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 宮殿に到着すると、前回とは異なる部屋に案内された。書物庫のような場所だ。古い紙の匂いの中に、香ばしい茶の匂いが混ざる。
 紅花は目の前の長子皇后に疑問を投げかけた。

「明日は元宵節なのに、こんなに悠長にしていていいの? 舞う予定なのでしょう」
「舞いは昔から得意なんだ。練習などせずとも問題はない」

 湯気の出る茶を飲む長子皇后の姿は優雅だった。何をしていても絵になる女性だと改めて思う。

「他の妃たちは必死なのに、そんなこと言ってたら恨みを買うわよ」
「恨まれるのが怖かったら皇后の地位は務まらん」

 ふ、と長子皇后が馬鹿にしたように笑う。
 確かに皇后という立場は、悪いことを何もしていなくても嫉妬される対象だ。幼い頃から次期皇后候補の主力だった長子皇后にとっては、恨みなど慣れたものだろう。

 ふと、長子皇后が茶器を置いて紅花に話しかける。

「紅花」
「……何?」
「そこの棚にある書を取ってくれぬか。今日の服は重くてかなわん」
「ここ?」

 長子皇后が指を指して示したのは、かなり高い位置にある書物だ。紅花は身長が足りなかったため、台を用いて何とか手を伸ばす。

 その時――書物を引く時に引っかかったのか、上からぐらりと何かが落ちてきた。

 大きな音を立てて文の箱が落ちた。床にばら撒かれたのは大量の文だった。何と書いてあるのか紅花には分からない。
 ただ、名前だけは読めた――前の閻魔王、帝哀の父の名が書かれている。

「見られてしまったな」

 手紙を拾い上げて元の場所に直していると、後ろから長子皇后が歩いてきた。

「構わない。言い訳はせん」
「……え?」
「帝哀に見せるなり、天愛に見せるなり、好きにしろ」
「…………」
「何だその顔は? 驚きすぎて声も出ないか」
「いや……あの、何を言っているの?」
「は?」
「どうしてこの手紙を帝哀様に見せる必要があるの?」
「何をとぼけている。見れば分かるだろう」
「私、冥府の文字は読めないのよね」

 長子皇后は口をぽかんと開けたまま固まった。

「な……そんな馬鹿な……天愛が送り付けてきた間諜が、そんな無能なわけないだろう!」
「無能って何よ。私、ただの元獄吏だもの。基本的に冥府では肉体労働しかやったことないの。……っていうか間諜だと気付いてたわけ?」

 衝撃を受けたように震えた長子皇后は、叫ぶように言った。


「――その手紙は! 我と生前の前閻魔王が交わしていた恋文だ!」


 はっとした。だから帝哀の父の名が書かれているのか。
 言われてみれば、思い当たることはいくつもある。桃の木を大切にしていたのは、帝哀の父と一緒に計画して植えたものだから。月を愛しそうに見上げていたのは、あの月が帝哀の父の遺したものだから。
 そして、帝哀の父は今、閻魔王の座を降り、生まれ変わって現世にいる。
 長子皇后のこれまでの発言を思い返すと、型に何かが嵌まっていくように、

 ――長子皇后は死にたいのだ。死して、愛する男のいる現世に向かいたいのだ。


「そなたが宋帝王の区域から来ると聞いた時、またとない機会だと思った。あの天愛が送り込んできたということは、大方我の粗探しに違いないと思った。我の侍女に馬鹿にされた仕返しに、我の格を下げようと、弱みを握ろうと送り込んだ間諜だろうと思った」
「……天愛皇后様の名誉のために言っておくけれど、天愛皇后様は誰かの足を引っ張るような方ではないわ。あくまでも元宵節で正々堂々貴女に恥をかかせてやろうとしていた程度よ」
「ああ、そのようだな。しかしその程度では困る。本気で、我をこの座から引き下ろし、冥府を追放させるくらいの悪意でなくてはならない。……我を敵視するそなたならそれができると思った」

 ――そうか。花たちが助けてと言ったのは、長子皇后の計画の手伝いをしろという意味だったのだ。

「元宵節の舞の場で、我の移り気を暴露してくれないか。そうすれば、我はきっと死罪となる」

 長子皇后は、真剣な表情で、あろうことか自身を陥れよと命じてくる。
 紅花は冷静に指摘した。

「……それだけで死罪になるとは思えないわね。既に皇后の座に付いている者を降ろすことは難しいのでしょう。貴女には力のある後ろ盾がある。揉み消されるに決まっているわ」
「だから、元宵節で、皆の前で暴いてほしいのだ。揉み消されぬように」
「まだ帝哀様のお父上がこの冥府に居た頃の話なんでしょう? きっと、一時の気の迷いとして片付けられるんじゃない? それに――帝哀様も、そんなことで激怒して貴女を追い出す程、貴女のことを愛してはいない」

 紅花が言い切ると、長子皇后はその遠慮のない物言いに少し驚いたような顔をした後、ゆるりと口角を上げた。

「……言ってくれる」

 その計画は無謀だと伝えたにも拘わらず、満足げに笑っている。

「やはりそなたには度胸がある。この我を前にしてそのような口を利けるのだからな。――ますます、この役割をそなたに課したくなった。紅花よ、我の手駒となれ」

 長子皇后は立ち上がって紅花に一歩近付き、紅花の顎に触れて顔を上げさせた。
 紅花よりも身長の高い長子皇后は、その澄んだ瞳で紅花を見下ろす。

「王たちの元に鬼を送りたい。そなたには鬼を操る力があるのだろう」
「前も言ったけれど、操る力じゃないわ。鬼の心を読む力よ」
「同じようなものだ」

 前回、幽鬼の心を読んで対処する姿を見せなければよかったかもしれない。そうしたら、このような面倒事には巻き込まれなかっただろう。
 返事をしない紅花に向けて、長子皇后はなおも続ける。

「筋書きはこうだ。我が前閻魔王への恋心を拗らせて乱心し、十王を殺そうとする。これなら立派な反逆行為だろう? おそらく冥府の十王が集まり、会議が開かれることになる」
「十王の会議……」
「冥府の決まり事は代々十王が決めている。変更も十王の過半数の許可が必要だ。そこで――皇后は衰えるまで退位できないなどという決まり事を、変えてもらう」

 紅花はおかしくなってきて短い笑いを漏らした。

「本気?」

 長子皇后は片側の口角を上げて返す。

「冗談でこのようなことを言うとでも?」
「本気でできると思っているの」
「できるさ。――そなたのよく知る宋帝王は、一人の愛する女のために冥府の決まりを覆し、奴隷の女を皇后にした。一人の愛する男に会うために冥府の決まりを変えようとするのは、無駄だと思うか?」

 その言い分には、何故か説得力を感じる。
 しかし、危険性もあるのではないかと感じる作戦だ。

「王に送った鬼が本当に王を殺したらどうする気? それに、あいつらは見境ないわ。会場にいる人々も襲うと思う」
「そなたが鬼殺しとして守ればよい。それに、会場には十区域それぞれの鬼殺しもいるだろう。緊急事態となればいくら元宵節の頃合いとはいえ動き出すはずだ」
「貴女と組んだことが発覚すれば、私も罪に問われると思うんだけど?」
「その危険性があるのは否めないな。故に当然、無償でとは言わない。我に協力してくれたなら、一つだけ願いを叶えてやろう。そなたは何が欲しい。金か? 名誉か? この立場か。……聞かずとも分かることだな。この座が欲しいのだろう。反対は多いだろうが、我が何とか、そなたにこの座を渡せるよう計らってみせよう」

 紅花は少し考えた。
 何でも願いが叶うなら。今の自分なら、何を望むだろう。一兆年以上の時をかけて愛した男の隣に立つことだろうか。
 時々柔らかく笑うようになった帝哀を思い出す。思い浮かべるだけで心臓がきゅうっとなるような、好きな人の笑顔。
 大事なのは彼が納得するか。満足するか。彼のために自分が何をできるかだ。

 ――無理やり奪い、手にした座などに価値はない。

 紅花は首を横に振った。

「いいえ。私が一つ望むなら……閻魔王に課せられる罰の制度を廃止させてほしい。これも、貴女にどうこうできることではないのかもしれないけれど。何でも叶えると言うのなら、それくらいの誠意を見せてもらわないと困るわ」

 長子皇后が意外そうに目を細めた。

「他人のことでいいのか?」
「そりゃ、貴女の立場も欲しいわよ。でも最近の帝哀様を見ていて、幸せになってほしいって思うようになったの」

 愚かだと思う。折角皇后自らが座を譲ると申し出ているのに、紅花はそれをはねのけたのだ。いつか後悔するかもしれない。でも。

「一人の愛する男のために冥府を変えようとするのは、無駄だと思う?」

 さっきの長子皇后の台詞をそのまま使って言ってやった。
 それを聞いた長子皇后は高らかに笑い、紅花から手を離す。

「そうだ、言っていなかったんだが」

 長子皇后の機嫌良さげな笑顔は、これまで見たどの表情よりも、花のように麗らかだった。

「我も幼い頃見た前閻魔王の、体を張って責任を取る姿に惚れた。そなたにああ言われたあの時から、気が合いそうだと思っていたよ」