「……もう、終わりにしよう」
これからも一生忘れない。
雪の舞い散る、あの日のことを――。
◆
「正月のことなんだけどさー」
「んー? 正月がなんてー?」
「今年は俺の実家だったし、次は望実の実家に顔出す感じで良いよね? というか、来年は四日から仕事だから、長距離移動はしんどい」
暖房の効いた部屋。気温差で曇る窓。気の抜けた彼の声。
決して広くはないマンションの一室で、長田望実は夕食の支度をしていた。
彼氏である泉遼との同棲生活も、まもなく七年目を終えようとしている。すっかり親公認の仲となった今では、年始に互いの実家を訪れることに、何の抵抗も抱かなくなった。「相手の実家に行く」ことを一大イベントと捉えていた時代が懐かしい。
「あー、そうだね。それで良いよ」
望実は作業を止め、手に付いた水をエプロンで拭き取り振り返る。が、遼はこちらを見ることも、声を発することもなく、軽く手を挙げて合図を送ると、再びスマートフォンに映し出された動画の世界に戻っていった。
これ以上、会話を続ける気はないらしい。口数の少ない日が珍しいわけではない。それどころか、どこかよそよそしく感じる日があるほどだ。
とはいえ、今日は一段とぎこちない気もする。
遼の残業が増え始めたのは、いつ頃だったか。もちろん、そんなことを今更問い詰めるつもりはさらさらない。ただ、そんな日を積み重ねていくたび、わからなくなるのだ。
この人は、本当に私のことが好きなのだろうか。
考えすぎだとも思う。遥か未来のことだと思っていた三十二歳という年齢を迎えたことが、人生のスパイスとして望美に不安の感情を抱かせたのかもしれなかった。
本当は問い詰めるつもりがないのではなく、気が引けて、聞けない。不意に見せる遼の表情や仕草を脳内で都合よく加工処理しては、その感情に蓋をすることだってある。
七年も一緒に過ごしていれば、こうもなるよね――口からこぼれた小さなため息は、音という装飾品を纏わずに流れていく。望美は諦めるようにキッチンへと向き直り、今の気持ちを形にしたような、中途半端に切られた野菜に視線を落とす。それと同時に、視界は少しずつぼやけていった。
もう、ダメなのかな――。
遼との出会いは今から九年前――新卒で入社した会社の歓迎会にまで遡る。
総勢五十名を超える新卒社員が一堂に会した入社式では見かけることもなかったが、その後の歓迎会で偶然同じテーブルに割り振られ、望実の正面に座ったのが遼だった。
遼は「典型的な新社会人」で、ドリンクの注文や上司へのお酌、料理の取り分けや空いたグラスの回収など、多方面に気を利かせていた。比較的おとなしい性格の望実からしてみれば、「新社会人」という枠以外で、二人の共通点を見出せなかったことを覚えている。
初めて二人で話したのも、「後は同期で仲良く」と上司が店を後にしてからだった。
「長田……さんは、都内配属?」
胸に付けたネームプレートをちらちらと見ながら、遼は不自然な笑みを浮かべて言う。入社前の懇親会で会っていないということは、遼の勤務地は都内ではなのだろう。二人の間には妙な距離があった。
「そう、白金。泉くんはどこ?」
「俺は北海道の白樺。そっか、白金か……じゃあ『白』繋がりだ」
彼なりの距離の縮め方だったのだろうが、望実の頭は一瞬、真っ白になった。数回の瞬きの後、望実はようやく遼が勤務地の文字を取ったことに気が付き、「確かにね」と相槌にもならない言葉を、不器用な笑顔とともに届けた。
後々聞いた話だが、どうやら遼は一目惚れに近い感覚だったらしい。それからも一方的とも取れるほど積極的に、中身のない会話のボールを投げ込まれ続けた。
「サンドバックじゃん」と思うこともあったが、この歓迎会が終わる頃には、必死に話す彼を可愛いと思うようになっていた。そして、まだ肌寒さも残る店の外で額いっぱいに汗を掻いた遼と連絡先を交換して、出会いの日は終わったのである。
その日を境に、久しく元気のなかった望実のスマートフォンは活気を取り戻した。
「おはよう。今日も頑張ろうね」といった挨拶はもとより、「昼飯は地元の海鮮。ここ、おすすめ」「初めての革靴磨き」といった何気ない会話も、距離や時間に縛られることになく送られてくる。直接話す時よりも饒舌なそれも、いつしか届かないと寂しく感じるようになっていた。
緊張する、という理由から電話をすることはなかったが、その影響からか、望実は画面越しの無機質な文字に、初めて会った時の遼の笑顔と声を重ねては口元を緩ませた。鏡に映った自分の顔を見た時、客観的に「恋をしている」と感じた。
出会ってから半年が過ぎた頃、休日の日程を合わせて、二人きりで会うことになった。東京に来る遼のことを、空港まで迎えに行く。
「お勧めスポット、案内してよ」
そう言われて考えていたプランは、到着ロビーで手を振る遼の顔を見た瞬間、全て忘れた。
二人の関係が変わったのは、二人だけの時間を三回ほど過ごした、秋の眠りと冬の起床が重なり合う頃だった。その日は桜木町で買い物をした後、望美の家で手料理を振舞うことになっていた。
「ごめんね、まだ引っ越ししたばっかりで、家具とか全然揃ってなくて」
「いやいや。逆に落ち着きがあってオシャレだよ。一人暮らしは、もう慣れた?」
「今はまだ、親のありがたみを感じてるとこ。あ、適当に座って」
女性の部屋ということを、唐突に実感したのかもしれない。遼は「失礼します」と言って身体をすぼめ、一人用ソファの三分の一程度の幅に座った。
それが無性に可笑しくて、「狭いけど、広々使ってよ」と望美は声を掛けたが、「取りあえず様子見で」と理由のわからないを口にして、遼は頑なにその姿勢を崩さなかった。
少し手の込んだ料理を作ろうと思っていたが、「今年一番の冷え込み」という天気予報が的中したことでメニューは急遽変更となり、ホワイトシチューを作ることにした。その分、浮いた予算を使って鶏肉は国産の良さそうなお肉を選んだ。
料理を作っている間もソワソワする遼は、愛おしかった。
「お待たせ。さ、食べよう」
「おいしそー。子どもみたいって思うかもだけど、俺、シチュー大好きなんだ」
「思わないよ。シチューは幾つになっても美味しいもん」
望実が微笑むと、遼は弾けそうな笑顔で応える。
たしかにその顔は子どもみたいだな――望実は胸の内でそう思った。
「ああー……、やっぱりシチューにして正解。美味しかったし、身体も温まった」
「本当だね。今日はシチューにすべき日だったのかも」
そんな他愛もない会話をしていると、遼の視線が不意に外へと向かう。
「あ、もしかして降ってるんじゃ……」遼はすっと立ち上がり、勢いよくカーテンを開けた。
「うわ……この時期に都内で雪が降るなんて珍しい」
窓の外には、はらはらと雪が舞い降りてきている。街灯に照らされるその様は、まるで無数の真珠のようだった。
「ここから見える雪、めちゃくちゃキレイだね……。雪なんて地元で見慣れてるはずなのに、今日のは格段にキレイかも」
「街灯の位置とか、家の照明の具合が丁度良いのかもね。良かった、二人で一緒に、この雪を見られて」
そこからはしばらく、互いに無言のまま、ただただ散りゆく雪を眺めていた。
その雪もいつかは溶けるということを、考えることもしないで。
遼がゆっくりと息を吐く。望実は何気なしに、その顔を見つめた。ソファに腰掛けた時と同じ顔のはずなのに、今度はその緊張感が、望美にまで伝染した。
「長田さん……俺、長田さんのことが好き。遠距離にはなっちゃうんだけど……もし良かったら、俺と付き合ってくれませんか?」
最後の最後で、天気予報は外れた。体温調整がうまくできなくて、望実の身体は、みるみるうちに熱を帯びていく。恥じらいから逸らしたいと思いながらも、遼から目を離せすこともできなかった。
心臓がうるさい。呼吸が苦しい。言葉が出ない。
口を真一文字に結んだまま、望実は窓を開けた。それなのに、身を震わす寒ささえ感じない。
望実を正気に戻らせたのは、風に乗って迷い込んだ、一粒の雪だった。雪は望実の頬に当たると、程なくして姿を変え、涙のように流れゆく。
体温を帯びたその雪は、涙が出るほど温かかった。
「……よろしくお願いします」
そう答えた望実の身体は、自分のそれより遥かに温かな遼の身体に引き寄せられた。
あの日から約二年の時が流れ、遼の転勤が決まった。勤務地は都内で、望実の勤務先ともそう遠くはない場所だった。ちょうど望実の借りていたマンションも契約更新の時期で、これを機に、二人で住むことにした。
「同棲」という言葉を発する度、どこか全てを手にした気分になった。
それから七年――。
何不自由なく過ごしているものの、心はいつも浮いている。家に帰れば遼も帰って来るし、休みの日は一緒に過ごす。買い物も行くし、身体の関係も人並みだ。それにもかかわらず、満たされているようで、空っぽのような、そんな日常が流れている。
あの頃の胸の高鳴りとやらも、もう随分とご無沙汰だった。
この上なく近くにいるのに、これ以上ないほど遠くに感じることがある。これが、俗にいう倦怠期というやつなのだろうか。
同棲をしてからの七年間。一体、何が変わったのだろう。
職場も、趣味も、交友関係も変わっていない。住む場所だって、もう三度の契約更新を終えている。だとするならば、後はもう、気持ちの問題――しかないのかもしれない。
何重にも蓋をしたはずの心の器が、沸騰した鍋のようにカタカタと音を立て始める。望実の瞳は、涙で滲んでいた。
水道のレバーを勢いよく上げ、吹き出る水の音で誤魔化しながら鼻を吸い、水が飛び跳ねたことを装いながら涙を拭く。
惨めなんかではない。遼と過ごしたこの時間は、間違いなく私を幸せにしてくれたんだから――望実は唇を強く噛み、自分を奮い立たせた。
「お待たせ。食べよっか」
「サンキュ」
遼は視線を向けることなく、居住まいを正す。そして、テーブルに置かれた料理を見ると、人間らしい表情を浮かべた。
「あれ、今日って確か……」
「うん。急遽、メニューを変えました」
白の器に盛られたホワイトシチュー。まだ何色にも染まっていない白色を見ながら、望実は思った。
この白はきっと、これからの足跡をしっかり記憶してくれる。振り返れば今までの軌跡だって、はっきり示してくれている。だから進もう。このシチューを食べたら二人の関係は――終わりなんだ。
「――……ふう。ごちそうさまでした」
食べかけのスプーンを置き、そう言った遼を見つめた。
心臓が痛い。呼吸が辛い。言葉が消える。
待っていた時間のはずなのに。その思いが、さらに胸を締め付けた。
そんなことなどつゆ知らず、遼が立ち上がる。
「あの……」
望実がくすぶる思いを奮い立たせた――その時だった。
「あれ、ひょっとして……」
食べた食器もそのままに、遼は足早に窓へと向かう。望実はその様子を目で追うことしか出来なかった。
「ちょ、望実。こっち来て」
望実が重い腰を上げて歩み寄る。遼は、静かに窓を開けて言う。
「ほら――雪」
窓の外に目を向けると、抑えていた涙がこみ上げる。今の望実にはもう、それを堪える力は無かった。
遼の言葉が、煌めく雪の中に溶けていく。
「この関係は……もう、終わりにしよう」
先を越された。越されてしまった――望実は声を殺して泣いた。
「やっぱり、そうだよね……もうダメなんだよね――」
「望実……どうして、泣いてるの?」
その言葉の意味を理解するより先に、望実の瞳は遼へと向かっていた。
「だって今、終わりにしようって――」
「うん。この関係を終わりにしたい。俺には望実が必要なんだ」
「どういうこと……?」
望実は涙ながらに尋ねる。一呼吸置くように大きく息を吸った遼の顔が、あの日の顔と重なっていく。
「いつまでも彼氏、彼女の関係で居たくはないんだ」
もぞもぞと、遼がズボンのポケットをまさぐる。その小さな穴から出てきた手には、小さな箱が握られていた。
その箱に手を乗せ、口にする。
「俺と――結婚してください」
箱の中身が露わになる。望実の視界には、銀色に輝く指輪が飛び込んだ。
「うそ、うそでしょ……」
それ以上の言葉が出ない。想いが溢れては消えていき、望実は受け入れることも、突き放すことも出来なかった。瞬きの減った目が、遼と指輪を交互に捉えていく。
そんな望実の心を捕まえるように、遼は静かに言葉を続けた。
「想いを伝える日のことを、ずっと考えていたんだ。正直、生きた心地もしなかった。七年も同棲してるっていうのに、ここ最近は、望実の顔を見るだけで変に緊張もした。だから無駄に残業をしたりもしてた。もし俺の態度で誤解させていたのなら謝る。でも……これが俺の、泉遼の本当の気持ちだから」
指輪の入った箱を持つ、遼の手は震えている。
感情ではなく、本能だった。頭で考えるよりも先に望実の手は伸び、目の前で震える手を包み込む。
遼の手は、望実以上に温かかった。望実は目を閉じて、この七年に思いを馳せる。
近くに居るからこそ、目に見えるモノだけを信じ過ぎていたのかもしれない。変わっていくことに、怯えていたのかもしれない。
時を重ねるということが、人生の厚みを増すということに繋がるのなら、時間が過ぎるということは、変わっていくということだ。
この空を舞う雪も、いつかは溶けてしまうのだから――。
「……よろしくお願いします」
絞り出すように、望実は言った。
「付き合った時と、全く同じ言い方だ」と笑う、遼を抱きしめた。
二人の身体がゆっくり離れると、遼は箱の中から指輪を取り、望実の元へと向かわせる。冷たい感触を、肌が感じる。
そして、望実の左の薬指は、七年分の重みを増したのだった。
遼に見せつけるように、望美が真っ直ぐ手を伸ばす。すると、窓の隙間から小さな雪の一粒が、指輪の上に舞い降りた。
それは室内の温度に反応し、形を変えながら照明の光を反射する。一層の美しさを纏ったまま輝いている。
変わった先でしか見ることの叶わない美しさもあるのだと、望美は頬を伝う涙を拭った。
これからも一生忘れない。
雪の舞い散る、あの日のことを――。
◆
「正月のことなんだけどさー」
「んー? 正月がなんてー?」
「今年は俺の実家だったし、次は望実の実家に顔出す感じで良いよね? というか、来年は四日から仕事だから、長距離移動はしんどい」
暖房の効いた部屋。気温差で曇る窓。気の抜けた彼の声。
決して広くはないマンションの一室で、長田望実は夕食の支度をしていた。
彼氏である泉遼との同棲生活も、まもなく七年目を終えようとしている。すっかり親公認の仲となった今では、年始に互いの実家を訪れることに、何の抵抗も抱かなくなった。「相手の実家に行く」ことを一大イベントと捉えていた時代が懐かしい。
「あー、そうだね。それで良いよ」
望実は作業を止め、手に付いた水をエプロンで拭き取り振り返る。が、遼はこちらを見ることも、声を発することもなく、軽く手を挙げて合図を送ると、再びスマートフォンに映し出された動画の世界に戻っていった。
これ以上、会話を続ける気はないらしい。口数の少ない日が珍しいわけではない。それどころか、どこかよそよそしく感じる日があるほどだ。
とはいえ、今日は一段とぎこちない気もする。
遼の残業が増え始めたのは、いつ頃だったか。もちろん、そんなことを今更問い詰めるつもりはさらさらない。ただ、そんな日を積み重ねていくたび、わからなくなるのだ。
この人は、本当に私のことが好きなのだろうか。
考えすぎだとも思う。遥か未来のことだと思っていた三十二歳という年齢を迎えたことが、人生のスパイスとして望美に不安の感情を抱かせたのかもしれなかった。
本当は問い詰めるつもりがないのではなく、気が引けて、聞けない。不意に見せる遼の表情や仕草を脳内で都合よく加工処理しては、その感情に蓋をすることだってある。
七年も一緒に過ごしていれば、こうもなるよね――口からこぼれた小さなため息は、音という装飾品を纏わずに流れていく。望美は諦めるようにキッチンへと向き直り、今の気持ちを形にしたような、中途半端に切られた野菜に視線を落とす。それと同時に、視界は少しずつぼやけていった。
もう、ダメなのかな――。
遼との出会いは今から九年前――新卒で入社した会社の歓迎会にまで遡る。
総勢五十名を超える新卒社員が一堂に会した入社式では見かけることもなかったが、その後の歓迎会で偶然同じテーブルに割り振られ、望実の正面に座ったのが遼だった。
遼は「典型的な新社会人」で、ドリンクの注文や上司へのお酌、料理の取り分けや空いたグラスの回収など、多方面に気を利かせていた。比較的おとなしい性格の望実からしてみれば、「新社会人」という枠以外で、二人の共通点を見出せなかったことを覚えている。
初めて二人で話したのも、「後は同期で仲良く」と上司が店を後にしてからだった。
「長田……さんは、都内配属?」
胸に付けたネームプレートをちらちらと見ながら、遼は不自然な笑みを浮かべて言う。入社前の懇親会で会っていないということは、遼の勤務地は都内ではなのだろう。二人の間には妙な距離があった。
「そう、白金。泉くんはどこ?」
「俺は北海道の白樺。そっか、白金か……じゃあ『白』繋がりだ」
彼なりの距離の縮め方だったのだろうが、望実の頭は一瞬、真っ白になった。数回の瞬きの後、望実はようやく遼が勤務地の文字を取ったことに気が付き、「確かにね」と相槌にもならない言葉を、不器用な笑顔とともに届けた。
後々聞いた話だが、どうやら遼は一目惚れに近い感覚だったらしい。それからも一方的とも取れるほど積極的に、中身のない会話のボールを投げ込まれ続けた。
「サンドバックじゃん」と思うこともあったが、この歓迎会が終わる頃には、必死に話す彼を可愛いと思うようになっていた。そして、まだ肌寒さも残る店の外で額いっぱいに汗を掻いた遼と連絡先を交換して、出会いの日は終わったのである。
その日を境に、久しく元気のなかった望実のスマートフォンは活気を取り戻した。
「おはよう。今日も頑張ろうね」といった挨拶はもとより、「昼飯は地元の海鮮。ここ、おすすめ」「初めての革靴磨き」といった何気ない会話も、距離や時間に縛られることになく送られてくる。直接話す時よりも饒舌なそれも、いつしか届かないと寂しく感じるようになっていた。
緊張する、という理由から電話をすることはなかったが、その影響からか、望実は画面越しの無機質な文字に、初めて会った時の遼の笑顔と声を重ねては口元を緩ませた。鏡に映った自分の顔を見た時、客観的に「恋をしている」と感じた。
出会ってから半年が過ぎた頃、休日の日程を合わせて、二人きりで会うことになった。東京に来る遼のことを、空港まで迎えに行く。
「お勧めスポット、案内してよ」
そう言われて考えていたプランは、到着ロビーで手を振る遼の顔を見た瞬間、全て忘れた。
二人の関係が変わったのは、二人だけの時間を三回ほど過ごした、秋の眠りと冬の起床が重なり合う頃だった。その日は桜木町で買い物をした後、望美の家で手料理を振舞うことになっていた。
「ごめんね、まだ引っ越ししたばっかりで、家具とか全然揃ってなくて」
「いやいや。逆に落ち着きがあってオシャレだよ。一人暮らしは、もう慣れた?」
「今はまだ、親のありがたみを感じてるとこ。あ、適当に座って」
女性の部屋ということを、唐突に実感したのかもしれない。遼は「失礼します」と言って身体をすぼめ、一人用ソファの三分の一程度の幅に座った。
それが無性に可笑しくて、「狭いけど、広々使ってよ」と望美は声を掛けたが、「取りあえず様子見で」と理由のわからないを口にして、遼は頑なにその姿勢を崩さなかった。
少し手の込んだ料理を作ろうと思っていたが、「今年一番の冷え込み」という天気予報が的中したことでメニューは急遽変更となり、ホワイトシチューを作ることにした。その分、浮いた予算を使って鶏肉は国産の良さそうなお肉を選んだ。
料理を作っている間もソワソワする遼は、愛おしかった。
「お待たせ。さ、食べよう」
「おいしそー。子どもみたいって思うかもだけど、俺、シチュー大好きなんだ」
「思わないよ。シチューは幾つになっても美味しいもん」
望実が微笑むと、遼は弾けそうな笑顔で応える。
たしかにその顔は子どもみたいだな――望実は胸の内でそう思った。
「ああー……、やっぱりシチューにして正解。美味しかったし、身体も温まった」
「本当だね。今日はシチューにすべき日だったのかも」
そんな他愛もない会話をしていると、遼の視線が不意に外へと向かう。
「あ、もしかして降ってるんじゃ……」遼はすっと立ち上がり、勢いよくカーテンを開けた。
「うわ……この時期に都内で雪が降るなんて珍しい」
窓の外には、はらはらと雪が舞い降りてきている。街灯に照らされるその様は、まるで無数の真珠のようだった。
「ここから見える雪、めちゃくちゃキレイだね……。雪なんて地元で見慣れてるはずなのに、今日のは格段にキレイかも」
「街灯の位置とか、家の照明の具合が丁度良いのかもね。良かった、二人で一緒に、この雪を見られて」
そこからはしばらく、互いに無言のまま、ただただ散りゆく雪を眺めていた。
その雪もいつかは溶けるということを、考えることもしないで。
遼がゆっくりと息を吐く。望実は何気なしに、その顔を見つめた。ソファに腰掛けた時と同じ顔のはずなのに、今度はその緊張感が、望美にまで伝染した。
「長田さん……俺、長田さんのことが好き。遠距離にはなっちゃうんだけど……もし良かったら、俺と付き合ってくれませんか?」
最後の最後で、天気予報は外れた。体温調整がうまくできなくて、望実の身体は、みるみるうちに熱を帯びていく。恥じらいから逸らしたいと思いながらも、遼から目を離せすこともできなかった。
心臓がうるさい。呼吸が苦しい。言葉が出ない。
口を真一文字に結んだまま、望実は窓を開けた。それなのに、身を震わす寒ささえ感じない。
望実を正気に戻らせたのは、風に乗って迷い込んだ、一粒の雪だった。雪は望実の頬に当たると、程なくして姿を変え、涙のように流れゆく。
体温を帯びたその雪は、涙が出るほど温かかった。
「……よろしくお願いします」
そう答えた望実の身体は、自分のそれより遥かに温かな遼の身体に引き寄せられた。
あの日から約二年の時が流れ、遼の転勤が決まった。勤務地は都内で、望実の勤務先ともそう遠くはない場所だった。ちょうど望実の借りていたマンションも契約更新の時期で、これを機に、二人で住むことにした。
「同棲」という言葉を発する度、どこか全てを手にした気分になった。
それから七年――。
何不自由なく過ごしているものの、心はいつも浮いている。家に帰れば遼も帰って来るし、休みの日は一緒に過ごす。買い物も行くし、身体の関係も人並みだ。それにもかかわらず、満たされているようで、空っぽのような、そんな日常が流れている。
あの頃の胸の高鳴りとやらも、もう随分とご無沙汰だった。
この上なく近くにいるのに、これ以上ないほど遠くに感じることがある。これが、俗にいう倦怠期というやつなのだろうか。
同棲をしてからの七年間。一体、何が変わったのだろう。
職場も、趣味も、交友関係も変わっていない。住む場所だって、もう三度の契約更新を終えている。だとするならば、後はもう、気持ちの問題――しかないのかもしれない。
何重にも蓋をしたはずの心の器が、沸騰した鍋のようにカタカタと音を立て始める。望実の瞳は、涙で滲んでいた。
水道のレバーを勢いよく上げ、吹き出る水の音で誤魔化しながら鼻を吸い、水が飛び跳ねたことを装いながら涙を拭く。
惨めなんかではない。遼と過ごしたこの時間は、間違いなく私を幸せにしてくれたんだから――望実は唇を強く噛み、自分を奮い立たせた。
「お待たせ。食べよっか」
「サンキュ」
遼は視線を向けることなく、居住まいを正す。そして、テーブルに置かれた料理を見ると、人間らしい表情を浮かべた。
「あれ、今日って確か……」
「うん。急遽、メニューを変えました」
白の器に盛られたホワイトシチュー。まだ何色にも染まっていない白色を見ながら、望実は思った。
この白はきっと、これからの足跡をしっかり記憶してくれる。振り返れば今までの軌跡だって、はっきり示してくれている。だから進もう。このシチューを食べたら二人の関係は――終わりなんだ。
「――……ふう。ごちそうさまでした」
食べかけのスプーンを置き、そう言った遼を見つめた。
心臓が痛い。呼吸が辛い。言葉が消える。
待っていた時間のはずなのに。その思いが、さらに胸を締め付けた。
そんなことなどつゆ知らず、遼が立ち上がる。
「あの……」
望実がくすぶる思いを奮い立たせた――その時だった。
「あれ、ひょっとして……」
食べた食器もそのままに、遼は足早に窓へと向かう。望実はその様子を目で追うことしか出来なかった。
「ちょ、望実。こっち来て」
望実が重い腰を上げて歩み寄る。遼は、静かに窓を開けて言う。
「ほら――雪」
窓の外に目を向けると、抑えていた涙がこみ上げる。今の望実にはもう、それを堪える力は無かった。
遼の言葉が、煌めく雪の中に溶けていく。
「この関係は……もう、終わりにしよう」
先を越された。越されてしまった――望実は声を殺して泣いた。
「やっぱり、そうだよね……もうダメなんだよね――」
「望実……どうして、泣いてるの?」
その言葉の意味を理解するより先に、望実の瞳は遼へと向かっていた。
「だって今、終わりにしようって――」
「うん。この関係を終わりにしたい。俺には望実が必要なんだ」
「どういうこと……?」
望実は涙ながらに尋ねる。一呼吸置くように大きく息を吸った遼の顔が、あの日の顔と重なっていく。
「いつまでも彼氏、彼女の関係で居たくはないんだ」
もぞもぞと、遼がズボンのポケットをまさぐる。その小さな穴から出てきた手には、小さな箱が握られていた。
その箱に手を乗せ、口にする。
「俺と――結婚してください」
箱の中身が露わになる。望実の視界には、銀色に輝く指輪が飛び込んだ。
「うそ、うそでしょ……」
それ以上の言葉が出ない。想いが溢れては消えていき、望実は受け入れることも、突き放すことも出来なかった。瞬きの減った目が、遼と指輪を交互に捉えていく。
そんな望実の心を捕まえるように、遼は静かに言葉を続けた。
「想いを伝える日のことを、ずっと考えていたんだ。正直、生きた心地もしなかった。七年も同棲してるっていうのに、ここ最近は、望実の顔を見るだけで変に緊張もした。だから無駄に残業をしたりもしてた。もし俺の態度で誤解させていたのなら謝る。でも……これが俺の、泉遼の本当の気持ちだから」
指輪の入った箱を持つ、遼の手は震えている。
感情ではなく、本能だった。頭で考えるよりも先に望実の手は伸び、目の前で震える手を包み込む。
遼の手は、望実以上に温かかった。望実は目を閉じて、この七年に思いを馳せる。
近くに居るからこそ、目に見えるモノだけを信じ過ぎていたのかもしれない。変わっていくことに、怯えていたのかもしれない。
時を重ねるということが、人生の厚みを増すということに繋がるのなら、時間が過ぎるということは、変わっていくということだ。
この空を舞う雪も、いつかは溶けてしまうのだから――。
「……よろしくお願いします」
絞り出すように、望実は言った。
「付き合った時と、全く同じ言い方だ」と笑う、遼を抱きしめた。
二人の身体がゆっくり離れると、遼は箱の中から指輪を取り、望実の元へと向かわせる。冷たい感触を、肌が感じる。
そして、望実の左の薬指は、七年分の重みを増したのだった。
遼に見せつけるように、望美が真っ直ぐ手を伸ばす。すると、窓の隙間から小さな雪の一粒が、指輪の上に舞い降りた。
それは室内の温度に反応し、形を変えながら照明の光を反射する。一層の美しさを纏ったまま輝いている。
変わった先でしか見ることの叶わない美しさもあるのだと、望美は頬を伝う涙を拭った。