──それから十分ほど歩き続け、海斗と雷華は、ついに山の頂上へ辿り着いた。
登り切ってすぐの場所は、開けた展望台になっていた。
今朝乗って来た電車の線路と、その周りに広がる田園風景。昨日降り立ったターミナル駅や、遥か向こうには海も見える。
頂上に到達した達成感と景色の美しさに、海斗は思わず吐息を漏らす。
その横で、雷華も眼下の景色を見つめ、
「……不思議。前に来た時は、もっと大きく見えた。この景色も、この神社も」
独り言のように、そう呟いた。
その言葉につられるように、海斗は背後を振り返る。
古い鳥居の向こう……山の頂に静かに佇む、『深水神社』の本殿があった。
海斗が想像していたよりずっと年季の入った、こぢんまりとした神社だ。
しかし、小学生の雷華にはきっと立派に感じられたのだろう。或いは、呪いによるトラウマが、より大きく荘厳な印象を植え付けていたのかもしれない。神社を前にした雷華は、緊張と覚悟が入り混じったような表情をしていた。
鳥居をくぐり、本殿へ向かう彼女に、海斗もついて行く。
『儀式』に取り掛かる前に、まずはお参りからだ。
賽銭箱に硬貨を投げ入れ、礼をして、手を合わせる。
静かに目を閉じた時、海斗は自身の鼓動が加速していることに気付いた。
山を登ったせいではない。
『儀式』の成功を願う緊張と……それとは別の理由で、彼の心臓は強く脈打っていた。
目を開き、再び礼をすると、雷華も同時に顔を上げた。その顔は、やはりガチガチに強張っている。
海斗は思わずふっと笑って、
「……緊張を解くおまじないでもかけてやろうか?」
なんて、わざと軽い口調で言ってやる。
すると、雷華はいつものように、
「いらないわよ、この変態!」
犬歯を覗かせながら、即座に否定した。
今まで散々否定されてきたが、これが最後になるかと思うと、海斗はどこか切なく感じた。
「翠と未空が待っているんだもん、緊張している暇はないわ。石像はこっちよ。ついてきて」
そう言うと、雷華は本殿の裏側を目指し、歩き出す。
その足取りに、もう迷いはなかった。
──本殿の横に伸びる小道。
そこを進むと、紙垂が巻かれた大きな木が見えてきた。
そして、その下に……例の、石の神像があった。
否、神像と言うよりは、地蔵と呼ぶに相応しい大きさだった。土台を含めても海斗の背丈より小さい。風化のせいか輪郭が曖昧で、辛うじて人が手を合わせているような形が見て取れる。雷華がかつて落としてしまったという頭部も、確かに乗っているだけのような状態に見えた。
「……おかしいわね。昔はもっと大きかった気がするけど……」
雷華は不思議そうに首を傾げるが、やはり小学生の頃と目線が変わっているため、記憶よりも小さく感じているのだろう。
いよいよ、『儀式』に取り掛かる時が来た。
海斗は荷物を下ろし、お供え物の手作り饅頭と、滝の水が入った水筒を取り出す。
それらを受け取り、雷華は、
「……じゃあ、始めるわね」
意を決したように、そう言った。
初めは、清らかな水を石像にかける行程。
雷華は水筒の蓋を開け、石像の頭からゆっくりと水をかけた。乾いた石の色が、黒に近いグレーへと変わっていく。
次に、お供え物の行程。
包みから三つの饅頭を取り出し、石像の下の台座へ供える。
そして……
雷華は手を合わせ、ぎゅっと両目を瞑り、祈り始めた。
入念にシナリオを考え準備をしてきたが、いざ始まってしまえば『儀式』はあっという間だった。
あとは雷華が『否定の呪い』は解けたのだと思い込んでくれることを願うばかりである。
手を合わせ、目を閉じたままの雷華。
その横顔を、海斗は静かに見つめる。
彼女が目を開けた時、どんな言葉をかけるか……海斗はもう、心に決めていた。
「………………」
長いような短いような時間を経て、雷華はゆっくりと瞼を開け、顔を上げた。
そして、海斗の方を向き、
「……神さまに、ちゃんと謝ったわ」
不安げに、尋ねる。
「呪いが解けたか確認したいから……あたしに、何か言ってみてよ」
緊張に震える、雷華の声。
海斗は彼女に近付き、向かい合うように立つと……
「……ありがとう」
そう、微笑みながら言った。
まさか礼を言われるとは思わなかったのだろう。雷華は不意を突かれたように目を見開く。
その瞳を真っ直ぐに見つめ……
海斗は、用意していた言葉を一つずつ、伝え始める。
「鮫島は、呪いにかかっていた自分を『人を困らせてばかりだった』と否定していたけど……そんなことは決してない。鮫島は、呪いにかかっている間も、素晴らしい人間だったよ」
……ずっと、考えていた。
『儀式』を終え、呪いが解けた彼女に、一番初めに何と声をかけるのか。
その答えは……やはり、彼女への感謝だった。
「この呪いのせいで、鮫島がずっと苦しんできたことは知っている。けど、鮫島が否定してくれたお陰で、俺は変わることができた。他人に同調し、なんでも肯定してしまう『イエスマン』だった俺が、自分の意志や感情を口にしてもいいんだと思えるようになった。だから、呪いも含めて、鮫島にお礼が言いたかった」
二人の間を、風が通り抜ける。
雷華は瞬きすることも忘れ、海斗の言葉をじっと聞いている。
その瞳に、海斗は彼女との日々を思い出し、微笑む。
「鮫島は、お節介なくらいに優しくて、呆れるくらいに真っ直ぐで……相手の良いところを肯定し、駄目なところを否定できる素直さを持っている。そんな鮫島の性格が、呪いを超えて、俺を変えた。俺だけじゃない。八千草も弓弦も変わった。だから、呪いにかかっていた間の自分を否定することはしないでほしい。何故なら……」
鼓動が、煩いくらいに加速する。
「……何故なら、俺は…………」
ぐっと拳を握り、息を吸い込んで。
「──俺は、そんな鮫島のことを…………好きになったから」
ありったけの想いを込めて。
海斗は、真っ直ぐに伝えた。
風が、雷華の髪をふわりと揺らす。
その頬が、赤く染まる。
「どんなに否定で返されようと……俺は、鮫島のことが好きだ。だからどうか、呪われていた自分を否定しないでほしい」
潤んだ瞳でこちらを見つめる雷華は、やはりどうしようもなく可愛くて……
嗚呼、そうか。
好きだったんだ、ずっと。
なんて、告白した後で答え合わせをするように、海斗は実感する。
「……ごめん。本当は、こんなことを言えば鮫島を困らせるとわかっていた。けど……俺は、鮫島のお陰で変われたから。もう、その場しのぎで自分を誤魔化すのはやめたんだ。だから、紛れもない本心を伝えるとしたら……『これからも鮫島の側にいたい』、というのが本音だ」
そう。これが、最も我儘な、海斗の本心。
未空や翠に『それでいいのか』と問われ、気付いてしまった。
呪いが解けた雷華が、男女問わず友だちを作ることは喜ばしいと、心から思っているが……
『彼女と疎遠になるのは寂しい』。
そう思ってしまうのも、事実だった。
だから、ここで……雷華に、本当の気持ちを伝えることに決めた。
心臓の音が、身体中に響いている。
その高鳴りが、海斗にはどこか心地良く感じられた。
やっと、自分の気持ちに素直になれた。
そんな達成感にも似た感覚に包まれ、海斗の胸は雷華への想いでいっぱいになる。が……
ふと冷静になり、「しまった」と思う。
よく考えれば、この場所での告白は雷華のトラウマを再現しているようなものである。
加えて、呪いが解けたことを検証するため『疑問形で投げかけて』と未空に言われていたのを失念し、自分の言いたいことだけを言う形になってしまった。
まずい。
何か、何か疑問形で投げかけなければ…………
そう、脳内で大いに焦り散らかした結果、
「…………って、言ったらどうする……?」
……などという、安易な問いかけを口走ってしまった。
言った直後、激しく後悔する。
俺の馬鹿!
せっかく本心を伝えたのに、なに茶化すような言い方してんだよ!
最悪だ……穴があったら土葬してくれ。
「あ……えぇと、そうじゃなくて、その……」
弁明の言葉を探す海斗に、雷華は……
眉の間に、きゅっと皺を寄せると、
「…………ダメ」
照れと、怒りと、切なさが入り混じったような表情で、海斗を見つめ、
「──そんな言い方じゃ…………ダメ」
そう、唇を尖らせながら、言った。
──ダメ。
それは、疑いようもない程の、否定の言葉。
それに、海斗は……
(……え? それって、言い方だけがダメってこと? それとも普通にフラれたのか? いや、そもそもまだ『否定の呪い』が解けていないのか……?!)
と、彼女の真意がわからず混乱し始めた──その時。
──ヒュンッ!
海斗と雷華の真横を、黒い影が、目にも止まらぬ速さで通過した。
それは、あまりに一瞬の出来事だった。
音もなく飛び去る影を目で追うと、その正体は……
お供え物の饅頭をがっしり脚に掴んだ、一羽のトンビだった。
そういえば、トンビやカラスが多いから気をつけろと言われていたんだっけ……
と、海斗が呆気に取られていると、
「きゃあ……っ」
ワンテンポ遅れて、驚いた雷華が悲鳴を上げながら、尻もちをついた。
その背中が、運悪く石像にぶつかり……
衝撃で、石像の頭が、ゴトッと地面に落ちた。
「…………」
「…………」
立ち尽くす海斗と、へたり込んだままの雷華。
二人の視線が、落下したブツへと注がれる。
誰がどう見ても、明らかに、言い訳の余地もなく、落ちていた。
雷華が呪いにかかるきっかけとなった、石像の頭部が。
「………………」
海斗は、顔を真っ青にしながらも、とりあえず雷華を引き起こそうと手を差し伸べ、
「だ……大丈夫か?」
そう、尋ねるが……
雷華は目に涙を溜め、ぷるぷる震えると、
「……ぜんぜん、大丈夫じゃないわよ!!」
山中に響き渡るような否定の言葉を、轟かせた。