真島侑は職員室のエアコンから出る涼しい風を浴びながら、教員の長ったらしい話を黙って聞いていた。

 茶色い癖毛の髪は、梅雨の間ずっと侑の頭を悩ませていた。ようやく梅雨があけたと思えば、今度は暑さとの戦いになる。

 まだ七月に入ったばかりだというのに、すでに猛暑日を記録している。今日の最高気温は三十八度。人の体温よりも高い温度の中、活動するのは骨が折れる。各教室にもエアコンはついているが、人口密度の関係か、職員室の方がずっと涼しく感じた。

 侑が担任の話を切り上げることなく聞いているのも、職員室は涼しいから、という理由が大きい。担任の瀬川充子は、ふくよかな身体から流れ出る汗を頻繁にハンカチで拭いている。

 これだけ暑いとハンカチが何枚あっても足りないですね、と言いそうになったが、侑は喉の奥に言葉を飲み込んだ。瀬川は女性なので、男子高校生に汗の話をされるのは嫌かもしれないと思ったのだ。その勘はどうやら当たっていたようで、侑の視線に気づき、瀬川は恥ずかしそうに笑った。

「いつもは扇子で仰いでいるけど、ここまで暑いとダメね。授業中に倒れそうになった子もいたみたいよ」
「はあ…………暑いっすもんね」
「そうねぇ。夏だから」

 毒にも薬にもならない会話をしながら、侑はさりげなく時計を見る。そろそろ教室に戻りたい、というアピールだ。瀬川はしっかり侑の目線を確認した上で、尚も話を続けた。

「それでね話は戻るんだけど……真島くん、部活に入ってみない? ほら、前にも言ったけど、見学だけでもいいからさ」
「はあ……」

 侑は適当に相槌を打ちながら、心の中だけでため息をこぼす。瀬川に悪気がないことを知っているので、実際にため息を吐くような真似はしない。

 教師の中でも随一のお節介である瀬川は、生徒には煙たがられることも多い。部活に入るようしつこく勧められるのは、侑も正直面倒だと思っている。しかし瀬川の言葉の裏側に、侑への心配が滲んでいることに気づいているため、蔑ろにもできない。

「俺、膝がアレなんで……運動部は無理っすよ」
「そうよね。マネージャーっていう手もあるけど、真島くんみたいにスポーツが大好きな子には見ているだけなんて酷よね」

 スポーツは野球とサッカーくらいしか分からない、という女教師は、マネージャーの仕事についても少し誤解を抱いていそうだった。
 部活におけるマネージャーの仕事は、とてもハードだと侑は知っている。決して見ているだけではないし、選手たちが全力を出すために支えてくれる縁の下の力持ちだ。
 しかし、説明したところで瀬川の記憶には残らないだろう。地学の教師である瀬川は確か天文学部の顧問で、運動部やマネージャーというものとは無縁の立場だから。

 瀬川は侑に文化部を勧めてきた。特に自分が顧問を担当している天文学部を強く勧めてくるので、侑は苦笑をこぼしながら訊ねた。

「天文学部もいいとは思うんですけど……、文化部って他に何がありましたっけ」

 正直なところ、天文学部は勘弁してほしい。侑は理系全般に苦手意識があるし、星を見る楽しさも分からない。星に詳しい男子高校生はかっこいいかもしれないが、侑自身がそうなれるかと言われれば、絶対になれないと言い切れる。

 それに心配してくれている瀬川には悪いが、侑はどこかの部活に入ろうとは思えないのだ。
 できないと分かっていても未練は残っている。
 侑は自身の膝を睨みつけた。走ることのできなくなってしまったポンコツな左膝には、サポーターが巻かれている。もちろん普段は制服で隠れているが、いつだって左膝の痛みが侑に現実を突きつけた。

「うちの文化部は、天文学部と科学部、吹奏楽部、美術部がメインで部員数も多いわね。あと人数は少ないけど、漫画研究部と……文芸部かしら」
「天文学、科学、吹奏楽、美術、漫画研究部に文芸部ですか……」

 話をしっかりと聞いているふりをするため、瀬川の挙げた部活名を侑は復唱してみせた。
 瀬川には申し訳ないが、実際に入部する気にはなれない。心配してくれている瀬川の気持ちを蔑ろにしたくはないので、部活の見学には行ってもいい。見学だけして、合いそうになかったので入りませんでした、と断るつもりだった。

「後で見学に行ってみます。ありがとうございます」
「いいのよ、真島くん。きっと他にも楽しいことは見つかるから、探してみて」

 瀬川の言葉に悪意はなかった。
 それでも一瞬、侑の頭は沸騰しそうなほど血がのぼった。意識的に深く呼吸をして気持ちを整え、侑は本心を隠すようにへらりと笑った。

「そうですね。サッカーより楽しいこと、きっとありますよね」

 もう二度とできなくなった、大好きだった競技の名前を口にする。侑の言葉に自虐が含まれていることに、瀬川は気づかない。

「そうよ! せっかくの青春なんだから、サッカーのことなんて忘れて、他に夢中になれるものを探すといいわ」

 優しく微笑む教師の顔を殴ってやりたかった。
 簡単に言いやがって、と心の中で吐き捨てて、爪が食い込むほど拳を強く握りしめる。そうでもしないと怒りのやり場が見つからなかったのだ。

 侑を励ますための言葉だとは分かっている。それでも腹立たしくてたまらなかった。
 好きなものを、真剣に取り組んでいたものを、突然取り上げられる気持ちが、この教師に分かるのだろうか。そんなに簡単に諦められるなら、とっくに別のことを始めている。

 侑が声を荒げそうになったときだった。
 後ろからやわらかい声が響いた。

「瀬川先生、お話中すみません。昨日の地学の授業のことで質問があるんですけど」

 驚いて振り向くと、侑の後ろには小柄な女の子が立っていた。夏服のブラウスはきっちり一番上までボタンを留めていて、真面目な印象を受ける。胸元を飾る赤いリボンが、侑と同じ学年である印だが、とても同じ二年生には見えなかった。

 やけに幼く見えるのは、童顔だからだろうか。丸顔に黒目がちの大きな目。セミロングの黒髪はポニーテールにまとめられていて、前髪は眉の上で綺麗に切り揃えられている。

 真面目そうな少女のことを、瀬川は鬱陶しそうな態度であしらおうとした。

「うーん、朝日さん。勉強熱心なのはいいけど、先生は今真島くんと大事な話をしていて……」
「あ、俺の方はもういいっすよ。適当に見学行ってみます、ありがとうございます」

 これ以上話を続けていれば、怒鳴ってしまいそうだった。
 侑は名前も知らぬ女子生徒に感謝しながら、早口で言葉を紡ぐ。逃げるように立ち去った職員室を、一度だけ振り返る。瀬川に質問をしていた女子生徒と、たまたま目が合った。
 彼女が質問に来たのは偶然かもしれないが、結果的に侑は彼女に助けられたことになる。侑が軽く頭を下げると、少女はふわりとやわらかく笑った。

 もしかして、俺が困ってると思ってわざと先生に声をかけた?

 侑の心に浮かんだ疑問は、言葉になることなく胸の奥へ消えていった。少女はもう侑の方を見てはいなくて、瀬川と話をしている。
 いつもなら嫌な気分で終わる職員室への呼び出しが、今日はなぜかあまり不快ではない。先ほどまで怒りを覚えていたことも忘れ、侑は職員室を後にした。


 真島侑は物心がついたときから、運動が得意だった。どんな競技でもちょっとやれば一番になれたし、スポーツで苦手なものなんて一つもなかった。楽しいことをして、女の子にきゃあきゃあと声援をもらえるのは嬉しかった。
 勉強は苦手だったけれど、スポーツが楽しいからそれでよかった。侑が特に好きだったのはサッカーだ。小学校で友人と始めたサッカーは、侑をあっという間に夢中にさせた。中学生になり、サッカー部に入る頃には、サッカーは侑の生活の一部になっていた。これからもそうだ、と信じて疑わなかった。

 膝の怪我が発覚したのは高校一年の夏の大会の最中だった。先輩を押し退けてレギュラーを勝ち取ったのに、侑は地区大会の決勝戦、試合中に怪我をした。大事な場面で左膝の激痛に襲われ、コートに転がった。ぶちん、という嫌な音と、燃えるような熱い痛みだけがやけに記憶に残っている。

 しかしその先の記憶は曖昧だった。気づいたら侑は病院にいて、もう激しい運動は無理だ、と宣告された。膝前十字靭帯損傷。スポーツ選手にはよくある怪我らしいが、手術をしない限り治ることはないという。手術をしたとしても、長いリハビリが待っている。今までと同じように動くことは難しいだろう、と言われ、侑は目の前が真っ暗になった。
 優勝をかけた試合も、負けに終わったらしい。侑にとって最後の試合は、途中リタイアの上黒星。散々な結果だった。

 侑はその日、全てを失った。大好きだったサッカーどころか、走ることさえままならない。負けたのは侑のせいじゃないよ、というチームメイトの優しい言葉が、侑の胸に突き刺さった。手術とリハビリを乗り越えて戻ってこい、という監督の激励が、侑の胸を締め付けた。

 手術をする、という選択肢もあった。両親や監督は侑の足が治ることを望んでいたし、侑だって元のように戻るなら頑張りたいと思う。

 でも同時にそんなの時間の無駄だ、という考えが頭を巡って離れなかった。
 手術を受け、リハビリに取り組む。スポーツに復帰できるまで、約六ヶ月だと医者は言っていた。
 その間チームメイトは練習を続けている。侑が遅れを取り戻す時間に、チームメイトはどんどん上手くなるのは簡単に想像できた。
 どんなに頑張って膝を治しても、試合に出られないなら意味がない。怪我で心が荒んでいた侑は、全てを諦めてしまった。
 サッカーができない。走れない。この世界の楽しいものを全て失った気分だ。

 侑はあの日からずっと、空っぽの日々を過ごしている。