いつもと変わらない学校からの帰り道。歩行者信号が赤になって立ち止まった。歩くたびに感じていた僅かな微風が、止まった途端に無になり、猛烈な熱を感じてげっそりとする。
 校舎を出る前に自販機で買ったお茶のペットボトルを口に運び、傾けてゴクゴクと喉を鳴らして飲んだ。
 すぐに汗となって湧き出てくる気がするけれど、仕方ない。喉がこんなに渇いてしまうのは、今日も隣を並んで歩く古賀くんに緊張しているから。日差しが暑くても少しくらい平気なのは、あたしにとっては彼の方が太陽よりも眩しい存在だからだ。

 明日から夏休みが始まる。
 課題なんてそっちのけで、海に、花火に、夏のイベント巡りをして、ふわふわのカキ氷を食べに行って、プールとか海にも行きたい!
 初めて出来た彼氏との夏を満喫するんだ。楽しみで仕方がない。もちろん、古賀くんだってあたしと同じ気持ち、だよね…… 
 チラリと古賀くんに視線をあげると、彼もこちらを見ているから、心臓が早鐘を打ち始める。

「なぁ涼風(りょうか)、俺ら別れよう?」

 あたしを見下ろす彼の表情は、申し訳ないと思っているように眉が下がる。だけど、なんだか軽い感じで言うから、一瞬返事に戸惑う。迷いなんてないみたいに放たれた言葉に、頭の中が真っ白になった。

「……え?」
「ごめん。涼風から告られた時はほんとへこんでたから、あの時は涼風にはそばに居て欲しいと思ったんだけど……やっぱり俺、涼風じゃないなって思ったんだよ。だから、ごめん。別れて」

 パンっと顔の前で手を合わせるから、ますます混乱する。
 この気温のせいかな? 朦朧とする。
 暑さのせいだと思うんだけど、思いたいんだけど、頭がうまく回らない。古賀くんの言葉の意味を理解するのに時間がかかる。
 それに、さっき充分潤したはずの喉の奥がすでに乾き切っていて、言葉も出てこない。
 「じゃあな」と、あたしの返事も聞かずに、青信号と共に歩き出す古賀くん。

 あれ? 行っちゃう。待ってよ。なんで? 別れる? どうして?

 頭の中をたくさんの疑問の言葉が飛び交い、目眩が起こる。追いかけたくても、血の気が引いたように全身が重たくて、足が固まってしまって、うまく動かせない。どんどん遠くなっていく古賀くんの背中が見えなくなった頃に、ようやく、あたしは倒れそうになりながら前に進んだ。

 瞬間────

 激しいクラクションが聞こえたと思ったら、世界が真っ暗になっていた。

 暗闇の中に聞こえるのは、耳をつんざくほどの蝉の(こえ)

 あー、うるさい。
 うるさい、うるさい、うるさい。

 なんであたしばっかりこうなんだ。
 ねぇ、なんで世の中平等じゃないの?
 悪いことがあったら、次は良いことあるよね? それとも、良いことの後って、こんなにも不幸が降りかかってくるの?
 あたし、別にわがまま言ってないと思うし、人の物獲ったり奪ったり盗んだりもしていない。
 それなのに、どうして?

 生温い何かが額に流れ落ちるのを感じる。だけど、もう痛くも痒くもない。
 ただ、あたしは、哀しい。

 うっすらと、ぼやけた視界が瞳に映った。
 夏の陽炎に消えて行った彼の姿を、もう追いかけることができない。
 太陽の熱がアスファルトに反射して、蜃気楼を作り出す。ゆらゆら、世界が蝋燭の炎のように揺らめいている。
 あたしのこの気持ちは、ここに置き去りのまま終わりを迎えるのかな。
 寂しいと言うか、虚しい。こんなあたしはもう要らない。誰にも必要とされていないのなら居る意味がない。

 それならいっそ、生まれ変わりたい。


 目が覚めると、相変わらず蝉の聲が耳をつく。目の前で揺れるクリーム色のカーテン。窓が開いているから、嫌でも外の蝉の聲が室内に響いてきているんだろう。

 周りを見回すと、綺麗に並んだ長机に椅子。いくつも列をなして並ぶ棚には、全て本が収まっている。ふと、目に止まったのはカウンター。そして、入口のドア。
 もしかして、ここって。あたしの通っている学校の図書室じゃないのかな。
 ようやく、立ち尽くしている場所が馴染みのある図書室だと分かり、気持ちが少しだけ軽くなる。ゆっくり、足を一歩踏み出してみた。

 歩くことが出来るし、ここがどこかも分かるし、あたしが誰かも分かっている。
 だけど、一箇所だけ窓が開いていて、カーテンが揺れているから、きっとそこからは風が入り込んで来ているんだろうけれど、あたしの肌が風を感じることはない。
 外でうるさいくらいに蝉が鳴いていて、日差しがジリジリと窓の外から机を焼くように貫いているけれど、暑いなんて感覚もない。

 どういうことなんだろう。
 どうしてここにいるんだろう。

 あたしは、死んでしまったのかな?
 未練たらたらだから、幽霊になってしまったのかな?
 だとしたら、死んでも自分のままでいるってさ、なんだか、罰ゲームだよね。

 窓に一瞬だけ、苦笑する情けない自分の姿が反射して見えた気がして、そう思った。いつもと変わらない制服姿。なんだか、がっかりする。

 ミーン、ミンミンミンミンミーン……

 ああ、さっきからうるさい。うるさい、うるさいうるさいうるさい……
 鳴き続ける蝉に腹が立って仕方がない。
 短い命だよね、蝉って。可哀想。
 そんなに鳴き喚いたってどうせ七日間の命でしょ。それしか生きられないんだから。仕方がないでしょ。

 雲が太陽を横切ったのだろう。途端に室内は影って蝉の聲が遠くなる気がした。

「……そっか、だからか」

 ポツリと、つぶやいてみた。
 なんだかおかしくて、口角も上がる。だけど、気持ちは沈んでいく。

 七日間しか生きられないから、自分の命が短いことを知っているから、だから、必死になって鳴くのかもしれない。
 あたしも、泣いてもいいのかな。
 今まで、泣くことをずっと我慢して来た。
 泣いたってどうしようもないって、思っていたから。

『泣いたってどうしようもないでしょっ!』

 ふいに、記憶の中に響いて来るのは母の声。
 いつだって不機嫌だった母は、怒っていなくても怖かった。父が家にいることは稀だった。だから、あたしは父の顔はよく覚えていない。母だって、泣いているあたしにいつも怒ってばかりで、どんな顔をしていたのかなんて分からない。だけど、おばあちゃんはいっつも、母に「すみません」と、小さな背中を震えさせて謝っていたのは、よく覚えている。
 あたしが三歳の誕生日の日。
 おばあちゃんはテーブルにあたしの好きな海老フライやハンバーグ、たくさんのフルーツの盛り合わせを並べてくれていた。ケーキも買ってきてくれていて、あたしは嬉しくてはしゃいでいた。それなのに、家の中には父も母もいなくて、喜ぶあたしの目の前で、おばあちゃんは「おめでとう」じゃなくて、「ごめんね」と謝ってきた。
 何度も、何度も。
 なんの「ごめんね」なのか、あたしにはわからなかった。おばあちゃんは肩を震わせて泣いていた。

『……泣いたって、どうしようもないんだって』

 母が言っていた。
 だから、あたしは泣かなかった。
 おばあちゃんは、あたしの言葉にますます涙を流してしまった。覆い隠す両手は皺くちゃで、ブラウスの裾をそっと掴んだ。おばあちゃんだけは、あたしのそばからいなくならないでほしいと、あの時、切に願った。

 父はもともと家にはほとんどいなかった。その日を境に、全く存在が無くなった。だから、今では顔も知らない。そして、母もいなくなった。
 ああ、あたしは捨てられたんだ。要らなかったんだ。
 あの日、あたしは単純にそう思ったんだ。

 おばあちゃんがあたしをギュッと包み込んで、抱きしめてくれた。だから、あたしは大丈夫だったのかもしれない。
 捨てられたんだとしても、あたしにはおばあちゃんがいる。だから、大丈夫だって。そう思えていたんだ。

『……おばあちゃんがいつでもついているからね、涼風ちゃん』

 ポタリ。
 床に何かが落ちて跳ねる音がして、視界が歪んだ世界を映し出していたことに気がついた。頬には感覚がないのに、床にポタポタと落っこちていく振り始めの雨みたいな涙が、溢れて流れていた。

 もう、おばあちゃんにも会えないのかな?
 もうずっと、このまま、ここにひとりぼっちなのかな?

 どうしようもない悲しみが溢れ出してきて、感覚のない悲しみが次々と溢れ出て来る。心の奥底に溜まっていた寂しさが、ここぞとばかりに崩壊しているのかもしれない。
 死んだら終わりだ。
 我慢してきたこと全部吐き出して、思い切り泣いて、未練がなくなったら、本当にあたしは死ぬんだろう。

 ひんやりと、急に指の先に冷たさを感じた。
 両手を顔の近くまで上げて、指先を見つめる。
 小刻みに揺れる、細く長い白い指。

 終わり?
 あたしの人生終わりなの?
 まさか、そんなのひど過ぎる。
 あたしが一体何をしたの?
 我慢しすぎたのがいけないの?
 母も、父も、古賀くんも、自分勝手すぎるよ。あたしばかり未練がましい。みんなは、あたしになんてなんの未練もなく離れて行ってしまったのに……

 悲しい。寂しい。虚しい。

 泣いたって仕方ない。
 泣いたってどうしようもない。
 だけど、それ以上に、どうしようもなく、寂しいよ……

 泣いたら負けだ。
 泣いてなんかやるもんか。だって、悔しいよ。あたしばかりこんなに何もかも我慢してる。本当は全部全部偽りだ。家でも、学校でも、どこにいたって、あたしは誰かにそばにいて欲しいから平気で自分の心に嘘をついてきた。
 それがいけなかったのかな?
 だったらどうしたら良かった? 全部素直に気持ち吐き出していたら、変わっていた?
 もう、分かんないよ。分かんない。あたしは、どうしたらいいの?

 誰にも届くことのない悲しみを、心の中でひたすらに吐き出す。
 これで死んで、次に生まれ変わったら、今度は自分勝手に生きてやる。
 我慢なんてしない。あたしがやりたいように、あたしの思う通りに動いてやる。そしたら、こんなに悲しむことなんて無くなるんだろうから。

 「泣いたって仕方ない」
 母の言っていたことは正しいと思う。
 だって、泣いたってこの現状は変わったりなんかしない。

 ようやく冷静に考えられるようになって、湧き上がる悲しみの感情が喉を通り、目元を潤ませ溢れ落ちる前に、手の甲でグッと拭った。

 動くことはできても、何も感じないし、自分以外には触れられない。うろうろと意味もなく図書室を彷徨う。本当に幽霊みたいだ。

 図書室の入り口ドアに手をかけようとするけれど、触れてる感覚がない。幽霊なんだったら、もしかして通り抜けれるかも? なんて想像したけどダメだった。仕方なしに、あたしは元の場所に戻ってきて椅子を引き、疲れた感覚はないものの、気分的にどっと疲れて座って机に突っ伏した。

「……ん? 座れるじゃんっ!」

 テーブルに伸びるように寝そべっていた体を勢いよく起き上げる。
 どうやら机と椅子には触れられるらしい。
 よく分からない自分の身体に、やれやれと呆れてしまう。

 窓の外に視線を向けて、太陽の光を受けた。眩しさは感じることができて、右手で光を遮った。日差しはあたしの掌を、通り抜けてくる。僅かばかり遮られた光に目を細めた。

 すると突然、ガラッとドアの開く音が聞こえて、あたしは驚いて振り返った。

 入り口から誰かが入ってくるのかもと、身を縮めた。コツコツと静かな図書室に足音が響く。

「あっつー、何これ。サウナかよ」

 ボソリと呟く声が聞こえてから、ピッと機械音が鳴った。頭上のエアコンが作動し始めたのが目に入る。

「あれ、窓開いてんじゃん」

 こちらの窓が開いていることに気がついたのか、声を聞くに男の子だろう。徐々に足音が近づいてくる。

 この人に、あたしの姿は見えるのだろうか?

 あたしは、近づいてくる彼のことを恐る恐る見つめていた。通り過ぎるまでの間、目が合うことはない。距離にして数十センチ。
 普通なら、そこに誰かがいるって気がつく距離だ。例え、あたしのことを知らなくたって、目ぐらいは合うだろう。
 そんなことを考えていると、すぐ真横を通り過ぎて、開いている窓に手をかけるから、なんだかとても寂しい気持ちになった。

 彼に、あたしの姿は視えていないんだ……

 あたしにはしっかり見えている彼の姿。そして、あたしは彼のことを、知っている。
 当然、彼だってあたしのことを知っているはずだ。あまり話したことはないけれど、部活熱心でいつも同じサッカー部の男子が周りを囲んでいるイメージの西澤(にしざわ)大空(たいく)くん。
 あたしですらフルネームを知っているんだから、向こうだって知ってくれているはず。いや、一年生の時も確か同じクラスだったし、知っていて欲しいのだが。

 窓を閉めようとして、ふと西澤くんの動きが止まった。

「まだあっついし、冷えるまで開けといた方いいかな……」

 独り言が多い人だなと思って、思わずクスッと笑ってしまう。こちらに気がついて欲しくて、「気付け、気付けー」と念を送りながらじっと見つめてみた。
 カーテンをまとめて留めると、ようやく西澤くんがこちらを振り返った。
 ガッタン!! と、同時に腰を抜かす勢いで窓枠に寄りかかってしまうから、あたしまで驚いてしまった。
 そんな彼とは、今度はしっかり目が合っている気がする。

「……は!? 杉崎さん!? え? いつからいた?」

 思い切り崩れてしまった体勢をゆっくり立て直しながら、顔を赤くして聞いてくる。驚いて腰を抜かしたことが、きっと恥ずかしかったんだろう。
 だけど、あたしだって驚いている。さっきは見向きもしなかったのに、なんで今度は視えているのか。
 不思議に思ったけれど、あたしの名前を知っていてくれたことが、なんだか少し嬉しかった。

「さっきからいたよ?」
「え! そ、そっか?」

 おかしいなと頭を掻く西澤くんは、当たり前のようにあたしの前の席に座った。

「ってかさ、暑くない? 今日夏日更新とか言ってたぞ。クーラーくらい入れろって。窓からの風なんか微々たるもんだろ」

 ワイシャツのボタンを二つ外して、手うちわでパタパタと自分を仰ぎながらこちらを見る。

「……なんだよ?」

 汗の滴る顔で不機嫌そうにして見るから、あたしはハッとして返事を返した。

「あ、いや、西澤くんって、そんな喋る人だったんだ……と、思って」

 なんか、意外だった。
 教室では、確かにサッカー部の男の子たちといつも楽しそうにはしゃいでいるのは見ていたけれど、サッカー部以外の人とはあんまり話しているのを見たことがない。ましてや、女子となんて尚更だ。一人でいる時はイヤホンを付けて、サッカー雑誌片手にノートと睨めっこしていたり、何かを考えているような雰囲気で近寄りがたいイメージだった。

「え? あー……確かに女子とはあんま喋んないかも」
「……え? それってあたしが女子じゃないって言いたいの?」

 なんだかそんなふうに感じで思わず目を細くしてジッと西澤くんのことを見ると、途端に焦り出した。

「は? あ、いや、そんなんじゃないって! 杉崎さんってクラスでもけっこう人気あるし、誰とでも親しみやすい感じだし、話しかけても大丈夫かなぁ……と」

 せっかく引き始めた汗が、また大量に吹き出しているのが目に見えるから、思わず笑ってしまった。

「そーなんだ、あたしって人気者なんだ?」

 当たり障りなく、誰とでも周りの雰囲気に合わせて振る舞っているからね。人気者と言うよりはあたしといると楽なんだろうな、周りのみんなは。あたしは絶対他人の言葉を否定しないから。否定したって仕方がないし、合わせておけば、共感しているふりをしていれば、それだけで仲良くなれる。だから、もし違っていたとしても、あたしは「そうだよね」って頷くんだ。なんにでも。そうやって、周りの子達が離れていってしまわない様にうまく気持ちを偽る。

「成績優秀、美人で優しい、人の悪口言わない、完璧じゃない?」
「おおー、めっちゃ褒めてくれるね、ありがとう」
「いや、みんながそう言ってるから、俺もそうなのかなって思ってるだけ」
「……あ、そう」

 ん? なんか、今の言い方って、俺はそうは思わないけどって感じにも聞こえたんだけど……
 パタパタと手うちわが止まらない西澤くんに、あたしは考え込んでしまうけれど、あたしも西澤くんって人のことはそこまでよく分からないし、考えるのはやめた。
 ようやく冷房が効き始めてきたのか、西澤くんはホッとするような表情をして椅子の背もたれに寄りかかると、寛ぎ始めた。

「で? 西澤くんはここに何しに来たの?」
「……勉強だよ」

 数学の教科書とノート、ペンケースを肩にかけていたトートバッグから取り出して机の上に並べ始めるから、西澤くんがサッカー以外のことをしていることに驚いた。

「杉崎さんこそ、なんでここにいるんだよ?」

 教科書をパラパラと捲りながら西澤くんが聞いてくるから、あたしはすぐ目の前に積まれていた本を手に取って開いた。

「本が、読みたかったからだよ」
「……あ、そう」

 図書室で本を読む。なんて、当たり前なことが口から出まかせのように出た。
 チラリと視線を西澤くんに上げれば、明らかに一瞬眉間に皺が寄る。いや、決して馬鹿にしたわけではない。見て分からないか? と思ったわけでもない。誤解だけはして欲しくないけど、もう言ってしまったものは撤回できない。
 とにかく、あたしは本に視線を戻すことにした。立ち上がった西澤くんは窓を閉めてからペンを手にして、机に向き合い始めた。

 しばらく、静けさの中に蝉の聲しか聴こえなくなる。手にした本を読むフリをしながら、そっと西澤くんのノートを覗き込んでみた。

「あ、そこ。間違ってる」
「へ!?」

 いきなり話しかけてしまったから、驚いた西澤くんの裏返った声に思わず笑ってしまう。

「あたしもよくひっかかるんだよね、その問題。教えようか?」

 別に読みたいわけじゃなかった本を閉じて、西澤くんに近づく。
 あんまり近すぎると、あたしが触れられないことがバレてしまうかもしれないから、気を付けながら。
 気が付けば、西澤くんの勉強を見てあげるのが楽しくなって、いつの間にか時間が経っていたみたいだ。スマホを見た西澤くんが「やば、もうこんな時間だ」と慌て始めた。

「あー……ごめん」

 机の上に視線を落としたかと思えば、西澤くんが急に謝る。

「杉崎さん、全然本読めてなかったよな。明日からもう来ない方が……」
「そんなことない!」
「え?」
「明日もまた……おいでよ」

 このまま一生の別れになるんじゃないかと思ってしまって、焦る。
 もう、あたしはここから出られないかもしれないし、そうしたら、あたしのことを見つけてくれた西澤くんの存在が貴重過ぎるから、出来ることなら、またここへ来て欲しい。

「勉強……教えるから」

 ひとりぼっちは寂しいから。
 誰でもいいの。あたしをひとりにしないで。

「……杉崎さん?」

 心配そうに名前を呼ばれて、あたしはハッとして顔を上げた。必死になりすぎていた自分に急に恥ずかしくなった。

「明日もってか、夏休み中はずっと来る予定だよ。俺も一人よりは気が楽かも。明日もよろしくな」
「……うん」

 明日も来てくれると言ってくれた西澤くんの笑顔に、一気に安心してしまう。
 あたしは、誰かがそばに居てくれないと、寂しくて、悲しくて、潰れてしまいそうになるんだ。

 『泣いたってどうにもならない』

 いつだって母の声が聞こえてくる。
 だから、あたしは泣かない。ギュッと、唇を噛み締めた。

「俺、行くけど鍵は杉崎さん持ってる?」
「あ、う、うん。閉めて行っていいよ」
「そっか、じゃあまたな」
「うん、またね」

 手を振り、西澤くんを見送る。
 明るく照らされていた室内が、急に影を落とした。

 いつの間に時間が経ってしまったんだろう。外は真っ暗な夜になっていた。窓に手を当てると、やはり開けることは出来ない。
 西澤くんがカーテンを纏めてくれたから、窓の外の空を見上げることが出来た。
 杉林の影と星空が半分ずつ見える。降り注いできそうなくらいに、たくさんの光の粒が煌めいている。
 空なんて、ちゃんと見上げたことがなかった。
 真っ直ぐに、ただひたすらに前だけを向いて、毎日毎日、歩くのがやっとだった。

 月明かりがあたしを包み込むように照らし出す。蒼白い光の筋は、悲しみの色に見えた。冷たくて、憂いを帯びていて、寂しい。
 だけど、たとえ月であったとしても、あたしを見て照らしてくれるのならば、ひとりじゃないと感じて、あたしは机に寝そべってそっと目を閉じた。


 朝と共に蝉は忙しなく鳴き始める。うるさいと感じていた昨日よりは、少しだけその音に慣れた様な気もする。

「うっわ! 今日もあっちぃなぁー!」

 ガタガタと軽快に図書室に入ってきた西澤くんは、今日はTシャツに短パンとラフな格好をしている。
 あたしは昨日と同じ席に座って、同じ本を手にしていた。昨晩はいつの間にか眠っていたらしい。気が付いたら世界が明るくなっていて、また同じ様に蝉が鳴く聲で目が覚めた。
 ピッと、機械音が鳴り、やってきた西澤くんはあたしの目の前で大きなため息を吐いた。

「まじ、暑くねーの? 涼しい顔しちゃってさ。俺一瞬にしてシャワー浴びたみたいになってんだけど。外の方がまだマシかも」

 文句を言いながらも昨日と同じトートバッグを机の上に置くと、迷うことなく窓を開け放つ。
 一気に外の風が入り込んで、机に置いてあったプリントが一枚飛んでいった。あたしは慌てて押さえようとしたけれど、簡単にプリントは手をすり抜けていってしまった。

「あー、涼し……くねぇ!!」

 一瞬だけ風を浴びて喜んだかと思えば、次の瞬間には怒っている。

「あっつ! 何この熱風。地獄? ここ日陰だよね? 日陰地獄?」

 まとめていたカーテンを解いて、暑さはあるものの太陽の角度が低いから光はまだ入り込んでこない窓に蓋をするように西澤くんは閉めた。
 そして、考え込むように顎に手を置き、悩み始める姿に、あたしは首を傾げた。

「どうしたの?」
「いや、カーテン引いた方が涼しいのか、引かない方が涼しいのか、どっちだろうなと思って」
「……あ、そう」

 そんなことで悩んでいたのか。
 あたしが呆れたように返事をしてしまうと、西澤くんがこちらを振り返った。

「今、そんなことで悩んでんのかって思っただろ?」
「え!?」
「ははっ、図星かよ」
「あ、いや、そんなことは……思ったけど」

 笑う西澤くんに、あたしは焦りながらもしゅんとしてしまう。

「なんだ、素直じゃん」
「……え?」
「そんなこと思ってない。で、突き通すかと思ったのに。やっぱ俺のこと少し馬鹿にしてるよね?」
「え! 馬鹿になんてしてないよ!」
「そっか? ならいーけどさ」

 西澤くんは少し不機嫌そうに、「やっぱりー……」と悩んでからカーテンを勢いよく開けた。

「開けた方が風が来る気がする。微々たるもんだけど、ないよりマシか。ってかさー、さっきからよく鳴くよねー、うるさ」

 外に身を乗り出して杉林を見上げる西澤くん。彼の耳にも、蝉の聲は耳障りらしい。
 あたしにだけこんなにうるさく聞こえているんじゃないかと思っていたけれど、なんだかホッとする。
 蝉だってきっと必死なんだ。
 短い命に、「可哀想」の言葉だけじゃ、きっと報われない。
 あたしだって、もしかしたら、事故に遭って「可哀想」で終わってしまう人間なのかもしれない。蝉みたいに命の寿命が分かっていたら、あたしだってなりふり構わずに全力で泣き喚いていたかった。

「蝉ってさ、七日間しか生きられないんだよ」

 ぽつり。と、ふいに出てしまった言葉に、西澤くんが振り返る。

「……知ってる、けど?」

 眉根を歪ませ不満そうな表情に、あたしはハッとして苦笑いする。

「ほら、やっぱり馬鹿にしてんだろ、俺のこと」
「し、してない! してない!」
「……まぁ、いっか」

 細い目であたしをじっと見た後に、落ちてしまったプリントを拾い上げて、諦めるように西澤くんは席に着いて教科書を広げ始めた。
 邪魔をするつもりはないんだけれど、話していたくてあたしは西澤くんに声をかける。

「西澤くんは偉いね、部活も勉強も両立させていて」

 あたしなんて、なにもなかった。
 とくにやりたいこともなくて、チームとか仲間との馴れ合いも面倒に感じた。
 友達との関係性だって、気まずくなりたくないから、当たり障りないように上手くやっているんだ。だから、そんなあたしが部活なんて入ったら、ますます気を遣ってしまう。ぜったいに疲れそうだと思って、どこの部にも所属していない。

「あー……まぁ、な」

 歯切れの悪い返事が返ってきて、少し気になった。

「……なにか、あった?」

 こういう時は、あまり深入りしない方が良いんだけど、今は関われる人が西澤くん以外にいないし、別の意見が出てくるわけでもないから、興味本位でなんとなく、聞きたくなったのかもしれない。

「部活は、もう引退したよ」
「……え、そう、なんだ」

 寂しげに笑う西澤くんに、驚いてしまう。
 まだ二年生の夏休みだ。それなのに引退って、なんで? 素直に疑問に思ってしまった。
 サッカー命でいつもサッカーの話題ばっかり話しているようなイメージだったから。単純に「どうして?」と、聞きたくなった。
 だけど、西澤くんの表情を見ていると、あたしが簡単に聞いてしまっていいような話じゃない気もする。何も聞けずに黙り込んでしまっていると、西澤くんの方から切り出してきた。

「足さ、やっちゃって。もうだいぶ良いんだけど、サッカーはやるなって。大会にも出るなって、言われてさ」

 戸惑うように目を伏せながら、西澤くんが重たそうに口を開いた。なんだか、声が震えているような気がして、胸がギュッとなる。

「……足?」

 机で隠れてしまっている西澤くんの足を見ることはできないけれど、ペンを机の上に放した手が、膝に触れているように見えた。

「俺からサッカー取ったらなんも残んないし。なんかもう、どうでも良くなっちゃってるんだよね」

 はは、と渇いた笑い声をあげるけれど、とても弱々しくて切ない。
 こんな西澤くんは、見たことがなかった。
 教室では明るくて落ち込むことなんてあるんだろうかと思うほど前向きで。サッカーに命賭けてますっていうのが、サッカーのことなんて何も知らないあたしにまで伝わってきていた。

 古賀くんもだけど、男の子って、一つのことに夢中になると、その勢いがすごいなって感じることがあった。
 あたしにも、それくらい夢中になれることがあったら、って思うけれど、実際には何も見つからないし、そもそも、あたしなんかを必要としてくれる人や物なんて、この世にはないんじゃないかってすら思っている。

 あたしだったら、そんなに落ち込むならやらなきゃよかったって思う。そんなに悲しむなら、最初から本気にならなきゃよかったって思う。結局、最後は後悔するんだもん。
 寂しいとか、悲しいとか。そんな感情を巻き起こす起爆剤になり得るものは、なるべく排除して生きていきたい。

「サッカーなんて、しなきゃよかったね」

 失敗して、結局行き着くのはなんだってここだ。初めから手を出さなきゃよかった。古賀くんのことだって、いくら強がったってあたしは後悔している。上手くいくなんて、一瞬でも思ってしまった自分が恥ずかしくて、惨めだ。
 思い出して悔しさが込み上げてくるから、あたしはきゅっと唇を噛んだ。

「いや、それは思ってないよ」
「……え?」
「サッカーなんてしなきゃよかったとは、俺は思わないよ」

 顔を上げて西澤くんの方を見ると、彼はふわりと笑っている。さっきまでの悔しそうで、切なそうな顔はもうしていない。

「サッカーがなかったら、俺ここまでの人生多分全然楽しくなかったし」
「……人生?」
「あ、ちょっと大袈裟? でもね、マジで怪我した時は絶望だった。一生懸命仲間たちと優勝するために頑張ってきた大会に出られなくなったんだ。落ち込むどころじゃない。本当は、すっげぇ、悔しい……」

 はぁ、と西澤くんが大きなため息を吐き出すから、あたしは我に返るようにパチクリと瞬きをした。
 頭を抱えるように落ち込んだかと思えば、ガバッと顔をあげるから、反射的にあたしはビクッと肩を振るわせた。

「あー、ごめん。こんな話、別にどうでもいいよな」

 笑いながらペンを動かして謝るから、あたしは首を横に振った。

「やっぱり、西澤くんはすごいよ」
「え? なにが?」
「すごいってば!」
「……あ、そう?」

 勢い余って立ち上がってしまったあたしに、西澤くんが圧倒されているのを感じてハッとした。何をムキになっているんだろう。
 今まで、「仕方がない、仕方がない」って、あたしはそう思うしかなかった。悪いことがあれば、それは「仕方がないこと」だと。きっと、次はいいことがあるだろうと、そう思うしかなかった。ずっと、そうやって生きてきた。
 もう一度、音も立てることなくあたしは椅子に落ちるように座る。

「俺のサッカー人生は、とりあえずここで一旦休憩って感じかな」

 パラパラと、今日は数学ではない教科書を捲り始めた西澤くん。

「とりあえず、この休憩期間がある事がラッキーだと思って、サッカーの技術以外の勉強でもしようかなって。そしたら、試合で貢献できなくても、チームの奴らの助けになれるかもしれないし、また、仲間に戻れるかもしれないから」

 窓から差し込む日差し。太陽の位置が変わったんだろう。西澤くんのことをキラキラと輝かせるように優しく照らすから、その姿にあたしの心臓はドキドキする。と、同時に虚しくもなる。
 彼のまっすぐなサッカーへの信念が眩しくて、何にもない空っぽな自分がちっぽけで、消えて無くなってしまいたいと思った。

「ってかさ、杉崎さんってこんな面白い奴だったんだな! もっと早く話しかけてたら良かった」

 太陽の光を背に笑う西澤くん。
 暗くなっていくあたしの心を照らしてくれているみたいで、なんだか空っぽで寂しかった気持ちが、少し埋まっていくように感じた。

「夏休み中は杉崎さんもずっとここにいんの?」
「え……あ、うん」
「じゃあ、退屈しないで済みそうだな」

 ニンっと歯を見せていたずらに笑うから、思わず沈みかけた気持ちが湧き上がって、笑いに変わる。

「何それ、あたしのこと勉強の合間の暇つぶしにする気?」
「あ、ひでぇ、俺そこまで言ってないけどー! 邪魔はしないからさ、よろしくな」

 静かな図書室に、二人だけの笑い声が響く。
 さっきまで鳴いていた蝉の聲が、遠くに感じる。もう、一人じゃない。

 西澤くんと図書室で会うようになってから、五日が過ぎた。

 毎回冷房の入っていない図書室にうんざりしながら入ってきては、先にいるあたしに「クーラーのスイッチくらい入れといてよ」と、小言を言うようにまで打ち解けてきた。
 だけど、あたしはクーラーのスイッチは入れることができない。なぜなら、あたしが実体のない……たぶん、幽霊だから。
 リモコンに触れる事ができないのだから、当然ボタンを押せるわけもなく、本当なら涼しくしておいてあげたいところなんだけど、残念ながら西澤くんが来てから自分でスイッチを入れるしかないのだ。
 悪いとは、思っている。だけど、仕方ない。
 仕方ないって、便利な言葉だな。

 そんなことを考えて本を読んでいるふりをしていると、珍しく今日は教科書もノートも開かずに西澤くんはずっと机に寝そべっている。顔は向こうを向いているから、起きているのか寝ているのかは分からないけれど。
 じっと西澤くんの様子を伺っていると、一定のリズムで肩が上下にゆっくり動いていて、寝息のようなものが聞こえてくる気がする。もしかして、寝てる? そう思った瞬間、むくりと起き上がるから、あたしは慌てて本に視線を落とした。

「……あれ? やば、本気で寝てた?」

 キョロキョロとここがどこかを確かめるようにあたりを見渡し、ようやくあたしを捉えて聞いてくる。

「……たぶん、寝てた、と思う」

 寝息が聞こえたし。

「あー、やっぱり」
「え、まさか、家でも遅くまで勉強とかしてるの?」

 好きなことに夢中になれるって、集中力もすごそうだし。もしかして、西澤くんって、めちゃくちゃ勉強家なんじゃ……

「まさか! しないよ、勉強なんて」

 ケラケラと笑う西澤くんの返答に、あたしは見当違いな考えをしていたと苦笑いする。

「うちさ、弟二人に妹一人いてさ」
「……え?」
「しかもまだ三人とも小さくてさ。弟たちは小一と小三でかなりやんちゃ。一番下の妹なんて二歳だからめちゃめちゃかわいいよ」
「え! 二歳? ちっちゃ!」

 あたしの知り合いには小さい子供はいないし、もちろん兄弟もいないから、二歳の子供のイメージは小さい以外に想像がつかない。

「うん、めっちゃ小さい。手とかぷにぷにしてて繋ぐと離してくれないし」
「へぇ……」

 思い出しているのか、西澤くんの顔が若干だらしなく下がっている気がする。あたしの反応に、自分がデレていたことに気がついたのか、西澤くんは咳払いをしてから姿勢を正した。

「とにかく、そんな弟と妹たちの面倒見てて寝不足なだけ。家でなんて宿題も出来ないし、ここに来るのはまぁ、あいつらから逃げて休みにきてるようなもんかな」
「……そう、なんだ」

 恥ずかしげもなく大きな口を開けてあくびをする西澤くんに呆気に取られていると、涙が滲む目尻を拭ってからこちらを見てくる。

「杉崎さんはいるの? 兄弟」
「え……いや、いない……けど」
「そっか、まぁ、でもここ落ち着くよな」

 窓の外に視線を向けて、西澤くんはため息を吐き出した。

「あのさ、西澤くん」
「ん?」
「今日って、何月何日?」
「え? あー、と」

 あたしの質問に、西澤くんがポケットからスマホを取り出す。

 図書室に時計とカレンダーはあっても、デジタルで日付表示されているわけではないから、あたしには今がいつなのかも分からなかった。
 時間はどんどん過ぎていくのに、あたしはずっとここにいる。
 もしかして、一生このままで、夏休みが過ぎて西澤くんがここへ来なくなったら。学校が始まってたくさんの人がまたここを利用するようになったら、あたしはどうなってしまうんだろうかと、少し不安になった。

「今日はねー、二十六日。うっわ、もう夏休み終わるじゃん!」

 日にちを見て驚く西澤くんに対して、あたしは実感がない。

「……え? 七月?」

 あたしが事故に遭ったのは、夏休み直前の修了式の後。たしか、七月の二十日前後だった気がする。

「え? 何言ってんだよ、八月でしょ」

 もう、あれから一ヶ月も経とうとしてるってこと?
 西澤くんがあたしに気が付いてくれてからは、まだそんなに時間が経っていないのに。

「夏休みって、いつまでだっけ?」
「八月三十一日まででしょ。あ、でも今年は九月一日が日曜日だから、二日までかな」

 ラッキーとスマホを見ながら笑う西澤くんの姿にあたしは言葉が見つからない。聴こえてくる蝉の聲が、一際大きくなった気がして、不安を感じた。
 夏休みが終わるまで、あと七日間。
 蝉の寿命は七日間だ。

 もしかしたら、こんなに煩わしくて、鬱陶しくて、うるさいと感じるのは、あたしもあと七日間しか、猶予がないからなのかな。

 いや、待って。猶予って……なんだろう。
 命の? あたしはまだ生きているの? 死んじゃったの? それすら全然わからない。
 誰にも聞けないし、教えてもらえない。西澤くんにはあたしが事故にあったことを知っているかなんて、そんなこと聞けないし。仮に知っていたとしたら、きっとなんでここにいるのか逆に聞いてくるはずだ。
 それをしてこないのは、きっと彼があたしが事故に遭ったことを知らないからだと思う。

「それにしても暇だなー」

 脱力したように机に寝そべって、西澤くんがため息を吐き出すのと同じように言った。
 今日は本当になにもやる気がないようだ。

 きっと、夏休み中の課題もとっくに終わっているんだろうし、勉強嫌いな人がいくらサッカーの知識を得ようと勉強したとしても、やはりスポーツは自らの体を動かしてこそ勉強になるものなのかもしれない。座学で文字ばかりを見ているのも、きっとそろそろ限界なんだろう。

「西澤くんは、彼女とかいないの?」

 部活ができないなら、もうそこは割り切って彼女でも作って夏を満喫したらよかったのに。
 あたしだったら絶対にそうする。と言うか、そうしようと思っていた。それなのにフラれて、事故って、マジで最悪だ。
 窓の方を向いていた顔が、くるりと机に寝そべったままこちらを向く。

「なぁ、それ聞く?」

 眉間による皺、やっぱり不機嫌そうな顔をするから、あたしは苦笑いしかない。

「まずさ、彼女とか面倒くさい」

 本当に嫌そうに顔を歪めるから、驚く。

「へぇ、意外かも。サッカー部ってモテるイメージがあるから」

 クラスで西澤くんのことをカッコいいと推している子を数人知っている。ただ、一方的に想っているだけで、確かに告白したとか彼女になれたとか、そんな話は聞いたことがない。
 まぁ、あれだけサッカー命だと豪語していれば、女子も近付き難いところはあったけれど。

「モテねーって、周り男ばっかだし」

 教室では常にサッカー部男子が一つの机に集まってワイワイやっているのは知っている。男同士の戯れ合いはたまにみるけれど、そこに女の子の姿が混ざるのは、確かにあまり見たことがない。

「そーなんだね、でもさ、意外とモテてるよ? 西澤くん」
「……は!?」

 あたしの言葉に、ガバッと勢いよく起き上がるから、あたしは驚く。

「ん、んなわけねーって」

 何故か顔を真っ赤にしながら怒る西澤くんがなんだか可愛くて笑ってしまう。

「なんだよ、笑うなよ」
「あ、ごめんね」

 とは言いつつも、あたしはまだ耳が赤くなっている西澤くんに口元がニヤついてしまう。
 もしかして、西澤くんって女子に免疫ないのかな。そんなことを思いながら、つい揶揄いたくなってしまった。

「彼女いたことあるの?」
「は?」
「もしかして、ない?」
「は!?」

 あたしが問い詰めるほどに焦り出す西澤くんが、ますます可愛く見えてきてしまう。

「好きな人は?」
「……いねぇよ!! 悪いか!」

 恥ずかしさの頂点にきてしまったのか、半ばやけになって叫ぶ西澤くんは、顎に手を付きそっぽを向いてしまった。

「別に悪くはないけど……」

 やり過ぎたのを反省して、あたしは椅子に座り直す。
 あたしだって、つい最近初めての彼氏が出来たばかりだったし、いないことが悪いとかそんなことは思っていない。

「そっちこそ」
「え?」
「そっちこそ、いるのかよ? 毎日毎日ここに来てるし彼氏がいればこんなとこ来ないでしょ?」

 怒ったかと思えば、あたしにも彼氏の存在がないんだろうと決めつけてくるから、少しだけムッとしてしまう。

「いるよ? あたしの彼氏、バスケ部エースの古賀くんだよ」

 もう、フラレちゃってはいるけれど。

「へ!? あのイケメン古賀!?」

 目を見開いて驚く西澤くんの反応が、なんだか嬉しい。

「そうそう、あの、イケメン古賀くん」

 男子からもイケメンだと認知されているのは知っていたけど、西澤くんの口からイケメンと言う言葉が出てきたのが面白かった。思わずクスッと笑ってしまう。

「へ、へぇ……古賀ねぇ、ふーん」

 あたしにも彼氏がいないで欲しかったのか、仲間だと思ったのに裏切られたみたいな顔をしているから、さらに笑ってしまう。

「お似合いじゃん? 美男美女で。頭もいいし、スポーツも出来るし、なんだよ、どこも欠点ねーじゃん」

 不貞腐れるみたいに口を尖らせる西澤くん。
 普段だったら、きっと、と言うよりも、絶対に言わないんだけど、なんでだろう。自分が生きているのか死んでいるのかもわからないし、明日があるかもわからないからかな。なんだって暴露したくなってしまった。

「……でもね、もう。ダメかな……」
「……え?」

 きっとこんな話、もう聞いてくれるのは西澤くんしかいないのかもしれない。もしかしたら、あたしは蟠りを残したまま成仏できずにいるのかもしれない。だったら、いっそ全部、吐き出してしまえたら楽になるのかもしれない。そう思うと、止まらなくなる。

「別れようって、言われたんだ……まだ付き合って一ヶ月も経ってなかったのに。これから夏が来るって時に。やりたいことたくさんあったのになぁ。花火とか、プールとか、かき氷デートとか! あーあ、ほんっと、残念」

 あの日、思い描いていた彼氏との最高の夏休みが、全て打ち砕かれたんだ。ゆらゆら揺れる陽炎の古賀くんは、あたしの目の前から消えていなくなった。
 いや、居なくなったのは、あたしの方か……
 悲しい。よりも、悔しいが残るな。だから、未練がましく幽霊になってしまったのかな。

 ため息を吐き出して、ふと西澤くんに視線をあげると、ものすごく気まずそうな顔をしていた。
 あたしは言いたいことが言えて少しだけスッキリ出来たから、まさか西澤くんがそんな顔をしてくれるなんて思わなくて、驚いた。

「……それは、辛かったな。だから俺のこと引き留めたのか。ようやくなんか、繋がった」
「……え?」

 納得する様に、西澤くんが長めの前髪をかきあげる。

「だって、そもそもこんなとこに毎日来てる理由も分かんなかったし、友達多いはずなのに俺以外にはここにいること教えたりしてないんでしょ? 失恋の痛手ってやつ? 一人になりたい時だってあるよな」

 あたしの辛い思いを分かってくれようとしているのか、西澤くんが言葉を濁しながらあたしを気遣ってくれるから、なんだか気まずい。
 黙り込んでしまうと、途端に外の蝉の聲がまたうるさいくらいに室内に響いてきた。

「もっと、言いたいことあるなら吐き出していいぞ」
「……え?」
「なんか、まだ言い足りないって顔してる」
「え……ほんと?」

 思わず自分の顔に両手を当てて、あたしは俯いた。あまり素直に吐き出しすぎちゃったのかもしれない。きっと、西澤くんは言いふらしたり揶揄ったりはしてこないんだろう。真面目な顔を向けてくるから、なんだか嬉しかった。
 だから、古賀くんとのことを、自然と話してしまっていた。


 特別本が好きとか、読みたい本があるわけじゃなかったけれど、図書室は好きだった。
 静かで落ち着くし、本を開いていれば誰もあたしに話しかけてこない。人と距離を置きたい時は、決まってここに来ていた。
 古賀くんと出逢ったのも、図書室だった。

 普段はバスケ一筋で、授業の移動時間に教科書とノートを脇に挟むと、廊下の向こうにゴールを定めて右手首を返す姿を見ては、かっこいいなと思っていた。
 昼休みもバスケットボールをそばに置いて、食べ終わるとすぐに中庭に向かって行って友達とパスやドリブル練習をしていた。
 そんな古賀くんが、ボールの代わりに一冊の本を手にして、椅子にも座らずにその場で立ち尽くして本を読む姿に、あたしは驚いたのと同時に、胸がギュッとなった。

「古賀くんって……本、読むんだ」

 思わず声をかけてしまって、驚いた古賀くんが照れたように笑うと人差し指を口元に置いた。

「俺が図書室いたこと、内緒な、杉崎」

 爽やかな微笑みに、あたしは一気に恋に落ちた。
 古賀くんには彼女がいると、噂では聞いていた。だから、あたしは芽生えてしまったこの気持ちはそっと胸の奥にしまっていた。
 気が付けば目が古賀くんを追っていて、見えないところでは何をしているんだろう? 今どこにいるんだろう? 誰と話しているんだろう? 彼女と一緒なのかな? って、頭の中がいっぱいになってしまって、仕方がなかった。
 完全なる、あたしの片想いだった。

 彼は誰にでも優しいしモテるし、狙っている女子は先輩後輩関係なくたくさんいた。
 そんな中、またとない吉報が友達の口から語られる。

「古賀くん、彼女と別れたらしいよ」

 チャンスだと思った。
 だって、古賀くんが図書室に来ることはあまり知られていない。
 毎週水曜日。バスケ部の練習が早く終わる日、彼は必ず図書室に現れる。
 ここまでくると、ちょっとストーカーぽい気もするが、そこは恋する乙女の情報収集だから、仕方ないと割り切ってほしい。
 思惑通りに水曜日の放課後、彼は図書室にいた。いつも手にしている本は何だろうかと、気になっては聞けずにいた。もしも、古賀くんと付き合えることになったら聞けばいい。それを楽しみにしておくのも悪くない。そう思いながら。
 そうして、高校二年の春、彼女と別れた古賀くんが本も持たずに哀しげな顔で図書室の隅に座っているのを見つけて、声をかけた。

「古賀くん。あたし、ずっと古賀くんのこと気になってて……それで……」

 いざ、本人を目の前にすると、肝心な言葉が出てこない。一気に恥ずかしくなって、顔に熱が集中するのを感じた。でも、言うなら今しかないと思った。

「好き……です!」

 古賀くんの顔がちゃんと見れなくて、視線を古賀くんの手元に落としたまま、あたしはキュッと両手を握りしめた。

「……まだ傷心中なんだけど、それでもいい?」
「……え!」
「俺、杉崎にそばにいてほしいかも」

 視線を古賀くんへあげると、泣きそうな彼の笑顔に心臓を撃ち抜かれた。
 大好きだ。ほんと、カッコ良すぎる。
 そうして、古賀くんはあたしの彼氏になった。

 まだ夏は始まったばかりだった。
 それなのに、どうして?

『やっぱ涼風じゃないなって思ったんだよ。だから、ごめん。別れて』

 やっぱりってなに? あたしじゃないって、それって、誰かと比べていたってこと? 全然古賀くんの気持ちが分からない。
 だけど、あたしが告白した日、「傷心中だけどいい?」って問いに、あたしは頷いたんだ。
 まだ、元カノとの傷が癒えていなかったのかもしれない。だから、仕方ない。うん、仕方ないんだよ。そんなの諦めるしかない。もう追いかけることだって出来ないんだから。

 気がつけば、古賀くんを好きになったところから別れて事故に遭う直前のことまで全部、話してしまっていた。

「じゃあ、夏休み入ってからはずっと会ってないの? 古賀と」
「え……あー、うん」

 会ってないと言うか、会えないと言うか。
 そこはどう説明して良いのか分からずに濁してしまった。

「夏休み明けに会うのも気まずい感じ?」
「え……」

 そもそも、あたしの夏休みは明けるのだろうかと、考えてしまう。
 古賀くんと顔を合わせる以前に、あたしはもうこの世には存在していないのかもしれないんだ。そしたら、きっと西澤くんのことを驚かせてしまうんだろうな。

「もし、さ、なんか気持ちが沈むようだったら、俺に話しかけてよ」
「……え?」
「あ! いや、えっと、ほら、合図みたいなの送るとか」
「合図?」
「うんうん、古賀と顔合わせたくないって時。俺が全力であいつの前に壁作るから」
「……壁」

 熱量が徐々に上がっていく西澤くんに、あたしは身長一八五センチの古賀くんにディフェンスする推定一七五センチの西澤くんが全く太刀打ちできていない姿を想像してしまう。

「あ! 今俺の身長じゃ、あいつなんかに敵うわけないって思ったろ?」

 悔しそうに目を細めるから、素直に頷いてしまう。

「バスケじゃ勝てねーけど、あいつが飛ばしてきたボールは絶対ゴールには入れさせないってこと!」

 その場合のゴールはあたしのことだろうか。

「ああ! なんか自分でも何言ってんだか分かんねえ」

 ガシガシと頭をかく西澤くんに、あたしは声を出して笑ってしまった。

「ありがとう。何かあった時は、頼りにしてます」

 今は西澤くんしかあたしにはいないから、これは心からの本音だ。
 軽く頭を下げてまた笑うと、西澤くんが手にしていたスマホをこちらに向けてきた。
 なんだろうと首を傾げていると、困ったように眉を顰めたかと思えば、何か決心したような瞳を向けてくる。

「あの、さ。良かったら、連絡先……とか、教えてもらったり……」

 言いながら、徐々に赤くなっていく顔に驚きつつも、あたしまで生き返ったみたいになんだか心臓が脈打つ。
 温度も風も感じないのに、あたしの中の気持ちだけは素直に反応している。
 だけど、残念ながら今あたしはスマホを持っていない。西澤くんがあたしを見つけてくれてからだいぶ仲良くなったし、普通にちゃんとした状態だったら、すぐにでも教えてあげるんだけど、今はそれができない。

「……えっと、ごめん」

 謝るあたしに、西澤くんがすぐにわざとらしく笑う。

「えー! あ、いや、こっちこそごめん! 嫌だよな、うん、気にしないで」
「あ、あの、嫌とかじゃなくて……スマホ、持ってきてなくて」
「……え?」
「スマホ、うちに忘れちゃって」
「あ、そう、なんだ」

 ほっとした顔をする西澤くんに、なんだか心が痛む。

「じゃあさ、クラスのグループメッセージに杉崎さんも参加してたよね? そこから個人的に繋がってもいい? 古賀のことで言えないこととか聞くからさ、いつでも連絡ちょうだいよ」
「……うん、ありがとう」

 西澤くんの優しさが嬉しかった。だけど、あたしからメッセージを送ることは出来ない。そして、夏休みももう終わってしまう。
 考えるとなんだか寂しくて、消えてしまいそうになる。
 西澤くんに見つけてもらって、たくさん話をして、古賀くんに振られたことはもちろん悲しいけれど、心の中はやけにスッキリしている。
 もう思い残すことはないかもしれない。
 あ、おばあちゃん。おばあちゃんのことだけは、気がかりだな。一人ぼっちにさせてしまってごめんって、謝りたいな。


 西澤くんが帰ってから、夜が来るたびに寂しさが募っていく。昼間の時間があまりにも有意義すぎて、自分の置かれている現状を忘れさせてくれていたから。
 だから、余計に夜になると自分はどうしてここにいるのか、一生このままなのか、明日にでも消えてしまうのか、考えるだけでも怖くて、寂しかった。
 いっそ、西澤くんには正体をバラしてしまっても良いんじゃないかなとか、どうしたって考えてしまう。そんなことを言われたって、困るのはきっと、西澤くんだ。あたしだけが聞いて欲しいからって自分のことばかり話すわけにはいかないのに。

「へぇ、おばあちゃんと二人暮らしなんだ」
「うん、そうなの」
「じゃあ、家のこととかみんなやらなきゃない感じ? 大変じゃない?」
「え? ううん。全然。おばあちゃんが優しすぎるからみんなやってくれるし、甘えすぎてると思ってるよ」
「そうなんだ!」

 おばあちゃんは、本当にあたしに甘い。小さいうちはなんでもやってもらうことが当たり前だと思っていたけれど、友達との会話の中で、家の手伝いをするとか、欲しいものはお小遣いを貯めて買うとか、お弁当は自分で詰めるとか、夕飯をたまに作るとか、少しずつだけど、あたしはおばあちゃん離れをしてきたつもりだ。
 仕事から帰ってきたおばあちゃんはいつも「疲れた疲れた」とは言いながらも、あたしに笑顔を向けてくれるから、すっかりそれに安心してしまっていたんだ。

「おばあちゃん、寂しくしてないかな」
「……え?」

 つい、ポツリとこぼしてしまった言葉に、あたしはハッとして首を振った。

「……ねぇ、杉崎さん」
「ん?」
「あのさ、夏の花火大会もうすぐじゃん?」
「花火……」

 あたしが古賀くんと一緒に見たいと思っていた花火。

「かき氷もあるし、プール……はないけど、大きい花火も、なんなら手持ちの花火も用意するからさ、良かったら一緒に……」

 照れ笑いする西澤くんに、あたしはやっぱり胸の奥がギュッと苦しくなる。呼吸がしづらくなって、目頭が熱くなってくる。
 唇をキュッと噛み締めて、あたしは泣かないように笑った。
 そして、無言のまま首を振る。

 だって、行きたいと思ったとしても、このままの状態じゃ行けない。あたしが幽霊だって分かったら、西澤くんはどう思う? もうここへは来てくれなくなるかもしれない。

「まだ、古賀のこと……?」

 それも分からない。どうしようもないから、どうしたらいいのかも、分からない。
 俯いたあたしの耳に、西澤くんの小さなため息が聞こえた。

「だから、メッセージも返信してくれないんだ?」
「……え」
「ごめん。あれから何回かメッセージ送ったけど、全然見てくれてないよね? 既読にもならないとか、流石にへこむ。俺ばっか楽しいと思ってたんだな。ここに来てた時間。まじでかっこわる。古賀に敵うわけないのに。ほんと、馴れ馴れしくして、今まで、ごめん」

 西澤くんが立ち上がって、頭を下げるから、あたしは顔を上げて首を振った。
 違う。メッセージは見ていないんじゃなくて、見れないの。あたしだって、西澤くんがあたしを見つけてくれて嬉しかったし、楽しかった。馴れ馴れしいなんて、あたしの方だ。ごめんも、あたしが全部悪いのに。
 結局、あたしが西澤くんのことを引き止めたのがいけなかったんだ。
 楽しい時間には必ず終わりが来るって、悪いことがあっても、その次にはいいことがあるなんて、そんなの嘘だ。
 だから、初めから、出会わなければよかったんだ。
 後悔するなら、初めから……

 去っていく西澤くんの背中を、あたしはただ見ているしかできなかった。追いかけたって仕方がない。
 苦しい胸に湧き上がってくる涙の波を懸命に堪えた。
 泣いたって仕方がない。
 仕方がないんだ。

 蝉は、いつだってあたしの耳に鳴き声を貫いてくる。一生懸命ってなんだろう。必死になるってなんだろう。そんなことしたって、未来が見えないあたしにはどうしようもないし、頑張る意味なんて何もない。
 仕方ない。こうなる運命だったんだって、諦めるしかない。それしか、ないでしょ?


 西澤くんが図書室に来なくなって二日が経った。
 夏休みももう終わってしまう。あたしはここで、ずっと一人きりでいないといけないのだろうか。
 もう、考えて寂しくなることすら通り過ぎていて、あんなに煩わしかった蝉すらも、鳴き止まないでずっとうるさいままでいてほしいと、願ってしまう。

 夏が終わったら、終わることがあるなら、きっと、あたしもこの世から去ることになるのだろうか。寂しいけれど、誰にも必要とされていないあたしは、ここに残る意味も何もない気がする。だったら、一日でも早く、消えて無くなりたい。もう、思い残すことなんて何もないよ。あたしのいない世界が何か変わるはずもないし、きっと、蝉と同じ。
 短い命だったね、可哀想。
 ただ、それだけだ。うん、それだけ。

 窓のカーテンをとめるタッセルが、緩んで外れてしまった。直すことができないあたしは、カーテンにぶつかることもなく、風で揺れ動くのを眺めていた。


 その日は、いつもと少し違っていた。
 図書室のドアが開くと、部屋の熱気に毎回声をあげていた西澤くんが何も言わずに入ってきた。そして、神妙な面持ちであたしを離れた場所からじっと見つめてくる。

 いつも開きっぱなしの窓。外からの僅かな風に、タッセルの外れてしまったカーテンが揺れていて、日差しが降り注ぐ。
 暑さを知らないあたしは、立ち止まっている西澤くんから顔を背けた。
 来てくれたことは嬉しいけれど、どんな顔をして話せばいいのか分からない。ゆっくり近づいてくる気配に顔を上げると、西澤くんの額からは汗が流れ落ち、首筋を流れていくのが見えた。

 いつもはすぐにエアコンを入れるのに、今日は忘れてしまっている様だ。あたしには電源を入れることはできないから、西澤くんが自分でカウンターにあるリモコンを操作するしかない。真面目な顔をしたまま立ち尽くしているから、なんだか場の雰囲気に耐えきれなくて、笑顔を向けてみた。
 だけど、彼の表情は変わらない。それどころか、ますます険しくなっていくように感じる。眉間に皺が寄り、なんだか少し、怖くなる。

「なんで、杉崎さんはここにいるの?」

 疑うような視線と質問に、あたしは全身がびくりと震えた。

「さっき、夏休み初日に事故に遭ったって、まだ意識が戻らないって、先生から聞いたんだ……」

 震えている気がする西澤くんの声に、あたしは目を見開いた。

 西澤くんは、今日図書室に来るまでの間に聞いてしまったことを、ゆっくりと話してくれた。
 体育館からバスケットボールの弾む音が聞こえてきて、ふと足を止めると、入り口付近で古賀くんが話しているのが聞こえたようだ。
 同じ部活仲間と休憩中に、あたしの話をしていたらしい。
 内容は、あたしが夏休み前日の修了式後に車に轢かれたこと。それから一度もあたしとは会っていないこと。悲しむようでもなく、笑いを交えて平然と話していたそうだ。
 気になった西澤くんは、すぐに職員室に向かって行って、担任に聞いたらしい。
 あたしは、今、集中治療室にいて、事故の日からずっと目を覚さないでいると。

「……そう、なんだ」

 西澤くんの話を聞いて、自分がまだ死んではいないことを知って体が震えだす。安心したのかな。そう思うくらいに脱力していた。
 だけど、それならどうして、あたしはここにいるんだろう。わからなくて、不安になる。
 ため息ばかりしか出てこなくて、だからってどうしたらいいのかもわからなくて、途方に暮れる。

「気がついたらね、ここにいたの。自分が生きているのか、死んでいるのかも分からなかった。ずっとこのままなのかなって、怖かった。だけどね、そんなあたしを西澤くんが見つけてくれたんだよ」

 真っ直ぐに、背中から陽の光があたしの体をすり抜けていく。影ができるはずの体は、キラキラと光を室内に受け入れて、透明に、存在しないみたいに透けていく。
 手が、腕が、体が、背景を溶かし始めるから、あたしはもう消えてもいいんだって思ったからかな、なんて、意外と冷静になれた。

「杉崎さん……なんか、消えそうじゃね?」

 ポツリと、困惑した西澤くんの声に顔をあげて彼をみる。

 西澤くんがあたしを見つけてくれて、たくさん話を聞いてくれて、一緒になって失恋を悲しんでくれて、あたしを励まそうとしてくれて。
 嬉しかった。
 花火に誘ってくれたことだって、あたしは嬉しかった。
 本当は、行ってみたいって思った。素直に頷けたらよかった。嘘をついてもいいのなら。
 だけど、それであたしがここから出られずに現れなかったら、きっと西澤くんのことを傷つけてしまうんだ。
 だったら、やっぱり最初から誘いにのってはいけないんだ。

 図書室にいる間、いろんなことを考えた。きっと、ひとりぼっちだったら泣いていたと思う。毎日毎日、泣いたって仕方がないと思いながらも、寂しくて死にきれなくて、泣いて泣いて、泣き喚いていたかもしれない。
 それがなかったのは、きっと西澤くんがあたしを見つけてくれたからだ。

「楽しかった、だからもう、いいかな……」

 外の蝉の声に負けてしまうくらいに小さくなっていく自分の声に、力なく笑った。

「泣けよ!!」

 蝉の聲にも負けない西澤くんの叫びが、あたしに風をおこすように届いた。今まで感じたことがなかった風が、あたしの髪の毛を一瞬だけ高く舞い上がらせる。

「泣けって!! 泣いて泣いて、うるさいくらいに泣き喚け! それしかないだろう? 気づいてもらえ! なんもしないで終わりを迎えるなんて、そんなの悲しすぎるだろ!」

 西澤くんと出逢って、たくさん話をして、時間や日付けを知って、それから、今日で七日目。尽きる命があるなら、きっと今日なのかもしれない。

「うるさいなって嫌がられるくらいにちゃんと泣けよ! いいんだよ泣いたって! 杉崎さんには後悔してほしくない! 俺だって前向きになろうって思えたんだ! 君のおかげなんだよ。だから……」

 目の前で泣き叫ぶ西澤くんの姿に、胸がぎゅっと苦しくなった。高鳴っていく心臓の音が全身に伝わってくる。背中から受けていた日差しが、熱を感じさせる。
 風のような柔らかい空気が、あたしを西澤くんの前まで運んでくれた。俯いた頭をそっと撫でてみた。気持ちは触れているはずなのに、やっぱり触れることが、できない。
 あたしは、ここに居るべきじゃない。

「……西澤くん、ありがとう。君に見つけてもらえて、よかった」

 嬉しいと涙が出るんだ。頬に流れていく涙を感じることが出来る。西澤くんの額に光る大粒の汗と涙が、日差しに照らされて、キラキラと煌めいて見えた。

「ちゃんと、生きている時に出逢いたかったな」

 もう叶わないと知っていても、口に出してみる。後悔したって、もうあたしにはどうしようもないから。
 目の前が徐々に白さを増していって、眩しさに目を細めたけれど、開けていられないほどの閃光に、あたしは目を、閉じた。

 さっきまで鳴いていた蝉は、みんな死んでしまったんだろうか、あんなにうるさかった蝉の聲が、今はもう聴こえない。
 閉じた瞳の前は真っ暗で、耳鳴りがするほどに静かになった。