紬に聞いた話によると、文芸部の顧問は主に三年生の授業を担当している教師らしい。名前と顔は知っているが、言葉を交わしたことのない男性教師だ。定年間近で歳はとっているが、物腰がやわらかく、生徒人気も高い。
侑が入部届を書いて提出しにいくと、「ああ、二年の真島くんですね。朝日さんから聞いていますよ」と教師は優しく笑った。
「たくさん文章に触れてください。きっと真島くんを変える出会いがありますよ」
普段本を読まない侑は、顧問の言葉の意味がいまいち分からなかった。しかし放課後紬に訊いてみると、楽しそうに笑いながら話してくれた。
「小説を読んでいるとね、びっくりすることがたくさんあるんです。自分では思いつかない考え方とか、価値観とか……。物語を通じて、作家さんから教えてもらっているみたいに」
「ふーん。朝日さんも経験したことある? 自分を変えるような文章との出会いってやつ」
どうでしょう、と紬は曖昧に答えて笑う。はっきりとは教えてくれなかったが、紬はもう出会っているのかもしれない、と侑は思った。
自分の考えや価値観を変えるような本。読書はあまり得意ではないが、そんな一冊に出会えるなら、本を読んでみるのもいいかもしれない。侑はそんなことを考えながら、ぬるくなったスポーツドリンクを飲み干した。
たまに、と言ったにも関わらず、侑は文芸部の部室にほぼ毎日顔を出すようになった。部活動に対してやる気が出てきたわけではない。狭くて静かな部室は居心地がよかったし、早い時間に家に帰るのは気が重かったからだ。
侑の母は昔から、少し過保護な人だった。ちょっとした怪我や体調不良でも、必ず病院に連れて行かれたのを侑は覚えている。
両親は結婚してからなかなか子宝に恵まれなかった。辛い不妊治療を経て授かったのが、侑なのだと聞いたことがある。両親にとっては念願の子ども、それも一人っ子なので、母が侑を過剰に心配する理由は分かっているつもりだ。
しかし、膝の怪我をしてから、母は侑のことを腫れ物に触るように扱った。どんなときも侑の顔色を伺い、機嫌を損ねてしまわないか、傷つけてしまわないかと心配しているようだった。
母が優しくしてくれるたびに、自分はもうサッカーができないのだと思い知る気がして、憂鬱になった。あえて膝の怪我については触れないようにしてくれているのに、勝手に落ち込んでしまう自分にも嫌気がさしていた。
彼女である紗枝の前では悲劇のヒーローぶっていたのに、おかしな話だ。心配してほしい、同情してほしい。そんな気持ちと共に、そっとしておいてほしい、という思いが侑の中にはあるらしい。
きっと周囲の人からは面倒な男だと思われているに違いない。そして侑自身も自分のことを面倒な性格だな、と思ってしまっているのだから困ったものだ。
膝の怪我をしてからは、放課後は紗枝と過ごすことが多かった。しかし侑が紗枝を傷つけてしまったせいで、今は距離を置いている状態だ。
家に帰るのは気が重い、一緒に時間を潰してくれる彼女にも連絡しづらい。
必然的に、侑が文芸部にいる時間は増えていった。
紬の執筆活動の邪魔にならないかと最初は心配していたのだが、それが杞憂だと気づくのに時間はかからなかった。
今も部室には、侑と紬の二人きり。しかし会話はほとんど生じない。部室に響くのは、紬がノートに文字を書く音と、エアコンの稼働音だけだ。
紬の作業する机には、同じノートが二冊置かれている。最近ようやく三冊目に入ったんです、と紬は恥ずかしそうに笑っていた。ノート二冊分というのは、どのくらいの文量なのだろう。
たとえば本屋に並ぶ小説にも、薄いものから分厚いものまで存在している。紬の書いている文章は、本にするとどのくらいの厚さになるのか、侑は少しだけ気になった。
紬が文字を書いている間は、侑も読書に挑戦している。
幼い頃から本を読む習慣がなかったため、最初のうちは数ページ読んでは居眠りをしていた。文字を目で追うのも時間がかかるし、読んだ文字を頭の中で処理するのはもっと時間がかかる。仮にも文芸部の部員なのに、少し本を読んだだけで眠ってしまう侑を、紬は怒ったりしなかった。それどころかどこか嬉しそうな表情で、「おすすめの本を持ってきますね」と言ってくれた。
翌日に紬が持ってきてくれたのは、文庫本の中でもかなり薄いものだった。
「これはライトノベル寄りで、文章にも癖が少ないので、読みやすいと思いますよ」
「ん? 読みやすいとか読みにくいとか、普通の人でもそういう感覚ってあるの?」
なかなかページが進まないのは、てっきり侑の読書経験が浅すぎるせいだと思っていた。文章を読む能力や想像力が極端に足りないのだ、と。
しかし紬は眉を下げて笑って、「私にも読みにくい本ってありますよ」と教えてくれた。
「たとえば真島くんが昨日まで読もうとしていた本ですけど……。作者の文章の癖が強いんです。内容は間違いなく名作なので読んで損はないんですけど、文章のテンポ感が苦手だっていう人もいるらしいですよ」
文章にテンポ感、という言葉は不似合いな気がした。文字はそこに並んでいるだけで、音やリズムを発するものではないから。
しかし侑よりもたくさん本を読んできた紬が言うのだから、読書家になると文章のテンポ感とやらも分かるようになるのかもしれない。
「あの本、『読書、おすすめ』で検索して出てきたやつなんだよね。図書室にあったからちょうどいいと思ってさ」
「確かにおすすめではありますけど、最初の一冊としてはかなりハードルが高いかもしれませんね」
紬がそう言って、苦笑する。それから紬は自宅から持ってきた本を侑に手渡した。受け取った本は小さくて軽い。読むの遅いけど大丈夫? と侑が訊ねると、紬はやわらかく笑った。
「私はもう何回も読んでますから。返すのはいつでもいいですよ」
「そうなの? じゃあ借りるね、ありがとう」
侑が高校に入学してから初めて図書室で借りた本は、最後まで読まれることなく返却することになった。
代わりに侑の手元にやってきたのは、紬のおすすめの小説だ。紬が作業を始めてすぐに、侑も借りた本を開いてみた。文章は堅苦しくなくて、難しい単語もほとんどないからだろうか。一文がするりと侑の頭に飲み込まれていく。文章を飾る言葉が少ないから、一文も短い。それでいて文章を読み進めるごとに、頭の中でシーンが再生された。
また寝てしまうのではないかと不安だったのに、気づけば侑は本の世界に入り込んでいた。
「真島くん、休憩しませんか」
「…………えっ、あれ? もう一時間も経ったの?」
「はい! 真島くん、すごく集中してましたね」
いつの間にか紬は執筆を中断していて、侑にペットボトルを差し出している。ありがとう、と言って受け取ったのは、緑茶だった。女子高生にしては渋いセレクトだ。
「あ、朝日さん。栞みたいなものないかな」
「ありますよ、どうぞ」
水色の栞は花柄で少し気恥ずかしかったが、本に挟んでしまえば見えなくなるのだから関係ない。侑は読みかけのページに栞を挟み、本を閉じた。
「なんかすごい。昨日まで読んでたやつと全然違った! 寝なかったし!」
緑茶を飲みながら侑が興奮気味に話すと、紬は手で口元を隠しながらくすくすと笑った。
「四分の一くらい読み進めましたね。昨日までは四ページごとにうとうとしていたのが嘘みたいです」
「いや四ページは言い過ぎでしょ! 五ページくらいは読んでたよ、たぶん……」
そう言いながら声が小さくなっていってしまうのは、実のところ四ページも読めていたか不安だったからだ。何日かかけて何とか冒頭を読み進めることはできたが、内容はほとんど頭に入っていない。
それがどうだろう。今日侑が読んでいた話は、頭の中で映像が流れ出しそうだったのだ。同じ本でもこんなに違いがあるのか、と感動しながら語っていると、紬が目を細めて笑った。
「真島くんが小説を嫌いにならなくてよかったです」
「え?」
「世界にはたくさん素敵な物語があるのに、知らないまま生きていくのはもったいないですよ」
紬が口にしたのは、読書をしてこなかった侑には思いつかない考え方だった。
ペットボトルを持つ紬の手がふと視界に入る。右手の小指側は、少し黒く汚れていた。シャープペンの芯が擦れた跡だろうか。
紬の小さな手を眺めながら、彼女はどんな文章を書くのだろう、と侑はぼんやり考えた。