真島侑は職員室のエアコンから出る涼しい風を浴びながら、教員の長ったらしい話を黙って聞いていた。

 茶色い癖毛の髪は、梅雨の間ずっと侑の頭を悩ませていた。ようやく梅雨があけたと思えば、今度は暑さとの戦いになる。

 まだ七月に入ったばかりだというのに、すでに猛暑日を記録している。今日の最高気温は三十八度。人の体温よりも高い温度の中、活動するのは骨が折れる。各教室にもエアコンはついているが、人口密度の関係か、職員室の方がずっと涼しく感じた。

 侑が担任の話を切り上げることなく聞いているのも、職員室は涼しいから、という理由が大きい。担任の瀬川充子は、ふくよかな身体から流れ出る汗を頻繁にハンカチで拭いている。

 これだけ暑いとハンカチが何枚あっても足りないですね、と言いそうになったが、侑は喉の奥に言葉を飲み込んだ。瀬川は女性なので、男子高校生に汗の話をされるのは嫌かもしれないと思ったのだ。その勘はどうやら当たっていたようで、侑の視線に気づき、瀬川は恥ずかしそうに笑った。

「いつもは扇子で仰いでいるけど、ここまで暑いとダメね。授業中に倒れそうになった子もいたみたいよ」
「はあ…………暑いっすもんね」
「そうねぇ。夏だから」

 毒にも薬にもならない会話をしながら、侑はさりげなく時計を見る。そろそろ教室に戻りたい、というアピールだ。瀬川はしっかり侑の目線を確認した上で、尚も話を続けた。

「それでね話は戻るんだけど……真島くん、部活に入ってみない? ほら、前にも言ったけど、見学だけでもいいからさ」
「はあ……」

 侑は適当に相槌を打ちながら、心の中だけでため息をこぼす。瀬川に悪気がないことを知っているので、実際にため息を吐くような真似はしない。

 教師の中でも随一のお節介である瀬川は、生徒には煙たがられることも多い。部活に入るようしつこく勧められるのは、侑も正直面倒だと思っている。しかし瀬川の言葉の裏側に、侑への心配が滲んでいることに気づいているため、蔑ろにもできない。

「俺、膝がアレなんで……運動部は無理っすよ」
「そうよね。マネージャーっていう手もあるけど、真島くんみたいにスポーツが大好きな子には見ているだけなんて酷よね」

 スポーツは野球とサッカーくらいしか分からない、という女教師は、マネージャーの仕事についても少し誤解を抱いていそうだった。
 部活におけるマネージャーの仕事は、とてもハードだと侑は知っている。決して見ているだけではないし、選手たちが全力を出すために支えてくれる縁の下の力持ちだ。
 しかし、説明したところで瀬川の記憶には残らないだろう。地学の教師である瀬川は確か天文学部の顧問で、運動部やマネージャーというものとは無縁の立場だから。

 瀬川は侑に文化部を勧めてきた。特に自分が顧問を担当している天文学部を強く勧めてくるので、侑は苦笑をこぼしながら訊ねた。

「天文学部もいいとは思うんですけど……、文化部って他に何がありましたっけ」

 正直なところ、天文学部は勘弁してほしい。侑は理系全般に苦手意識があるし、星を見る楽しさも分からない。星に詳しい男子高校生はかっこいいかもしれないが、侑自身がそうなれるかと言われれば、絶対になれないと言い切れる。

 それに心配してくれている瀬川には悪いが、侑はどこかの部活に入ろうとは思えないのだ。
 できないと分かっていても未練は残っている。
 侑は自身の膝を睨みつけた。走ることのできなくなってしまったポンコツな左膝には、サポーターが巻かれている。もちろん普段は制服で隠れているが、いつだって左膝の痛みが侑に現実を突きつけた。

「うちの文化部は、天文学部と科学部、吹奏楽部、美術部がメインで部員数も多いわね。あと人数は少ないけど、漫画研究部と……文芸部かしら」
「天文学、科学、吹奏楽、美術、漫画研究部に文芸部ですか……」

 話をしっかりと聞いているふりをするため、瀬川の挙げた部活名を侑は復唱してみせた。
 瀬川には申し訳ないが、実際に入部する気にはなれない。心配してくれている瀬川の気持ちを蔑ろにしたくはないので、部活の見学には行ってもいい。見学だけして、合いそうになかったので入りませんでした、と断るつもりだった。

「後で見学に行ってみます。ありがとうございます」
「いいのよ、真島くん。きっと他にも楽しいことは見つかるから、探してみて」

 瀬川の言葉に悪意はなかった。
 それでも一瞬、侑の頭は沸騰しそうなほど血がのぼった。意識的に深く呼吸をして気持ちを整え、侑は本心を隠すようにへらりと笑った。

「そうですね。サッカーより楽しいこと、きっとありますよね」

 もう二度とできなくなった、大好きだった競技の名前を口にする。侑の言葉に自虐が含まれていることに、瀬川は気づかない。

「そうよ! せっかくの青春なんだから、サッカーのことなんて忘れて、他に夢中になれるものを探すといいわ」

 優しく微笑む教師の顔を殴ってやりたかった。
 簡単に言いやがって、と心の中で吐き捨てて、爪が食い込むほど拳を強く握りしめる。そうでもしないと怒りのやり場が見つからなかったのだ。

 侑を励ますための言葉だとは分かっている。それでも腹立たしくてたまらなかった。
 好きなものを、真剣に取り組んでいたものを、突然取り上げられる気持ちが、この教師に分かるのだろうか。そんなに簡単に諦められるなら、とっくに別のことを始めている。

 侑が声を荒げそうになったときだった。
 後ろからやわらかい声が響いた。

「瀬川先生、お話中すみません。昨日の地学の授業のことで質問があるんですけど」

 驚いて振り向くと、侑の後ろには小柄な女の子が立っていた。夏服のブラウスはきっちり一番上までボタンを留めていて、真面目な印象を受ける。胸元を飾る赤いリボンが、侑と同じ学年である印だが、とても同じ二年生には見えなかった。

 やけに幼く見えるのは、童顔だからだろうか。丸顔に黒目がちの大きな目。セミロングの黒髪はポニーテールにまとめられていて、前髪は眉の上で綺麗に切り揃えられている。

 真面目そうな少女のことを、瀬川は鬱陶しそうな態度であしらおうとした。

「うーん、朝日さん。勉強熱心なのはいいけど、先生は今真島くんと大事な話をしていて……」
「あ、俺の方はもういいっすよ。適当に見学行ってみます、ありがとうございます」

 これ以上話を続けていれば、怒鳴ってしまいそうだった。
 侑は名前も知らぬ女子生徒に感謝しながら、早口で言葉を紡ぐ。逃げるように立ち去った職員室を、一度だけ振り返る。瀬川に質問をしていた女子生徒と、たまたま目が合った。
 彼女が質問に来たのは偶然かもしれないが、結果的に侑は彼女に助けられたことになる。侑が軽く頭を下げると、少女はふわりとやわらかく笑った。

 もしかして、俺が困ってると思ってわざと先生に声をかけた?

 侑の心に浮かんだ疑問は、言葉になることなく胸の奥へ消えていった。少女はもう侑の方を見てはいなくて、瀬川と話をしている。
 いつもなら嫌な気分で終わる職員室への呼び出しが、今日はなぜかあまり不快ではない。先ほどまで怒りを覚えていたことも忘れ、侑は職員室を後にした。


 真島侑は物心がついたときから、運動が得意だった。どんな競技でもちょっとやれば一番になれたし、スポーツで苦手なものなんて一つもなかった。楽しいことをして、女の子にきゃあきゃあと声援をもらえるのは嬉しかった。
 勉強は苦手だったけれど、スポーツが楽しいからそれでよかった。侑が特に好きだったのはサッカーだ。小学校で友人と始めたサッカーは、侑をあっという間に夢中にさせた。中学生になり、サッカー部に入る頃には、サッカーは侑の生活の一部になっていた。これからもそうだ、と信じて疑わなかった。

 膝の怪我が発覚したのは高校一年の夏の大会の最中だった。先輩を押し退けてレギュラーを勝ち取ったのに、侑は地区大会の決勝戦、試合中に怪我をした。大事な場面で左膝の激痛に襲われ、コートに転がった。ぶちん、という嫌な音と、燃えるような熱い痛みだけがやけに記憶に残っている。

 しかしその先の記憶は曖昧だった。気づいたら侑は病院にいて、もう激しい運動は無理だ、と宣告された。膝前十字靭帯損傷。スポーツ選手にはよくある怪我らしいが、手術をしない限り治ることはないという。手術をしたとしても、長いリハビリが待っている。今までと同じように動くことは難しいだろう、と言われ、侑は目の前が真っ暗になった。
 優勝をかけた試合も、負けに終わったらしい。侑にとって最後の試合は、途中リタイアの上黒星。散々な結果だった。

 侑はその日、全てを失った。大好きだったサッカーどころか、走ることさえままならない。負けたのは侑のせいじゃないよ、というチームメイトの優しい言葉が、侑の胸に突き刺さった。手術とリハビリを乗り越えて戻ってこい、という監督の激励が、侑の胸を締め付けた。

 手術をする、という選択肢もあった。両親や監督は侑の足が治ることを望んでいたし、侑だって元のように戻るなら頑張りたいと思う。

 でも同時にそんなの時間の無駄だ、という考えが頭を巡って離れなかった。
 手術を受け、リハビリに取り組む。スポーツに復帰できるまで、約六ヶ月だと医者は言っていた。
 その間チームメイトは練習を続けている。侑が遅れを取り戻す時間に、チームメイトはどんどん上手くなるのは簡単に想像できた。
 どんなに頑張って膝を治しても、試合に出られないなら意味がない。怪我で心が荒んでいた侑は、全てを諦めてしまった。
 サッカーができない。走れない。この世界の楽しいものを全て失った気分だ。

 侑はあの日からずっと、空っぽの日々を過ごしている。

「侑、部活の見学に行くって本当?」

 放課後、隣のクラスから小走りでやって来た永野紗枝が、侑の手を握り上目遣いに訊ねてきた。

 いつも通り目元を強調したメイクは、紗枝の整った顔立ちをより引き立てている。美人でおしゃれにも余念がない紗枝は、学校内での人気も高い。
 実際入学したばかりの頃、侑も紗枝に憧れていた。大人っぽい見た目が好みだ、というのは否定しない。でもそれ以上に、大人に何を言われても自分のスタイルを曲げない芯の強さを、かっこいいと思ったのだ。

 紗枝に告白をされたのは、高校一年の春の終わりだった。付き合い始めてもう一年が経つ。

「んー、瀬川先生に顔合わせるたびに勧められるから、見学くらいならいいかなって」
「あーね。セガセンしつこいもんね」

 紗枝は教師のことをあだ名で呼ぶ。瀬川先生を略してセガセン。教師からはもちろん注意されるが、紗枝は正そうとしない。教師に反発することが、かっこいいと思っているようだった。

 付き合う前に憧れていた、大人に何を言われても自分のスタイルを曲げない芯の強さ。

 付き合ってしばらく経って、侑は気づいてしまった。教師に注意されても、紗枝が制服を着崩すことをやめないのは、自分の好きなものを貫き通したいからではない。校則を大人しく守っていることが、かっこ悪いと思っているからだ。
 最初に抱いた印象よりも、紗枝は子どもっぽいところがあった。
 しかし大人っぽいというのは侑が紗枝のことを知る前に、勝手に抱いていた印象なのだ。落胆するようなことはなくて、むしろ侑は安心したくらいだ。高校生で自分をしっかり持っている人なんて、きっと少ないのだ、と。

「侑、どこ見に行くの? やっぱり運動部でしょ? バスケ部とか?」
「いや、文化部。膝がアレだし」
「えっ? 手術することにしたんじゃないの!?」

 紗枝の声が教室に響き、侑は頭を抱えたくなった。授業もホームルームもすでに終わっていて、教室に残っている生徒は半分にも満たない。
 それでも、侑にとって話題にしたくないことを、大きな声で話すのはやめてほしかった。

「ごめん、紗枝。もうちょっと声抑えて」
「だって侑! どういうこと!? 文化部なんてそんなの侑らしくないよ!」
「文化部だって立派な部活だろ」

 苛立つ気持ちを抑えて、侑はなるべくいつも通りの口調で言葉を紡ぐ。

 スポーツをしているときの侑が好きだ、と紗枝は言ってくれる。告白のときだって、サッカーを真剣にやっている侑がかっこよかったから、と言っていたのを侑も覚えている。
 そんな紗枝が、怪我をしてサッカーをやめた後も、侑の彼女でいてくれたことは素直に嬉しいと思う。しかし、紗枝はいつも侑に膝の手術を勧めてくる。もう一度大好きなサッカーができるように、と。もしサッカーに戻るのが難しいなら他の競技だっていいじゃん、と紗枝は言う。
 侑のことを心配してくれているのは分かる。しかし紗枝に手術を勧められるたびに、侑は自分が責められているような気持ちになった。

「文化部なんてダサいでしょ」

 侑が部活の見学に行くと聞いて、紗枝は早とちりをしたのだ。侑が膝の手術を受けて、もう一度何かのスポーツを始める気になった、と。

 しかし実際は文化部の見学だと分かり、紗枝は失望し、落胆したのだ。だから「文化部はダサい」などという酷い言葉が出たのだろう。頭では理解できるのに、侑はなぜか腹立たしい気持ちが抑えられなかった。

「…………紗枝に何が分かるんだよ」
「え?」
「好きなものもない。何かに真剣になったこともない。そんな奴に誰かをバカにする資格なんてないでしょ」

 きつい言葉になってしまった自覚はあった。怒りのままに紡いだ言葉は、紗枝を深く傷つけたようだった。
 いつもは力強い紗枝の目が、泣きそうな色を帯びる。紗枝の目に浮かぶ涙を見て、侑はようやく言い過ぎた、と気づいたが、口にしてしまった言葉はもう戻らない。
 紗枝は何も言い返すことなく、ぎゅっと唇を噛んで教室を出て行った。二人の言い合いのせいでしん、とした教室は、気まずそうに時を取り戻す。クラスメイトたちがひそひそと侑のことを話している気がして、たまらずに侑も教室を飛び出した。


 今日は帰りたかったな、と侑は心の中で呟く。
 侑は生徒玄関に向かう途中で担任の瀬川に見つかってしまった。部活動に入りなさいといういつもの長い話が始まりそうだったため、「今日は文化部を見て回ろうと思ってるんすよ」と言って逃げ出したのだ。
 見学すると言ってしまった手前、堂々と帰るわけにもいかない。お節介な瀬川は、各文化部の顧問に「うちのクラスの真島くんが見学に行きますから」と話を通してしまうことも簡単に想像できた。
 仕方なく侑は、文化部の活動している教室を見て回ることにした。
 紗枝に強く当たってしまった罪悪感が、侑の足取りを重くしていた。

 最初は吹奏楽部。文化部の中で最も人数が多く、活動熱心なイメージがある。
 吹奏楽部のクラスメイトが、うちの吹奏楽部は文化部だけど運動部みたいなところがあるんだよ、と言っていたのを侑は思い出した。上下関係がかなり厳しく、筋トレや走り込みなどのメニューもあるらしい。

 音楽室ではちょうど合奏をしているようで、二十分ほど聴かせてもらった。音楽に詳しくない侑には、演奏が上手いのか下手なのかも分からなかった。
 音楽教師の指導は厳しそうだが、確かにそこには熱があった。真剣に音楽と向き合う、部員たちの姿は眩しく見えた。

 天文学部と科学部は少し顔を出しただけで、すぐに侑は退出させてもらった。理系科目が苦手な侑は、早々に目を回してしまったのだ。

 美術もあまり得意ではないが、見学もせずに無理だと決めつけるのはよくない。美術部員に少し話を聞いてみたところ、必ず年に一度部員は作品をコンクールに出さなければならないらしい。誰にも見せず細々と活動するならば、絵が上手くなくてもいいかもしれない。しかしコンクールに出さなければならないと言われると、侑は気遅れしてしまった。

 漫画研究部は少人数で活動しているようだった。侑も少年漫画はよく読んでいるので、文化部の中では少し興味がある部活だった。
 結果から言えば、侑は漫画研究部の部室に足を踏み入れることすらできなかった。部員は全員女子。それだけでも躊躇う理由になるのに、極めつけは部長らしき三年生女子の発言だった。

「きみが真島くん? 瀬川先生から見学に来るかもって聞いてるよ」
「あ、そうです。漫画研究部ってどんな感じなんすか? ちょっと興味があって」
「はいはい、いい質問。うちの漫研はね、ずばり、BL特化型! BLの漫画を読み、BLの良さを語り、BLの漫画を描く! そんな部活です!」

 早口で語られた言葉を聞き逃さないようにしながら、侑は首を傾げた。

「えっと、BLってなんすか?」
「ボーイズラブ。男の子同士の恋愛だね!」
「お邪魔しました」

 侑は慌てて引き返した。「あー! 真島くん! 見学していかないの?」という声が聞こえたが、侑は早足で逃げた。
 男同士の恋愛。最近では同性カップルも増えていると聞くし、恋愛は自由だと侑も思う。
 だが男と男の恋愛模様について、わざわざ見て知って語りたいかと訊かれれば、当然ノーと答える。少女漫画すら読んだことのない侑に、ボーイズラブとやらは早すぎる。


 最後に残ったのは文芸部だった。生粋の体育会系である侑は、文芸部がどんな活動をする場所なのか、想像もできない。
 少しの緊張を抱きながら、文芸部と書かれた教室をノックした。しばらく待ってみても、誰も出てこない。もう一度ドアをノックしてやはり反応がなかったので、侑はこっそり部室を覗いてみようとそっとドアを開けた。

 教室の中は電気が点いていて、一人の女子生徒が仮眠をとっているようだった。寝ているからノックに気づかなかったらしい。教室の中を見回しても、いるのは机に突っ伏している少女一人だけだった。
 邪魔をしない方がいいな、と文芸部の教室を後にしようとしたが、侑は足を止めた。エアコンが稼働しているはずなのに、教室内はじんわりと暑い。

 もしかして眠っているのではなく、熱中症で倒れているのかもしれない。それに今は倒れていなくても、この暑さの中で水分も摂らずに眠っていたら、本当に倒れてしまいそうだ。

 一度気になってしまったら、そのまま放置して帰るのは躊躇われる。
 失礼します、と断りを入れて文芸部の部室に足を踏み入れ、侑はうわ、と思わず呟いた。教室の温度計が、三十二度を示していたのだ。冷房の設定温度を下げ、風量も少し強くする。

 それから眠っている少女の肩を優しく揺すり、大丈夫ですか、と侑は声をかけた。
 うう、と小さな声が聞こえ、しばらくして少女が気怠げに頭を上げた。黒髪のポニーテールが揺れて、女子生徒の顔が見える。見覚えのある顔だった。

「あれ……? 昼休み、職員室にいた…………」

 侑が職員室で担任の瀬川から終わりのない話を聞かされていたとき、途中で助けてくれた女子生徒だった。眉よりも上で切り揃えられた前髪は、汗でぺたりと張り付いている。
 職員室で見たときは大きいと感じた黒目がちの目は、とろんとしていて眠そうに見える。数度まばたきをして、少女は首を傾げた。その頰も真っ赤に染まっていて、より幼く見えた。

「大丈夫っすか。熱中症?」
「え…………」
「何か飲み物持ってます?」

 ぼんやりとした様子の女子に問いかけると、少女は静かに首を横に振った。
 侑はバッグの中からスポーツドリンクを取り出し、彼女に差し出した。

「これ、開けてないから。飲んだ方がいいっすよ」
「あ……ありがとう、ございます」

 ペットボトルの蓋を開け、白い喉にドリンクが流し込まれていく。侑はしばらく黙って隣に立っていたが、左膝が痛みを訴えてきたため近くの椅子を借りることにした。

「俺、一組の真島です。部活の見学して回ってて、文芸部もちょっと見せてもらいたいんですけど」
「あ、えっと…………どうぞ、今日は、というか大体いつも私しかいないですけど」
「名前、なんていうんすか?」
「朝日、紬です」

 スポーツドリンクを飲んで少し復活したのか、紬はやわらかい口調で文芸部について説明してくれた。
 文芸部の部員数は現在四名。活動内容は、文章を書くこと。小説、詩、脚本、ライトノベルや児童文学、エッセイ、短歌や俳句。どんなものでもいい、と紬は言った。

「公募に挑戦するか、本にするか、ネットで公開するか、全部自由です。活動日とか時間も、決まりはなくて。一応部室はあるので出入り自由なんですけど、私以外の三人はほとんど自宅で執筆してるみたいです」

 紬のやわらかい喋り方は、耳に心地いい気がした。侑は相槌を打ちながらも、文芸部に入ることはないだろうな、と心の中で思っていた。

 理系科目が苦手だからといって、国語が得意なわけではない。特に作文などで自分で書いた文章を読み返すのが、侑はとても苦手だった。言葉では言い表し難い羞恥心に駆られてしまうのだ。

「だから、もしも真島くんが困っているなら……文芸部に籍だけ置くのもありだと思いますよ」
「えっ?」
「あ、ごめんなさい。お昼休みに瀬川先生と話してるの聞こえちゃって」
「ああ、助けてくれたもんね」

 昼休みに助けてもらったお礼を言うと、紬は嬉しそうに笑った。
 紬の言う通り、幽霊部員でもいいならば、文芸部もいいかもしれない。
 クラス担任の瀬川が、サッカーができなくなって空っぽになった侑を心配しているのは事実だ。お節介だとは思うが、いつまでも心配させているのも申し訳ないと思う。侑がどこかの部活に所属すれば、きっと瀬川の肩の荷も降りるだろう。
 そんなことを考えながら、侑は文芸部を後にした。

 翌日、侑は登校してすぐに紗枝のクラスを訪れた。本当ならば当日中に謝るべきだったのだが、紗枝が電話に出なかったのだ。『今日はひどいこと言ってごめん』と送ったメッセージにも、既読の文字はついたが返信はなかった。
 紗枝は不機嫌そうな顔で侑の呼びかけに応じた。廊下まで出てきてくれたが、侑と目を合わせようとはしない。どうやらかなり怒っているらしい。言い過ぎてしまった自覚があるので、侑は素直に謝罪の言葉を口にした。

「紗枝、昨日はごめん。言い過ぎた」
「…………」

 無言で侑を見上げる紗枝は、強い目力で怒りを訴えてきた。付き合い始めてから一年経つが、紗枝とはあまりケンカをしたことがない。たまに意見がぶつかることはあっても、いつも紗枝が折れてくれていたのだ。

「好きなものがないとか、何かに真剣になったことがないとか、そんなの俺の勝手な思い込みだ。本当にごめん」

 高校に入ってから紗枝が部活に入っていなかったことを、侑は知っている。でも部活動をしていなくても、何かに打ち込んでいる人だっているはずだ。
 表面的なところだけを見て紗枝を否定し、傷つけてしまったことは間違いない。侑が謝罪の言葉とともに頭を下げると、紗枝の冷たい声が降ってくる。

「侑って私の話、覚えてもいないんだね」

 紗枝の言葉に侑は思わず顔を上げた。表情の欠けた顔で、紗枝は話を続ける。

「私、何回か侑に話したよ。中学のとき、周りのみんなが楽しそうに部活をやってたけど、私は毎日ピアノの練習をしてた、って」

 話題にされてようやく侑も思い出した。確か紗枝は、ピアノの先生になりたいと言っていたはずだ。だから友達との遊びも断って、ずっとピアノの練習をしているのだ、と。高校に入ってからはアルバイトを始めたせいで、練習時間が減ってしまっている、とも言っていた。
 どうして忘れていたのか不思議なくらいだ。ピアノは紗枝のことを語る上で欠かせない大事なものだったはずなのに。
 侑が言葉を失っていると、紗枝は悲しそうに笑った。

「侑はたぶん、あんまり私のこと、興味ないんだよ」
「そんなこと……」
「ないって言い切れる? 怪我してしんどいのは想像できるよ。でも侑はいつも自分のことばっかりじゃん。私だって悩みとか相談したいときもあるし、話を聞いてもらいたいこともあるんだよ」

 指摘されて初めて気がついた。紗枝はいつだって侑の話を聞いてくれていた。それなのに侑は、紗枝の表情が暗くても「何かあったの」と訊くことすらしなかった。どうせ友達とケンカしたとか、そんなくだらない理由だろう、と勝手に決めつけていた。
 無意識に思っていたのかもしれない。
 怪我をしてサッカーをできなくなった自分の方が可哀想だ、と。侑の苦しさに比べたら、紗枝の抱く悩みなんて大したことはないに違いない、と。

 ちょっと距離を置こう、と紗枝は言った。侑は項垂れて、頷くことしかできなかった。本当にごめん、と紗枝の背中に投げかけた言葉は、届いたのか分からない。紗枝は立ち止まることのないまま、教室の中へと戻っていった。


 自分の教室に戻った侑は、机に頬杖をつきながらぼんやりとしていた。
 紗枝を傷つけてしまったことが、侑の胸に重くのしかかっていた。昨日の発言が原因だと思っていたのに、紗枝はもっと前から不満を抱えていたのだ。それでも怪我をして自分のことで精一杯の侑を気遣い、我慢してくれていた。

「………………悲劇のヒーローぶって、かっこ悪いな」

 ぼそりと呟いた言葉は、教室の喧騒にかき消された。

 授業なんて受ける気分ではなかったが、侑は何とかその日の授業を全て乗り切った。早く帰りたいという思いが強かったのに思いとどまれたのは、紗枝への罪悪感のせいかもしれない。侑が逃げ帰ったら、紗枝が悪者になってしまう気がしたのだ。二人のケンカ事情を詳しく知っている人なんているはずがないので、結局は侑の自己満足に過ぎないのだが。
 帰りのホームルームまで終えると、早々に侑はカバンを持って立ち上がった。しかし教室を出ようとする侑を、担任の瀬川が呼び止める。

「真島くん、部活動のことなんだけどね」
「あー…………」

 あからさまに嫌そうな声が出てしまったが、侑の反応に気づきもせず、瀬川は言葉を続ける。

「昨日文化部の見学に行ったんでしょう? どうかしら、気なる部活はあった?」
「いや……」

 瀬川が心配してくれているのは分かる。でも今は放っておいてほしかった。侑の気持ちを知るはずもなく、瀬川は熱心に天文学部の良さを語っている。いつも通り右から左へ聞き流そうとしたが、侑はすぐに我慢の限界を迎えた。
 朝から気持ちが落ち込んでいて、早く一人になりたいのだ。そんな状態で、ひとかけらも興味のない部活の話を聞かされるのは、耐えられなかった。

「あの、もう天文学部の良さは分かりました」
「本当? じゃあ天文学部に入部してくれるのね?」
「いえ。それは……」
「どうして? 部員もみんないい子ばかりだし、途中入部も歓迎するわよ」

 きっと瀬川の言う通り、天文学部はいい環境なのだろう。何より顧問の瀬川がお節介ではあるけれど面倒見も良いので、何かあれば頼ることもできる。しかしどんなに活動環境が良かったとしても、肝心の活動内容に興味が持てないのだからどうしようもない。
 侑はいい断り文句はないだろうか、と考えを巡らせ、そして思い出した。

『もしも真島くんが困っているなら……文芸部に籍だけ置くのもありだと思いますよ』

 昨日文芸部で提案されたこと。朝日紬のやわらかい声が脳内で再生され、侑は無意識に言葉を紡いでいた。

「文芸部に入ることにしたんです……!」
「……文芸部?」
「そ、そうです……」
「あら、いいじゃない。文芸部で楽しく活動できるといいわね」

 瀬川の声には安堵の色が滲んでいて、心から侑のことを心配してくれていたことが伝わってきた。
 せっかく心配してくれたのに、侑は適当な嘘を吐いてしまった。罪悪感を抱きながら、侑は失礼します、と瀬川に頭を下げた。
 幽霊部員になることは間違いないが、入部すると言ってしまったので、文芸部に入部届を出さなければいけない。
 侑は瀬川の視線から逃げるように、文芸部の部室の方へと足を向けた。


 まさか二日続けて文芸部に足を踏み入れることになるとは。
 昨日と同じように、侑は文芸部のドアをノックした。昨日とは違い、小さな返事の後にドアが開かれる。ドアの隙間からちょこんと顔を出したのは、紬だった。

「あれ……真島くん」
「えーっと、成り行きで文芸部に入ることになって……その、一応挨拶というか、顔出しというか」
「そうなんですね。よかった」

 紬がふわりと笑うので、侑は思わず首を傾げる。よかった、と紬に言われた理由が分からなかったからだ。部員数でも足りないの? と侑が訊ねると、紬は小さく首を横に振ってみせた。

「うちの文芸部出身で、作家になった人がいるんです。その人が寄付をしてくれるから、人数が少なくても廃部になったりはしないんですけど」

 でも、いつも私一人だからちょっと寂しくて。
 続いた言葉に、侑はどう反応していいか分からなかった。確かに昨日紬が説明してくれた通りなら、他にも部員は三人いるが、全員自宅で執筆をしている、という話だった。学校の課題以外で文章を書いたことのない侑には分からないが、執筆しやすい環境などが人それぞれ違うのかもしれない。
 しかし、一人で活動するのが寂しいという紬の悩みを、侑が解決してあげられるわけではない。侑は瀬川のお節介から逃れるために、文芸部に籍を置ければそれでいいのだから。

「あー、えっと、朝日さんには悪いんだけど、俺、文章とか書いたことなくて」
「うん、いいんです。真島くんが何かを書くつもりはなくても、文芸部に来てくれただけで嬉しいですから」

 侑が全てを言葉にしなくても、紬は侑の考えを察してくれたようだった。
 幽霊部員でもいいですよ、と笑って、それから部室は好きに使ってくださいと言ってくれた。
 文芸部の部室は広いとは言えないが、とても静かだった。部室棟の中でも端に位置しているからかもしれない。教室の騒がしさが伝わってこないのは、侑にとっても心地良かった。
 それに昨日は気づかなかったが、サッカー部の活動しているグラウンドは、文芸部の部室からは見えない。サッカーに関するものが視界に入ったり、音として聞こえてくるだけで、侑の心は乱されてしまう。そういう意味では、俗世から切り離されたような文芸部の部室は、侑の避難場所としては最適なのかもしれない。

「朝日さん。俺はたぶん、文章とか書けないけどさ。部室には、たまに来てもいいかな……?」

 自分勝手な申し出だとは分かっていた。部室を好きに使っていい、と紬は言ってくれたが、本当は一人の方が作業に集中できるかもしれない。
 絶対に朝日さんの邪魔はしないから、と侑が言葉を付け足すと、紬は両手で口元を押さえながら小さな声で笑った。

「ふふ、もちろんです。それに私、こう見えても集中力には自信があるので。真島くんに声をかけられたくらいじゃ手は止めないですよ」
「何それ。変なの」
「はい。変なんです、私」

 くすくすと楽しそうに笑いながら、紬が侑を見上げた。小さな左手が侑の前に差し出される。侑が首を傾げると、紬はやわらかい声で言った。

「ようこそ、文芸部へ」
「あ、ああ、なるほど。よろしくね、朝日さん」
「はい、よろしくお願いします。真島くん」

 手の汗を拭い、侑は紬の手を取った。侑よりもずっと小さい紬の手は、夏だからだろうか。とてもあたたかく感じた。

 紬に聞いた話によると、文芸部の顧問は主に三年生の授業を担当している教師らしい。名前と顔は知っているが、言葉を交わしたことのない男性教師だ。定年間近で歳はとっているが、物腰がやわらかく、生徒人気も高い。
 侑が入部届を書いて提出しにいくと、「ああ、二年の真島くんですね。朝日さんから聞いていますよ」と教師は優しく笑った。

「たくさん文章に触れてください。きっと真島くんを変える出会いがありますよ」

 普段本を読まない侑は、顧問の言葉の意味がいまいち分からなかった。しかし放課後紬に訊いてみると、楽しそうに笑いながら話してくれた。

「小説を読んでいるとね、びっくりすることがたくさんあるんです。自分では思いつかない考え方とか、価値観とか……。物語を通じて、作家さんから教えてもらっているみたいに」
「ふーん。朝日さんも経験したことある? 自分を変えるような文章との出会いってやつ」

 どうでしょう、と紬は曖昧に答えて笑う。はっきりとは教えてくれなかったが、紬はもう出会っているのかもしれない、と侑は思った。
 自分の考えや価値観を変えるような本。読書はあまり得意ではないが、そんな一冊に出会えるなら、本を読んでみるのもいいかもしれない。侑はそんなことを考えながら、ぬるくなったスポーツドリンクを飲み干した。


 たまに、と言ったにも関わらず、侑は文芸部の部室にほぼ毎日顔を出すようになった。部活動に対してやる気が出てきたわけではない。狭くて静かな部室は居心地がよかったし、早い時間に家に帰るのは気が重かったからだ。

 侑の母は昔から、少し過保護な人だった。ちょっとした怪我や体調不良でも、必ず病院に連れて行かれたのを侑は覚えている。
 両親は結婚してからなかなか子宝に恵まれなかった。辛い不妊治療を経て授かったのが、侑なのだと聞いたことがある。両親にとっては念願の子ども、それも一人っ子なので、母が侑を過剰に心配する理由は分かっているつもりだ。

 しかし、膝の怪我をしてから、母は侑のことを腫れ物に触るように扱った。どんなときも侑の顔色を伺い、機嫌を損ねてしまわないか、傷つけてしまわないかと心配しているようだった。
 母が優しくしてくれるたびに、自分はもうサッカーができないのだと思い知る気がして、憂鬱になった。あえて膝の怪我については触れないようにしてくれているのに、勝手に落ち込んでしまう自分にも嫌気がさしていた。

 彼女である紗枝の前では悲劇のヒーローぶっていたのに、おかしな話だ。心配してほしい、同情してほしい。そんな気持ちと共に、そっとしておいてほしい、という思いが侑の中にはあるらしい。
 きっと周囲の人からは面倒な男だと思われているに違いない。そして侑自身も自分のことを面倒な性格だな、と思ってしまっているのだから困ったものだ。

 膝の怪我をしてからは、放課後は紗枝と過ごすことが多かった。しかし侑が紗枝を傷つけてしまったせいで、今は距離を置いている状態だ。
 家に帰るのは気が重い、一緒に時間を潰してくれる彼女にも連絡しづらい。
 必然的に、侑が文芸部にいる時間は増えていった。

 紬の執筆活動の邪魔にならないかと最初は心配していたのだが、それが杞憂だと気づくのに時間はかからなかった。

 今も部室には、侑と紬の二人きり。しかし会話はほとんど生じない。部室に響くのは、紬がノートに文字を書く音と、エアコンの稼働音だけだ。
 紬の作業する机には、同じノートが二冊置かれている。最近ようやく三冊目に入ったんです、と紬は恥ずかしそうに笑っていた。ノート二冊分というのは、どのくらいの文量なのだろう。
 たとえば本屋に並ぶ小説にも、薄いものから分厚いものまで存在している。紬の書いている文章は、本にするとどのくらいの厚さになるのか、侑は少しだけ気になった。


 紬が文字を書いている間は、侑も読書に挑戦している。
 幼い頃から本を読む習慣がなかったため、最初のうちは数ページ読んでは居眠りをしていた。文字を目で追うのも時間がかかるし、読んだ文字を頭の中で処理するのはもっと時間がかかる。仮にも文芸部の部員なのに、少し本を読んだだけで眠ってしまう侑を、紬は怒ったりしなかった。それどころかどこか嬉しそうな表情で、「おすすめの本を持ってきますね」と言ってくれた。

 翌日に紬が持ってきてくれたのは、文庫本の中でもかなり薄いものだった。

「これはライトノベル寄りで、文章にも癖が少ないので、読みやすいと思いますよ」
「ん? 読みやすいとか読みにくいとか、普通の人でもそういう感覚ってあるの?」

 なかなかページが進まないのは、てっきり侑の読書経験が浅すぎるせいだと思っていた。文章を読む能力や想像力が極端に足りないのだ、と。
 しかし紬は眉を下げて笑って、「私にも読みにくい本ってありますよ」と教えてくれた。

「たとえば真島くんが昨日まで読もうとしていた本ですけど……。作者の文章の癖が強いんです。内容は間違いなく名作なので読んで損はないんですけど、文章のテンポ感が苦手だっていう人もいるらしいですよ」

 文章にテンポ感、という言葉は不似合いな気がした。文字はそこに並んでいるだけで、音やリズムを発するものではないから。
 しかし侑よりもたくさん本を読んできた紬が言うのだから、読書家になると文章のテンポ感とやらも分かるようになるのかもしれない。

「あの本、『読書、おすすめ』で検索して出てきたやつなんだよね。図書室にあったからちょうどいいと思ってさ」
「確かにおすすめではありますけど、最初の一冊としてはかなりハードルが高いかもしれませんね」

 紬がそう言って、苦笑する。それから紬は自宅から持ってきた本を侑に手渡した。受け取った本は小さくて軽い。読むの遅いけど大丈夫? と侑が訊ねると、紬はやわらかく笑った。

「私はもう何回も読んでますから。返すのはいつでもいいですよ」
「そうなの? じゃあ借りるね、ありがとう」

 侑が高校に入学してから初めて図書室で借りた本は、最後まで読まれることなく返却することになった。

 代わりに侑の手元にやってきたのは、紬のおすすめの小説だ。紬が作業を始めてすぐに、侑も借りた本を開いてみた。文章は堅苦しくなくて、難しい単語もほとんどないからだろうか。一文がするりと侑の頭に飲み込まれていく。文章を飾る言葉が少ないから、一文も短い。それでいて文章を読み進めるごとに、頭の中でシーンが再生された。
 また寝てしまうのではないかと不安だったのに、気づけば侑は本の世界に入り込んでいた。

「真島くん、休憩しませんか」
「…………えっ、あれ? もう一時間も経ったの?」
「はい! 真島くん、すごく集中してましたね」

 いつの間にか紬は執筆を中断していて、侑にペットボトルを差し出している。ありがとう、と言って受け取ったのは、緑茶だった。女子高生にしては渋いセレクトだ。

「あ、朝日さん。栞みたいなものないかな」
「ありますよ、どうぞ」

 水色の栞は花柄で少し気恥ずかしかったが、本に挟んでしまえば見えなくなるのだから関係ない。侑は読みかけのページに栞を挟み、本を閉じた。

「なんかすごい。昨日まで読んでたやつと全然違った! 寝なかったし!」

 緑茶を飲みながら侑が興奮気味に話すと、紬は手で口元を隠しながらくすくすと笑った。

「四分の一くらい読み進めましたね。昨日までは四ページごとにうとうとしていたのが嘘みたいです」
「いや四ページは言い過ぎでしょ! 五ページくらいは読んでたよ、たぶん……」

 そう言いながら声が小さくなっていってしまうのは、実のところ四ページも読めていたか不安だったからだ。何日かかけて何とか冒頭を読み進めることはできたが、内容はほとんど頭に入っていない。
 それがどうだろう。今日侑が読んでいた話は、頭の中で映像が流れ出しそうだったのだ。同じ本でもこんなに違いがあるのか、と感動しながら語っていると、紬が目を細めて笑った。

「真島くんが小説を嫌いにならなくてよかったです」
「え?」
「世界にはたくさん素敵な物語があるのに、知らないまま生きていくのはもったいないですよ」

 紬が口にしたのは、読書をしてこなかった侑には思いつかない考え方だった。
 ペットボトルを持つ紬の手がふと視界に入る。右手の小指側は、少し黒く汚れていた。シャープペンの芯が擦れた跡だろうか。
 紬の小さな手を眺めながら、彼女はどんな文章を書くのだろう、と侑はぼんやり考えた。

 侑は三日ほどかけて、文芸部での最初の一冊を読み切ることができた。紬が貸してくれたのは、高校生を主人公にした恋愛小説だ。男子高校生の部活と恋愛を描いた青春もので、主人公に深く共感できたことも、侑が小説を読了できた理由の一つかもしれない。
 一冊読み終えた後は、紬に「感想をまとめてみませんか」と提案された。

「えっ、読書感想文ってこと? 俺、自慢じゃないけどすごい苦手だよ」
「それはなんていうか……本当に自慢じゃないですね」
「でしょ?」

 紬が小さく笑うので、侑は得意気に胸を張る。実際読書感想文や作文の類は小学生の頃から苦手なのだ。侑は悪知恵が働く子どもだったので、インターネットで調べた本のあらすじをもとに毎回適当な文章を書いていた。本を読まずに書いていることは、教師にバレて当然何度も怒られた。しかし侑は中学校を卒業するまで、その手法を貫き通した。読書も作文も苦手だったからだ。
 高校に入ってからは、長期休みの課題に作文はなくなった。そのことに安堵していた侑が、まさか文芸部に入るなんて誰も想像できなかっただろう。

「感想は一言でもいいと思います。本のタイトルと、その本を読んで真島くんがどう感じたかをメモしておくんです。あとで読み返して、どんな本だったか思い出せるように」
「ふーん。朝日さんもやってるの?」
「やってますよ」

 そう言って紬がカバンの中から取り出したのは、手のひらにおさまってしまうくらい小さいノートだった。
 見てもいいと言われたのでノートを開いてみると、ページごとに本のあらすじと感想がまとめられていた。
 紬の字は少し丸みを帯びているが、丁寧で読みやすい。感想の内容も「描写が生々しくて苦手かも……」や、「すっごくきゅんきゅんした!」と、親しみやすい文体で書かれている。

「感想文っていうより、手紙みたいだね」
「あ、そうですね。未来の自分宛ての手紙かもしれません」
「こんな感じでいいなら俺でも書けるかも!」

 文章を書くのは得意ではないが、手紙のようなイメージならば侑にも書きやすい気がした。
 早速ルーズリーフとペンを取り出し、本のタイトルを書き込む。あらすじをまとめようとして、五分ほど頭を悩ませたところで侑は音を上げた。

「わかんない! あらすじってなに!?」
「ふふ、最初はどうやって書けばいいか分からないですよね。でもすごく簡単でいいと思うんです」

 たとえば、と紬が何個か案を出してくれる。

『主人公がバスケを頑張りながら、マネージャーと恋をする話。』
『真剣に部活に取り組みながら、恋もしている主人公。ラストはチーム初勝利。ずっと応援していてくれたマネージャーに告白する。』
『マネージャーのことが好きだけど告白できない主人公。弱小バスケ部で、勝ったら告白すると決めて、頑張る話。』

 提案されたあらすじはとてもシンプルで、余計な情報は何も含まれていない。むしろシンプルすぎてどんな本か分からないのでは、と侑は首を傾げる。
 紬は笑いながら「自分が分かればいいんですよ」と言った。紬のアドバイスに従って侑はもう一度ルーズリーフと向かい合う。

『バスケが大好きな主人公が、部活も恋愛も頑張る話。』

 侑が書いたものは、紬が案として挙げてくれたものよりも、さらにシンプルになった。しかし侑が後で読み返したときに分かれば問題ないとのことなので、そのまま感想に移ることにした。

『自分のためだけじゃなくて、好きな人のためにも頑張れるのはかっこいいと思った。あとバスケやりたくなった。』

 かなり悩んだ末に書いたのは、とても短い感想だった。
 あまり厚い本ではなかったが、それでも本を一冊分読んだのに、たったの二文しか感想が書けない。侑はその事実に驚いてしまった。
 読んでいる間は心が動かされて、共感したり、応援する気持ちがあったはずなのに。いざ言葉にしようとするとまとまらない。

「…………感想書くのも難しいんだな。俺、やっぱり文章書くのとか向いてないかも……」
「そんなことないですよ。真島くんのも立派な感想です!」

 ルーズリーフの表面をそっと撫でて、紬が笑う。紬はいつも通りのやわらかい口調なのに、なぜか侑の耳には力強く聞こえた気がした。


 文芸部に入って三週間が経った。紬のおすすめの本も、四冊目に突入している。読書初心者だった侑にとっては、かなりハイペースだ。まだ三冊分だが、きちんと本のタイトルとあらすじ、感想も記録している。
 読むことも書くことも苦手だったが、三冊も小説を読めた、というのは侑の自信に繋がっていた。そして同時に、少しだけ文芸部の活動にも興味が出てきた。

「ね、朝日さんってさ、どんな話書いてるの? 小説だよね?」

 休憩のタイミングで紬に声をかけると、大きな目をまたたかせ、紬が首を傾げる。
 それから頰を真っ赤に染めて、侑の視線から逃げるように紬は俯いた。

「あの…………恋愛、小説なんですけど……たぶんあんまり上手ではないです……」
「えっ、そうなの? 朝日さん絶対上手いと思うけど……」

 侑はまだ入部して三週間だが、短い付き合いでも紬が頭のいい人だということには気づいている。勉強が得意、という意味ではない。学業成績も悪くないとは思うが、紬の頭の良さはそれだけではない。
 感情を言葉にすること。言葉の選び方。ものの教え方。会話のレスポンスの速さ。
 何気ないことかもしれないが、侑は密かに感心していた。頭の良さが直接文章の上手さに直結するわけではないかもしれない。でも、紬は言葉の選び方もきれいなので、彼女の書いた文章はきっと読みやすいのだろうと想像している。

「なんでしょう、文章がふわふわしているような気がして……。自分で読み返してみても、直すのも自分なのであんまり分からないんですけど」

 文章がふわふわしている。
 曖昧な表現に、侑は首を傾げるしかなかった。それからふと思い出したのは、最近調べてみた小説投稿サイトのことだ。

「えーっと俺もこの間調べたばっかりだから全然詳しくないんだけどさ、なんか小説を投稿できるサイトとかあるらしいじゃん? 朝日さんはそういうのやってないの?」

 少しだけ文芸部の活動に興味が湧いた侑は、試しに小説の書き方を検索してみた。そのときに見つけたのが、小説を投稿するサイトだ。投稿数は十万を超えていて、侑は目を丸くしてしばらく固まってしまった。
 世の中には趣味で小説を書いている人がたくさんいるらしい。専用のサイトに小説を公開すると、読書好きの人たちが読んでくれるようだった。文章を書く人は、見知らぬ誰かに手軽に自分の作品を読んでもらえる。読むのが好きな人も、ウェブ上で無料で読むことができる。どちら側にも利点のあるいいシステムだ。

「私は……ネットには公開してないんです。手書きだし、知らない誰かに読んでもらうのも、なんかこわくて……」
「こわいってなんで?」
「酷評…………えっと、下手くそって言われたりしないかなって、思っちゃうんです」

 侑は紬の書いた小説を読んだことがない。勝手に上手いだろうと思い込んでいるけれど、実際には侑と同じくらい拙い文章を書くのかもしれない。
 でも、仮に上手くはなかったとしても、侑は紬の小説を読んでみたい、と思うのだ。

「たとえばさ、俺が最初の読者になる、とか…………ダメ?」
「えっ?」
「俺は読むの遅いし、感想も上手く伝えられる自信はないけど…………朝日さんの小説、気になるなーって」

 侑の素直な言葉に、紬は眉を下げて困ったように笑った。小さな口から紡がれたのは、悲しい言葉だった。

「中学生の頃、一度だけ母に見せたことがあるんです。短編だったんですけど……。あなたには才能がないから小説はやめなさいって言われちゃいました」
「…………それは、ひどくない?」

 思わず口にした侑の言葉に、紬は静かに首を横に振る。そして悲しそうな表情で、少しだけ家の話をしてくれた。
 紬の母親は、出版社で編集の仕事をしていたらしい。そこで出会ったのが、一人の売れない小説家。紬の父親だという。
 しかし作家の仕事だけでは生活ができなかった。紬の父は今、会社勤めをしながら小説を書いているそうだ。

「母はそんな父の苦労を知っているから、私に中途半端な夢を見させたくないんだと思います」
「夢を見るのは自由じゃん。そもそも朝日さんは小説家になりたいの?」

 侑の直球すぎる質問に、紬は臆することなく答えた。いつものやわらかい喋り方で、強い決意を口にする。

「…………なりたいです。母は無理だって言いますけど、私は小説を一生書き続けたいんです」

 紬の目がまっすぐに侑を見つめていた。
 その目を、侑は知っていた。サッカーに夢中になっていた頃の侑と、同じ目をしていたのだ。真剣に、ひたむきに、好きなものを追いかける。才能があるかどうかなんて関係ない。好きだから夢中になれる。努力を努力とも思わずに、誰よりも一生懸命になれるのだ。
 紬の夢を応援したい、という気持ちが侑の中に生まれた。まだ出会ってわずか三週間。それでも紬が毎日真剣に文章を書き続けていることを、侑は知っている。一文ずつ丁寧に、ときに悩んで机に顔を突っ伏しながらも、紬は自分の作品と向き合い続けている。

「やっぱりさ、朝日さんの小説、サイトで公開しようよ。ああいうサイトってプロの人も見てたりしない?」
「え?」
「もしくは出版社に持って行って、読んでもらうとか! ほら、漫画とかでよく聞くじゃん…………持ち込み? ってやつ!」
「小説は出版社に持ち込みってほとんどしないですよ……?」
「そうなの!? でもなんか方法あるでしょ! 小説家として本を出す方法!」

 誰もが最初は初心者だったはずだから、アマチュアからプロになる方法があるはずなのだ。スポーツ選手が大会で優秀な成績を残し、プロチームからスカウトを受けることがあるように。もしくは入団試験のような何かが。

「新人賞とかに応募して、賞を獲れれば書籍化できることもあります。でもああいう公募は、最近は手書き不可の場合が多いみたいなんです……」
「えっじゃあなんで朝日さんは手書きで書いてるの!?」
「前はスマホで書いてたんですけど……お母さんにデータ消されちゃって……。それから手書きに切り替えたんです。これなら勉強してるって思ってくれるので」

 いくら娘に茨の道を進ませたくないからといって、紬の母はやり過ぎだ、と侑は思ってしまう。
 紬は親の反対を押し切って、それでも夢を叶えようとしている。大好きな小説を諦めたくなくて、どうにかして作品を完成させようとしているのだ。
 ふと、侑の頭に一つの案が浮かんだ。

「朝日さん。俺に手伝わせてよ」

 紬が不思議そうな表情で首を傾げる。ポニーテールがゆらりと揺れた。

「朝日さんの小説を、俺がスマホに打ち込む。データ化すれば、なんたら賞? とかにも応募できるんでしょ?」
「ええっ? な、なんで……だって、絶対大変ですよ……!?」
「なんで、って…………朝日さんが夢を叶えるところ、見たいから」

 紬は静かに息を飲んだ。そして両手で顔を覆い、そのまま俯いてしまう。
 何かまずいことを言ってしまっただろうか、と侑が慌てていると、紬の小さな声が部室に響いた。
 ありがとう、と呟いた声は、震えている気がした。

 夏休みが始まる直前、侑は彼女である紗枝に連絡をしてみた。距離を置きたい、という紗枝の気持ちを尊重するべきだとは思ったが、このままでは高校二年の貴重な夏休みを、侑のせいで台無しにしてしまう気がしたからだ。
 意外にも紗枝は二つ返事で侑の呼び出しに応じてくれた。日曜日の午後、二人で何度も来たことのあるカフェで待ち合わせた。

「ごめん、急に呼び出して」
「ううん。侑から声をかけてくれて嬉しい」

 細い肩を惜しげもなく晒す、オフショルダーのトップス。黒のミニスカートも丈が短くて、歩くたびに太ももがちらちらと見えてしまっている。
 紗枝は肌の見えるような服装が好きなので、指摘したところで意味はない。

 カフェに入ると、紗枝はいつも通りアイスレモンティーを注文した。ケーキは食べないの? と侑が訊ねると、半分こしてくれるなら食べる、と紗枝はいたずらっぽく笑った。

 不思議なことに、紗枝は上機嫌だった。まるで怒っていたことなど忘れているかのように、にこにこと笑みを浮かべている。
 いちごがたっぷり乗ったタルトを、丁寧に一口サイズに切り分けながら、侑は紗枝よりも先に口を開いた。

「この間の話だけどさ。俺、本当に自分のことしか考えてなくて、紗枝のこと全然大事にできてなかった。本当にごめん」
「ううん、いいよ。私も怒りすぎちゃった、ごめんね」
「紗枝は何も悪くないよ。怒って当然のことを俺がやってきたんだから」

 侑の言葉に、紗枝は何も反応しなかった。代わりに紗枝はいちごタルトを口に含み、おいしいと小さく呟いた。
 少しの間、沈黙が続いた。以前は気にならなかったはずの無言の時間が、今はやけに息苦しい。
 そんな考えを頭から振り払うように、侑は無理矢理口を開いた。

「紗枝は会ってなかった間、何してた?」
「……私はほとんどバイトかな。学校終わったらバイトに行って、帰ったらピアノの練習して……。その繰り返しだったよ」
「そっか。体調とか崩してない?」

 紗枝は笑いながら頷いて、「こう見えて体力はあるんだよ」とありもしない力こぶを作るふりをした。

 それから侑はどんな風に過ごしてた? と訊かれたので、侑は文芸部に入ったことを紗枝に報告した。紗枝は目を丸くして、首を傾げる。

「文芸部……って小説とか書くところだよね? 侑、文章書くの苦手じゃなかったっけ? ほら、手紙の話とか」
「あー……あったね。確かに」

 紗枝と付き合い始めたとき、手紙のやり取りをしてみたいと言われたことがある。そのときに侑は、「考えてることを文章にするの苦手なんだよ。だから手紙も絶対無理」と断固拒否したのだ。
 懐かしい話を紗枝に掘り返されて、侑は気恥ずかしい気持ちに襲われた。しかし一年前の侑が、文章の読み書きに対して一切関心がなかったのも事実だ。

「いや、最初は幽霊部員のつもりだったんだよ。瀬川先生、俺がどこかの部活に入るまで見守るつもりみたいだったし。とりあえず入部だけすればいいかなって」
「えっ。じゃあ普通に活動してるの?」
「うん。まだ読書しかしてないけどね。部員の人におすすめしてもらった本を読んで、勉強してる」

 紗枝は文芸部について詳しく聞きたがった。部員の人数や、男女比。何年何組で、どんな名前の生徒か。活動内容よりもメンバーに興味があるようで、侑は分かる限りで答えることにした。

「部員は俺を含めて五人、だけど俺も一人しか会ったことないんだよ。その人の話では、あとの部員はみんな三年生で、男二人に女一人らしい」
「ふーん。じゃあ会ったことある残りの一人は? 何年生? 男? 女?」

 前のめりになって質問してくる紗枝に、侑は丁寧に答えた。もしかして紗枝も文芸部に興味を持って、入りたいと思っているのかもしれない、と思ったのだ。

「同じ二年の女の子だよ。クラスは分かんないけど、朝日さんっていう子」
「…………女の子なんだ」
「うん。真面目で大人しい感じだから紗枝とはちょっとタイプが違うけど、優しくていい人だよ」

 ふーん、と応えた紗枝の声はどこか冷たい気がした。侑は驚いて紗枝の表情を伺うが、変わらずに笑顔を浮かべている。声の変化は侑の気のせいだったのかもしれない。
 紗枝は話題を変えて、「膝の調子はどう?」と訊ねてきた。侑にとってあまり触れたくない話題だが、しぶしぶ答える。

「相変わらずかな。膝が不安定な感じでこわくて走れないし、変な体重のかけ方をしたりすると痛いときもある」
「…………そっか、やっぱり手術はしたくない?」

 紗枝の質問に、たぶんしないと思う、と侑は答えた。
 膝の手術をして、リハビリをすれば、またスポーツができるようになる。多くのスポーツ選手が、侑と同じ怪我を乗り越えて、試合に復帰しているらしい。でも一方で、怪我をする前のようには戻れない患者もいる。

 怪我をしてすぐの頃、侑は自暴自棄になっていた。
 どうせ手術とリハビリをしても、もうサッカーの試合には出られない。侑が必死に遅れを取り戻そうと努力している間に、チームメイトは先へ進んでいるのだから。試合に出られないなら意味がない。そう思っていた。

 でも最近の侑は、手術をしたくない理由は、もしかしたらそれだけではないのかもしれない、と気づき始めている。

 もしも手術が成功して、リハビリも乗り越えて。それでも思うようにスポーツができなかったら? その可能性を考えるのが、こわいのだ。

 大変かもしれないけれど、手術とリハビリの道を選べば、またスポーツができる。試合には出られなくても、大好きなサッカーに復帰できる。
 その可能性を、残しておきたいのかもしれない。

「侑はもう、サッカーをしないんだね……」
「…………まあ、できないし」
「うん、そうだよね。ごめん。でも私、サッカーをしてるときの侑、かっこよくて大好きだったよ」
「ん。でも俺、案外文芸部の活動は気に入ってるよ。思ってたよりも楽しい」
「………………そうなんだ」

 紗枝はそう言って、席を立った。お手洗いにでも行くのかと思ったが、紗枝がバッグを持ったので侑は慌てて立ち上がる。

「帰るの?」
「うん、今日はね。また明日、学校でね」

 この後はバイトだから送らなくていいよ、と紗枝が言うので、カフェでそのまま解散した。


 終業式が月曜日だったので、夏休みの前に一日だけ登校しなければならなかった。どうせなら金曜日に終業式をしてくれれば、土曜日から夏休みに入れたのにな、と侑はクラスメイトと笑っていた。
 ホームルームが始まるにはまだ早い時間に、その知らせはやってきた。

「おい真島ー! お前の彼女がすごいケンカしてるけど、止めなくて大丈夫?」
「え? 紗枝がケンカ? どこで?」
「五組。なんかポニーテールの大人しそうな女子に掴みかかってたけど」

 親切心で伝えてくれたクラスメイトにお礼を残し、侑は慌てて教室を飛び出した。小走りしただけで、膝が抜けそうになり、早足で歩くことにした。本当は全力で走って駆けつけたいけれど、侑の膝は言うことを聞いてくれない。

 ポニーテールの大人しそうな女子。その特徴だけ取り上げるならば、学校内に何人も該当する生徒がいるだろう。
 しかし侑の頭に真っ先に浮かんだのは、同じ文芸部の紬の顔だった。

 五組に近づくにつれて、騒ぎが大きくなってくる。教室内を覗き込む見物人を押し退けて、侑は五組に足を踏み入れた。
 そこには紬の小さな身体を床に押し倒し、泣きながら怒鳴っている紗枝の姿があった。

「あんたがっ! 侑に変なこと吹き込んだんでしょ……! あんたのせいで侑は本当にサッカーを諦めちゃった! ずっと悩んでたのに……! まだ戻る道はあったのに! あんたが侑からサッカーを奪ったのよ! 侑はスポーツしてるときが一番かっこいいのに……! サッカーをしてるときの侑が一番輝いてるのに…………っ! あんたのせいで侑が、サッカーじゃなくてもいいって思っちゃったんだ……! 責任とってよ! 責任とって侑の前から消えてよ!!!」

 大粒の涙をこぼしながら怒鳴り続ける紗枝を、侑は後ろから引っ張った。腕を引くだけでは紗枝は降り向こうともしなかったので、紗枝の脇の下に腕を無理矢理押し込み、身体を抱え上げる。紗枝は細身だが、それでも膝が安定しない侑には、暴れる人を一人抱えるのはかなり無理があった。

 尻もちをつく形で紗枝ごと後ろに倒れ込んだ。まだ暴れ続けている様子から察するに、紗枝に怪我はなかったらしい。
 侑は全身の痛みを堪えて必死に呼びかけた。

「紗枝! 紗枝落ち着いて! 頼むから!」
「侑を返してよ!! 昔の侑を返して!! 私の大好きな侑を返してよっ……!」
「紗枝っ!! 聞いて! 紗枝!!」

 侑のことを叫んでいるはずなのに、不思議なことに侑の声は紗枝に届かない。再び紬に襲い掛かろうとする紗枝を押さえながら、回らない頭で侑は必死に考える。

 何かないか、紗枝を大人しくさせる方法。落ち着かせる方法。今は興奮状態で周りが見えていない。声も聞こえていない。誰かが怪我をしてしまう前に。何か、何か…………!

 侑は何度も紗枝の名前を呼んだ。しかし何度呼んでも侑の声は紗枝の耳に届いていないようだった。身体を押さえ付けているのが侑だということにも気づいていない。
 どんどん騒ぎは大きくなるけれど、一向に紗枝の興奮はおさまらない。泣きじゃくりながら、口汚い言葉を紬に浴びせ続けていた。

 そんな中、ずっと黙っていた紬が口を開いた。紗枝の怒鳴る声とざわめく教室の喧騒の合間を縫うように、静かな声が不思議と侑の耳に届いた。

「…………知ってます、私だって。サッカーをしてるときの真島くんが楽しそうなのも、かっこいいのも知ってますよ」

 紬の声だけが、紗枝の耳に届いているようだった。
 どんなに侑が呼びかけても止まらなかったのに、紗枝は口を噤んで紬の言葉に耳を傾けている。

「でもサッカーをしていなくても真島くんは真島くんです。どんな瞬間だってかっこいいですよ。サッカーをしてるときの真島くんが一番っていうのは、あなたの理想を押し付けてるだけです……!」

 紗枝が息を飲んだ。同時に全身の力が抜けて、侑の身体の上に崩れ落ちてくる。紗枝が怪我をしないように慎重に身体を起こしながら、侑は自分も起き上がった。全身が痛いけれど、紗枝を紬から引き離すなら今しかない。

「紗枝。聞こえる?」
「…………………うん」
「ちょっと外に出よう。終業式が始まっちゃうかもしれないけど、式には出られないでしょ」

 紗枝の身体を支えながら、侑は人をかき分けて教室を出る。去り際に振り返ると、紬と目が合った。
 侑が紬と言葉を交わしてしまうと、また紗枝が興奮してしまうかもしれない。侑は声には出さず、ごめんね、と唇を動かす。疲れ切ったような表情を浮かべている紬は、侑の唇を読み取ってくれたらしい。首を横に振って、静かに笑った。