苦しい。

 ドアにもたれ掛かり、脱力して座り込んだ。ひんやりとしたフローリングの床が素足に触れて、少しだけ気持ちが落ち着きを取り戻す。
 まだ乱れたままの呼吸を懸命に整えようとしていると、物音に驚いたんだろう、おばあちゃんの声が聞こえてきた。

「涼風ちゃん、何かあったの?」

 不安そうに、だけど大きな声で心配しているように聞かれて、唇を噛んだ。
 ようやく上手に呼吸ができるようになって、あたしはふらりと立ち上がると部屋のドアを開けて階段の下にいたおばあちゃんに手を振った。

「ごめん、おばあちゃん。推しがSNSでライブ始めたから嬉しくって。うるさくしてごめんなさい」

 笑顔を作ってスマホをわざとかざして見せた。安心したような表情をしたおばあちゃんに、あたしもホッとしてドアを静かに閉めた。
 おばあちゃんに嘘をついたことなんてなかった。あたしのことを大切にしてくれて、ずっとそばで見守ってきてくれたから。心配かけたくなかった。何かあればすぐに伝えたし、相談もした。

 だけど、おばあちゃんはあたしに隠し事をしていることを知ってしまった。
 あたしの知らない所で、母と会っていたんだ。もう、おばあちゃんのことだって信用出来ない。あたしのことをわかるのは、あたししかいない。
 母が西澤くんともなにか関係があるとすれば、西澤くんは、もしかして母に頼まれてあたしに近づいてきていたりするんじゃないだろうか? なんて、疑ってしまう。
 考えれば考えるほどに、あたしはひとりぼっちになっていく。みんな信じられない。
 あたしの味方なんて誰もいない。
 もう、どうしたらいいのか、分からない。

 握りしめていたスマホに通知が届いた。
 一度深呼吸をしてから、床に座った。
 膝に頭を乗せて、横向きでスマホの画面を見る。

 》隆大の彼女とフレーバフル行ったんだって? 今度俺とも行こうね! あそこのナポリタン激うまだよ!

 テンションの高いメッセージに、落胆していた気持ちが少しだけ上がる。
 だけど、すぐに公園でのことを思い出して気分は下がった。
 返信はしないでスマホをテーブルの上に置いた。

 ──西澤くんのお母さんって、もしかして再婚?

 なんて、簡単に聞けるならどんなに良いだろう。
 なんだか一気に色んなことがありすぎて、頭の中が破裂してしまいそうだ。
 もう、何も考えたくない。
 ベッドに倒れ込んで、そのまま目を閉じた。

 今までにないくらいに人と接している。
 もちろん、うわべだけの付き合いとして友達は多い方だとは思っているけれど、きっとあたしのことをよく知っているって胸を張って言える人なんて、一人もいないと思う。
 それくらい、あたしは本当の自分を表に出すことをしてきていなかった。

 古賀くんのことを好きになったことが、大きかったかもしれない。好きな人のことを知りたいのはもちろんだけど、あたしのことも知って欲しいと思ったのは事実だ。だけど、古賀くんはあたしには、全然興味がなかったんだと思う。
 だって、何かを聞かれて困ったことなんてなかったから。
「今日はいい天気だね」「昨日は何食べた?」「授業つまんなかったね」
 古賀くんとの会話はその場限りで終わるものばかりだった。だから、あたしは彼の隣にいるのが居心地が良かったのかもしれない。見た目のビジュアルがカッコいい彼氏と並んで歩いているだけで、優越感に浸っていただけだ。楽だったんだ。あたしのことを詮索もしないし、ただ一緒にいてくれることが、嬉しかった。
 だから、失うことは寂しかった。
 まさかフラれるなんて、思ってもみなかったから。

 そして、あの日事故に遭ってからだ。
 少し、自分の中の考え方や行動が変わってきてしまったのは。
 友達なんてAやBで良かった。それなのに、西澤くんやまりんちゃんはその他大勢とは違くて、容赦なくあたしに入り込んでくる。

 真夏の照りつける太陽。開いた窓から流れ来る風。カーテンが、ひらひらと揺れている。耳を塞ぎたくなるほどに響いてくるのは、蝉の聲。
 うるさい。うるさい、うるさい、うるさい。
 ちっとも鳴き止むことなく繰り返し、繰り返し大きくなっていくから、耳を塞いだ。
 覆った耳元に、カタンッと扉が開く音が聞こえた。

『杉崎さん』

 俯いていたあたしの瞳に、同じ学校の制服を着ている男子生徒の足元が見えた。誰なのか確かめるために視線をあげてみたけれど、顔が見える前にその姿は泡のように弾けたと思ったら、全部消えた。

 目が覚めたら、いつもの自分の部屋だった。
 だけど、最後に聞こえた声。あたしはあの声を、知っている。
 あれは──

「おはよう、杉崎さん」
「……西澤くん」

 教室に入る一歩手前で西澤くんに声をかけられた。廊下には登校してきたクラスメイトが何人も歩いている。

「なんか、元気ない?」

 心配するみたいに眉を下げてこちらの様子を伺うから、視線を床にそらした。
 そんなことないよ、大丈夫。
 いつもみたいに笑って交わせばいいんだ。
 そう思うんだけど、あたしは黙ったまま声も出せずに俯いた。
 これじゃあ、大丈夫じゃないみたいだ。だから、ちゃんと大丈夫って、こんなこと考えたって仕方ないって、笑って答えないと。

「ね、ちょっとだけ。悪いことしようか」
「……え?」

 ニヤリと笑う西澤くんの表情が悪巧みを考えている子供みたいだ。
 あたしが答える前に手を繋がれて、引っ張っていく。教室とは反対方向。今上がってきた階段を降りて、真っ直ぐに突き当たり目指して進む。途中ですれ違った他学年の先生や生徒に挨拶をしながら、繋がれた手を隠すみたいにして足は急ぐ。
 周りに人気が無くなって、たどり着いたのは図書室。特別急いだわけじゃないのに、なんだか突然のことに心臓が速くなっていた。

「開いてるかなぁ」

 ドアの真ん前に立って、西澤くんはボソリと呟く。そして、ドアに手を掛けると、鍵はかかっていなかったようで、軽くスライドしてドアが開いた。

「やった、開いた」

 繋がれたままの手。
 前に進む西澤くんに、あたしは当然のように引かれて中に入った。
 古賀くんと出逢った図書室。水曜日の放課後。それ以外の図書室は、あたしは一人で過ごす以外知らない。
 西澤くんと過ごした夏の日があったことを、あたしはなんにも、覚えていない。

 しっかりとドアを閉めて、図書室に誰もいないことを確認すると、西澤くんが繋いでいた手をようやく離した。
 あたしなのか、西澤くんなのか、滲んだ手のひらのお互いの湿度が解放されて、風をひんやり感じた。

「杉崎さんさ、授業サボったことある?」

 また、悪戯っ子みたいに笑う西澤くんは、公園でサッカーをしていた弟とどこか似ている気がした。

「ないよ」
「だよねー、俺もない。今頃教室の中は俺と杉崎さんの机だけ空席なんだろうね。皆勤賞の俺が珍しいって思われそうだなぁ」
「……皆勤賞なの?」
「え? うん。学校休んだことないよ」
「……あたしも」
「え?」
「あたしも、何気に皆勤かも……」

 おばあちゃんがバランスよく栄養を考えてご飯を作ってくれているし、少しでも体調が悪いと早めに病院に連れて行ってくれた。部活には特に入っていなかったけれど、運動が出来ないわけじゃないし、健康には自信があった。
 周りに合わせるのに疲れることはあっても、学校を休みたいとは思わなかった。たぶん、今のところあたしの人生で一番長い時間を過ごしているのが学校だから。もちろん一人になりたいと思うことはあっても、ひとりぼっちにだけはなりたくなかった。

 だから、学校に来れば葉ちゃんがいるし、声をかけてくれるクラスメイトがいるし、寂しくなかった。寂しく……

『もうずっと、このまま、ここにひとりぼっちなのかな?』

 ふいに、一ヶ所だけ開いていた窓際に、泣きそうに佇む自分の姿が一瞬見えた気がした。

「杉崎さん、ちょっと休憩。座って話そう?」

 夏の終わり。窓から入り込む風はすっかり秋の気配を連れてくる。
 冷房はついていないし、もうほとんど要らないほど体感的には涼しくなってきた。
 カーテンを引くと、柔らかいけれど、なんだか少しだけ寂しく感じる空気が体を掠めていった。

「杉崎さんとここで会った時、実は俺、サッカー諦めようとしてたんだ」
「……え?」

 椅子を引いて座ると、突然西澤くんが切り出してきた。
 あたしにも座って、と手を差し伸べるから、向かい側に向き合うように座った。
 西澤くんの言葉に、なぜか胸がぎゅっと絞られるみたいに苦しくなった。

「夏休み直前の練習試合で、体当たりに負けて怪我をしたんだ。三年の先輩が抜けて、これからだって時に」

 さっきまでの無邪気さなんて無くなってしまった西澤くんの表情は、徐々に固くなる。
 葉ちゃんが言っていた言葉を思い出す。

『西澤くん夏休み中の練習試合で足怪我しちゃったんだよー。だからね、もうサッカー出来ないらしい』

 本人から聞くと、本当だったことに確信を持てる。そして、サッカーの好きな西澤くんにとって、サッカーが出来なくなることが、どんなに辛いことなのか、目の前の彼の表情で痛いほどに伝わってきた。

「一応さ、夏休み中も練習には顔出したいなって思って学校に来てたんだ。だけど、部室に入ろうとして、チームメイトが俺のこと話してるの聞こえてきちゃって」

 はぁ、とため息を吐き出し、西澤くんは窓の外に視線を外した。

「ずっと一緒にやってきたのに、俺の抜けた穴をどうやって埋めるんだよって、言い争いになってて。仕方ないから、俺のいない体制に慣れるしかないだろって、揉めてて……小学生の時からお互いに信頼しあってたチームメイトだから、喧嘩なんてしたこと無かったんだ。なのに、俺のせいでこんなことになってしまうなんて、申し訳なくて……あの日、図書室に逃げてきたんだ」

 眉を下げて、西澤くんは小さくまた息を吐く。

「杉崎さんが突然現れた時は、めちゃくちゃビビったよ。俺、たぶんあん時腰抜かしてたと思う」

 泣きそうに眉を下げたかと思えば、今度はあたしに視線を戻して笑ってくれる。
 思い出すみたいに話す西澤くんの話は、あたしには身に覚えがなくて、やっぱり首を傾げたくなるけれど、西澤くんの話は最後まで聞いてあげたいと思った。

「杉崎さんとここで会えて、明日も来る? って聞いてくれてさ、俺、なんかすげぇ嬉しくなっちゃって。もちろん、落ち込んでく気持ちはあったんだけど、帰りに隆大と会って部室でのことを聞いたら、みんなが俺のこと慕ってくれてるし、頼ってくれてることを知ったんだ。きっと、杉崎さんとここで会えてなかったら、たぶん卑屈になって終わってたかもしれない。隆大とも口も聞かなかったかもしれない。サッカー部の奴らとも、距離置いてたかもしれない。そう思うと、杉崎さんがここにいてくれたのは、俺にとって奇跡だったんじゃないかなって、思うんだよね」
「……奇跡……」
「大袈裟? そんなことないよ。マジで奇跡だと思う。杉崎さんとのあの日々があったから、俺は今楽しいし、笑っていられるんだよ。だから、本当にありがとう」

 目を細めて満面の笑みを見せたあと、西澤くんが頭を下げる。

「忘れちゃってるならそれでも良いんだ。だって俺は覚えてるから。杉崎さんに救われて、杉崎さんのことが、好きになったんだよ」

 晴れやかに笑う西澤くんだけど、そんな西澤くんにとっての奇跡があったことを語られても、あたしの心までは晴れることはない。
 あたしが西澤くんのことを笑顔に出来たなら、それはそれで良いことだとは思う。
 だけど、あたしだって心から笑えたらいいのになって、思ってしまう。
 幸せが何なのかも、今はわからないけれど……

「杉崎さんはさ、なんかいっつも寂しそうな顔してるんだよね」

 目と目が合って、ジッと見つめられる。
 真っ直ぐな視線からは、逸らすことができなくて、困る。

「俺がそれをどうこう出来るなんて思ってないよ。だって、俺はまだ、杉崎さんのことなんにも知らないから。学校で見せている姿は、なんだか嘘くさいなぁとは思っていたんだ。ずっと」
「……え?」
「あ、ごめん。でもさ、ほんと。みんながみんな口を揃えて杉崎さんは可愛くて優しくて、勉強も出来て頼りになるって言ってたけど、確かにその通りなんだけどさ、俺にもよく分かんないんだけど、たまに寂しそうな顔してるのが、ずっと気になってたんだよね」
「……ずっと……って?」
「あー……入学した頃から? みんなに囲まれながらも、たまになんか暗い顔してるのが気になってた」

 あたし、顔には絶対に出していない自信があったのに。周りに合わせて笑顔を貼り付けるのが、もはや特技みたいになっていた。
 小さい頃から、自分が笑顔でいれば周りから寄って来てくれるんだということを、知っていた。
 楽しくなくたって笑って、嬉しくなくたって笑って、悲しみを誤魔化すために笑っていた。暗い顔なんて、一人の時くらいにしかしたことがなかったはずだ。
 それなのに……

「俺もさ、そんな感じの時期が、あったんだよな」

 躊躇いがちに、西澤くんがため息を吐き出すみたいに話し始める。

「親父が再婚相手を連れてきた時。全く知らない女の人を紹介されて、しかも、もうすぐ弟が産まれるって聞かされたんだ」

 ……再婚相手?
 すぐにその言葉に反応したあたしは、公園で見かけた母のことを「ママ」と呼ぶ西澤くんの弟を思い出した。

「母親がいないのは俺にとってはずっと当たり前だった。生まれてすぐに、両親は離婚。母親は俺を置いて出て行ったらしい。親父は優しくて頼りになって、だから、成長するにつれても、別に悲しいとかそういう感情にはならなかった。でもさ、突然知らない人が今日から母親ですって現れたら、誰だって戸惑うしよくわかんなくなるよね?」

 同意を求めて真剣な眼差しでこちらを見る西澤くんに、小さく頷いた。

「最初は、なんかすげぇ苦手な人だった。少しでも失敗すると泣いてさ、親父がその度に大丈夫だからって慰めるんだけど、頑なに泣いたってしょうがないのにごめんなさいって言いながらも泣くんだよ」

 はぁ、とまた大きなため息を吐き出した西澤くんに、あたしはやはり母のことを思い出す。
 泣いたってしょうがない。
 そうだよ。しょうがないんだよ。だから、泣かないように、笑顔で済ませようって、いつも思っていた。
 西澤くんだって、そんな母に呆れてしまったんでしょう? どうすることもできないなら、仕方がないって、諦めるしかないよね。
 
「でも、少しずつ母さん変わったんだ。泣きたいなら泣けば良いのにって」
「……え?」
「俺がサッカーで試合に負けて悔しくて帰って来ると、笑って言ってくれるんだ。悔しいなら泣きなさい! 思いっきり泣いて、そして前を向きなさいって」

 優しく、穏やかに西澤くんが真っ直ぐに言った言葉は、あたしの母が伝えた言葉なんかじゃないと思うくらいに前向きだった。

「だから、俺、あの日寂しそうにここにいた杉崎さんのことを救ってあげたくて、思いっきり泣けよって、自分の方が泣いちゃうくらいに叫んでた。杉崎さんのこと、失いたくなかった。消えてほしくなかった。夏の日差しに溶けるみたいに消えて行った君を見て、僕は一人で泣いたんだ。思いっきり泣いて、また前を向こうって決めて……」

 ふわりと、優しい風がカーテンを揺らす。

「だから、杉崎さんが目を覚ましたって聞いた時は、周りの目も気にしないでまた泣いちゃったんだよね。先生の涙につられたってことにしてたけど、本気で嬉しかった。また、杉崎さんに会えるんだって思ったら、本当に、嬉しかった」

 キラキラと、柔らかい日差しが窓の外から入り込んできて、西澤くんを照らす。

『泣けよ!!』

 頭の中に響いてきたのは、それまでは蝉の聲ばかりだった。
 うるさい、うるさいと、鬱陶しかった。
 きっと、あたしの心の中で堰き止めていた、我慢や悲しみが、限界を超えていたのかもしれない。ひとりぼっちが悲しくて泣いた。
 誰かにあたしという存在に気がついてほしくて泣いた。たくさんたくさん、今まで言えなかった気持ちを吐き出すことができた。

 でも、あたしは最後の最後で、仕方ないと諦めたんだ。
 諦めたから、西澤くんとの夏の日々を、忘れてしまっていたのかもしれない……

 徐々に、図書室の背景が動き出す。夜が来て、また朝が来て。
 あたしは一人図書室に閉じ込められたまま。このままひとりぼっちでいなきゃならないのかと思うと、寂しくてたまらなかった。
 だけど、そんなあたしを西澤くんが見つけてくれたんだ。
 いや、違う。
 あたしが、西澤くんに見つけて欲しかったんだ。
 一人で図書室に入ってきた西澤くんは、あたしのことなんて見えていないみたいにすぐ真横を通り過ぎたんだ。
 寂しかった。
 あたしのことを、見つけて欲しい。
 その一心で彼のことをジッと見つめて、彼の後ろ姿に祈った──あたしを見つけて

 世界が、ずっと薄暗い幕を纏って見えていたことに気が付けなかった。
 全てを思い出した瞬間に、眩しいほどに鮮明に明るさを感じ始める。

 西澤くんの笑顔が、驚いた顔が、真剣な顔が、冗談を言ったり悩んだりする顔が、次々と記憶の中から溢れ出てくる。
 寂しいのは、最初だけだった。
 あたしは、西澤くんに救われたんだ。
 西澤くんがあたしを見つけてくれたから。

「……西澤くんは、あたしの奇跡だよ」

 全部、思い出した。

 綺麗な星空も孤独な夜も、このままひとりぼっちで消えていくんじゃないかと怖くてたまらなかった時間を、西澤くんが埋めてくれたんだ。
 あたしのそばにいてくれたんだ。

 込み上げてくる涙が止められなくて、頬を伝っていくのも構わずに、あたしは西澤くんに微笑んだ。

「ありがとう、西澤くん。全部、思い出した」

 西澤くんは、あたしに言ってくれたんだ。

『泣けって!! 泣いて泣いて、うるさいくらいに泣き喚け! それしかないだろう? 気づいてもらえ! なんもしないで終わりを迎えるなんて、そんなの悲しすぎるだろ!』

 悲しみが、全部溢れ出ていく。
 もう、我慢なんてしなくて良い。
 泣いて、泣いて、泣き喚いて、そんなの虚しいだけだって思っていた。

「大丈夫だよ。杉崎さんの涙は、全部俺が受け止めるから、安心して」

 そっと、手を伸ばしてくれる西澤くん。
 涙で歪んでしまって、だけど、あたしも手をそっと伸ばして、繋いだ。
 安心する──
 ずっと、誰かに聞いてもらいたかった。こんなに我慢しているのに、どうしてあたしばっかりって。悪いことがあれば良いことがあるから、それまでは我慢しようって。悪いことばかりが気になって、ずっと気にして、良いことが何なのかも分からなかった。

 あたしの話を聞いてくれる西澤くんに出逢えた事が、最大の良いことなんだ。奇跡なんだ。
 それでも、この手の温もりは永遠なんかじゃないんだろうと、疑ってしまう。

「……西澤くん」
「ん?」
「……西澤くんのお母さんって、きっとあたしのことを捨てた人だよ」

 繋いだ手に視線を落としたまま、あたしはポツリとつぶやいた。一瞬、そっと握られていた西澤くんの手に力が入った気がした。

「…………え?」

 捨てた人。そんな言葉を放ってしまえば、きっと西澤くんじゃなくたって困惑するだろう。だけど、あたしはもうなにも隠したくなかった。
 全てを曝け出して、泣き喚いて、西澤くんに嫌われようが、なんと思われようが、もう今更、止められないと思った。

 太陽が雲に隠れて、図書室が薄暗くなる。
 外からの明かりで十分だった室内の蛍光灯はつけていない。もともと誰もいなかったから、つける必要もなかったし、秋の柔らかい日差しがちょうど良かったから。

 あたしが泣いて、全てを思い出して、それと同時にあたしの暗い過去も全部吐き出してしまいたくなる。西澤くんに知ってほしくなって、貪欲になる心と同じみたいに、空も翳りを増していく。
 入り込む風が、泣いたからかもしれない……体や頬に、ひんやりと感じた。



 授業の終わりを告げるチャイムが廊下側から鳴っているのが聞こえた。図書室内にはスピーカーは備え付けられていない。
 外の風の音や木の葉が擦れる音の方が、耳には届きやすかった。
 そんな中、また始まりを告げるチャイムがかすかに聞こえると、あたしは目の前の西澤くんのことを真っ直ぐに見つめた。

 そして、今まで誰にも打ち明けたことのなかった父と母のことを、胸の奥から湧き上がらせる。
 繋いだ手をそっと離して、小さく深呼吸をした。

「うちの両親は、あたしが三歳の時に離婚したの」

 西澤くんには、おばあちゃんと二人暮らしをしているってことは話していた。もっと、ちゃんとどうしてあたしには両親がいないのかを、どんどん、聞いてほしくなる。

「いつも喧嘩が絶えなかったって記憶がある。父なんて、顔は覚えていないけど、大きな声で怒鳴っている姿だけは覚えている。いつも母と言い合いになって、母も負けじと言い合って。間に入ろうとするおばあちゃんのことまで突き放すような言葉や態度をとっていたのを見てきたの……」

 怖かった。
 ずっと思い出すことをしてこなかった。心の奥底にしまいこんで、開けないように、触れないように、圧をかけるみたいに小さく小さく押し込んでいた。
 いつか、消えてなくなれば良いのにと、ずっと思いながら。だけど、消えてなんてなくならない。
 ふとした瞬間にたまに湧き上がってくることが、とても怖かった。

 冷たい風のせいにしたいけれど、きっとこれは、蓋を開けてしまった心の奥から湧き上がる気持ちの気泡が身震いを起こしている。
 そっと、自分を抱きしめるようにして両腕をさすった。

「そんな二人が、あたしの三歳の誕生日に突然、いなくなった」

 涙は、溜め込みすぎると簡単には出てこないものなのかもしれない。
 悲しみは湧き上がってきていても、涙はいっこうに瞳に溜まらない。

「捨てられたんだ、あたし」

 悲しいを通り越すと、なんでだろう?
 楽しくなんてないのに、口角が勝手に上がってしまう。苦しいくらいに胸が押しつぶされて、息ができなくなるくらいにひどく痛いのに、どうしてだろう?
 あたしはなんで、笑っているんだろう……

「母に、あたしは捨てられたの……要らなかったんだ……あたしのことなんて。ずっと、怖かった。だけど、あたしは……母にそばにいて、欲しかった……」

 震えていく声。先ほどよりも、指先に血が通わなくなるみたいに、腕をさする手もひんやりとしてくる。
『泣いたってしょうがないでしょ!』
 父と喧嘩をした母は、泣き喚いて縋り付くあたしにいつもそう怒鳴った。
 怖かった。
 泣くのをやめたかった。
 だけど、どうしたって泣くこと以外になにも出来なかった。
 母からは離れたくなかった。どんなに大きな声をあげられても、見上げてみれば、歯を食いしばって耐え凌ぐみたいに母が震えているから、なんだかその姿が今にも消えて無くなってしまいそうに見えて、もっと、怖かった。
 あたしが、母のそばにいてあげたかった。だから、泣いたってなんだって、必死にしがみついていた。
 それなのに──

 母はあたしを置いて、いなくなった。

 限界だった。必死で堪えていた涙はもうすぐそこまで湧き上がっていた。
笑っていた口角を、ぎゅっと結んで一文字に力を込めた。

「泣いて良いんだってば」

 ため息をするように、だけど、優しくて柔らかい言葉があたしを包み込む。西澤くんは立ち上がると、あたしの横まで移動して立ち止まった。

「いいんだよ、泣いたって」

 震えていた指先が、自然とゆっくり暖かさを取り戻していく気がする。

「たくさんたくさん、泣いていいんだよ。思う存分泣いたら、また、前を向けばいい。泣くのは、悪いことなんかじゃない」

 あたしの横にしゃがみこんで、「ね」と顔を覗き込んでくる西澤くんの笑顔が、一瞬だけ見えた。かと思ったら、目の前が波打ち始めて、視界がぐちゃぐちゃに混ざり込んでいく。一瞬にしてもう、何も見えなくなった。

 体が熱くなっていく。心の底の悲しみが、何度も何度も、押し寄せてくる。
 耐えきれなくなって、あたしは声をあげて泣いていた。
 もう、なにも我慢したくない。
 押し込んでいた悲しみは、いつか消えるだろうなんて、そんなことがあるわけなかった。
 全部、我慢しないで吐き出せていたら、こんなに辛くて苦しい思いなんて、しなくて良かったんだ。だけど、それがどうしてもできなかった。
 拭っても拭っても溢れ出てくる涙に、頬と目尻が痛くなった。
 西澤くんが隣の椅子を引いて座ると、あたしが泣き止むまで、ずっとそばにいてくれた。

 誰かにそばにいてほしい。
 あたしは、いつだって願っている。
 だけど、人は離れて行ってしまうものだ。それが怖くて、なるべく深く関わらないようにしてきた。
 離れてしまった時の悲しさが、どんなに悲しいか、あたしは知っているから。

「あはは、目、真っ赤」

 ようやく落ち着いて、ポケットティッシュを取り出したあたしが鼻をかんでいると、隣でけらけらと西澤くんが笑った。
 何も言わずにあたしは不服に頬を膨らませる。

「思い切り泣けたね」

 微笑む西澤くんに、あたしは重たくなった瞼を懸命に開きながら小さく笑った。

「……うん、スッキリした」

 なんだか、胸の中が空っぽになったみたいにスカスカだ。空気が、体の中を通り抜けていくみたいに清々しい気分。
 初めての感覚に、なんだか不思議に思いながらも嬉しくなった。

「ねぇ、杉崎さん。俺の母さんに会ってみない?」
「……え」

 突然、西澤くんが聞いてくるから、せっかくスッキリした気持ちにまた少しモヤがかかる。

「母さん……と、言うか、うちの家族に会ってみない?」
「……家族?」
「うん、俺の父さんと母さんと、大海と大地、そして花。みんなと、会ってみてよ。きっと、今たくさん泣けた杉崎さんなら、俺の家族のこと、受け入れてもらえる気がする」

 西澤くんの提案に頷けずにいると、西澤くんも困ったように首筋を掻く。

「まぁ、家族と会って、とか、ちょっとアレか。なんか、両親に会わせるってなると俺も緊張しちゃうけど、友達ってことで遊びに来てみてよ。花もまた会いたいって言ってたし」

 照れて、耳が赤くなる西澤くんに、あたしは小さく頷いた。
 だって、花ちゃんにはまた会いたいと思っていたから。
 あたしが頷くのを確認した西澤くんは、一気に表情が綻んでいく。嬉しそうににやけているから、なんだかあたしも照れてしまって、そっと視線を逸らして窓へと向けた。

 一瞬だけ、蝉の鳴く聲が聞こえた気がして、幻のように消えていく。窓からの陽射しも、じりじりと焼くように眩しく入り込んでいたかと思えば、夏の光が少しずつ弱まって、柔らかい温かさを感じる、晩夏光。

 初めて授業をさぼったあたしと西澤くんは、そのまま「かき氷を食べに行こう」と、学校を抜け出した。二人で別々の味を買って、分け合う。
 西澤くんはきっと、こう言うことには慣れていない。もちろん、あたしだって慣れてるはずもないから、この前のまりんちゃんと隆大くんみたいなじゃれあいなんて出来ないけれど、なんだかすごく、楽しい。

「このカップで目元冷やしたらいいんじゃない?」
「え!」

 かき氷のカップを目元に持ち上げて、西澤くんがニヤリと笑う。
 あたしはすっかり泣き腫らしてしまった目のことを忘れてしまっていて、慌ててスマホで自分の目元を確認した。

「うわ、やばい。酷すぎる……」

 思った以上に赤くなって腫れぼったくなっている瞼にまたしても泣きそうだ。

「大丈夫だって、かわいいから」
「え?」
「かわいいから大丈夫……!」

 パクリと掬った氷を口に運んで、西澤くんは目を見開いてあたしに振り返った。

「あ! いや、えっと……」

 一気にいちご味のかき氷みたいに真っ赤になっていく顔に、あたしはスマホをポケットにしまって、小さく「ありがと」と伝えると、ストローで溶けかけのかき氷を吸い込んだ。底に沈んでいたシロップの濃い味が冷たさと一緒に体に染み渡る。

 西澤くんは素直だ。そんなところが、あたしは好きかもしれない。

「かき氷の次は、花火だよね」

 ふと、そんなことを思って口にしてしまった。

「花火したいよね。俺の密かな夏の目標だもん」
「え?」
「杉崎さんと花火大会……は、叶わなかったけど、花火はまだ出来るよね。よし、食べたら花火買いに行こう!」
「え!?」

 急いでかき込むから、西澤くんは「うっ!」と言ってから、こめかみにグッと手のひらを当てて俯いた。
 どうやら、冷たさが頭に直にきたらしい。
分かっててやってんのかなぁ、西澤くんって、ほんと……
 唖然と見つめていたあたしに気が付いて、西澤くんが目を細めた。

「絶対俺のことバカにしたでしょ? 今」
「し、してないしてない……」

 慌てながら首を振るあたしに、ジト目をやめないから、苦笑いするしかない。

「いや、しました……」

 観念して、ごめんと謝ると西澤くんが吹き出して笑うから、あたしまでおかしくなった。やっぱり、西澤くんになら素直になれる気がする。
 あの日、忘れていた夏休みの日々が、なんだか懐かしく感じて、愛おしい。

 食べ終わったカップをゴミ箱に捨てて、西澤くんが歩き出す方向に着いていく。

「今日は花の迎えは母さんが行くから、花火買って、なんか食べない? お腹空いたんだけど」

 確かに。朝からサボってお昼も食べずに図書室で過ごしていたから、何も食べていなかった。しかも、たくさん泣いてしまってお腹は空いている。かき氷がこんなに美味しく感じられたのは、きっと空腹も相まってな気もする。西澤くんとコンビニに入っておにぎりとサンドイッチを買って食べた。
 図書室から抜け出してきたから、靴も上靴だし、鞄も教室だ。一度取りに戻らなくちゃいけない。

「学校、戻る?」
「そうだな、なんか、怖いけど」

 サボっていることは当然バレているだろうし、きっと担任と鉢合わせたら怒られる気がする。だけど、なんでだろう。西澤くんと一緒なら、あたしは怖くないと思っている。

「怖いの?」
「……いや、絶対俺が連れ出したんだろって言われそう。あ、いや、別にそれでも良いんだけどね、実際そうだし」

 言いながらため息をついて、足取りも心なしか遅くなっていく西澤くんに、あたしは笑った。

「怒られる時は一緒にだよ」

 軽く背中に手を置いて叩くと、落ちていた肩がシャキンっと上がった。眉が下がる笑顔で、「よろしく」と言われて、あたしは頷いた。
 さっきまで本当にあたしは泣いていたんだろうかと思うほどに、気持ちが軽くて、今なら何にでも耐えられる気がした。

 授業はとっくに全部終わっていて、校庭では部活動に励む生徒が見えた。
 昇降口から中に入る前に、掃除用のロッカーから雑巾を取り出して上靴の裏を拭いた。
 天気が良かったから、そこまで汚れることはなかったけれど、一応土足したことには変わりないから。学校内に足を踏み入れて、教室を目指そうとした瞬間、馴染みの声が聞こえてきた。

「涼風ー!?」

 あたしを呼ぶのは、いつも元気な葉ちゃんだ。声のする方に視線を向けると、バスケットボールを胸の前に持って手を振る葉ちゃんの姿が体育館通路の少し手前に見えた。

「今日どうしたの? 大丈夫?」

 心配そうに駆け寄ってきてくれた葉ちゃん。実はスマホに何件かメッセージを送ってくれていたのに気が付いていたけれど、開いて見ていなかった。

「……目、腫れてる?」

 するどい葉ちゃんには、やっぱりすぐに気が付かれてしまう。あたしが気を張っていた葉ちゃんとの友情も、もしかしたらここまでかもしれない。本当のあたしを知ったら、きっと葉ちゃんに嫌われる。

「ちょっと、色々あってな」
「あれ? 西澤くん!?」

 何も言えなくなってしまっていたあたしの後ろから、西澤くんが葉ちゃんに声をかけてくれた。
 目を見開いて驚いた顔をする葉ちゃんに、あたしはさらにどうしようかと不安になる。

「二人とも、いなかったよね? 今日」
「うん」
「もしかして、二人でどっか行ってサボってた?」
「……うん」

 担任に怒られた方が、よっぽどマシだと思った。
 頷く西澤くんに、もうそれ以上一緒にいたことを葉ちゃんにはバラさないでほしいと願う。
 西澤くんのことが好きな葉ちゃんに、二人でいたなんて知られたら、本当にもう、葉ちゃんとの友情なんて終わりだ。
 ドクドクと苦しくなる胸に、あたしは息をするのも忘れて黙りこむ。

「西澤くんが、涼風のこと、泣かせたの?」

 言葉の一つ一つが、重たく感じる。
 ゆっくりと、確かめるように聞いてくる葉ちゃんに、西澤くんは困ったような顔をした後で、「……うん」と頷いた。

 それは、違う。西澤くんがあたしを泣かせたわけじゃない。あたしの悲しみを解放させるために、泣いていいって、言ってくれたんだ。
 だから、西澤くんが悪いわけじゃない。
 全部、ずっと溜め込んで蓋をして、吐き出すことができなかったあたしが悪いんだ。
 だから、西澤くんを責めたりしないでほしい。

 葉ちゃんに、どうやってこの気持ちを伝えれば良いのか、一生懸命に頭の中でぐるぐると巡りながら考えるけれど、一向に答えが見つからない。
 何を言っても、あたしの言葉は言い訳だし、偽りになる。
 グッと、言葉の出てこない口元を結ぶと、目の前にいた葉ちゃんが急に笑い出した。

「やっぱり西澤くんってすごい!! さすがだわ。あたし、西澤くんにずっと頼りたかったの」
「…………え?」

 ボールを持ってる手に力を込めて、葉ちゃんが前のめりになって西澤くんに詰め寄った。
 その圧に負けてしまいそうになりながら、西澤くんは後ろに引いた足をまた元に戻した。

「あたし、涼風の友達だけど、涼風ってすごく考え方が大人で頑張り屋で、辛いこととかあってもすぐに蓋をしちゃうんだ。だから、あたしの方が勝手に辛くなったりしてた。古賀くんのこともなんだけどさ。だから、西澤くんが涼風のことで泣いてくれてるの見た時、この人本物だ! ってずっと思ってたの。西澤くんって、涼風のことすごくよく分かってくれてる気がしてた!」

 あたしと西澤くんを交互に見ながら、葉ちゃんがニコニコと笑顔をくれる。
 なんだか、胸の中の痛みが和らいでいく。
 だけど──

「……葉ちゃん、西澤くんのこと……」

 好きなんだよね?

「あたし、涼風も西澤くんも、人としてすごく好き。なんか、すごく真っ直ぐで、応援したくなっちゃうの」
「……真っ直ぐ……」
「うん。涼風は人を傷つけないようにっていつも周りを気遣ってくれるし、その代わり自分が傷つくのは見てみないふりするでしょ? あたし気が付いていたけど、なかなか助けにはなれなかった。でもね、西澤くんが涼風と接するようになってから、なんとなく、涼風が変わったような気はしてたの」

 葉ちゃんには、全部ばれていたの?

「涼風って全然悲しい顔を見せないの。泣くなんてもってのほかだよ。それなのに、こんなに目が腫れちゃうくらいに大泣きさせれるって、西澤くん、やっぱりすごいよ!」

 バスケットボールを足元に挟んで、葉ちゃんはあたしのほっぺを両手で挟み込んだ。
 唇が突き出るくらいに挟まれて、慌てるけど、離してくれないから、そのままじっとするしかない。

「良かったね、涼風、ちゃんと泣けて」

 きっと、今のあたしの顔は不細工だ。目の前の晴れやかに笑う葉ちゃんの笑顔と言葉に、またしても湧き上がってくる涙を懸命に堪えた。

「かわいいなぁ、涼風は。あたしの前でだって、泣いて良いんだよ。あたしのこの広い胸で受け止めるからっ」

 頬の手を離すと、今度はぎゅうっと、葉ちゃんの胸に包まれる。葉ちゃんはいつだって、あたしのことを大事にしてくれる。この手が、離れるなんて心配、要らないのかなって、すごく安心する。
 不安なんて、吹き飛んでいく。

「あー! 何やってんの!? そこっ」

 後ろから、今度は甲高い声が聞こえてきた。
 もうすっかり聞き馴染みのあるその声は、振り向かなくてもあたしには誰かわかった。

「……まりん」

 ボソリと葉ちゃんがあたしの耳元で呟くから、答え合わせをしなくても正解だ。

「大空くんもいるー! リュウちゃんがなんか心配してたよー?」
「あ、まじで? ちゃんと話してこないとな」
「で? どうだったの? 二人きりのデートは?」

 スキップするみたいに駆け寄ってきたまりんちゃんの前に、葉ちゃんが立ちはだかる。

「……まりん、今日こそは部活来な!」
「え!? なんで? 行かないってば。あたし二人の話聞きたいーっ」
「あんたさ、空気とか読まないの?」
「…………空気?」

 空中を見上げたまりんちゃんの目線が、うろうろと彷徨う。

「空気なんて読むもんじゃないでしょーっ! なんも書いてないもーんっ!」

 けらけらと笑い出すまりんちゃんに、葉ちゃんが怒ったように「もうっ!」と言って、腕を取る。

「いいから行くよ!」
「やだよー、行かないよー、あたしなんてもう居場所ないもん」

 ぐずりながらも葉ちゃんの力に抗えないのか、まりんちゃんが少しずつ体育館に引き摺られていく。

「あるから! ずっとあたし待ってるんだよ! まりんとバスケやりたくてあたしはバスケ部入ったのに、こんな中途半端で逃げ出すとか絶対許さないから! 居場所がないとかなにバカなこと言ってんの!? みんなずっと待ってるんだよ? 早く戻ってきて盛大に謝んなさい!」
「……え」
「みんなまりんがいないとチームが締まらないの! 自分の立場がどんなに大事な存在だったかちゃんと確かめなさい! それでも嫌なら辞めればいい。そこまでは引き留めたりしないから」

 一度立ち止まって、葉ちゃんがまりんちゃんと向き合っている。くるくると巻かれたツインテールが俯くまりんちゃんの顔を隠した。ぺたりと座り込んでしまったと思ったら、突然顔を上げた。

「…………うぇっ……うわーんっ! 葉ちゃーん! みんなー! ごめんなさーい! あたし、あたし……もうみんなからは見放されてるってずっと思ってて……別にいいもーんって開き直ってて、めちゃくちゃ最低だぁー!」
「マジ最低なんだからね! ちゃんと試合に貢献して償いな!」
「うわーんっ!!」

 大泣きをし始めるのも構わずに、葉ちゃんにズルズルと引き摺られていくまりんちゃんの姿を最後まで見届けると、体育館の扉がパタリと閉まった。
 なんだか、泣き喚くまりんちゃんの姿に、先ほどまでの自分もああだったのかと思うと、急激に恥ずかしくなってきた。

「ね、泣くのは大事」

 クスクスと、西澤くんはまりんちゃんの姿に唖然としながらも、おかしそうに笑っている。

「そうだね」

 我慢していたって、たまには吐き出さないと。

「蝉ってさ、七日間しか生きられないんだよ?」
「……え?」
「知ってた?」
「……知ってる……けど?」

 なんだか、このやりとりはした覚えがある。
 だけど、聞いたのはあたしの方だ。

「七日間のうちに、感情全部吐き出すんだよ。鳴いて鳴いて、鳴き喚いて。そして、生涯を終える。黙り込んだまま土に潜って、何にも吐き出さずに我慢ばかりしていたら、人生勿体なさすぎる」

 蝉は、鳴くのが当たり前だと思っていた。
 だけど、蝉にしてみたら、人生が、生まれてから死ぬまでの一生がかかっている。
 だったら、鳴いて鳴いて、泣き喚いて尽きるのが、本望なんだろう。

「やっぱり、俺の母さんと会って話をしてほしい。二人とも、今ならきっと、うまく泣ける気がするんだ」

 カバンを取りに教室に向かって、先生に見つからないように急いで学校を後にした。

 西澤くんがスマホで話をする横顔を眺めながら、隣を歩いていた。時折はははっと笑う笑顔は優しくて、柔らかい。
 通話の相手は、西澤くんのお母さんで、そしてきっと、あたしの母だ。

「夕飯? うーん、なんでもいいよ。え? あ、ごめん。でも、なんでもいい。母さんの料理みんな美味しいから。はは、うん、あ、花に花火やるからって伝えてて。うん、うん、じゃあよろしくね」

 通話を終えて、西澤くんがこちらを向く。

「夕飯用意して待っててくれるって。友達連れてくの初めてだけど、母さんなんか嬉しそうにしてくれた」
「え!? 初めて?」
「え? うん、初めて」
「隆大くんとか、サッカー部の人とかは?」

 慣れたように誘われたから、きっと友達が来ることは当たり前にあるんだと思った。

「ないよ。どっちかっていうと俺がみんなの家に行くことが多かったかな。うち、小さい子いるしあんまり騒ぐと母さんにも迷惑かけるかなって……やっぱ俺も今まで、何気に気を遣ってたのかも」

 腕を組んで考えるポーズをしてから、こちらに笑いかける西澤くんに、胸がきゅんと弾んだ。押し込んでいた苦しさから解放された心の中は、さっきから弾けるように心地いい感覚を与えてくれる。

「初めて家に連れてく友達が杉崎さんで良かったよ。なんか、嬉しい。あ、でも今更緊張してきた」

 胸に手を当てて苦しそうにする西澤くんに、あたしまで緊張が伝染する。
 ドキドキが高まっていく胸に、西澤くんと目が合うと一緒に笑い合った。
 心が軽いのに、満たされていく。
 まるで、無色透明なラムネサイダーみたいだ。
 透き通る中に気泡が弾けて、心地いい。

 これって、あたしの知っている幸せに、近い感覚だ。
 嬉しい。もっと、西澤くんを知りたい。そばにいたい。あたしの心の中が、西澤くんでいっぱいになる。
 忘れていた夏の日。あの日西澤くんに見つけて欲しくて願った想いが、今、満たされたような気がする。

 隣を歩く西澤くんの手が、触れそうなくらいに近い。そっと、あたしから近づけてみる。
 コツンっと当たった指先に、離れようとした瞬間、しっかりと繋がれたことに驚いて、あたしは西澤くんの顔を見上げた。

「……繋いでも、いい? ってか、もう、繋いじゃったけど」

 照れて、こちらを見てくれない西澤くんの頬が赤い。傾き始めた夕陽が赤さを増していくから、あたしもそんな夕陽のせいにして手を握り返す。

「うん、いいよ。あたしも繋ぎたかったから」

 大きな手に包まれると安心する。
 さっき葉ちゃんに包まれた優しさとも似ているけれど、それとはまた別に、ドキドキする。
 苦しいのに、それがとても、心地良い。
 いつまでも、この気持ちが続いてほしいと、願ってしまう。

 おばあちゃんに、夕飯をごちそうになってくることを話してくるからと、一度あたしは帰ることにした。西澤くんと家に曲がる手前の角で手を振って別れると、緊張してしまう体にすぅっと息を吸い込んでから、足を進めた。
 玄関を開けて「ただいま」といつも通りに家の中に入っていく。リビングからはテレビの音が聞こえていて、そっと中を覗くと、おばあちゃんが座って寛ぎながら、テレビに向かって笑っていた。

「おばあちゃん、ただいま」
「あら、涼風ちゃん、おかえりなさい」

 すぐにこちらを向いて、にっこりと笑ってくれる。かと思えば、おばあちゃんはまたテレビに向き直るから、あたしはカバンを足元におろして、ソファに座った。
 いつもなら帰ってきて部屋へ直行するあたしが、制服のまま座り込むから、おばあちゃんも何かを察してくれたみたいで、見ていたテレビの音量を低くしてからこちらを見た。

「……なにか、あったのかい?」

 心配そうに聞かれて、あたしは俯いていた顔を上げて、一呼吸置いてから話し始めた。

「おばあちゃん。おばあちゃんは、あたしのこと、捨てたりしないよね?」

 こんな聞き方をしたら、良くないってわかってる。だけど、こう聞くしか分からなかったから。
 あたしは、両親には捨てられたんだと思っている。たとえ本当の母だとしても、あたしを捨てたんだし、そんな人の所へはあたしは行きたくない。ずっと一緒にいてくれると思っていたのに。おばあちゃんは、違ったのかな。おばあちゃんのことは大好きだけど、捨てられるようなあたしが、悪いんだよね。

「何、言ってるの……」
「前にね、ここであたしのお母さんと話してたよね? あたしを、引き取って欲しいって」

 おばあちゃんの顔が、一瞬だけこわばるのがわかった。

「ごめんね。あたし、おばあちゃんが優しいからいつもたよっちゃって。わがまま言って、事故に遭ったりして心配かけて。もう、あたしのことなんて要らないよね」
「何言ってるの!?」

 今度は、戸惑いながらも強い口調でおばあちゃんがテーブルに乗り出して言うから、驚いた。

「なにを……そんなこと……」

 首を左右にゆっくり振りながら、おばあちゃんは悲しそうに眉を顰めた。

「隠れてお母さんと話していたことは、ごめんね。だけど、涼風ちゃんのことを捨てるだなんて、そんなものみたいな言い方、しないでほしい。涼風ちゃんはたった一人の大事な大事な私の孫なのよ。頼ってもらえるのが嬉しいの。わがままだって、かわいいものなのよ。そんな悲しいこと、言わないで……」

 眉を下げて、おばあちゃんの目元が潤んでいく。おばあちゃんはいつも父と母の喧嘩を泣きながら止めていた。
 おばあちゃんは泣き虫なんだ。だから、あたしはおばあちゃんのことを悲しませることはしたくなかった。

「おばあちゃんはね、涼風ちゃんと出来ることならずっと一緒にいたいよ。だけどね、やっぱり限界はあるのよ。それに、涼風ちゃんのお母さんは、涼風ちゃんのことを捨てたわけじゃない。それだけは、分かって……」

 分かんない。
 じゃあ、どうしてあたしを置いて今は別の家庭を持って幸せにしているの?
 あたしの存在なんてなかったみたいに。

「これから、お母さんに会ってくる」
「……え?」
「あたしのクラスメイトのお母さんが、あたしのお母さんなの」
「……そう、なのかい?」

 知らなかったらしい。あたしの言葉に、おばあちゃんは目を見開いて驚いている。

「ちゃんと、話してくる……」

 あたしのことを捨てたわけじゃないのなら、どうしてあたしを置いていなくなったのか、あたしのことが要らなかったからって理由しか思いつかないから、本当の母の気持ちを、怖いけれど、ちゃんと聞いてみたい。

 西澤くんのおかげで、気持ちがだいぶ前向きになれている。さっき繋いだ手から伝わった体温が、一人じゃないって、思わせてくれた。だから、きっと大丈夫。

「そうかい……うん。行っておいで。涼風ちゃんのお母さんは素敵な人だよ。ろくでもないのは、父親の方だ」

 深いため息を吐き出すおばあちゃんの隣に、あたしはソファーから立ち上がって座った。そして、落ち込む背中にそっと手を当てた。
 だいぶ丸くなった背骨、あたしよりずっと大きくて優しくてたくましかったおばあちゃんが、今はこんなに小さく見える。いつも笑顔を絶やさないおばあちゃんが、泣いている。
 おばあちゃんには、幸せでいてほしい。
 ため息なんて吐き出さないで、笑っていて欲しい。
 あたしは、おばあちゃんをギュッと抱きしめた。

「おばあちゃん、大好き」

 あたし、ちゃんと聞いてくる。怖くて蓋をしていた過去は、もう全部思い出したし、吐き出せた。聞いてくれて、受け止めてくれた西澤くんがいたから。
 だから、きっと今日だって大丈夫。
 あたしは、ちゃんと話をすることが出来るはず。
 父と母のことを知りたい。
 全部を受け止めて、前に進みたい……

「もう、いつの間にこんなに大きくなっちゃったんだろうねぇ。ずっとちっちゃいままなら良いなってばぁちゃんはいつも思っていたよ。だけどね、そんなことは無理なんだよね。涼風ちゃんは毎日毎日一生懸命生きてるから。だから、こうやっていつの間にか、優しくて我慢強い子になったんだね」

 トントンと、ゆっくり優しく背中を摩ってくれる。
 小さかった頃を思い出す。おばあちゃんはいつもあたしが泣きそうになると、こうして大きな胸で抱きしめてトントンと背中をさすってくれた。
 とても安心した。今だって、安心感は変わらない。だけど、今は大きかった胸の中からはみ出てしまっている。今度はあたしが、おばあちゃんを守ってあげたい。

「いつまでもかわいい涼風ちゃんでいて良いんだからね」
「うん、ありがとう。着替えたら行ってくるね」
「うん、行っておいで。私は適当に食べるから、ゆっくりしておいで」

 笑顔で手を振り、おばあちゃんはテレビの音量を元に戻してまた見始めた。


 部屋に戻って制服を脱ぐ。改まった格好はしなくても良いとは思うけれど、あまり普段着すぎてもよくない気がして、クローゼットの前で悩んだ。ふと、ハンガーにかかって一番端っこにある浴衣が目に留まった。
 おばあちゃんが買ってくれた浴衣だ。


 高校に入学して最初の夏、葉ちゃんが誘ってくれた夏祭りに来ていくはずだった浴衣は、あいにくの雨模様で急遽私服に変えた。それ以来、ここにかけっぱなしだった。
 今年の夏も、古賀くんとこれを着て夏祭りに行けたらいいなぁ、なんて夢は見ていた。だけど、結局着れることはなかった。
 また、来年かな。そう思っていたら、カバンの中でスマホが鳴った。

 取り出して確認してみると、西澤くんから画像付きのメッセージが届いている。
 すぐに見てみると、ピンク色の浴衣を着た花ちゃんが決めポーズをして写っている写真だった。

「……かわいい……!」

 メインは花ちゃんだけど、後ろにお揃いの甚平を着た弟くんたちも映り込んでいる。

》花火するって言ったら、みんな浴衣着だしてさ、なんかすっかり夏祭りモードだよ。庭でバーベキューと焼きそばだって。フランクフルトも焼くって。もううちのお祭り会場整いつつあるからいつでも大丈夫だけど、迎えにいくから杉崎さんも準備できたら連絡ちょうだい。

 夏は終わったはずなのに。時間が巻き戻っていくみたい。
 西澤くんと出逢ってから、時間の感覚がおかしい。なんだか魔法にかかったみたいだ。なんだって叶えてくれる。
 忘れていたことも、忘れたかったことも、全部、思い出しては受け止めていく。

《みんな浴衣かわいい。準備したら連絡するね!

 返信をして、スマホをテーブルに置いた。
クローゼットの前に立って、一番端に手を伸ばす。紺地に白とピンクの牡丹が描かれた浴衣。それを手に取って部屋を出ると、リビングのおばあちゃんに見せた。

「おばあちゃん、これ着せて!」

 驚いた顔をしたおばあちゃんは、すぐに笑顔になって腰を上げてくれた。

「ちょっとタオルとか準備するから向こうで肌着着ててちょうだい」

 和室を指さされて、おばあちゃんは自分の部屋の方へと行った。言われた通りに和室で待っていると、戻ってきたおばあちゃんが手際よく浴衣を着せてくれる。

「ようやく着れたね」
「……うん」
「楽しんでおいでね」
「……お母さん、あたしが今日来ること、知らないんだよね……」

 きっと、西澤くんは母にあたしのことはただの友達がくるとしか伝えていないと思う。
 だって、こんなにスムーズにことが進むはずもない。あたしが夕飯を食べに行ったり、一緒に花火をするなんて、きっと嫌に決まってる。あたしだって分かったら、もしかしたら、押し帰されるかもしれない。
 キュッと両脇に降りた手を握った。
 俯くあたしの肩に、おばあちゃんは優しく触れてくれる。

「大丈夫だよ、いつだっておばあちゃんは涼風ちゃんの味方だからね」

 おばあちゃんがいつも言ってくれていた言葉。安心する。

「それにね、涼風ちゃんのお母さんはきっと、涼風ちゃんが来てくれたら喜んでくれるよ。泣いちゃうかもしれないね」
「……お母さんは、泣いたりしないよ」

 泣いちゃうのは、おばあちゃんだ。
 目の前で目を潤ませて鼻を赤くしているおばあちゃんに、あたしは困ってしまう。

「涼風ちゃんのお母さんの涼花(すずか)さんはね、誰よりも感情表現豊かな泣き虫なのよ。それをね、涼風ちゃんのお父さん……いや、私の息子が、あんなふうにしてしまったの。本当に、申し訳ないと思ってる」
「……あたし、お父さんのことは、あまりよく覚えてないの」

 お母さんやおばあちゃんに大声をあげる父の姿がぼんやりと見えるだけで、鮮明な記憶はない。お祭りの時に瓶入りのラムネを差し出してくれた姿はよく覚えているけれど、その顔にすら、靄がかかっている。

「うん、そのまま忘れてやってくれた方がいい。とにかく、今日は楽しんでおいでね」

 おばあちゃんは立ち上がると、キッチンに入って行った。
 母と対面することが、怖いと思っていた。だけど、もしかしたらあたしは、ずっと母に会いたいと思っていたのかもしれない。

 西澤くん宛てに「今から向かいます」とメッセージを送る。おばあちゃんがさっき用意してくれたんだろう。玄関には下駄がきちんと揃えてあって、鼻緒を指の間に押し込んだ。
 慣れない感覚にふらつくけど、「行ってきます」とキッチンに聞こえるように声をかけて、あたしは家を出た。

 カランカランと下駄を鳴らして歩く。いつもより歩幅が狭くて、急ぎたくても急げない。慌ててしまうとよろけそうになるから、ゆっくり進んだ。
 さっき西澤くんと別れた曲がり角まで来ると、息を切らせながら西澤くんが前から走ってきた。
 そして、あたしを見るなり立ち止まって、目が合うと固まったみたいに動かなくなってしまった。

「……西澤、くん?」

 そっと声をかけると、ようやく我を取り戻したように、西澤くんは瞬きを何度もしてから目を泳がせる。

「ゆ、浴衣で来るとか、聞いてないし……」

 先ほど合っていた目は、今度は合わそうとしてくれない。照れているのか、暗がりでも街灯の下だと耳が赤くなっているのがわかった。

「……ごめん」
「あ! いや、違う。ごめんとかじゃなくて。その……嬉しすぎると言うか、ありがとうと、言うか」
「え?」
「あー、いや、なんでもない。行こうっ」

 くるりと向きを変えて歩き出すから、あたしも慌ててついていこうとするけど、普段と同じペースで歩く西澤くんには、二歩、三歩とどんどん遅れていく。

「に、西澤くーんっ」

 さすがに距離が出来てしまったから、あたしは慌てて呼び止めた。
 不思議に振り返った西澤くんは、あたしとの距離が開いていたことに全く気がついていなかったんだと思う。
 大慌てで戻ってくるから、おかしくって笑ってしまった。

「ご、ごめんっ! こんな離れてるなんて気付かなくて」

 すぐ横まで戻ってきてくれた西澤くんの手を、あたしは迷いなく繋いだ。

「置いてかないでね」

 寂しさと恥ずかしさで俯いて言うと、しっかりと手を繋ぎ直した西澤くんが、今度はゆっくり歩き出す。

「置いてくなんて絶対しないから」

 繋がれた手から伝わる安心感は、信用しても良いのだろうか。あたしはまだ、心を完全には開けていない。頼り切ることが、出来ない。だけど、西澤くんには、そばにいてほしい。
 あたしはいつだってわがままだ。
 こうやってあたしのそばにいてくれる人を離したくないと、思ってしまうんだ。

 西澤くんの家は住宅地からは少し離れた河川敷の通りにある一軒家だった。
 広い庭には小さいながらに畑もある。

「ママー! 大空兄が友達連れてきたー!」

 庭で遊んでいた西澤くんの弟たちが、あたしと西澤くんが帰ってきたことにいち早く気がついて家の中に入っていく。
 玄関前までくると、「りょーかちゃ!」と、ふわふわの帯を巻いた花ちゃんが、蝶々みたいに駆けてきた。

「こんにちは、あ、もう、こんばんはかな」
「こんばちわー!」

 あたしが間違えたからか、花ちゃんまでこんにちはとこんばんはが混ざってしまっている。だけど、そのことには本人は気が付いていないで満面の笑み。抱っこをせがむように両手を差し出してくるから、とても愛おしくなる。

「ほら、花。兄ちゃんにおいで。杉崎さんは浴衣だから抱っこできないよ」

 すぐに、西澤くんがあたしの前に出て、花ちゃんを軽々抱っこする。

「りょーかちゃも花といっちょ!」

 自分の浴衣とあたしの浴衣を指さして、嬉しそうに笑う。

「そうだね、一緒だね」
「涼風……ちゃん?」

 花ちゃんと話しているのに夢中でいると、後ろから名前を呼ばれて心臓が飛び跳ねた。
母の声に、間違いなかった。

「あ、母さん。連れてきたよ。こちら、杉崎涼風さん」

 西澤くんが紹介してくれて、あたしはようやく顔を上げて母のことを見れた。

「こんばんは……いらっしゃい」
「こ、こんばんは」

 戸惑うように、だけど微笑んでくれた母の表情にホッとする。あたしも、ぎこちなかったかもしれないけれど、笑顔を向けた。

「わああ! ママ! マーマー! ちょっと助けてっ!」

 いきなり、庭の方から叫ぶように助けを求める男の人の声が聞こえてきた。あたしが驚いていると、西澤くんも母もやれやれと呆れ顔をしているから不思議に思った。

「またパパ、たすけてしてるー!」

 西澤くんの腕の中で、花ちゃんが楽しそうに足をバタバタさせた。

「花ちょっと降りて。俺助けてくるから」
「いや、待って。あの人あたしを呼んでるから大空じゃたぶん無理。お友達と紙皿とか用意するの手伝って」
「あー、分かった。じゃあ母さんに任せる」

 一方はいまだに騒いでいる声が聞こえてきているが、こちらは至ってと言うか、何も起きていないくらいに冷静だ。
 母が外に出ていくと、西澤くんが苦笑いして「とりあえず中入って荷物置いたら手伝って?」と家の中に入っていく。
 花ちゃんは、母を追いかけて外に飛び出していってしまった。

「ごめんな、騒がしい家族で」
「う、ううん」

 キャー、ははははっ、さっきから庭ではみんなの叫び声や笑い声が絶え間なく聞こえてきている。
 キッチンには食べやすく切られた野菜や串に刺さった肉、バーベキューの準備がテーブルの上にしっかりと整っていた。西澤くんが紙皿とコップを引き出しから取り出している。

「多分ね、火起こしで父さんがやらかしたから、まだ炭あったまってないと思うんだよね。お腹空いてない?」
「あ、まだ大丈夫」
「じゃあさ、先に花火やろうか」

 キッチンの窓から空を見上げて、西澤くんが笑う。夕空はもうすでに藍色に変わっていて、花火をするにはちょうどいい暗さだ。

「これだけ持ってくのお願いできる?」
「うん」

 紙皿とコップを渡されて、西澤くんは大量の花火セットと着火棒を持つ。

 外に出ると、汗を吹き出しながらタオルを頭に巻いた西澤くんのお父さんが一生懸命炭に火を起こしていた。
 隣ではテキパキと辺りを片付けたり、テーブルをセッティングしたりする母の姿。
 走り回っている弟たちに、寝転がる猫と戯れている花ちゃん。
 そんなみんなの前に花火を見せつけると、あっという間に西澤くんの周りに集まってきた。

「お、大空の彼女こんばんわー!」

 元気の良い声で西澤くんのお父さんがあたしに手を振る。

「え!? いや、彼女じゃなくって友達!」
「ええっ!? そうなのか? 彼女出来たお祝いのバーベキューじゃねーの?」
「は?! なにそれ、なんでそんなことになってんの?」
「なんだよー! 父さん嬉しくて高い肉買ってきたんだぞー! 友達だったら豚バラで良かったじゃねーかよ!」
「それ杉崎さんの前で言うのやめろよ!」

 腕を組んで、火おこしのやる気をなくしたように椅子に座り込んでしまったお父さんに、西澤くんが呆れたようにやりとりしている。

「だって豚の方がいっぱい食えるぞ? 食べ盛りに牛はたけぇんだよ」
「正直すぎんだろ。杉崎さん引いてるからマジでやめて?」

 弟たちに花火を開けて手渡しながら、西澤くんはあたしの前に立つ。

「あんな親父でごめん」

 頭を下げながら花火を差し出すから、あたしは笑って受け取った。
 火をつけた花火はシューっと勢いよく火花を散らす。大海くんと大地くんは両手に一本ずつ持って、きちんと誰もいない方向に向けてじっと終わるのを待って立っていた。終わるとすぐに先ほどみたいにはしゃぎ出してバケツの水に終わった花火を入れにくる。
 花ちゃんはまだ危ないからと、お母さんと一緒に小さめの花火を持ちながらたのしんでいた。

「これ、七色に変化するんだって!」

 さっき渡してくれた花火。持ち手の部分が虹の色をしている。

「付けるよ?」
「あ、うん」

 ぼぅとしていたあたしに、西澤くんが確認するように聞いてくれるから、あたしは花火を持つ手にしっかり力を入れる。
 シューっと白に近い金色が噴き出す。

「俺にも火わけて」

 すぐ隣に立って、西澤くんがあたしのと同じ虹色の花火を手にして火花に近づけた。
 すぐに同じ色が先端から放出される。赤、青、黄色と、どんどん彩りを変化させていく。

「綺麗」

 手持ち花火なんて、やったことあったかな。真剣に火花を見ていると、終わった瞬間に辺りが真っ暗になって、浮かぶ煙が寂しく見えた。

「涼風ちゃん……」

 顔を上げると、母が目の前に立っていた。

「少し、話をしない?」

 戸惑うように揺れている瞳。だけど、逸らすことなく真っ直ぐに向けてくれるから、あたしは隣にいる西澤くんに視線を送る。

「あいつらは俺が見てるから、ゆっくり話しておいでよ」

 微笑んでくれて、あたしの手元から終わった花火を取ると、「大丈夫。ちゃんとそばにいるから」と、小さく言ってくれた。
 キュッと握った手に力を入れて、あたしはもう一度母の方へと顔を上げた。
 優しく微笑む顔に、もうすでに泣きそうになる。グッと堪えて、並べられた椅子に座るように言われて、座った。

「はい、どうぞ」

 夜は少し肌寒い。渡されたのは、カップに入った暖かいスープ。

「ありがとう、ございます」
「もう、事故の怪我は大丈夫?」
「え……あ、はい」
「大したことなくて本当に良かった。涼風が交通事故に遭ったってお義母さんから連絡をもらった時は、気が動転しちゃって……」

 はぁ、とため息を吐き出して額に手を当てる姿に、本当に心配してくれていたんだと感じる。
 こんなに楽しそうな家庭を持って、母はきっと今、幸せなんだと思う。あたしの知っているあの頃みたいに、怒っている姿は全然見えないから。小さな子供たちと笑い合って、旦那さんとも呆れながらも楽しそうにしている。
 きっと、あの時あたしを捨ててここにいることを選んだのが正しかったんだ。だから、きっと今母は幸せでいるんだと思う。

 だけどさ、どうしても聞きたいことがある。
 お母さんは、なんで……

 カップを持つ手が震える。声も、震えているかもしれない。

「どうして、あたしのことを捨てたの?」

 コンソメスープの中の四角く揃って切られた野菜を見つめながら、あたしはゆっくり言葉を口にする。波紋を立てながら揺れる黄金色は透きとおるほどに綺麗だ。

「要らなかったから?」

 あたしが、泣いてばかりいたから?
 母の気持ちがなにも分からなかった。どうしたら、そばにいてくれたんだろうって、失ってからたくさんたくさん、考えた。
 でも、答えは見つからなかった。
 あたしが悪かったんだ。あたしなんて要らなかったんだ、だから捨てたんだ。
 そう思うしかなかった。

「ごめんなさい。ごめんね……ごめん。全部、あたしがちゃんと泣けなかったから……」

 隣で、母も震えた声を出す。
 もしかして、泣いているのかな? そんなことを思ったけれど、確かめるのが怖い。
 すでに目尻に涙を溜めて泣きそうになっているあたしに、またいつものようにあの言葉を吐き出されたらと思うと、怖くなる。

「なーにお通夜みたいに暗くなってんのー?肝試しでもやる気? 俺おばけ無理だからそれだけはやめてーっ!!」

 ケラケラと笑いながら、いきなり現れたのは西澤くんのお父さん。
 片手に缶ビールを持って、虚ろな目をしている。完全に酔っ払っているようだ。
 驚きすぎて、涙なんかなかったみたいに一瞬にしてどこかへ引っ込んでいってしまった。

「ママどうしたー? また泣きたくなってんじゃない? ほら、おいでー、泣きたくなったら泣いていいんだよ。俺がぜーんぶ、受け止めてあげるからね」

 両手を大きく広げて母の前に立つ姿は、本当に全てを受け止めてくれそうに大きくて広く見えた。そっと、隣に見上げた母の横顔は、困ったように眉を顰めつつも優しく微笑んでいる。
 西澤くんのお父さんは、なんだか、西澤くんみたいだ。親子なんだから似ていて当たり前なのかもしれないけれど……

「パパーっ」 

 後ろから聞こえて来た声に振り返ると、一気に走ってきて、ぽふんっと西澤くんのお父さんの足元に抱きつく花ちゃん。しゃがんで花ちゃんのことを抱きしめている。

 母は、バーベキューの準備を始めるようにと、みんなを促し始めた。
 座ったままでいたあたしのところへ戻って来ると、少しの沈黙の後に口を開いた。

「涼風のお父さんはね、どうしようもない男だったの。泣いたって許してくれないし、怒ったって悪いことを認めようとしなかった。離れるしか、なかったの……」 

 西澤くんたちを遠目に見守りながら、ゆっくり話す母の言葉に耳を傾けた。

* * *
 涼風の父は、浮気を繰り返すクズでダメな男だった。

 妊娠がわかって涼風がお腹にいた頃には、すでに他にも関係を持つ女がいた。
 浮気をしていることは気が付いていたけれど、どうすることも出来なくて、だけど、この子のためにもあの人のためにも、父親になってくれるように説得した。もしかしたら、我が子が産まれれば変わってくれるんじゃないかと一縷の望みをかけて。結婚を懇願した。

 だけど、あの人は子供が産まれても何も変わらなかった。

 お義母さんは「こんな息子と結婚させてしまってすみません」と何度も謝ってくれた。
 結婚後は、機嫌のいい時は一緒にいてくれたけれど、あの人が家にいることはほとんどなかった。

 泣きたくても泣けない。
 そんな状況が続いて、正直もう、耐えられなかった。苛立ちが募って、涼風にまでキツく当たるようになっていたのは、私自身がよく分かっていた。

『泣いたってしょうがないでしょ!?』

 その言葉は、自分への戒めみたいなものだった。
 もうずっと、こんなに我慢してる。なのにどうして?
 どうしようも出来ない感情の吐き口が、抜け出す場所がどこにもなくて、涼風が泣くと、苛立ちと共につい、口をついて出てしまっていた。
 またやってしまったと、何度も後悔に苦しんだ。
 震える体で、目にたっぷりと涙を溜めて、それでも「お母さん……」と言って縋りついてくる涼風のことを、抱きしめてあげる余裕すらなかった。もう、自分が母親である事にすら、自信を無くしていた。
 このままの感情で、ここから離れて一緒に涼風を連れて行ったとしても、きっとまた怖い思いをさせてしまうと思った。

 だから、一人で離れることを決めた。
* * *

 話し終えて、見上げた母は泣いていた。
 月明かりが照らす横顔は、悲しいほどに苦しそうに見える。
 そして、あたしの方を見て、まゆを精一杯に下げた。

「本当に、本当に、ごめんなさい……私は、あなたの母親失格だから……ずっと影から成長を見ていることしかできない、ズルい母親だった……」

 嗚咽が混じるほどに泣く母。
 もう、あの言葉は言わないんだろう。
 だけど、あたしは「ごめんなさい」がほしかったわけじゃない。
 あたしが一番欲しかったのは……

 椅子から立ち上がって、あたしはさっきの西澤くんのお父さんみたいに両手を広げた。

「あたし、ずっとお母さんに抱きしめて欲しかった。そばにいるからねって、言って欲しかったんだよ……」

 込み上げてきた涙が頬を伝う。
 もう、泣いていいんだ。泣くのは悪いことじゃない。西澤くんが教えてくれた。
 目の前が歪んで見えなくなっていく。と、同時に、体全体が柔らかく温かい体温に包まれた。

「涼風、たくさんたくさん、泣いていいんだよね。しょうがなくなんてない。泣きたいなら、泣きたい分だけ泣こう。そしたら、また、前を向いて歩けるから」

 ぎゅうぎゅうに抱き締めてくる母の力は、思ったより強くて。だけど、嬉しくて。あたしは声をあげて泣いた。

 秋の空に、花火の音とバーベキューの煙。そして、虫の鳴く声に混じって、あたしと母の泣き声が舞い上がり、溶けていく。

 花ちゃんや大海くん、大地くんが、「何してんのー?」と、あたしと母に同じように抱きついてくる。みんなでワーワー騒いでいるのを見兼ねた西澤くんとお父さんが、最後にみんなを包み込んだ。

「たくさん泣いたら、次はたくさん笑おうね」

 優しいのは、西澤くんだけじゃなかった。
きっと、母は西澤くんのお父さんに出逢えて、笑顔になれたんだ。
 幸せに、なれたんだ。

 夜空に星が煌めいていく。

 泣き顔なんて、暗がりではもう見えないし、あたしも母も泣いたからお腹が空いたと、みんなで高いお肉や野菜、焼きそばにフランクフルトと、お腹いっぱいになるまでたくさん食べた。

 時刻はあっという間に二十一時を過ぎていて、玄関のチャイムが鳴ったのが聞こえて、西澤くんのお父さんがそちらに向かって行った。
 しばらくして庭に入ってきたのは、おばあちゃんだった。
 嬉しそうな笑顔をしていて、あたしもその笑顔に笑って応えた。きっと、心配させてしまっていたのかもしれない。

「ごめんね、おばあちゃん一人にさせちゃって」
「良いんだよ。涼風ちゃんが楽しそうで安心したよ」
「……うん、みんないい人達だから」

 庭を駆け回っていた花ちゃんは、リビングに敷かれた布団の上で先ほど電池が切れたみたいにこてんっと眠りについてしまった。
 大海くんと大地くんも、そろそろ限界に近い。箸を持ちながら口に食べ物を運ぶけれど、何度もウトウトしては動きが止まっていた。

「じゃあ、そろそろお開きにしようか」

 西澤くんのお父さんが、あたしと西澤くんの前に来て微笑んだ。

「またいつでもおいでね、涼風ちゃん」
「……はい」
「杉崎さん、また明日学校でね」
「……うん」

 おばあちゃんの隣に並んで、あたしは二人に頭を下げた。片付けをしている母に視線を向けて、あたしは一歩を踏み出す。

「お母さん! また来るね!」

 精一杯の大声で伝えると、あたしは返事が返って来る前にと、急いでおばあちゃんの服の裾を引っ張った。

「行こう、おばあちゃん。ごちそうさまでした、おじゃましました!」

 早口で言って、あたしはくるりと踵を返す。
 ククッと後ろで笑う声がしたけれど、構わず歩き出した。

「あはは、涼風ちゃんって、涼花そっくり。さすが親子だわ」

 西澤くんのお父さんの声が聞こえて、立ち止まりそうになったけれど、あたしは足を止めなかった。
 だって、嬉しいと思ったから。あたしは、母の娘なんだ。だから、親子だと言われたことが、嬉しくて、たまらなかったんだ。


 あれから、あたしは大空くんの家に遊びに行くことが多くなった。

「ねぇ! 涼風、俺らのねぇちゃんなの本当!?」

 大海くんと大地くんが、パパに説明を受けたとあたしに詰め寄ってきた。

「大空兄の彼女じゃないの!?」
「え! 結婚するんでしょ!? ねぇ!」

 なんだか、西澤家では色々な誤解が広がっているらしい。大空くんは面倒くさがって「そうそう」としか言わないから、二人はどれが本当なのか混乱しているようだ。

「うるさいから今日は図書館でも行って静かに過ごそう」

 そう言って立ちあがると、大空くんが玄関に向かった。
 外に出ると、大きく伸びをして解放されたみたいに肩の力を抜く姿に、笑ってしまう。
 そして、くるりとこちらを向いてなにやら言いたげな表情をしている。

「本当に、……涼風って呼んでいいの?」
「え? うん、あたしも大空くんって呼ぶし」

 苗字呼びもなんだか友達なのに距離感あったし。あたしは全然構わない。大海くんや大地くんなんか、普通に「涼風」って呼び捨てだ。かわいいから許すけど。

 あの日、あたしが帰った後に、大空くんはお父さんに「なーんで大空だけ苗字呼びなんだよー? 距離感感じるぅ」と、いつものノリで言われたらしい。それを聞いたから、名前で呼び合おうってなったんだけど。

「……涼風……ちゃん」
「いや、《《ちゃん》》は要らないよ?」
「え、だってそっちだって大空くんって、《《くん》》付いてんじゃん」
「……あ、そっか。じゃあ、大空?」
「っ!!……い、いや、やっぱ……無……」

 秋の青空に、ふいっと背けた赤い顔がやけに目立つ。

「涼風ーっ!!」

 後ろから名前を呼ばれて振り返ると、古賀くんが女の子と一緒に歩いてくるのが見えた。
 あれは、間違いなく七美だ。古賀くんの一歩後ろをオーラ全消しで歩いてくるけど、あたしには分かる。

「あれ? やっぱ付き合ってんの? 二人」

 目の前まで来ると、大空とあたしを交互に見て首を傾げるから、あたしは返答に困って笑った。たぶん、今は微妙なラインだから。どちらとも言えない。

「そうだよっ! わりぃか。いくぞ、涼風!」
「え!?」

 いきなり、大空があたしの前に出て、古賀くんに噛み付く勢いで反応するから驚いてしまう。先に行ってしまうから慌てて追いかけた。

「あ、う、うん。じゃあね、古賀くん」

 手を振り、チラリと七美の表情を見ると、安心したようにホッとしているのが見えた。
 モテる人を好きになるって大変だよなぁ。なんて、他人事に感じる。
 でも、古賀くんは思っているより、きっと七美には好かれていると思う。
 だって、古賀くん。本はそれほど好きではないし、読んでると眠くなるって言っていた。それでも、七美が楽しそうに物語の内容を教えてくれる時間はすごく楽しいって言っていた。だから、毎回デートは図書館なんだと思う。
 古賀くんは七美の好きなことを尊重しているんだと思うし、なにより、はっきり好きだって気持ち聞いたしな、あたし。
 思い出して、少しだけ虚しくなる。

「ねぇ、俺今けっこう勇気出したんだけど。ちゃんと聞いてた?」
「……え?」

 先を進んでいた大空がくるりと向きを変えてあたしを覗き込む。
 勇気? ん? なんのこと?
 質問の意味がわからずに考え込んでいると、目の前の大空の顔がどんどん歪んでいく。

「まだ古賀のこと好きなの?」
「……え?」
「俺は、涼風の兄弟とか、なる気ないからな。母さんが同じでも血は繋がってないし! それに、俺は涼風の彼氏になりたいの。そこは覚えてろよ」

 言いながら、どんどん真っ赤になっていく大空の顔。
 あたしが驚いて目を見開くと、大空はくるりと踵を返しまた歩き出す。

「あ! 今、涼風って言ってくれた!?」

 名前で呼んでくれた! しかも何回も。

「いや、それもそうだけどさぁ!」

 隣に駆け寄るあたしに、肩を落とす大空に笑ってしまう。
 だけどね、さっきの言葉、ちゃんと聞こえていたし、伝わっているんだよ。そしてね、なんだかさっきからドキドキが止まらなくなっていて。今度はあたしの方が応える勇気が出ないんだよ。

 帰りまでには、ちゃんと答えるから。あたしも、大空の彼女になりたいって。だから、少しだけ、気が付かないフリをさせてね。



 晩夏光、あの夏の出逢いがきっとあたしの運命を変えてくれた。
 泣かないまま、土の中で一生を終えるところだった。あの日、大空があたしを見つけてくれたから、泣けよって、叫んでくれたから、今のあたしがいるんだ。
 出逢えて良かった。そして、忘れていた夏の日々を思い出せて良かった。

 あたしが君に気が付いて欲しかったんだ。
 願いが通じ合えたから、きっと──

 これから先も、ずっとそばにいてね。


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