桜が咲いている。
桜は綺麗だけれど、溝掃除が大変だ。自治会でこの時期だけは一生懸命掃除するけれど、雨で濡れて重たくなった花びらを掃除する羽目になり、重くてしんどい思いをしながら片付けないといけなくなる。
なんて。
桜が綺麗に咲くたびに、全く情緒のないことを思ってしまう。
私は比較的小綺麗な制服姿で、駆け足で学校に向かっていた。新学期の教室は、まだどこかよそよそしくて、どこか浮ついている。
「おはよう」
「ああ、おはよう、亜美」
そこで私に声をかけてくれたのは菜々子ちゃんだった。
元々可愛い子だったけれど、高校生になってからいよいよ美容に気を配るようになった彼女は、爪は校則違反で怒られないよう、爪をラバーで綺麗に磨いた上で透明なマニキュアを塗るようになったし、目も口も、普段からドラッグストアに通って情報を仕入れてないとわからないレベルの化粧を施すようになっていた。ナチュラルメイクをほとんど化粧してないと思い込んでいるような人にはまずわからないレベルだから、菜々子ちゃんの化粧はレベルが高いんだ。
一方菜々子ちゃんは私を物珍しくまじまじと眺める。
「……亜美ちゃん、どうしたの?」
「えっ、なにが?」
「普段面倒臭がって日焼け止めすら塗らない亜美ちゃんが日焼け止め塗ってる! えらーい!」
「え、偉くはないよ……」
「でもシミ、そばかすは十代の内からケアしてないと駄目なの! それをきちんと守ってる! 偉い!」
そう言いながらバシバシと私の背中を叩いてくる。
まさか言えない。十年後からやり直しをするために来たなんて。
十年後の私も別にシミもそばかすも気にしてないけれど、日焼けすると皮膚ガンになる確率が上がるよと言われ、渋々日焼け止めを塗っているだけだ。
そんなことをしゃべっている中、教室の戸が開いた。
「おはよう」
「あ……」
私は思わず凝視してしまった。私の記憶よりもずっと可愛い顔をした大樹くんが、普通に制服を着て教室に入ってくるのを。
うちの学校の制服は昔ながらの学ランで、大樹くんは特に着崩すことなく着ているタイプだった。
「おはよう、大樹」
「おはよう、菜々子。あれ、亜美?」
せっかく大樹くんに声をかけられても、私は言葉が出なかった。ただあわあわと口をもごもご動かし、視線を世話しなく動かすだけ。
嬉しい。大樹くんが生きてて嬉しいという気持ちと、こんなにじろじろと見るものじゃない、失礼という気恥ずかしさがない混ぜになって、まともに声が出なかった。
私の挙動不審さを、大樹くんだけでなく菜々子ちゃんまで怪訝な目で見てくる。
「どうしたの亜美」
「な、なんでもないよ。おはよう、大樹くん」
「うん、おはよう亜美。眠くて意識飛んでたの?」
「アハハハハ、そうかも」
大樹くんが話をいい具合にまとめてくれただけで、その言い訳は厳しいと思う。でも私が胸いっぱいになっている理由なんて口にできる訳もなかった。
まだそのときでもないのに、十年後あなたはブラック企業に忙殺されて自殺しますなんてこと、口にできると思う? その葬式帰りに疲れ果てて眠っていたら十年前に飛んでいたなんてこと、冗談でも言っていいことじゃない。
だから言葉を詰まらせて、私はただ視線をうろうろとさせていた。
私があからさまに挙動不審になったのを、ただ大樹くんは困った貌をして、菜々子ちゃんのほうに視線を向けた。
「今日の亜美、寝ぼけているみたいだから。なにかあったら助けてあげて、菜々子」
「了解ー。亜美、普段全然寝ぼけるほど寝不足にならないのに珍しいよね、本当に」
「アハハハハ、そうかもしれない」
相変わらず厳しい言い訳を並べながら、私は必死に大樹くんを目に焼き付けていた。
大樹くんは私の記憶よりも幼くって優しい顔つきをしていた。思い出補正で記憶が美化されていることはよくあると思うのに、現物のほうが可愛い顔しているだなんて、私はきっとついている。
そんなことを考えていたら。
「おはようー、どうした?」
「ああ、海斗。おはよう」
「おはよー、大樹と亜美もおはよー」
海斗くんは日頃から見慣れた顔をしていたものの、高校時代から髪はなんかつんつんとワックスで固めていたし、私のよく見る顔よりもまだ余裕が足りなくあどけないなと思った。なによりも、私が懐かしさと切なさと死んでほしくなさでグチャグチャになっていた空気を一気に変えてしまったのだからすごい。
私はどうにか挙動不審の自分を抑え込んで「おはよう」と挨拶した。
海斗くんはキョトンとした顔をしている。
「なに? なんかあった?」
「ううん。亜美が寝ぼけていただけー」
「あはは、亜美もたまには夜更かしするんだね」
「う、うん……」
私たちは他愛ないことをしゃべって、予鈴が鳴ってから、それぞれの席に戻っていったんだ。
****
私たちが男女で仲良しグループになった理由は大したことがない。たまたま掃除当番が一緒になり、学校前の溝掃除を一生懸命やったからだった。
普段からリーダーシップのある海斗くんが重くてへこたれる私たちを励まし、頭のいい大樹くんが溝掃除を何回かやって効率のいいスコップの使い方に気付いて教えてくれ、力がなく意志も弱い私と菜々子ちゃんでひいこら言いながらやっていたからだ。
菜々子ちゃんは町のことが大嫌いだし、声優になりたいという夢を周りから反対されていた。声優はアニメや海外ドラマの吹き替えだけでなく、バスや電車、音声ガイドなどの声も吹き込んでいて、私が知らないところで聞く肉声は、だいたい声優が声を当てていると教えてもらった。
私は声優の仕事はよくわからないけれど、彼女が掃除当番で校舎裏とか外とかに出るたびに発声練習をしているし、声優の仕事ってなんなのかを彼女から聞いていたため、「なるほど」と頷きながら聞けるようになったくらいだ。
菜々子ちゃん的にはそれが嬉しかったらしく、彼女の付き合いで私はアニメを見るようになった。時には私では理解不能な内容があったり、やけにキャラ同士がいちゃいちゃし過ぎて話が進まなかったり、やけに露悪的でよくわからない話があったりしたけれど、菜々子ちゃんの勧めてくれるアニメはだいたい面白かった。
海斗くんは誰とでも友達になれるタイプだったし、だからこそ十年経ってもなお、地元から離れなかった私と交流関係を持ってくれているけれど。
大樹くんをどうして好きになったんだっけか。
彼のことが死んで悲しかったし、お願いだから死なないで思ったのはたしかだけれど、理由を十年前に飛んだ今でも思い出せないでいる。
取り立てて理由なんてなかったんだっけか?
それとも、なにかが原因で忘れている……?
大樹くんが死んで悲しかったより上の、大樹くんに関する大きな出来事はなかったと思うけれど、この辺り私はどうしても思い出すことができずにいた。
たしかに好きだったはずなのに。久し振りに再会して早々、挙動不審になるほどに大切なはずなのに。どうして好きになったきっかけだけは、スコンと抜け落ちてしまったんだろう。
私は家に帰ってから、自分の手荷物やスマホの中身を確認することにした。
大樹くんのことを好きだったことはたしかなんだから、どうやったら彼と付き合えるようになるか、彼に好きになってもらえるのか、彼を好きになったきっかけを思い出そうと、そう思ったんだ。
桜は綺麗だけれど、溝掃除が大変だ。自治会でこの時期だけは一生懸命掃除するけれど、雨で濡れて重たくなった花びらを掃除する羽目になり、重くてしんどい思いをしながら片付けないといけなくなる。
なんて。
桜が綺麗に咲くたびに、全く情緒のないことを思ってしまう。
私は比較的小綺麗な制服姿で、駆け足で学校に向かっていた。新学期の教室は、まだどこかよそよそしくて、どこか浮ついている。
「おはよう」
「ああ、おはよう、亜美」
そこで私に声をかけてくれたのは菜々子ちゃんだった。
元々可愛い子だったけれど、高校生になってからいよいよ美容に気を配るようになった彼女は、爪は校則違反で怒られないよう、爪をラバーで綺麗に磨いた上で透明なマニキュアを塗るようになったし、目も口も、普段からドラッグストアに通って情報を仕入れてないとわからないレベルの化粧を施すようになっていた。ナチュラルメイクをほとんど化粧してないと思い込んでいるような人にはまずわからないレベルだから、菜々子ちゃんの化粧はレベルが高いんだ。
一方菜々子ちゃんは私を物珍しくまじまじと眺める。
「……亜美ちゃん、どうしたの?」
「えっ、なにが?」
「普段面倒臭がって日焼け止めすら塗らない亜美ちゃんが日焼け止め塗ってる! えらーい!」
「え、偉くはないよ……」
「でもシミ、そばかすは十代の内からケアしてないと駄目なの! それをきちんと守ってる! 偉い!」
そう言いながらバシバシと私の背中を叩いてくる。
まさか言えない。十年後からやり直しをするために来たなんて。
十年後の私も別にシミもそばかすも気にしてないけれど、日焼けすると皮膚ガンになる確率が上がるよと言われ、渋々日焼け止めを塗っているだけだ。
そんなことをしゃべっている中、教室の戸が開いた。
「おはよう」
「あ……」
私は思わず凝視してしまった。私の記憶よりもずっと可愛い顔をした大樹くんが、普通に制服を着て教室に入ってくるのを。
うちの学校の制服は昔ながらの学ランで、大樹くんは特に着崩すことなく着ているタイプだった。
「おはよう、大樹」
「おはよう、菜々子。あれ、亜美?」
せっかく大樹くんに声をかけられても、私は言葉が出なかった。ただあわあわと口をもごもご動かし、視線を世話しなく動かすだけ。
嬉しい。大樹くんが生きてて嬉しいという気持ちと、こんなにじろじろと見るものじゃない、失礼という気恥ずかしさがない混ぜになって、まともに声が出なかった。
私の挙動不審さを、大樹くんだけでなく菜々子ちゃんまで怪訝な目で見てくる。
「どうしたの亜美」
「な、なんでもないよ。おはよう、大樹くん」
「うん、おはよう亜美。眠くて意識飛んでたの?」
「アハハハハ、そうかも」
大樹くんが話をいい具合にまとめてくれただけで、その言い訳は厳しいと思う。でも私が胸いっぱいになっている理由なんて口にできる訳もなかった。
まだそのときでもないのに、十年後あなたはブラック企業に忙殺されて自殺しますなんてこと、口にできると思う? その葬式帰りに疲れ果てて眠っていたら十年前に飛んでいたなんてこと、冗談でも言っていいことじゃない。
だから言葉を詰まらせて、私はただ視線をうろうろとさせていた。
私があからさまに挙動不審になったのを、ただ大樹くんは困った貌をして、菜々子ちゃんのほうに視線を向けた。
「今日の亜美、寝ぼけているみたいだから。なにかあったら助けてあげて、菜々子」
「了解ー。亜美、普段全然寝ぼけるほど寝不足にならないのに珍しいよね、本当に」
「アハハハハ、そうかもしれない」
相変わらず厳しい言い訳を並べながら、私は必死に大樹くんを目に焼き付けていた。
大樹くんは私の記憶よりも幼くって優しい顔つきをしていた。思い出補正で記憶が美化されていることはよくあると思うのに、現物のほうが可愛い顔しているだなんて、私はきっとついている。
そんなことを考えていたら。
「おはようー、どうした?」
「ああ、海斗。おはよう」
「おはよー、大樹と亜美もおはよー」
海斗くんは日頃から見慣れた顔をしていたものの、高校時代から髪はなんかつんつんとワックスで固めていたし、私のよく見る顔よりもまだ余裕が足りなくあどけないなと思った。なによりも、私が懐かしさと切なさと死んでほしくなさでグチャグチャになっていた空気を一気に変えてしまったのだからすごい。
私はどうにか挙動不審の自分を抑え込んで「おはよう」と挨拶した。
海斗くんはキョトンとした顔をしている。
「なに? なんかあった?」
「ううん。亜美が寝ぼけていただけー」
「あはは、亜美もたまには夜更かしするんだね」
「う、うん……」
私たちは他愛ないことをしゃべって、予鈴が鳴ってから、それぞれの席に戻っていったんだ。
****
私たちが男女で仲良しグループになった理由は大したことがない。たまたま掃除当番が一緒になり、学校前の溝掃除を一生懸命やったからだった。
普段からリーダーシップのある海斗くんが重くてへこたれる私たちを励まし、頭のいい大樹くんが溝掃除を何回かやって効率のいいスコップの使い方に気付いて教えてくれ、力がなく意志も弱い私と菜々子ちゃんでひいこら言いながらやっていたからだ。
菜々子ちゃんは町のことが大嫌いだし、声優になりたいという夢を周りから反対されていた。声優はアニメや海外ドラマの吹き替えだけでなく、バスや電車、音声ガイドなどの声も吹き込んでいて、私が知らないところで聞く肉声は、だいたい声優が声を当てていると教えてもらった。
私は声優の仕事はよくわからないけれど、彼女が掃除当番で校舎裏とか外とかに出るたびに発声練習をしているし、声優の仕事ってなんなのかを彼女から聞いていたため、「なるほど」と頷きながら聞けるようになったくらいだ。
菜々子ちゃん的にはそれが嬉しかったらしく、彼女の付き合いで私はアニメを見るようになった。時には私では理解不能な内容があったり、やけにキャラ同士がいちゃいちゃし過ぎて話が進まなかったり、やけに露悪的でよくわからない話があったりしたけれど、菜々子ちゃんの勧めてくれるアニメはだいたい面白かった。
海斗くんは誰とでも友達になれるタイプだったし、だからこそ十年経ってもなお、地元から離れなかった私と交流関係を持ってくれているけれど。
大樹くんをどうして好きになったんだっけか。
彼のことが死んで悲しかったし、お願いだから死なないで思ったのはたしかだけれど、理由を十年前に飛んだ今でも思い出せないでいる。
取り立てて理由なんてなかったんだっけか?
それとも、なにかが原因で忘れている……?
大樹くんが死んで悲しかったより上の、大樹くんに関する大きな出来事はなかったと思うけれど、この辺り私はどうしても思い出すことができずにいた。
たしかに好きだったはずなのに。久し振りに再会して早々、挙動不審になるほどに大切なはずなのに。どうして好きになったきっかけだけは、スコンと抜け落ちてしまったんだろう。
私は家に帰ってから、自分の手荷物やスマホの中身を確認することにした。
大樹くんのことを好きだったことはたしかなんだから、どうやったら彼と付き合えるようになるか、彼に好きになってもらえるのか、彼を好きになったきっかけを思い出そうと、そう思ったんだ。